―――ただ、それだけのお話。
「明日の早朝から、遠征に行くこととなった。急な話ではあるが、この王都の近郊にある洞窟に、魔竜が棲み付いたとのことだ」
ぽかぽかという言葉が似合うような陽射しが降り注ぐ。たった今男が語った話の内容とは正反対の、のどかな昼下がり―――賑わった街に相応しい喧騒はしかし、彼らが座る喫茶店の座席には届かない。それを気にすることなく、二人の男女は穏やかに過ごしている。カップに注がれた紅茶を飲み、茶菓子を食む。どこにでもありそうで、中々ありつけない、つかの間の休息だった。
「あらあら、それは大変ですね。貴方様との逢瀬の時間が減ってしまいますわ」
「全くだ。どうも、一国の騎士団を率いる立場というものは難儀なもので困る。訓練の量は増え、書類仕事などは以前とは比較も出来ない程だ。私としては、さっさと後任の者を見つけたいものだがね」
「そうは言えども、貴方様が選んだ道なのですから。何もない日はわたくしがたっぷりと甘やかして差し上げますから………ね?」
妖艶な雰囲気を纏い、小首を傾げて少女が笑う。否、少女の姿をしているこの女は、そのような年齢ではない。かつて救国の賢者などと呼ばれたことのある大魔導士で、今は食客としてこの国に滞在しているのだとか。座席に周囲の喧騒が届かないのも、彼女の魔法の賜物である。
無論、どんな経歴を持っていようと男には関係ない。彼は今の彼女を心から愛しており、そこに騎士団長だとか、賢者だとか、そのようなどうでも良い政治的な立場は存在しない。彼にとっては、一人の男と一人の女でしかない。容姿も素性も性質も能力も、どんなものであろうとどうでも良いと切り捨てられるものだ。
「そのような雰囲気を外で見せるな。それは………それは、私だけが見て良いものだ。たとえ魔法で見えないようにしているのだとしても、見えるかもしれない。そんな真似は、しないでくれ」
「―――あら、あら。そのように想っていただけて、わたくしは幸せ者ですわね」
男の懸念にくすり、と女が笑う。愛しているのは女からしても同じだった。永い時を生きてきた彼女ではあるが、ここまで熱い恋をしたことは初めてだったのだ。彼の一挙一動が愛おしい。彼から目を離せない。彼が消えてしまいでもしたら、自分も消えてしまうかもしれない―――今の女の世界は、彼の色に染まっていた。
きっとこれを、恋愛と呼ぶのだろう。女はぼんやりと考えた。誰かを想うことを愛と呼び、誰かを求めることを恋と呼ぶ。故に、想い求めるこれこそが、恋愛なのだと。悠久の時を生きてきたとはいえ、経験したことのないものはただの未知でしかない。愛し愛され、互いの恋に夢中になる。今までにない想いと欲求の強さに、その身が灼けてしまいそうだった。
嗚呼。
嗚呼、神様。
わたくしにこのような性質や能力を持たせてくれてありがとう。
わたくしに、この時代まで生きるだけの力をくれてありがとう。
女は笑う。心も身体も焦がれてしまいそうな恋愛の炎に身を包み、幸せそうに笑う。彼女にとって、彼が全てだ。彼の為に―――正確には、彼と共に幸福を噛み締める為だけに生き、それが出来なくなるのであれば、自死すら厭わぬ程に彼を想っている。
かつて賢者と呼ばれるに至った根源たる好奇心は、全てが彼に注がれている。魔法などで知ろうとすればすぐではあるが、己の眼と耳、鼻、そして肌………五感の全てで彼を知り、感じ取り、理解したいという欲求が首をもたげている。
「では、そんな幸せ者なわたくしは、貴方様が帰って来た時に備えて、準備をすると致しましょう。何か食べたいなど、リクエストはございますか?」
「リクエスト―――と言われても、難しいな。君が作るものはいつも美味しいし、選択肢が多くて逆に困ってしまう」
「そ、そのように仰っていただけるのは光栄ですが………その、貴方様の為に何かしてあげたい、といったものでしかありませんから………あまり、考え込まなくても良いのですよ?」
そしてそれは、男からしても同じことだった。彼女と共に生きると決意してから、かつての夢だとか、そんなものはどうでも良くなった。
何故騎士団長として任に当たるのか。
国の為?
否、彼女を守る為だ。
彼女に僅かでも害が迫るならば、その全てを切り払う。大魔導士である彼女が害と認識し得るものは少ないが、それでも―――彼女が害と認識しない程度のものであれども。
それが彼女を傷つける可能性が極僅かでもあるのなら、徹底的に潰す。それが、今の彼の騎士としての誓いだった。
真摯に悩む男の姿に、女が頬を僅かに染めると、彼は軽く笑った。手に持ったカップを傾け、紅茶を味わう。飲み終えて暫し間が空き、そして唐突にこんなことを口にした。
「―――では、君を」
女の動きが止まる。彼女一人だけ時が制止したかのように停止し、やがて頬を赤く染め、真っすぐと見つめる男の瞳に吸い寄せられるようにして頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
―――そして、夜は廻る。彼が死んだとの報告が入ったのは、再びの昼下がりのことだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
男の訃報を聞いてから………どれだけの時間、呆けていたのだろうか。女は自室の窓から外を眺めたまま、その動きを停止させていた。いつ彼が帰っても良いようにおめかしをしていたが、その絢爛でありながら貞淑さを押し出した可憐な容姿は、その全てが無駄なものとなっていた。
何故。
何故、彼が死んだ。
何故、どうして、何があった―――。
涙が流れ、時間が経つにつれて少しずつ髪や肌が荒れる。彼女の美貌は、手入れを怠ったことのないその几帳面さによって保たれていたが、それが失われていく。無論、それだけで醜女と呼べる程にはなったわけではないが、少なくとも、今の容姿は彼と共に過ごしていた時とは比べ物にならない。
茫然自失の最中ではあったが、報告の仔細は頭に入っていた。魔竜討伐には成功したらしく、犠牲者は騎士団長たる彼だけであったらしい。本来ならばそのようなことはあり得ないと彼女は一笑に付したであろうが、今の彼女にそのようなことは出来ない。
―――何故なら、他でもない彼女自身が、彼の死を認めてしまっているからだ。
彼の訃報を聞いた直後に、彼女は生命探知の魔法を行使した。恐らく、自分を除けば、多くとも世界で一人か二人程度しか使用することの出来ないであろう魔法。この世界の核とでも呼べるものに干渉し、世界全体を対象として特定の生命を探知する。この世の理に触れることで初めて行使出来るようになるそれが齎したのは、認めたくはなくとも認めざるを得ない、残酷な真実だった。
真実が心を砕いた。彼女から生きる気力を失わせた。何秒、或いは何十秒、何百秒、何千秒―――どれだけの時間が流れようとも、不老であり、そして極めて不死に近い彼女が倒れることはない。そもそもとして、人間としての領域から外れているのだ。だからこそ、
彼女は、外的要因によって意識を失って倒れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
女が目を覚ます。だが、何かが見えるわけではない。どうやら目隠しをされているらしかった。それだけでなく、手足も拘束されているようで動けない。いつもなら魔法で周囲一帯を薙ぎ払い、下手人達を同じ目に遭わせた上で惨殺しているところだが、もう―――何も感じなかった。
そう、何も感じることが出来なかった。
気が付けば、己の純潔を奪われていた。血が流れ、まるで玩具のように乱雑に扱われている。髪や腰を掴まれ、激しく動かされている。
―――だが、何も感じない。
指を削がれる。激しい痛みが生じたような気がしたが、一瞬の内に霧散した。止血の類をしていないせいでとめどなく血が溢れ、周囲に血の匂いが充満する。
―――やはり、何も感じない。
無反応な様子に腹を立てたのか、先程奪ったばかりの処女を魔法によって再生させ、もう一度散らされた。否、もう一度などではなく、その種を吐き出し終えればすぐに再生させて繰り返し続けている。
―――何も、感じない。
右腕を切り落とされた。大量に出血し、即座に止血が行われた。だが、右腕が再生することはない。そうしている間にも犯され続けた。
左腕も切り落とされた。同様の手順で止血が行われる。続いて右足、左足―――四肢が完全に欠損し、何も言わぬ肉便器と化した達磨が出来上がった。
―――何も感じない。
首筋に何かが刺さる感触がした。そこから、液体が流れ込んでくるのがわかる。暫くして、意識がふわふわと、夢見心地になっていく。ただでさえまともに思考の出来なかった頭は酩酊したかのようになり、首から上が揺れる。彼の姿が暗闇の中に浮かび上がり、この時、初めて嬌声らしい嬌声が出た。
―――ああ、これは良いものだ。
腹部に、焼き鏝で淫らな紋様を刻まれた。劣情を誘うような、或いは軽蔑されるような、卑しい紋様。何となく、じんわりとした熱が頭まで伝わった。
―――だが、何も感じなかった。
瞳を抉られた。こちらも止血はされたが再生はせず、目隠しが外されても何かを視界に映すということはなかった。身体が乱雑に投げ出され、床へ叩きつけられる。何度か跳ね、転がり、
―――その言葉を耳にした。
「やれやれ、結局反応があったのはヤクだけか。大方、例の騎士団長とヤっていた幻覚でも見ていたってとこだろう。ふん、つまらんな。あの男の死も、この女の無様な姿も、全て計画通りだが―――」
「―――あ?」
その時、女は生まれて初めて、真に怒ったと言えるだろう。
欠損した四肢を血のように赤い義肢を魔法で構築して補い、その場に立ち上がる。その身から魔力が奔流となって吹き荒れ、先程まで犯され続けていた部屋を荒らし尽くした。
眼は奪われたが、魔力が代わりとなって灰色の視界を創り出す。義肢が床を踏み締め、彼女を犯していただろう男達へと近づいていく。
男達は、何も発せずにいた。目の前にいるのは正真正銘の化け物であると、本能が叫んでいた。何も言わずに犯され続けていた肉便器ではなく、かつて救国の賢者とまで呼ばれた女のキレた姿であると、僅かな時で理解した。
赤い左腕が、適当な一人の頭を鷲掴みにする。少しずつ力が入っていき、やがて果実が破裂するかのように砕け散った。中身が彼女に降りかかり、その姿を血の色で更に染めていく。
別の男から悲鳴が漏れる。振り向き、迷わずその双眸に指を突き入れた。その状態で魔法を行使する。脳に接続し、事の詳細を知識として自らの頭に入れていく。生命に干渉する魔法の全てを容易く扱える彼女にとって、造作もないことだった。ただ、唯一―――死者を蘇生する魔法だけは、使用出来ないのだが。否、そもそもとして、そのような魔法は存在せず、行使することも出来ない。それがこの世の理なのだと、真理に触れた女は理解していた。
指を曲げ、骨に引っ掛けて男の頭を放り投げる。壁に叩きつけられ、床へと落ちた後に踏み潰してその生命を終わらせる。そして、最早用済みとばかりに、無造作に手を振るって膨大な魔力を放った。
魔法ですらない、ただの魔力の解放。それだけで怯え、狂乱していた男達は塵芥残さず、その身をこの世から放逐された。
その場において自分以外の全ての生命を消し去った女は、ぼんやりと立ち尽くす。瞳なき双眸で天井を見上げ………やがて、口に曲線を描いた。
「―――ああ、そういうことか」
愛した男は謀殺され、賢者などと持て囃された己は人としての尊厳を奪われた。
奪われたのであれば、奪い返さねばならない。
だが、どうやって?
簡単だ。全ての生命を根絶させ、彼をこの世に今一度蘇らせる。
出来るのか?
この世界の理として、彼を蘇生させることなど不可能であるとわかっているのに?
―――出来るのか、ではない。
やるのだ。
「ふふ、ふふふふ。ねえ、貴方様。すぐに終わります故、見ていてくださいまし。きっと、痛烈で、爽快でございます―――」
かくして、一人の乙女の世界は一夜にして色を失い、崩れ去った。その後に残ったのは、残存する全てを燃やさんとする血の如き色をした焔のみ。
この世界に魔王が誕生し―――この世界が崩れ去るのもまた、一夜のことであった。
テーマは『世界が滅ぶ二十四時間前』でした。