盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです   作:零眠みれい(元キルレイ)

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☆日記ver. 未踏筆者は定義不明をナイアーラトテップと名付けた

 青白い冷たそうな空を背景に、崖の縁で座る人が居た。

 長い黒髪と衣服は強風に晒され荒く乱れ吹かれていて、どうやら広大な景色を眺めているようで。

 後ろ姿だけでもわかる。

 あの人は、とても綺麗な人だった。

 近づいてみると、彼女は片足だけ軽く立てて、膝に頬杖をついて座っていることに気付いた。縁といっても先端ではなく、その一歩手前にいるので、落ちる心配はなさそうだ。彼女に飛び降りる意思がなければ、だけど。

 何を見てるんですか? ――あの人は黙って眺めていた。

 何を聴いてるんですか? ――あの人は黙って耳を傾けていた。

 あなたの名前を教えてもらってもいいですか? ――そう尋ねると、あの人は視線を動かすことなく答えてれた。

 

「○○○○○○○○」

 

 どうとでも聞き取れるその名前には、本物らしさがなかった。重みもなかった。

 私には、それが仮初であることをすぐに見抜いた。

 なのに、なぜか偽名でないような感じもした。

 酷い違和感が私を蝕んだ。

 「教えてくれてありがとう」――お礼を言って、お辞儀して。私はその場を立ち去った。

 

 これが、私が日記をつけ始めた動機である。

 とてもふわふわとした具体性のないものだけど、それでもあの人が不意にいなくなる予感がしたのだ。

 あの日あの場所にあの人が居たという現象さえ、なかったことにされる気がした。

 だからいつまでも記録を残したくて、私は持たないでいい筆を持った。

 

 

 今日はひたすら調べ物をした。うっかりして被検体から皮膚や髪の毛を採取しなかったり、正面から容貌を目にしなかったために身体的大きな特徴が捉えられなかったりで、暫くはしらみつぶしの地味作業になるだろう。

 取り立てて書くことがあるとすれば、あの人のことがやっぱりよくわからないということだ。私は試しに、あの人の名前を口にしてみた。すると……

 

「な、ないあ……」

 

 先日、あの人が滑らかな舌捌きで名乗ってくれた名を、私には全く発音することができなかったのだ。いくら練習しても似せれる気がしなくなるほど正しくない。さすがにこれには驚く。

 あれはどこの言葉なのだろう。いつの言葉なのだろう。

 もしかしたら、予想以上に骨が折れる世界に足を踏み入れたのかもしれない――初日にして、私はそんなことを思った。

 とりあえず現時点でできることといえば、あの形容しがたい言語を特定すること。一度しか聞いてないあの声を照らし合わせながら、一つずつリスニングするとしよう。

 

 

 ……あれから、あれからもう、三十日は経っているだろうか?

 ついにはあの人の発した言語は特定できなかったけれど、普段はどんな名前を使っているのかは見当がついた。

 ニャルラトホテプ、ナイアルラトホテップ、ナイアーラトテップ――一、二字違いを含めたらまだまだあるけれど、概ねその三つで通しているらしい。

 そして名前同様、名乗る種族もその時の容姿も変わっていた。

 ある時は浅黒い肌の長身痩躯。ある時は全身を伸縮させる肉の塊。ある時は無貌の神と呼ばれる黒いスフィンクス。そして私が目にしたのは――

 ……だけれど、変わっていたのはそれだけではなかった。

 事実である。

 記述や伝聞なんかではなく、そこに居たという事実。

 試しに時間跳躍をしてみたら、そこに居るはずなのに居なかった。存在していたという現象が捻じ曲がっていたのだ。

 調べれば調べるほどあの人のことがわからなくなる……あの人の本来の姿がわからなくなる。ヒトであり、神であり、そんなことができるのだとしたら、それなら――

 頭を振って、仮説を振り払った。きっと自分に観測する術がないだけ。それは、そんな救いようがない最悪な理論は、最後の最後に認めるべきものだ。今はまだ早い。

 あの人がいてくれたらもっと研究の幅が広がるのに……少し弱音を吐いて、締めくくるとする。

 

 

 そしたら今日、あの人が私の前に現れたんだ。

 溶け込むようにそこに居た。当たり前のように、机を挟んで向こう側の椅子に居座っていた。とうとう私は、あの人の整った顔立ちと美しい瞳を視認する。

 白っぽい、でも確かに淡い虹色の不思議な色合いの瞳。

 けれど、宝石のような――石のように何の感情も込められてない眼に、私は魅力を感じることができなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 「あなたの名前はナイアーラトテップだ」――と、立ち上がって、あの人に指を指して、私はすぐに宣言した。

 「いいだろう」と、あの人――ナイアーラトテップは訳も聞かずに、抑揚なく承諾してくれた。それからナイアーラトテップは、机の上に散乱してる資料の中から私の考察が書き留められた用紙を手に取り一瞥する。

 ……流れるような黒髪に黒いシャツ、茶色のガウチョパンツ。そしてそれらを着こなせてしまう持ち前の華やかさ――どうしてだろう。

 こんなにも色濃い彼女のことを、ふっと忘れてしまうのではないかと錯覚してしまう。

 初めからナイアーラトテップなんていなかったと――ただの幻に惑わされてただけだと、そういわんばかりに。

 ――私は資料漁りを再開した。いつまで経っても規則性が見つからない、ナイアーラトテップの中身を暴くために。彼女から視線があったが、私の集中力はその程度では乱れなかった。

 無関心な眼差し。人形に見つめられる感覚。

 ……ナイアーラトテップは、なぜここに来てくれたのだろう。

 …………この人には、調べ物に明け暮れる私や崖から見える絶景が、どう見えるのだろう。

 

「その美しい肌は人のもの?」

 

 私の疑問に、ナイアーラトテップはこう応じた。

 

「自分の目で確かめてみなよ。私の心身を君にやろう」

 

 そう言って、惜しみなく腕を差し出す。つまるところ、被検体から採取し放題というわけだ。私は遠慮なく使わせてもらうことにした。

 何はともあれ、これで滞っていた研究も進むはずだ。

 

 

 進展なんてしなかった。何も変わらなかった。謎が深まるだけであった。

 原始的な検査も近代的な検査も、行う度に結果が変わる。

 どれだけ閃きを積み重ねて検証しても、『理解できない』の一言で覆された。

 彼女は黒いと推測すれば彼女は白くなる。

 彼女は白いと推測すれば彼女は黒くなる。

 かと思いきや、黒のまま、白のままになることも。

 彼女、と容姿の通りそう呼んでいるけれど、本当は彼ないし彼女なのだ。

 そもそも性別すら如何わしいものである。無機物という結果まで残すのだから。

 『ナイアーラトテップの皮膚はヒトである』――それだけが未だにブレない鑑定結果であったが、いつか別の生き物に書き換わりそうで恐ろしい。

 恐ろしいといえば、間違いなくナイアーラトテップから抽出したはずなのに鑑定すると私や私の知人と完全一致したときも鳥肌ものだった。

 人間の記憶を持ってるくせに動物視点の記憶も持っていて、次の日に探ったら人智を超えたモノを見せられて……あれは危うく死にかけた。

 夥しい量の変貌。確定に対する嘲笑。

 ……私はただ、あの人の名前を呼びたいだけなのに。

 必ずナイアーラトテップにも一定の法則が働いているはずだと、私はより一層励むことにする。

 ――ああそれと、彼女の淹れる珈琲は絶品であった。明日も飲ませてもらおう。

 

 

 あれから、どれくらいの時が過ぎたのだろう。

 まずは、こんなに長い間放置するつもりはなかったのだが、研究にかまけるあまり日記をつけることができず申し訳ない――と謝罪の一文を記そう。

 ――そう、あの人に対して。

 日記をつけなかったこと、どうでもいい日常的なことを記さなかったこと、そして、あなたを事実として存在を地に縫い付けられなかったことの意味を込めて、謝ろう。

 この日記はもうじき燃えるけど。たとえ事故でなくとも、故意で燃やすけれど。

 せめて最後の一日を埋めてからにする。

 

 ……と、そこまで筆を走らせた私は苦笑する。日記なんて書き慣れてないせいで、成果以外に綴ることが思いつかない。

 私は床に倒れていた。

 手書きの書類が破かれて私の上にばらまかれていた。

 それもそのはず、全部私がやった。

 導き出された結論に打ちのめされて。嫌悪して。自暴自棄に……。

 

「……これまでずっと私は、あなたのことをあの人とかナイアーラトテップって呼んでたんだ――なぁ、最初に会った時に教えてくれた名前、あれって記号を適当に並べただけなんだろう? あなたにしか当てはまらないものなんてない……そうなんだろう?」

 

 ――果たして、椅子に腰かけこちらを見下ろすのは“あの人”であった。

 人であって人ではない、ましてや男であり女でもある“あの人”。

 あの綺麗な姿が――聞き覚えのある声が耳に届く。

 

「その通り。それは紛れもない真実であり、正解だ。私に本名なんてないよ。どこまでいってもナイアーラトテップは無限にある名称のひとつに過ぎない。それだけを特別視なんてできないよ。種族もこれだってちゃんと名乗れるものがないんだ――いや、名乗れるんだけど。ごく自然に気兼ねなく自分はそうであると言って、実際にそう成ってもいいんだけど。そんなことしたらややこしくなるから。だから神を自称し相手に名前を決めてもらってる。性質は不確定で貌は不明……誇っていいよ。君は極めて正しい」

「……」

 

 饒舌に、あの人は私を肯定した。下から覗き見えるのは、いつもの無表情だ。

 私は問いかける。

 ――あなたは幻か?

 彼女は答える。

 ――それを証明できるものはいない。

 

「……そう」

 

 その問答の意味――即ち彼女は、幻である可能性も幻でない可能性もあるということ。

 あらゆる記録も記憶も、そこに刻まれた痕跡は、この人の意思で、あるいは意思を介することなく翻る。

 要するに彼女は、何でもありなのだ。

 故にその言動に価値がない。

 居ても居なくても変わらない。

 何者でもあって何者でもない。

 モノなのかさえわからない不確定。

 騙るのではなく語る本物。根本から変化することができる本物。……そして偽物。

 この人が何を名乗ろうとも、誰もそれを否定できない。けれども肯定もできない。

 故に……『それ』はこの人ではないと、証拠を出して証明することができない。

 

「だけど、それらを踏まえた上で、あなたのことをナイアーラトテップと呼ばせてほしい。私はあの日そう名付けて、それからずっとそう呼び続けてきたのだから。次の瞬間、あなたはあなたでないのかもしれない。けれどそれでも、ずっとあなたがナイアーラトテップであることを私に信じさせてほしい。でないと少し……疲れるんだ」

 

 疑い続けるのは。

 結構疲れることなんだ。

 

「……その前に一つ、教えてくれよ」

 

 初めて、あの人の方から質問された。

 

「なぜこんな研究に身をやつした?」

 

 ――よりにもよって、ただ一つだけ訊きたいことがそんなことなのか。

 ナイアーラトテップは、これまでそんな思いで私を観察していたのだろうか――。

 

「あなたの名前が知りたかった。名前がないというのは――どうにも、嫌なんだよ。何もかもを否定されるような気がして。いなかったことにされるような気がして……嫌だったんだ」

 

 結局あなたは、何もかもを肯定できたけれど……私が知りたかったのはそんなことじゃない。

 変わらない本物。

 いつまでも残せる跡。

 固定された規則。

 そのためだけに、ありとあらゆる手段を尽くしたというのに……。

 

「だけど知れないことがわかったから――だから、信じることにした。そうしたら少しぐらい、あなたの在り方が定まってくれるんじゃないかと思って――」

「思い込むことにしたのか。なんだ、何もわかってないじゃん。君、頭悪いね」

「……ああ」

 

 そんな辛辣な言葉を、私は甘んじて受け入れた。

 たった今この瞬間の彼女はナイアーラトテップかと訊かれたら、私は頷こう。思い込みに囚われた私は頷こう。彼女の理解できなさを直視することなく、素知らぬ顔で、頷こう。

 私は彼女がナイアーラトテップであることを信じることにしたのだから。

 

「どうやらあやふやな私なんかに全幅の信頼を置いてくれてるみたいだけど――裏切るかもよ?」

「じゃあ裏切りなよ。冷徹で寡黙で裏切り者のナイアーラトテップとしてそこに居ろ。消えてほしいと私に憎悪の念を抱かせるくらいに、永久に爪痕を残してみなよ」

 

 認知できたその時は。

 あなたを殺す研究に身をやつそうかな。

 

「……」

 

 無言でこちらを見つめて、ややあって口を開くナイアーラトテップ。

 

「――『信じさせろ』、それが君の願いだったね。いいよ、ここにナイアーラトテップが存在していたという事実と記憶を消さないよう、常に思慮の端に留めておくよ」

 

 私が返事をする前に外へ通ずる扉へと歩くナイアーラトテップ――それを見送って。

 非常に久しぶりに、私は、目を閉じた。

 

 

 そんなものがこの世にあるはずがないと理解されないであろう、定義不明。

 今書いてるこの日記は、誰かに読まれたら世迷言と処理されて、奇妙な目で見られてしまうだろう――それでいい。

 そう、私は――私はあの人の定義にあらぬ疑いを掛けた。あれに本名なんてないと。何事にも肯定し否定し得る概念とも呼ぶべき代物だと。長い年月をその研究に充て、けれどついに、認めさせられた。あの人の本名はナイアーラトテップであると断言できる。それ以上でもそれ以下でもない。だからそれが悔しくて悔しくて、隠したくて、私は日記を燃やすのだ。現に部屋を見渡せば、私が利用していた家具は火が回って割かれている。

 ……本当に悔しいな。

 あーあ、なんて呟いて、肩を竦めた。瞼を落として、昨日までの光景を思い浮かべる。

 こんな無駄な研究に熱心に取り組んでいた私を、ナイアーラトテップはどうして飽きもせず眺めていたのだろう。ただの一度としてからかうことなく……。

 あの人はいつもつまらなそうな顔をしていた。

 何も見出せないような目をしていた。

 そして去り際に、私をこう評価していた。『頭悪いね』、そう言った。

 私は滑稽だったかい? 嘲笑うに相応しいものだったかい?

 だとしたら……なんで最後まで宝石のような瞳だったんだよ。

 

「……ごめん」

 

 光景を閉じて、瞼を少し上げてぼんやりしていると、後ろの柱が崩れて私の真横に落ちてきた。どうやら火が燃え移ったらしい。私もじきに、この日記と共に火に焼かれて死ぬだろう。

 これからきっと私は、軽い軽い日記帳を宙へと放り投げる。

 あの人のいう模範解答が記された書物を。

 二度と復元できないほど燃えてしまえと悪意を持って手放す。

 灰となれ。誰の目にも留まらずに――そう、告げながら。

 

 これを以て、私の日記は終了とする。


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