盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠みれい(元キルレイ)
去年の凛と夢月の関係といったら、それはもう薄いものであった。
目が不自由であるため体育は毎回見学で、学校を一ヶ月に一、二回ほど休む。つまずいて転んだ時に真っ先に手を伸ばすのはすぐ傍にいる心の役目だ。会話するきっかけがほとんどなかったため、クラスで少し浮いてる大人しい病弱な子という印象だった。
知り合うだけならもう二年も経っていて、夢月を友達だと認識し始めたのは数ヶ月前のことである。偶然にも席替えで席が隣になり、次第に打ち解けたのだ。
抱いていた印象が偏見であることは話していてたちどころに気付いた。過度に自分の境遇を卑下することなく、大人しいどころか明朗快活としていて、サボり気味だが根は真面目な良い子。趣味は想像に浸ることと音を聴くことという、とても珍しく芸術的なことだが、理解できると案外面白かったりする。
魔術や召喚といった単語を口に出す時は決まって本の話題のみであり、その定義は曖昧ででたらめだった。
だから、彼女は一般人だと思っていた。魔術に関わりない人間だと、そう思い込んでいた。
――夢月が魔術絡みの殺し合いに参加している。そして、きっと、命を落とすだろう――聖杯戦争において、八歳の子供が勝ち抜くビジョンなどあるものか。
このことを母に相談したところで、きっと苦言を呈されるだけだ。父に共同戦線を張るよう頼んだとしても、結局は夢月が納得しなければならない……だが、はっきりと拒絶された。垂れ下がっていた蜘蛛の糸を、ハサミでチョキンと切られたのだ。
それでも、凛は目を逸らせない現実を諦めきれずにいた。
ここで何か行動を起こせば夢月を救えるかもしれない――何もしなければ二度と会うことはない。
諦めきれず――眠ることもできず――悩んで、考えて、考えて……。
私が説得しよう――と、意気込んだ。
放課後の騒々しい教室。今にも帰ろうと席を立つ夢月に、凛は固い声で呼び止める。
「――夢月、ちょっといい」
「え、り、凛ちゃん……どうしたの?」
昨日のことを引きずっているのか、とても気まずそうだ。だがそれはこちらも同じこと。急かすように凛は応じる。
「人目がない所で、どうしても話したいことがあるの。付いて来て」
「……? 別にいいけど」
皆目見当がつかない夢月の了承に、頷いて立ち上がる凛。夢月は凛の後ろを付いて行く形で、小学二年生が混ざり合う教室から出た。
前回は軽く騒動を起こしたために注目を浴びていたが、騒がしい中でひっそりと去る一組に関心を向ける者はほとんどいない。いたとしても、仲直りしたかどうかの感想が頭に掠る程度である――
「……」
まだ身支度をしていた心が、心配そうに二人を見送っていた。
この小学校の屋上は立ち入り禁止である。なので屋上に通じるじめっとした暗い階段にはまず誰も来ることはない。話し声が聴かれることが滅多にないので、二人きりで内密の話をしたい場合は打ってつけの場所だ。夢月と心も昼休みに度々利用している。
「それで、話したいことって?」
様子を伺うように問い出す夢月。だが、当の凛は場を設けたものの、どう切り出すべきか言葉を詰まらせた。
「えと……そうね……」
それもそう――教室での呼びかけは、タイムリミットが近づいたから無理して言っただけなのだから。本当は気持ちの整理がついてない。しかしここを逃したら……今日の帰り道にでも夢月は死んでしまうかもしれないのだ――。
凛の望むこと……それは遠坂時臣、雨生夢月、言峰綺礼の三人が無事に生き残ること。それにあたって、一番の壁は夢月の安否だ。
まず……夢月を聖杯戦争から外すのは難しいだろう。昨日の様子からして、サーヴァントを切りたくないという意思を曲げることはできそうにない。あの嫌がりようには、何か事情があるはずだ。サーヴァントと意気投合したか、それとも聖杯を欲する理由があるのか……本人は知らず知らずのうちに参加する羽目になったと述べていたが、それを承知で戦争に身を投じていることからして後者と考えるべきか。
……何にせよ、夢月はサーヴァントと共にいることを望んでいる。今はそれが確認できればいい。
それらを両立させるには……やはり父と手を組んでもらうしかないだろう。サーヴァントから反対される? そんな意見の尊重より、命の方が大事に決まってるじゃないか。
この子は――そう、見栄を張ってるだけだ。繰り返し説得すれば成功するはず。
「余裕を持って、優雅たれ」――遠坂家の、父から教わった教訓。胸に刻み込み、再度自分を奮い立たせて、いざ――いつまでも沈黙するせいで戸惑う夢月に、凛は言葉を叩きつける――!
「話したいのは……聖杯戦争のことよ」
「ああ、そのこと」
「……私、夢月のことを諦めきれない。争ってほしくないし死んでほしくない。だからお願い、サーヴァントに令呪で命令してでもお父様と共闘して」
自分の素直な気持ちを訴える凛。すると夢月は一瞬の間を空け、そして――
「えええぇぇ!? 凛ちゃんまだわたしを助ける気あったの!?」
盛大に、叫んだ。
これには凛も叫ばずにはいられない。
「なっ、あんた――なによっ、その反応はっ!? 私が夢月を助けようとするのがそんなにも意外!?」
「めっちゃ意外、めっちゃびっくりした」
「即答しないでちゃんと否定して! え、じゃあなに? 私普段から友情をあっさりと蔑ろにするような冷たい人間って思われてたの!?」
……こんなはずじゃなかった。だが、夢月の発言は聞き捨てならない。
「い、いや、凛ちゃんは優しいよ。でも昨日断ったし、お父さんを優先するとばかり……」
「――はぁ? あんたねぇ……確かに夢月がどうしてもと言うなら引くわよ。けどたった一度断られただけで断念しない。友達が危険な目に遭おうとしてるのに、黙って見過ごせるわけないじゃない」
「へ……あ、ありがとう」
これくらいの関係でも友達といえるんだ、と口には出さないものの新しい発見をする夢月。凛への印象をクラスメイトから友達へ改める。しかし、感謝はするが動機にはピンと来そうで来なかった。
……つまり、凛がやってることは自分が心の身を気に掛けようとするのと似たようなものだ。学校で少し話すだけでも、凛にとってはすごく大切な人……そんな人が死にそうなら助けてあげたい……。そこは理解するが、はたしてその程度の仲で意地になるほどに保護欲が刺激されるだろうか。
「ねぇ夢月、何も聖杯戦争から降りろとは言わないわ。いえ、できれば引きずり降ろしたいところだけど、そこは妥協する。だけどせめて、お父様の味方について。これは……あなたのためだけじゃない」
大いにありえる最悪を思い描いて、表情を沈める凛。
敬愛する父が命を落とせば、守り切れなかった綺礼を、殺した相手を恨む。夢月だって……だからこそ、
「夢月がお父様に殺される可能性をどうしても潰したいの……こんなの想像もしたくない」
ただ失うだけなら妹と同様に割り切ろう。だが……そんなことがあれば、凛は誰を責めればいい?
父は自己防衛するのに必死だ。敵を庇えるはずがない。そんなことをすれば――夢月のサーヴァントに隙を晒す。
もしもそうなってしまっては仕方のないことだ。だけど、父に向ける感情が膨大すぎてまとまらない。
「……凛ちゃんは、お父さんに憧れてるくらいに好きなんだよね?」
「え、ええ……」
同意する凛に、ポケットからハンカチとティッシュを取り出す夢月。
「ハンカチが家族だとして、ティッシュは友達だとするよ?」
「……ハンカチとティッシュを?」
「長い間持ってるものと、すぐに使い切って短い間だけ持ってるもの……一生に一度しかできなくて、少なくとも独り立ちするまで付き合う人と、来年には別れるかもしれない人」
「ああ、そういうことね。まぁ、そうね」
身も蓋もない言い方に頷く凛を見て、夢月はわかってもらえそうと先走って気を緩めた。
「ならさ、わたしが殺されたとしてもお父さんが生きててよかったって喜んでいいと思うよ。何ならお父さんの生存率を高めるために、わたしがニャルラトホテプ……キャスターのマスターだって情報を提供してもいい」
「――なによ、それ。どうして犠牲になる夢月自身がそんなこと言えるのよ。私を思ってのことなら的外れが過ぎるわ」
自らを一顧だにしない発言に、一抹の苛立ちを覚える凛。慌てて夢月は訂正する。
「そ、そういうつもりじゃなくて……わたしのことはこのままほっといて、凛ちゃんにはそっちを専念してほしいの。その一つの案として、わたしだったら情報を伝えるかなって」
「わたしだったらって……夢月ならやるの?」
それは、大切な人を失いたくないが為に友を売れるのか? ということだが……。
すると、ここに来て初めてそれらしい顔で夢月は断じた。
「絶望的でなければ、それで救えるなら厭わないよ」
未熟ながらも威厳を帯びた声を聴いて、毅然とした眼を視て、凛は思う……そんな表情ができるなら、昨日の保健室でもやってくれていたら――。
「……夢月は、どうして共闘を嫌がるの? 納得できる理由を聞かせて、でないと諦めきれない」
「それは――」
「サーヴァントの尊重以外で。聖杯を独り占めにしたいのなら、命を懸けるに相応しい願いを教えて」
「……」
――わたしがこれから披瀝することは、凛ちゃんの納得に足るものだろうか?
「このままがいいの。徹頭徹尾、現状維持。今のニャルラトホテプとの生活はすごく気が休まるっていうか……それがわたしの望みっていうか……。些細な関与もされないこの状態が一番良いの」
夢月の様相から、焦燥感に駆られているだろうことを読み取るのは容易であった。恐れてすらいる。
「協力するなら、わたしは何か要望されて実行しないといけない。どんな内容かはわからないけど、ニャルラトホテプと騒いだり……遊ぶ時間が確実に減る。聖杯戦争に本腰を入れるのはニャルラトホテプだけで、わたしは最低限度のことだけして傍観したい」
最初の内は負けたがりサーヴァントが断るから、本当にそれだけであった。しかし新たなこの世ならざるモノと出会い、この生活に執着する気持ちが肥大化したのだ。
「だから、お父様と共闘できない?」
「うん」
表には出さないものの、凛は唖然とするしかなかった。
「……私がこんなことを提案するのも何だけど、それを聖杯に願えばいいじゃない。生きて帰って、そしたら気兼ねなくたっぷり遊べるわ」
「ダメ。生きて帰れる絶対の保証がない」
「それは、そうだけど……」
五日前にはまだ、夢月の右手に令呪は宿っていなかった。その間に何らかの手段でサーヴァントを召喚したということだ。最長でもまだ一週間足らずだというのに、そんなにも相性が良かったということか。そんなにも――一分一秒でも、絶対に生きている内に隣に居たいと思う仲なのか……。
「それにね、ニャルラトホテプはすごく強くて、でも敗北を望んでいるから聖杯を掴めるか定かでないの。掴めたとしても、勝てたのはわたしの力じゃないから気が引けるし――奇跡に対価があるかもしれないから、使えない」
「対価? それってどういうこと?」
「わたしもよくわからないけど、とにかく聖杯は使わないよ。戦争には積極的に関わりたくない。……納得してくれた?」
「……筋は通ってるわ。けど、マスターの身の安全を考えないサーヴァントは……早死にするかもよ」
「早死にしてもいい。戦う時間があるくらいなら拠点でシ……遊ぶ」
「……? 何はともあれ、私は反対よ」
自分の生命を案じる友達は首を縦に振らない。夢月は毛ほども気にしてないが、凛にとっては大問題らしい。
これで押し切ることができないなら……と、切り口を変える夢月。
「凛ちゃんはお父さんを大事にすべきだよ。この先変われる人なんていない。毎日家で一緒にごはんを食べて、寝て、起きたら『おはよう』って、『行ってきます』ってあいさつする……。家族はかけがえのないものなんだよ」
――まるで、往生際悪く足掻こうとする子供をあやすかのようであった。選んでと、再び夢月は手のひらに乗せていたハンカチとティッシュを見せつける。
「わたしという足手まといが増えたら、本来生きていたはずのお父さんは死んでしまうかもしれない。わたしはわたし、凛ちゃんは凛ちゃんで自分のことを優先しようよ」
「……私は」
痛いところを突かれた。共闘することによって父が死に至る可能性は否定できない。
そして――予想以上に夢月とニャルラトホテプというサーヴァントの仲が深かった。一つ屋根の下で暮らす人物を重んじていた。ここまで曲がらない彼女の意思を、本当に曲げられるだろうか?
……夢月の言い分にも一理ある。お父様を失いたくない……。
妹との別れ、友達との死別――一人前の魔術師ともなればそういうことは日常茶飯事だと聞き及んでいる。その覚悟をするときが来た、ということだろうか……。
より大切な人を選ぶなら、私は――と言いかけて、
「あ、わたしは友達を選ぶから」
「私はどちらも選ぶわ。夢月のことは見捨てたくないもの」
凛は二つとも奪った。
「えぇっ!? そんなぁ……」
「最後の一言が決定的で台無しにしたのよっ! あんたは家族の価値を理解した上で友達を取るのに、じゃあ私は家族をってできるわけないじゃないっ!」
「考え直してよ! あくまでもわたしの場合はって話じゃん!」
「いいえ、もう譲らないっ」
ムキになってそっぽ向く凛。……しかし、この選択ができて良かったと思う自分がいる。
対して参った表情をして、ハンカチとティッシュを取り戻す夢月。
「さっきのはあたかもわたしの家族が良い人風になってたから、誤りは正さないとって言っただけだよ。うちのはそんなに価値ないからいらないっちゃいらないし、お兄ちゃんも……まぁ別にいいや」
と、すぐさまポイッとハンカチ(家族)をぞんざいに投げ捨てる。
「投げるなー!」
が、反射的に凛がキャッチしたため、床に落ちることはなかった。
「ゴミ箱に入れる感覚で投げるんじゃないっ! 一生に一度しかできないかけがえのない人なんでしょ。もっと労わりなさいよっ!」
「そんなこといわれても、お母さんとお父さんはわたしのこと――」
「あ、夢月ちゃんと凛ちゃん、こんな所にいた」
瞬間、ビクゥッと背筋を張り詰める凛。振り返ると、下の階段に心の姿があった。トトトっとこちらへ上ってくる。
「心ちゃん……」
「……い、いつからそこに?」
夢月は驚いたままだが、凛は素早く切り替えて慎重に問う。
「ついさっきだよ。話し声が聴こえてきたから誰かいるのかなーって」
「へ、へぇー……」
どうやら内容までは把握されなかったようだ。心音の速さまではすぐに落ち着かないが、内心では大きく安堵のため息をつく。何しろ魔術は隠匿するもの。それに夢月の命が脅かされていることは隠すべ――
「こんな所で何喋ってたの?」
「ああ、わたしが聖杯戦争で凛ちゃんのおと――ひっ」
「……夢月? それは内密でって言ったでしょう? 何のためにここに来たと思ってるの?」
凛から放たれる圧倒的笑顔と怒気に、夢月はプルプルと震えた。
「なにも……きかないで……」
「そんな訳で、夢月とはまだ話したいことがあるの。悪いけどまた後にしてくれる?」
「そういうことなら遠慮するよ。ただ……夢月ちゃん、今日も用事があるから先に帰るね」
「あ、うん。わかった……」
申し訳なさそうにする心に、残念がる夢月。
「じゃあ、また明日」
「ばいばい」
手を振り、階段を降りる心。夢月もまた振り返す。足音が遠ざかっていくのを見計らい、すかさず夢月の肩を掴んで凛は叫んだ。
「夢月っ!」
「は、はいっ」
「あんた仮にもマスターでしょ!? 魔術師としての意識がなさすぎよっ! 魔術ってのは決して一般に知られてはいけないものなの。だからわざわざ移動して――いやそうではなくても、あんな自然な流れで私の親と殺し合うこと言っちゃう!?」
「え、凛ちゃんは言わないの?」
「……え、夢月は言うの?」
双方、己の常識と噛み合わない。
――しばし静寂の水に支配されて、五秒の時が刻まれたとき、荒げていた凛が顔を伏せて低い声を出した。
「……あんたが聖杯戦争に参加してることも、それがどんなものなのかも話したの?」
「そ、その……ごめん。心ちゃんだけならいいかなって……でも他の人には――」
「つまり、心は全部承知で夢月と帰ろうとしたってことね?」
「――え? そう、だと思うけど……」
これには驚かされ凛だが、この二人の仲の良さを鑑みればありえなくはない。聞けば小さい頃からの馴染みで、親友といっても差し支えないのだから。この二人なら傍にいて相手の災難に巻き込まれたとしても構わないと言い張りそうだ。
……夢月は今日の帰りにでも狙われるかもしれない。心に少しでも夢月といる時間をあげることと、どちらの主張が呑まれるか否かの論争――。
そこでようやく、夢月の肩を束縛していた手を放す凛。ついでにハンカチを返す。
「この質問に答えてくれたら、あとは夢月の自由にしていいわ。それで話は終わり」
一息ついて、真正面から助けようとしていた友達を見据える。
「これから外に出て、人気のないところで殺されるかもしれない。それでも、外に出ることができる?」
夢月は目をぱちくりとさせて、前回と同じく覚悟とは無縁の表情で答えた。
「できるも何も外に出ないと帰れないし……確かに朝みたいに撃たれるかもしれないけど、気にしても仕方ないよ」
――っ! ……視線を逸らして、声を絞りだす凛。
「そう、もう行っていいわ」
凛がそう締めくくったので、夢月は「じゃあね」と昇降口へ走り去った。
残された凛は呆然として、ただ立ち尽くす。
「……な、によ……」
――精いっぱい言い訳していた。夢月が……普通の女の子が軽々しくあんなことを言うはずがないと。あのとき気が動転していたから、何かの拍子に事実を歪めていたのだとばかり思っていた――思いたかった。
朝に撃たれたってなんだ。サーヴァントがいるから安心しているのではないのか? 死ぬ確率が高いのに気にしても仕方がないじゃないだろう……。あまりに覚悟ができすぎている、夢月は一般人ではなかったのか?
昨日のことだけを疑う方が、量が少なくて楽だった――それだけでも、放課後になるギリギリのタイミングまで目線を合わせられなかったというのに。
……自分にいいように強引な解釈をしていた。実は夢月は心の奥底では誰かの助けを求めていて、嘆きを誤魔化さなければならない何かの事情があるのだと――なのに、今度は拒絶されるばかりか、要求された。自分のことはほっといてほしいと。
そして先ほど返答したときの夢月……。
「あの子、なんなのよっ……!」
――説得できないと、活き込んでいた至極まともな優等生は折れた。
運よく心に追いつき、閑散した昇降口で夢月は座り込んで靴紐を結んでいた。その後ろで棚に上履きをしまう心が問いかける。
「そういえば訊いてなかったことがあったね。ニャルラトホテプさんとは仲いいの?」
「……唐突だね。仲は良い方じゃないかな。ニャルラトホテプの前では言いたくないけど、色んなハプニングに見舞われてもそれはそれで楽しいし……」
靴を履き終えて、足のつま先でコンコンと床をつつく夢月。
「そっか。楽しいなら何よりだよ」
続けて、心は笑った表情とは正反対の気落ちした小声でぼそりと呟いた。
――何を迷ってんのかな、私は……と。
「? 心ちゃん、今なんて?」
「――っ! 聴こえてたのっ!?」
夢月の聴覚を軽んじていたのか、動揺する心。
「いや、ちょっと聞き取りにくくて正確には……」
「な、ならいいの。何でもないよ。ほら、帰ろ。道々クトゥルフについて教える約束だったよね」
「……うん、お願い」
不審がる視線を振り切るように心は歩き出す。夢月は気にはなるが、隠したがっているようだし深追いはしないで、クトゥルフ講座に好奇心を傾けることにした。主な出所は配信していたTRPGでうろ覚えのため間違えていることもあるとのことだが、聞かされるエピソードは面白い。
「えーっと、どこまで話したんだっけ?」
「ショゴス、ミゴさん、ムーンビーストと……あとはクトゥルー、ハスター、ビヤーキー、ノーデンス」
「じゃあ次は星の精にしようかな」
「えっ、なにそのキュートな名前。神話生物でもそんなのいるんだ……あ、鳴き声かわいかったりするのかな?」
「と、思うでしょう? これが結構エグイことしてくるやつでね――」
凛と夢月の衝突を、あの場に居合わせて耳に入れている者がいた。
髑髏の面を被る黒き影――アサシン。そのマスターである言峰綺礼と、協力関係にある遠坂時臣の耳にも入る。
「……」
魔導通信機を通じて受けた報告に、時臣の情は揺るぐことはなかった。計画を変更させることなく、ニャルラトホテプの夢を見るであろうマスターを捕らえる。貴重なモノをみすみす逃すわけにはいかない。
しかし……凛には自ら話を付けるつもりだったが、こうも事実を認めたがらないとは……これでは耐えられるかどうか――。
「綺礼、キャスターのマスターを教会に保護することは、凛に悟られないように」
『了解しました。訊かれた際には死亡したと伝えます』
どの道、そう遠くない未来で知ることになるだろう。だが、まだ精神年齢の満たない凛に、友人がモルモットに成り果てることを打ち明けるのは今ではない――。