盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠みれい(元キルレイ)
悲惨な『音楽』が聴こえる。
破ける皮、滴る水、啜り泣く声――生活の中ではまず聴かない、全く新しい音。
今日は硬いものを切らないんだ。個人的には声はない方がいいなぁ……そんなことを思いながら、五つも満たないであろう少女は、視覚を遮断して想像を馳せる。
自らの中で、周りの光景を描き上げる創造。冷たい床に座って、離れてほしくなくて、横にいる兄の裾は掴んで――学校や家庭のことを忘れて没頭する。
――今日は、兄の方に顔を向けた。
鼻歌を歌い、人間を楽器のように見立て奏でる演奏者――趣味特技が人殺しの兄。
今手にしているのがナイフなのか、骨なのか……それすらも少女は想像に任せているので、本当のところは知らない。
耳に入ってくる音と、これまでの兄の振る舞いを基に考えれば考えるほど、思い描くその顔は笑っていた。
――それは、そんなにも楽しいのだろうか?
幼すぎる少女は――四年前、夢月は興味本位でつい口にした。
「わたしも人、殺してみたいな」
……その後に殺した相手の表情も鮮明に覚えているけど、兄の反応もよく覚えてる。
「やってる最中だろ、静かにしろよ」
「ご、ごめん……気を付ける」
上機嫌だったのが一転して、水を差されて不機嫌そうに咎められたのだ。
「それで、どうしてあんなこと言い出したんだ? しかも今日になって突然」
息の根を止めて、人の悲鳴が止まったとても静かな空間。できた作品を触りたいと頼む前に、今日の感想を言う前に――思い出したように、龍之介に問い質される。
聴くのに夢中になってすっかり忘れかけていた。夢月にとってはただ薄っすら、程度の軽い呟きだったから。
「なんとなく……お兄ちゃんが楽しそうにやってるから、わたしもやってみたくなって」
手伝いならしたことがある。腕を押さえてほしいとか、一時的に部位を持っててほしいとか、そういう指示がしばしば。でもそれくらいで、鑑賞は誘われても殺しは誘われたことがなかった。
「理由ってそれだけ?」
「うん」
「ふーん……」と、納得したのかしてないのか相槌を打つ龍之介に、「できそう?」と問う夢月。
人を用意して、殺して、証拠隠滅するのにそれなりのリスクがあるらしく、いつも兄に任せきりで、それどころか目を閉じているので何をしてるのか夢月はまるで知らない。けど、大の大人でもミスをして捕まった犯罪者は何人もいることは知ってる。だから難しいことなのだろう。
――捕まりたくない。友達に会えなくなる。
以前に何度か訊いたことがあるが、『オレはヘマしないから大丈夫』とだけ返答される。それは信じていいのか……まぁ信じるしかないのだが……。
ただ、それは兄が殺し役だった場合。
自分が殺し役だった場合ではない。
もしも自分がヘマをしたとしたら……?
しかしそんな夢月の不安を物ともせず、平然とやけに頼もしく答える龍之介。
「この時間帯ならもう一人くらい攫ってもバレないだろうし、夢月が仕留め損ねてもオレが逃がさない。無難に言い付けを守ってくれれば問題ないよ。ただリスクは避けたいから、念のため今回は目を開けてくれ」
「あ、うん、わかった。というか、最初から視るつもりだったし」
「そうなの?」
すんなりと頷く夢月に、意外そうに龍之介は訊き返す。
「これまでは、今わたしが持ってる情報だけでどう工夫して想像するかが面白くて視るの避けてたけど、最近、泣いてる顔とか痛がってる顔とか新しいのが思い付かないんだよね。だから、参考になりそうな実物を視たら刺激になって良いのが思い付くかなって」
「ああ、オレも時々やってるよ。自分の知識だけを頼っても次第に面白い発想が降りてこなくなるから、たまには拷問に関する文献を漁ってみる、みたいな感じだろ?」
「そんな感じ」
同意しつつ、兄はサクサクっと気ままに作品を創っているという偏見があったので、調べ物をして試行錯誤してるのかーと、夢月は感心する。
「じゃあ早速誰か捕まえに行こうよ」
「……」
「……お兄ちゃん?」
返事が返ってこない。
裾は掴んだままなので隣に居ることはわかるが……姿が見えない分、どんな表情をしているのか見当がつかず不安が掻き立てられる。
当時の夢月は、まだ龍之介に会って間もない。
ちゃんとした会話を始めたのはこれで一年目であり、約一ヶ月に一度の付き合い……やり取りした回数は両手で足りるほどだろう。兄の思考など、これっぽちも読み取れないのだ。
なんて声をかけるべきか、そもそも声をかけていいのか、はわわ……といった様子であたふたする夢月。
「……ん、まぁいっか」
ほんの数十秒の後、考えていても仕方ない、という結論に至ったかのような龍之介の独り言が聴こえてきた。考え事をするなら先にそう言ってほしいものだと、夢月は思う。
けれど結局、タイミングがなかったのもあるが、この時龍之介が熟考していた内容は聞いたことがない。
ただ――四年後の、やり取りを重ね、龍之介の嗜好に理解を深めたであろう今思えば……もしかして、夢月の殺人を嫌がったのではないだろうか?
犯行している時の様子を耳で聴いていると、なんだか、兄は狩る側になって優越感に浸かりたがってるような気がする。だから自分よりか弱い相手……女性や子供にばかり目を付けるのだろうか、なんて考えたこともある。
兄から見て自分は、美味しく料理する食材――狩られる側だ。生かされてるのはきっと、気乗りがしないからで……その認識は変わっていないはずだ。
命を奪われるその瞬間まで大人しい狩られるだけの獲物が、狩る側になりたいと望むのは――同じ立場に立たれるということは、兄にとってあまり快い話ではなかったのかもしれない。
――と、夢月は推測する。推測した上で、配慮して言わなければよかった、という負い目はない。
した後悔は――己の孤独感だけ。どの道いつか見せつけられたことではあっただろう。が、それでも……後悔せずにはいられない。
……回想に戻る。
次に「なぁ」と、困惑していた自分に龍之介は切り出した。
「刃物を渡すのはいいけど、一つ確認ことがあって――お前、オレを殺したり自死するつもりある?」
あの質問の意図は、今であってもわからない。
「ないよ」――そう夢月は否定した。
特別仕草することなく、言葉をつっかえさせることもなく。
握って、気付いた。
「初めて触った、かも……」
まじまじと銀色のナイフを眺めて、夢月は独言する。これで兄は、いつも作品を創っているのか。
このいかにも鋭く尖っている部分はさて一体どんな機能が……
「痛っ!?」
「知らずに指当てたのかよ……」
呆れる龍之介。バカにされた気がして癪なので夢月は弁明する。
「初めてって言ったじゃん……お兄ちゃん、絆創膏持ってたりする?」
「ない」
「なんていうか、イメージ通りの回答……」
ああでも、工作してるときに怪我することもあるだろうし、むしろ驚くべきことだろうか?
何はともあれ、小さな切り傷から血が滲む人差し指は痛むが、とりあえず我慢するしかない。誤って足をぶつけるなどよく傷を負うせいか、これくらいの痛みには慣れている――あの男の子は、これから猛烈な痛みが襲いくると……拷問されると思い込んで、あんなにも泣きじゃくっているのだろうか?
――と、夢月は薄暗い室内、ぽつんと拘束されてる同年代の子供を見やった。
「そんなに怖がらなくても、殺すだけだから痛くないよ」
そう、歩み寄って混じりけのない本音を言った。慰めようと、心安らぐ言葉を選んだつもりである。
けれど――
「……ぇっ?」
相手の泣き声はむしろ加速した。夢月は焦る。
「す、少し痛いかもしれないけど、すぐ死ねるよ?」
あまりに予想と外れていて、どう接したらいいのかわからなくなる。この子はなぜ喚いているのだ。いくら逡巡させても原因となるものが見当たらない。
そんなにも痛いのが嫌なのだろうか。それとも初対面で赤の他人だから、自分の言葉が信用されてないのか? ありえる話ではあるが……いや、そうなのだろう。夢月が他人のことを信用し過ぎるのだ。兄から指摘されたことはある。
なら――それなら、実際に核から刺しにいけば、男の子は落ち着くはずだ。
そう思いが及んで、夢月は刺した。
身をよじり、顔を歪ませてる少年の心臓を。
衣服の上から、位置を間違えないよう至近距離から一突きに――。
「……」
最後まで、男の子が落ち着くことはなかった。泣き止んだのは、死んでから。
――少女はなんて悲しそうな顔色をするのだろう。なんて寂しそうな顔色をするのだろう。
何かを堪えるような、押し殺した声で、夢月。
「……この人は、どうして怯えたの? 痛くないようにしたよ? みんな、痛いのが嫌で泣いてるんじゃないの……?」
「んー、助けがないことに絶望したり、細かく挙げたらキリがないけど、主に死にたくないからだろ。普通に」
「……?」
呆気なく反論する兄の発言が、夢月には理解できない。
命を奪われて何を嫌がる必要がある? 死なんてものは、いつでもどこでも起こりえる。そりゃあまぁ、怖いかもしれないが……泣き叫ぶのは大袈裟だろう。いちいちそんなことで感情的になっていたら疲れる。
……でも、じゃあ、なに? 兄の発言が正しいなら、今まで殺されそうになって泣いていた人たちは……死ぬのが怖くて、それが普通?
それまで見聞きしてきた些細な――都合よく気のせいだと見て見ぬふりをしてきた違和感が想起される。
――わたしがおかしいの?
――……そんな眼で、わたしを視ないでよ。
「どうせいつかは死ぬんだから、別にいいじゃん……」
「……どうせ、ねぇ……」
兄にそんなことを呟かれた気がする。世間から疎まれてる殺人鬼にすら、わかってもらえなかった。
試しに夢月は質問した。人殺しはどこが楽しいの? と。もしかしたら、共感できるところがあるかもしれない。
龍之介は噛み砕いて説明した。いつもなら死の先にある芸術の話。今回は初めての……下地にあった死の話。
けれど、夢月はなぜ特別に想えるのだろう、ぐらいにしか思わなかった。
みんな死や殺しを好きになったり嫌いになったりしてるのに、自分だけがズレていく――わたしだけが、何も感じない。
……どうして?
「――え? 楽しかったか? ……つまんないってわけじゃないけど、期待してたほどではなかったかな……でもありがとう。一度はやってみたかったから。今後からは聴くのと、あとは手伝うだけにするよ」
初めて人を殺した感慨は、まぁあるにはあったけれど、四年も経てば忘れてしまう――忘れてしまうほどのものだった。
あの死体は、何もせず捨てるのはもったいないとのことで兄が皿かコップに創り変えたはずだ。気が乗らなくて、音はあまり耳に入ってこなかった。
回想を終えて、今やったら感触が変わるだろうか、なんて夢月は考えてしまう。
楽しめるか――気味悪がれるか……いや。きっとまた、あの疎外感を味わうだけだ。
……わたしじゃない。こんなものに情が湧くみんながおかしいんだ。
だって――わたしは――
「フツう、だよ」
「――っ」
ムーンビーストにとっては何気ないものだったかもしれない。
けれどその一言が鋭く、じんわりと夢月の中へ入ってきた。
胸がすくようなこみ上げる嬉しさに、気付けば沈んでいた面を上げる。
暗闇の視界で、ムーンビーストの顔があるであろう上を向く。
「……本当?」
「そんなにフシギ、か? ショゴス、や、ミ=ゴ。ホカにも、イッぱイイる。ユヅキは、フツう」
……その肯定を、一体どれだけ待っていたことか。
気分が楽になったようで、堰を切って人を殺害した感想を述べる夢月。
「――だよね、そうだよねっ、だって心臓を裂くだけだもん。何も感じなくても、わたしは普通だよ」
雨生夢月の頭はどこかおかしい。だいぶおかしい。おかしくない時もあるけれど、やっぱりおかしい。
しかし少女は、それを受け入れたくなかった――。
ムーンビーストと別れて、次はミ=ゴを触りに行こうと歩いていた――そんな時。
懺悔とすら取れるほどの声音の、昔かけられた心からの言葉を思い出した。
『夢月ちゃんは変じゃないよ。私はそういう考え方もあるだなって受け止める。世界中を回ったら、夢月ちゃんと同じ考えを持つ人に出会えるはずだよ』
『私はその気持ちを――分かってあげることはできないけど……』
『ごめん――力になってあげられなくて、本当にごめん』
『……ごめん、ね』
夢月は目を閉じていたためにその表情を視ていない。けれどきっと、申し訳なさそうにしていたのだろう。これまでずっと心配させていたはずだ。
今すぐに話したかった。
喜びを分かち合って――そして、もう会えたから大丈夫だよって、安心してほしい。
明日学校に行くのが、夢月はとても楽しみだった。