盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠みれい(元キルレイ)
第百章『少女に選択の余地はなし』
きっとわたしは、お母さんに殺される。
……いや、きっとじゃなくて、絶対だ。あの人なら、如何なる状況であろうとも絶対にここに来る。
だって――って、もう来ちゃった。
コツ、という靴音、帽子を深く被り顔を隠す女性――そして、何も言わずに銃口を真っ直ぐにこちらへ向ける。
ああ……やっぱり、お母さんが先に来てくれた。
「――っ」
唇を噛み締めて、飛びつきたい衝動を抑える。
もしもそれが叶うとしたら、それはどんなに嬉しいことか――でも、できない理由も納得している。
だからせめて――お母さんの抱えてるものを取り除いてから終わりたい。
お母さんがどうして謝っていたのか、あれらの言葉の意味を知ったから……それは違うよって誤解を解いて、笑って逝きたい。わたしだけでなくて、お母さんにも。
確かに原因はお母さんにあったかもしれない。けど、お母さんがわたしを救ってくれたという事実は変わらないのだから。
「あのね――」
放とうとした感謝の言葉は、飛来してきた何かによってかき消された。
血飛沫が一直線上に舞い、全身から力が抜けてくるのを肌で感じてなす術もなく倒れる。
霞む意識の中、思った。
……とうとうわたしは、本当に死ぬんだ、って。
しかし聴こえてきた彼女の呟きに、わたしは意識を離そうとしなかった。
「ごめん、なさい」
――生きたいと、そう強く思ったのは、これが初めてかもしれない。
楽しかったよって、お母さんは何も悪くないって言いたいのに……思うように声が出ない。
酷いよ……わたしにも喋らせてよ……。
このままこの人に大きな傷を残すなんて、嫌だ……!
――わたしには、あと数秒で訪れてくる死より。
大切な人に罪を背負わせるのが、何よりも辛かった。
――――……。
最上級の幸せと最上級の不幸を味わえ。
最下級の幸せと最下級の不幸も味わえ。
際限なく生まれる心の機敏を味わい尽くせ。
すべてを為すとはそういうことだ。
その世界には、音がなかった。
しんと静まる白い図書館。色が付いているのはズラリと並べられた木製の本棚と、無数にある本、鉄の扉、そして――本棚の間でB6サイズの分厚い本を開いて佇む小さな少女。
肩にかかるオレンジ色の前髪は耳にかけて、クリーム色の上着を羽織り、濃い緑色のスカートを身につけ、目を開いてどうやら黙読しているらしい。
どういうわけか瞳の中で規則的に揺れる振り子。衣服や髪に赤青黄色のインクが垂れているけれど、白い床や本のページに落ちることはなかった。
少女が持っている本の表紙と背には名前と章が記載されている。読み終えたのかパタンと本を閉じて、目先の棚に仕舞った。
「驚いた。ほんとだよ? この世に生を受けた一人の人間であることに、一片の疑いもしてなかったから。まさかゆづ――私がとある筆者が考えたただの空想だったなんて、衝撃的な真実だよ」
そう言う割に、少女の声のトーンは呑気であった。表情も大して変わらない。
それから少女は、いつのまにやら足元に積まれていた三冊の分厚い書物の内、一冊を手にしてまた黙読する。その表紙と背には、先ほどの本とは違う人物名と章の数字が記されていた。細かい活字を目で追うスピードは、斜め読みかと思えるほど早いときもあれば急にゆっくりになったりとまちまちである。
整然と並ぶ二メートルの本棚は、視界には到底収まりきれないほど多く。この部屋の奥行はどれほどのものか見当もつかないほど広い。
本棚に収められているのは少女の身長で手が届く範囲までだが、いつしか足りなくなるだろう。少女がそこまで想定しているのかは定かでないが……。
本はどれも棚の奥まで入り左右の側板までぴったり仕舞われていた。けれど、背に記された名前は分類わけされておらず、章は順番通りではなかった。
これらの本に書かれているのは、きっと彼らのことだろう。
――みんなを助けたいという優しい望みのために、愛する者をも切り捨てた男のこと。
――己の在り方に疑問を呈し、探求してもなお答えが見つからず苦悩を強いられてきた男のこと。
――王となる決意をして剣を抜き、完璧な理想を抱えたために自分を責め続けた少女のこと。
生まれ持った使命を、これからするであろう決断を、その果てにどんな運命を辿るのかを、少女は知っている。幾つもの彼らを、彼ら以上に。
……少女が眉を動かすことなく本を読み進めていると、一つのあるキーワードに反応する。
「令呪……そういえば、私マスターだっけ」
左手で本を支えたまま、後ろの本棚に体重を傾けて少女は己の右手をかざし見た。すると、あるべき姿を思い出したように三画の印が現れる。
試す価値はあるだろうと、命令の内容を決めようとして――はたと気付く。
わす、れていた……?
――少女は視線を動かした。己にかかったインクを――尋常でない量の本棚を見渡してから、また右手の甲に戻して、小さな声で命令を下す。
「令呪を以て命ずる。キャスター、お願い。わたしを――」
次は誰とお話するのだろう。
この前通りがかった公園に植えられていた木々と談話するのだろうか。
時間を掌握し精神を入れ替えるあの者らと酒を飲み交わすのだろうか。
あるいはそれに声などないのだから、誰とも会話することなく生涯を終えようか。
第零章『時を数える誰か』
振り子の音がする。
右か左に揺れる音。一秒という、短いようで長い時間を刻む音。
だからそれがもう一度揺れれば、一秒が経ったことになる。
わたしの瞳には、まるで模様のようにその左右に揺れ動く振り子が映っていた。
どこにある振り子を映し出しているのかは分からない。目の前にあるのか、それとも遠くにあるのを千里眼か何かで映されているのか。
わたしに分かるのは、棒に吊らされた重りが一秒ごとに動き、それを感知できるということ。
わたしはその振り子を眺めて、揺れる度にペンで一という数字を描く。
振り子が振り続ける。
時を刻み続ける。
一秒、一秒、一秒……。
ロボットの如く、わたしは永久的にそれのみを為す。
時間を無為にしているだけにみえるだろうが、少なくともわたしにとっては意味があるのだ。
知らないけど、動機も何もかも知らないけれど、それらについて与り知るところではない――わたしは一秒ごとに一を描く動作だけを知ればいい。
一を表す縦棒を、もう幾つ書いただろうか。そして、あとどれくらい書けば終わるだろうか。
カキカキカキカキカキ。カキカキカキカキカキ……もう壁にはびっしり描いてしまってスペースがないから、今度は床に。一本の線を引くのは、もう手慣れたよ。
時として少女は、空っぽと言わんばかりの虚無な表情をしていた。
時として少女は、苦痛に蝕まれ今にも泣き崩れて壊れそうだった。
時として少女は、全てを見境なく皮肉るように嘲笑を浮かべていた。
時として少女は、邪を知らぬ無垢な子供のように笑っていた。
いつまでも白い壁と床。いつまでも増え続ける本。無駄な物音を立てることなく、黙々と作業する瞳で振り子を振らせる少女。
少女の身にかかった赤青黄色のインクは、インクの量が多くなったことにより混ざり合い、色の種類は緑紫橙色が増えていた。こうも色とりどりにインクで上塗りするのであれば、少女の原色はきっといつかわからなくなるだろう。
途切れずに出現する本は、もはや少女の手が届く下半分の本棚だけでは収まりきれなくなっていた。だからか少女は、本棚と同じ色の茶色い梯子を用意して上半分にも本を収納し始める。
少女だけで管理されている白い図書館。
少女が鳴らすペラっという音だけの静まり返った広大な部屋。
――本と本棚に溢れた世界に、ぽつんと、一人。
あの重そうな鉄の扉の向こうには、他にも人はいるのだろうか?
永く変わらぬ光景に、この夢に終わりなどないのかと、そんな錯覚さえ覚えた。