盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠れい(元キルレイ)
ここに明かりなんてない。
青く闇い天と地を仰いだところで何もないけれど、視線は確かに感じた。
一方的に頭上、背後、体内に居座っていて、その乾いた眼差しに意味など込めやしない。ただ漫然とそこに居ついて、圧倒的な正しさを見せつけるだけ……そう、理不尽なほどに。
それに触れたくないから目をそらした。それに捧げたくないから声をかけなかった。それはいないと、考えないようにした。
――未だにそんな現実逃避を、思慮の片隅に据える自分に、バカだなぁなんて思った。
きっとそれは、邪険にするべきもので、怖がるべきもの。
けれどそれは正しいものだから、そこにいてもよくて、いなければならないのだ。
裁くものはおらず――裁けるものがいないから。
罰するものもおらず――罰することができないから。
故にそれは、間違っていない。
その正しさに、苦しいという思いさえも、忘れてしまうほどに。
この両手も、この風景も、この思いも……この命も、誰かの都合のためにあって――誰かの都合のせいで変わっているのだろう。
この世の支配者を知った証として、皆一様にこれを自覚する。
――仕方のないことだ。
不可解さも、あの強さも、だから正しくなるのは仕方のないことだ。
あれらは理解されてくれない。
分析されてくれない。暴かれてくれない。対処されてくれない――誰の意思も聞くことなく。
なぜかを答えられたなら、この世は平和になることだろう。
神々の、どこを見ているのかわからせない視線の渦の中。何も言わず、何も思わず、何もない暗闇をぼんやりと眺めていた。
耳を塞いで、目を閉じようとして――すると、音もなく小さな少女が体内から飛び出てきた。
勢い余って数歩小走りして立ち止まる黒髪の少女は十ほど小さく、大きくて異質に光を反射する瞳は明確に何かへと向けていた。
その眼差しには意味らしき水気があって、何かへと手を伸ばそうとするも見えない壁に阻まれる仕草は、まるで祈りのようで。少女の目線の先を追い、眩しいほどに鮮やかで、明るい星を見つけては、答えを得る。
……ああ。
だから、そう望まれるべくして。
“彼ら”は創られ、保護され、何も知らずに今日も空を見上げているのだろうか?
傷んでくれるように。そして、拒絶してくれますようにと。
「こう言ってはなんだけど、よく人間って神を理解できるモノと思えるよね。ああ、皮肉って萎えさせるつもりはないよ。むしろそういう意欲と気概は大好きだし」
「……君に同調されると、あたかも嗜虐的と解釈されていそうだな。そんな悍ましいものじゃないよ。ま、人間から見れば結果的にはそう映るかもしれないけどね。なんてはた迷惑な願いを、そんな理由で好かれていたのか、って。だから基本的に人間には隠すようにしてる。君になら話してもいいけど」
「それより夢月の容態について、か……そうだったね。君がどういう人間なのか忘れていたよ。今のは私の配慮不足だった」
「夢月が苦しんでる原因は、別に他の参加者から攻撃を受けたとか、二日前に食べた触手が当たったとか、そんな訳が分かる理由じゃなくて、そんなことよりも深刻なこと――夢を見ているんだよ。私の――ニャルラトホテプという邪神の夢を。こうして覗かれるのはさて、何時ぶりだったかな?」
「深刻だよ。でも訳なんて分かんなくていいよ。とにかく物凄い悪夢にうなされてるのさ。この子からすれば気が遠くなるような量だろうけど、こんなの、私が生きた時間の内のただの断片でしかないっていうのにね」
「夢月が私の記憶にある景色を閲覧できるのは不可解な現象ではあるが、そう不可解なことでもないよ。マスターは契約を交わしたサーヴァントの過去を、夢として見ることがあるようだから。でも、本当に不思議な現象だね――私の過去を共有するなんて、できるわけないのに。夢月は中途半端でも理解してると思ってたんだけど……さては驕ったな? 惜しいけど、それじゃ足りない。これくらいで解明できるなら苦労しないって。私を侮りすぎだ」
「嬉しそう? ……そうだね。収穫があって、少しわくわくしてるかも。夢月が壊れて終わるんじゃあまりにも呆気ない」
「一気に壊すのはつまらないって。だから私はそういうつもりでやったんじゃないってば。……まぁそんなわけで、人間業じゃないから君には無理だよ。龍之介」
「協力? それはこの前断っただろう。あいつらで我慢してくれ。……ああそれと、これは他言無用だよ。ミ=ゴ」
ちっ――と、ニャルラトホテプからの命令に、ミ=ゴは聴こえるか聴こえないかほどの舌打ち音を口の中で鳴らした。
彼女が真実を話しているのかはともかく、布団に横たわる夢月の側を動かないショゴスに付着している赤い血と夢月の首筋にある血の跡から事の重大さを物語っており、子供どころか、人に耐えきれるかどうかの異常な負担が夢月の脳にかかっていることは容易に見て取れる。
状況を把握した瞬間、ショゴスが邪魔なので仲間に協力を仰ぎ、何としてでも夢月を手中に収めようと即決した。滅多にない被検体を入手できることが、ニャルラトホテプに付き従う利点である――だというのに、そう命令されたら断念するしかないではないか。
表情にこそ出てはいないが、『承知しました』と返事をする気にはなれないほどに不服なようで、
『また、そんな無謀なことをしているんですか』
ショゴスの隣でこちらに背を向けるニャルラトホテプに悪態をついた。
とうに消えてしまった彼女への呆れを意図的に引き出し、わずかに目を細めてミ=ゴは言う。
『どれだけ過去や思想にかこつけようとも、それの根本は人間ですよ。特異な能力を持ち合わせているでもない普通の子供です。手段を尽くしてあなたという概念に影響を及ぼすほどのモノに仕立て上げようとしても、先に精神と肉体が限界を迎えて朽ちるだけだ。理解できる人材を欲してのことならやるだけ無駄ですよ』
「……陰湿だな。そんなに腹立たしいなら正面から歯向かえばいいものを」
ただ一言「黙れ」と命じられるだけで噤むしかないその悪態を制止することすらせず、わざわざやんわりと切り返すニャルラトホテプ。
今ではもうすっかり慣れてしまったが、というより慣らされてしまったが、昔は彼女のこういう『それらしい』話し方が嫌いだった。
再会するたびに具体的な目的を一貫させているのが――性格が変わらないのが、嫌いだった。
変わってほしいわけではない。むしろそっちの方が面倒なことになって、ますます嫌悪していただろう。けれど変わらないであり続けられるとこれはこれで面倒で、あろうことかあんな命令まで強制させられて、自分が情けないように思えて、自分のことが嫌いになりそうで。
『あなたがそれを非難しますか? 他者を騙し丸めることにおいては追随を許さないあなたが?』
今度はただの腹いせでなく、心底驚いたように、責めるようにミ=ゴは詰問する――とはいえ念を押しておくと、それすらも反論できてしまうことを、人間姿の神話生物は十二分に理解していた。
簡単だ。「私がいつ、誰を騙した?」とすっとぼけてしまえばいい。それだけで、自分の言い分は破綻する。ニャルラトホテプ相手に事実確認をするということは、何を事実にするかを彼女に委ねると言ってるようなものだ。
ニャルラトホテプは追随を許さない。
本物と偽物を使い分けることで諸人を欺き、都合よく事を起こし丸められることに。
全く、よりにもよってややこしい神に服従させられた、とたまに肩を落としたくなる。
――だが、あるいは気が沈んでいるのは、ニャルラトホテプの方だろうか。
現在ミ=ゴが立っている扉付近からでは、乱雑に下された黒髪が背中を隠す姿ばかりで彼女の顔は見えないが、あれからミ=ゴの難詰をニャルラトホテプは沈黙で通していた。認めたくないものを認めさせられたように、反論できないといわんばかりに。
異なる意図で夢月を見守る二人からなら、ニャルラトホテプの表情を伺えるかもしれない。
方や、夢月の側で怒りも悲嘆もなくただじっと待つように静止するショゴス。
方や、布団の向かい側に座り、少女の苦しむ様相を興味深そうに観察する龍之介。
さしてミ=ゴでも足を運び少し横顔を覗けばわかることだが、ニャルラトホテプの表情にどんな感情が帯びてるかなどどうでもいいので確かめようとはしなかった。
けれど、ニャルラトホテプが偽りなく振舞っているとしたら、ミ=ゴはニャルラトホテプの在り方を煩わしく思っているが、彼女はそれ以上の強い思いを持っているのかもしれない。
……持っているのだろう。持っているから、こんな無謀なことをしたのだろう。
「っ……きゃす、たー……」
それまで得体の知れない悪夢とやらに内側から浸食され、呻くだけであった夢月が言葉を発した。思う通りのたった一音だけでも困難なようで、途切れ途切れに、震える令呪が刻まれた右手を前に出しながら紡いでいく。
「わた……しを、ころ……し……て……」
あまりの苦痛に本来カーブを描くつむる眼は歪み、けれど唇を必死にコントロールして上げたかすれ切った『懇願』に呼応して、右手に刻まれた一画の刻印が四散した――とうとうマスターの権限を行使したのだ。
――助けてではなく、己を殺せと。
この際、夢月の死体を持ち帰り復元できる時が来るまで保管するのもアリだろうか、と企み始めるミ=ゴであったが、やはりというべきか。
令呪は正常に作動したはずだが、返ってきたのは無慈悲なほどに重い――声。
「悪いねマスター、その命令には従えない」
ニャルラトホテプを名乗るサーヴァントは一蹴した。あっさりと。
「君の意向で中断する気はない。何度死んでも生き返らせて夢を続けるよ。限界まで見て、壊れたのを確認したらちゃんと治すって確約するから――まぁ、頑張ってくれ」
大雑把に、ぎこちなく言って、「……いや、違うな」と気だるげに、気まぐれに、ニャルラトホテプは訂正する。
後ろ姿から判断するにどうやらは彼女は俯いているようだが、意気消沈したような低い声音と空気からして、その目は夢月を見ているようで、見てないのだろう。なぜなら――
「なるべく耐えて、も違う。日々怪異と隣り合わせていようと、良識から外れていようと、抗ったところで壊れるのは変わらないし、生き物がもがく様はとっくに飽きた。かと言って、不本意だけどミ=ゴの言う通り狂えないだろう。“生き物として、君は壊れなければいけない”から。そんな夢月に求めるのは――ああ、今までと同じか」
ようやく思い当たったように頷き、火が灯らない冷めきった声で口にする。
なぜなら、彼女は――
「君には何も求めない」
――夢月には何も、期待していないのだから。
「少しの間、狂気に呑まれてくれ」――そう付け足されたその言葉は、果たして夢月の耳に届いたのか。反応らしい反応はなく、少女は苦悶する。
いつも通りだな、とミ=ゴは思う。
いつも通り――取り残された彼女がないものを求めて彷徨い、結局何も見つからない、湿って色褪せた暗がりがそこにあるだけ。しかも今回は何の得もなかった。
それが嘘であるなら、そんな白けさせるようなことはしないでほしいし――それが素であるなら、どうせすぐ嘘に変わるだろうと放っておく。
もしも変わることがないのなら、なんでこんな惨めな奴に自分は支配されたのだろう。と、自身と彼女に軽い侮蔑を向けるだけだ。
……もしも他に、思えることがあったとしたら、その時は――。
だが今回はそういう気分にならず、何より夢月の脳を解析できないのがもどかしくて、早々に退出した。
元はといえば暇だったので龍之介に余ってる脳があるか聞きに来たのだが、あの様子からして没頭している彼は周りのことなど考慮できなくなっているだろう。仮に、あんなにもレアな脳を研究できたなら、自分も似たような状態になっていたに違いない。それがわかると、少し羨ましくなった。
その後目覚めた誰かと誰ともわからないニャルラトホテプとの会話を、ミ=ゴは――ショゴスも、龍之介も、知ることはかなわない。