盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠れい(元キルレイ)
暗記していない、読まされているだけの本の中に、こんなページがあったそうだ。
ありとあらゆる生と死を綴った書物が積まれたこの書館には、鉄の扉があって、そこを開けるとまず長い廊下があるという。
白い図書館とは対照的な、黒い廊下。
ひと一人が通れそうな狭さで、子供程度の体力では途中から足が疲れてくるほどの道のりを、時折私は読書を中断してでも歩いた。
一往復、二往復、三往復……それ以上は歩いたと思う――自らの、意思で。
私がなぜそんなことをしたのかは、思い出せない。
とにかく、その長くて黒い廊下を渡っていると、泣き声が聞こえてきた。
それも一つではなく大勢の赤ん坊の泣き声。特定できないほどの種類の動物。
ごちゃごちゃと鼓膜を破く勢いで……真っ暗な通路を渡った先には、また一つの鉄の扉があった。
私はいつも、錠前が付いていない両開きの重い鉄を両腕に力を入れて押して入っていた。
そこは、白い部屋。
歩くことすらできない動物の赤ん坊が、停止するか泣くかして雑多に転がっていた。
大量にいて、数えきれないほどにいて――ちょうど、本と同じ数くらいいて。
元気に声を上げる子は、私の中で起き上がる。
それらが元気であるほどに、私は自分を見失う。
かつて私は、一人だったらしい。
あんなにも広い部屋で、一人の赤ん坊だけが泣いていたらしい。
気丈で、必死な、大きな産声を、何もない室内に響き渡らせていたらしい。
その赤ん坊がどれなのか、今はもう忘れてしまったけれど。
どれが私なのかを忘れて。
……何を思えばいいのかも、忘れてしまって。
己が何者なのかを実感してしまう、どこか心が欠け落ちるその場所に、私は何を求めて行った?
――思い出せない、その本には、こんなことが書かれていたと思う。
あの女の子はまだ来ない。そろそろ来ていいはずなのに。
名前は知らない。顔は見れない。しかし声は、聴こえていた。
「……そっか、あなたか」と、わたしの頬に指先を当てて、憂いに包まれながらも安心したように呟く女の子だった。
何に救われたのかわからなくて、わたしは首を傾げようとしたけれど、救われたのなら、わたしに会う前まで苦しんでいたのだろう。
それだけわかればいいかと、探ろうとはしなかった。
辛い思いをしてるなら助けたい。あの子の苦しみはとても他人事だと思えなくて……自分の事だとすら思えて、ひどく痛いから。
おかしいな。考えても考えても、あの子が誰なのか思い当たらないのに――あの子のこと、何も知らないのに。
わたしには泣くことしかできないから、「わたしも連れていって」と言おうとしても悲鳴となって吐き出される。
あの子を手伝うこともできない。なぜなら手足はジタバタするだけ。
涙を受け入れることだって……だって、わたしに、そんな機能が?
でも、せめてここで待っていたら、あの子は救われる。苦しい思いをしないで済む。
だからわたしは。真っ白な部屋で待っていた。
あの女の子はまだ来ない。最後にここに来たのはいつだったかな。
来てほしい――いつしかわたしは、そう思った。
来ないとダメ――どこからともなく、湧いてきた。
あの子をこれ以上苦しませてはいけない――誰かにそう、言われたような気がした。
お願い、来て。お願い……――機械的な涙は、本物になった。
わかんないよ。
焦燥に締め付けられるのも、わたしだけ入り口に置かれてるのも、あの子が何に救われたのかも、全然わかんないよ。
でも、いつかは来てくれるよね。いてほしい時にいなかったら、一番困るのはあなただもんね。
あなたが一番、怖いもんね。
……あるいは、あなただけが。
あの子は一度だけ、わたしに呼びかけたことがある。
「ねぇ、夢月だけが覚めてくれたら、私の本音はわかるのかな?」
わたしは首を縦にも横にも振れず泣き続けるだけで、あの子はそのまま去っていった。
――わたしは、鉄色のドアの前で待っていた。
あの女の子はまだ来ない。それから来ることはなかった。
夢月……ああ、それは、誰なのだろう。
そんな心情が記された本を、いつだったか私は読んで、この図書館のどこかに置いたはずだ。
これといったきっかけもなく、私はじわりじわりと無性にそのページを読み返して、本当に実在していたのかを確かめたくなった。
……なぜ、だろう。
他の本との差異はなんだろう。私はどうしてわざわざあの長い廊下を往来していたのだろう。私にとって、その文章はかけがえのないもの?
それを見つけられたところで、私の疑問を解消させてくれる予感はしなかった。
……でも、慈しんでそのページを撫でられる気がした。言いようのない不安を、落ち着かせてくれる……気がした。
大切になんか、しなかったのにね。そりゃあ失くすよ。
懐に置かなかったんだから。場所を決めなかったんだから。
この気持ちも、きっとすぐに失くしてまた拾う。だからもういいよね。
――本、多すぎるよ。
広大な部屋を埋め尽くす書物の海から、ひょっこり少女が顔を出した。
橙色だった髪色は別色のペンキで上塗りされていて、服も同様である。けれどもインクは少女にはかけられても本にはかからなかった。
潜っている最中は息苦しかったわけでもないようで、大きく息を吸うことなく一冊の新しい本を手に書物の海を抜け出す。
白い床が見えなくなってから、もうずいぶん経つだろう。
留まることを知らず増える本はとうとう棚に入りきれず、少女は几帳面に並べることをせず捨て置くように散らかしていた。
最初から湿度がない紙を、最初から温度のない手で。
それから雑然と積まれた本は山となり、次第に汚れ一つない床を覆い、木の板でできた本棚もバランスを崩し傾いて、大人でも通れそうな鉄の扉を隠すまでせり上がった。
起き上がった少女は、倒れた本棚に座って膝の上で厚みのある本を開く。
いろんな物に出会った。
いろんな動物に出会った。
世界を崩壊させる色んな方法を知った。様々な宇宙の法則を知った。
これまでのこと。これからのこと。枚挙にいとまがない人々の行く末。魔術師が目指す根源。別世界のことも――知った、らしい。
持て余す知識は知る端から落ちていくから、質問されたら答えることはできない。いつか物知りな人格になることがあるだろうから、それまで待ってとしか。
……誰に、訊かれることがあるだろうか。
……私が私に、訊いてるだけなのに。
会いたくないよ、誰にも。
ずっとずっと、ここにいたい。
白くて、静かで、広々とした孤独の部屋。瞬きしても景色が変わらないなんて、こんな素敵なことはない。
ここで書物の海に流されて、廻って、窒息してさ。何も知らずに死にたいよ。
面白味もなく、感動もなく、綴られた一つの人生に価値を見出すことなく少女は読み込む。瞳の振り子が数千振られた辺りで本を閉じ、一メートルほど先に放り投げた。そして足元に埋もれているまだ読まれた形跡のない人生を無造作に取り出し、また読み始める。更にインクがぶちまけられ、カラフルすぎて黒くなり少女の髪と衣服の原色はわからなくなりつつあった。
イベントもアクシデントも起こらず空虚な時間が進み――冷淡とした瞳に、ふと、驚愕が滲む。
「……え?」
視界に振ってきた指サイズの白い布切れに思わず間抜けな声を出して、少女は本の角を摘まんだまま天井を見る。
ぷすぷすと空気が抜ける音を立てて、この部屋を包んでいた布の切れ目が徐々に大きくなっていた。
「やめて……」
焦りのある声音だった。恐怖さえ帯びていた。
切れ目は下へ下へと伸びていき、支えのなくなった布は剥がれていく。
本を読むことしかできない少女には、書庫が崩れ、形を保てなくなっていくのを止めることはできない。
「夢から、醒めたくない……」
そう、祈るように小さく口を動かして。破れていく壁に見向きもせず、気付いたように少女は振り返る。
――その目は、確かに誰かを意識していて。
黒ずむ少女は悲しみから一転し、微笑み――あまりにも気楽に、気軽に、気安く、呆気なく、とても簡単そうに言うのだ。
「はいこれで、全知のできあがりだよ」
己が全知とは程遠いことを、少女は自覚していた。
張り付けたようなその淑やかな表情は、一体誰に向けたものか……。
瞳の中で左右に揺れていた振り子は――時を奪われたように、ついに動きを止める。
暗く閉ざされた夢と現の狭間では、映す影すら視えない。
しかし膝をたたみ、両腕でそれを囲む一人の少女が形作られていた。
一人になりたいと、少女は願う。
あらゆるモノから――光さえも隔離して、壊れた
誰もが散って、出て行ってくれる――そんな幻想を夢見て、少女は命じた。
誰も構うな。
誰も見るな。
誰も入るな。その身を引けと。
――だが、もとより幻想は消えるから幻想で。
少女という灯に、暗闇からうじゃうじゃと、意志ある色とりどりの手が群がってきた。
若々しい肌色をした人の細い指――
瑞々しい緑色をした蛙の湿った水掻き――
錆び付いた金属色をした動かないであろう機械――
吐き気を促す溽色をした粘りついた生物――
夢で知った一つ一つの手は、手首から先はなくとも生きているかのように少女の元へ這った。
冷たく土まみれの塊はその首を覆う。
毒々しいピンク色の手はその四肢を拘束する。
シワシワの指先はその髪を絡める。
微生物の集まりはその腸の内側を目指す。
三本しかない指は塞がれた穴をこじ開ける。
「入ってくるなって言ったのに……」
独りになれないなら、せめて、早く夢に戻りたいと願い続け、少女は抵抗することなくそれらを受け入れた。
そうして、多種多彩な手達が伸びながら。
永い永い、素晴らしく残虐な悪夢から覚める――。
ここが何でできた部屋なのかはもう覚えてないけれど、少なくとも今は鏡がそこら中を埋め尽くしていた。
色と形がその都度変わる不思議な鏡。壁状に並び、地に嵌められた大きな鏡を叩くとコンコンと響き、小さな粒の鏡が至る所に漂っている。両手に収まる美味しいリンゴは赤い鏡で、かじると口から血が垂れた。
鏡の中にいる者は誰も泣いてなどいなかった。わたしは泣いてなんかいなかった。ちょっとくらい泣いた方が、わたしらしかったのかな?
鏡を見ても自分がどんな姿で、どんな姿勢かわからなかったから、試しに手を挙げて確認しようとしたけれど、何かが視界を遮って結局わからなかった。
まだインクがかかってるのかな。今わたしは瞳を開いているのかな。だとしたら、未だに振り子模様をしてるのかな。
まぁ、現実だから元に戻ってるか。元がどんなのか忘れたけど。
鏡のせいでここがどこで、どの時代で、錯覚中なのかは判断つかないけれど、夢が終わった感覚だけは伝わっていた。
そう、ここは、嘘偽りなき現実だ。目が覚めると、そこは鏡の世界だった。
わたしが何を思えば『それらしい』ですか? どう反応すれば『それらしい』ですか?
あなたの言う通りにすれば不自然ではなくなりますか? それができたら寝かせてくれますか?
けれど鏡は何も答えない。少し言語が違うのかな?
……あ。
今更に、気付いた。わたし声を出してる。
手足も、いつの間にか動いてる。
だから嫌だったんだ。自分の意思で動かなくなるから。
五感が判別できなくなるのは想定外だったけど、よく考えればそうだよね。私はわたしを切り捨てたんだもん。知らないわたしの痛みを気にしたりなんかしないよね。
眠りたい。あの夢に戻りたい。
身体が眠るまで待つしかない私は、それまでの暇つぶしに現実に向き直ろうと焦点を合わせると……鏡しかないはずの光景に異物が混ざっていて、思考停止しそうになった。
けれどすぐに、わたしはこんなものを理解しようとしたのかと自身に呆れかえる。
そこにいたのは、唯一鏡じゃないものだった。
…………………………幻。
女の人の容姿をしている幻。私の知らないものだった。
幻聴が聴こえる。
耳を引っ掻くくらい痛いノイズが。
耳を溶かすくらい癒される音色が。
「……―――。…………――――――。――――――……、……………―――」
「――――? ――?」
それは、どんなオト……?
だんだんと、意識が遠のいていく。
会話は聞き取れないけれど、なぜかとても安らかで、望み以上の眠りにつけれる気がする。
「――永遠におやすみ、ガラクタちゃん」
ガラ……クタ。それが、私の――
「……良い、名前だね」
独り言が、わたしの唇と連動した。
その幻が無限であるなら、私は所詮有限しか秘めていない。いうなれば私は劣化版だ。
継ぎ接ぎだらけの生物の成り損ないには、実にしっくりくる良い名前である。まるで私に何が起きたのか、全て把握されてるみたい。
『わたしはその幻の過去を共有したのだから当たり前』だなんて、誰だよそんな馬鹿げたことを抜かすのは。“幻に過去なんてない”だろう。
わたしが悪夢を見たのは、人がアレを這い寄る混沌と名付け、且つ元のわたしが神を理解できると認識していたからで。
夢の内容は、あらゆるものの過去と未来。それだけだ。
それだけで、この幻を理解することなんてできっこない。
……結局、私の存在理由は何だったのだろう。
大して今まで考えもしなかったが、永遠におやすみということは、つまりは私が望んでやまなかった二度と目覚めない眠りにつけれるわけで、生まれてすぐに死ぬこの命に意味があったのだろうかと不意に思った。
誰かの糧になったわけでもない、成長も噛み締めた感情もころころ変わる私の生きた意味……それがあるとすれば、何だろう。
そんな素朴な疑問に応えるのは、視界の端に捉えた鏡の中の私だった。
鏡の中の私は口を開く。
『ガラクタに存在理由なんてないだろう?』
……なるほど。これほど的を射た回答はない。
ならば、元のわたしには存在理由があるということだ。
境遇がどうあれ、思いやって現実に返してもその命は意味を残す。
私はわたしを捨てたからね、そいつがどうなろうと知ったことではないけどね。
そいつは私だからかな、治ったわたしなら少しは守る気になれるんだ。
何度も捨てた癖にね。いざ救えそうなら救おうとしちゃうんだ。
叩き落された回数が足りないからかな。不幸と同じくらい幸せを読んだからかな。
それともこれも――私が生き物として未熟だからかな。
もう一度壊れるかもって、怖くならない。
そうしてわたしの意識は、どこかに……とんで、とんで……いっちゃって――。