盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです   作:零眠れい(元キルレイ)

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☆30話 壊れ少女とニャルラトホテプの対話

 冷たい夜が明け、日の出の暖かい光が街を包み込んでいても――そこは寒くて光が差すことはなかった。

 一点の光源もない、外とは隔離されたような暗闇の部屋。シワだらけの布団に倒れる少女のくぐもった声はまだ止まらない。

 それを無情な眼差しで見届ける者は、ただ一人。夢月のサーヴァントだけであった。

 夢月の兄、雨竜龍之介と、夢月の従者であるショゴスは、つい数十分前に彼女が追い出したところだ。

 眼にかかる前髪を払うことをせず、黙して見つめる彼女の青い瞳。

 だが、無表情の奥底で息を潜めるのは――人間に換算すれば『苛立ち』だった。

 とても静かで、とても儚い怒り。

 ニャルラトホテプが今何を思い、何を考えているかなど、誰も忖度できやしない。

 彼女の本心を――性質を知ろうとすればするほどに、必ず毒を飲む羽目になるから。

 彼女がそうであるように、少女もまた、同じことが言えた。

 少女には嘘を本物にする力がないから、暴こうものならたちまちさらけ出されるだろう。

 けれど少女の思いもまた、知らない方がきっと良い。

 少なくとも、この少女は。

 ――唯一の音であったくぐもった声が、やがて荒い息遣いへと変わった。

 その変化に、少ないながらもニャルラトホテプは口元を引き締める反応をする。

 夢月は――目を開けるのがやっとのように胸を上下させながら、まるでそこだけがスローモーションであるかのように数十秒の時をかけて黒い瞳を少しずつ覗かせる。

 とりあえずは、目を覚ました。

 だがその成れ果てたような姿に、もはや元気という単語は当てはまらない。

 その眼はどこか虚ろに天井へと向いていて、立ち上がることなく、衰弱したまま、丸めた左手を翳して言うのだ。

 

「……にゃぁ?」

 

 それは確かに、夢月の声だった。

 けれど目覚めたのは夢月ではなく――夢月なんかではなく。

 『授かりし英知を使いこなせない出来損ない』だった。

 認識の混濁、記憶の混乱、自我の亡失――少女は今、そんな状態である。

 こうなってしまった原因を――どれだけの悪夢に苛まれたのかを把握している者がいるとすれば、彼女だけだ。

 そう、まさしく、厚かましい表情で少女に踏み入る彼女。

 

「君は人間だよ」

 

 夢月の丸めた左手に両手を覆いかぶせる者がいた。ニャルラトホテプだ。

 窘めるような柔らかい物腰でありながら、強い力で握りしめられていた指を適度な力加減で無理やり解かせる。

 広げられた手のひらに、夢月はしばしば首を傾げ――程なくして瞳が猫から人へと変わり、やおら思い至ったように眼を見張った。

 しかしすぐに、その両眼は無気力に垂れ下がる。

 ゆっくりと上体を起こし、垂れ下がった眼をニャルラトホテプに向け――乱れた髪を揺らすほどに、深呼吸を繰り返す。

 それは残骸。もはや正常に物を認識することすらできない欠陥品。

 それを生き物として――ましてや会話しようとさえしてはならないモノ。

 だというのに――

 

「やぁ、堕ちるところまで堕ちたって顔をしているね。気分は最悪かい?」

 

 あっさりと気軽に、ニャルラトホテプは声をかけた。

 造ったような明るい声音。造ったような軽快な表情。

 奥底でギラつかせていた苛立ちは、さらにその奥へと引っ込んでいる。

 夢月の姿をした何かは、すぐには返事をしなかった。

 少女には己を包んでいる衣服から何を感じるだろう――もしかしたら衣服なんてないと思っているのかもしれない。

 己の膝に掛かっている毛布が何に見えるのだろう――大量の蛇に囲まれていると思い込んでいるのかもしれない。

 あるいは己を、己と思っていないのかもしれない。

 呼吸を整え、先程の脱力感を感じさせた姿よりかは幾分マシになり。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ――そこでようやく、少女は人の言葉を発した。

 

「狂ってんなお前。通りで簡単に騙されるここの連中に紛れたがるわけだよ」

 

 ……およそ、夢月が口にしないであろう言葉を。

 けれどそれは……確かに夢月の声をしていた。

 人でもするであろう、化け物を見るような、諦念した瞳で。

 

「……」

 

 ニャルラトホテプは口を噤み、何も言わない。

 その眼からは、もう何も読み取れない――が、負の感情の色をしているのは、明白だった。

 少女は話を続ける……続ける?

 本当にそのセリフは前のセリフと繋がっているのか?

 

「俺をこんなに狂わせて満足か? 他者の苦しむ様はそんなにも愉快かよ。なぁ……外なる神」

 

 自らを『俺』と指す夢月。

 ありったけの敵愾心を剥き出しに、年端もいかぬ子供とは思えないほどの底冷えする低音でニャルラトホテプを睨みつける。

 

「んー……まぁ、そうだねぇ……」

 

 湧き出るマグマのような怨念が込められた視線を向けられても、ニャルラトホテプは飄々とした態度を微塵も変えることはなかった。

 

「そもそも君は、狂うことの意味を履き違えてるよ。君は狂ってるんじゃなくて――壊れてるんだ。それはもうボロボロにね。狂うっていうのは壊れずに正気を保てた者のことを指すのさ。本当にそうなってくれたなら大満足だったよ」

 

 と、そこで。平常心のある返答にほんのりと色づく。

 

「……それよりさっさと一人目か、それに近い人物と変わってくれないか? 私だってこんなの早く終わらせたいんだ」

「――っ! ふざけ――」

 

 それは壊れ物。言うなればエラーを吐き出すだけの機械。

 殴りかかろうとした拳を――一転して力を抜いて、布団の上で動きが止まる。

 

「……は、え? 私、なんでこんな……ここは? というか、なんでこんなもの羽織って……そんなに寒くないのに」

 

 それにしては、やけに汗かいてるなーと。

 怪訝そうに周りを見渡しながら、額の汗を手の甲で拭き取る少女。

 少女の瞳には壁がどう映っているのかは、知る由もない。

 突如として今しがたの出来事を綺麗さっぱり忘れ、瞳を開けることさえ難航していたとは思えないほど通常通りにサラサラと腕を動かす。

 そしてやはり――ニャルラトホテプは驚かなかった。

 

「ここ外だし寒くてもしょうがないんじゃない? 君の体調が悪いから暑く感じるだけだよ」

「…………えーっと、どちら様ですか?」

 

 ニャルラトホテプの見蕩れそうになる容姿に圧倒されかける少女。

 問われたニャルラトホテプは答えようとするも、その前にまた人が変わったように――事実人が変わった少女が口を挟む。

 そしてその人格をすぐさま察し、ニャルラトホテプはそれに合った応対をする。

 そんな会話が、しばらく続いていた。

 そうやって少女は。

 時々喜んで時々泣いて時々憎んで時々時々壊れて時々直って時々凍って時々燃えて時々生きて時々死んで時々異常で時々正常で――情緒不安定だった。

 今の少女には、もう何も分からない。

 身体以外の全てを奪われたことさえ、夢月という人格を有する少女にしか自覚できない。

 これが、ニャルラトホテプをほんの一部でも理解しようとした者の末路。

 無限とすら思える人格を矮小の身でありながら格納した代償。

 自分がいつ別の自分になるのか、普通の人間のように物を見ることができる日が来るのか、少女自身にもわからない。

 いや、もしかしたら、もうできないと諦めているかもしれない。

 ニャルラトホテプは、少女が何になろうとも微動だにせず当たり前のように接していた。

 相手の意見を理解し、的確に相槌を打ち、会話を繋げる――そんな『対話』を実現させる。

 こうも変貌を繰り返す欠陥品である少女に合わせられる者は、今となっては彼女しかいないだろう。

 最もその彼女こそ――本物の欠陥品だが。

 少女に同情できる者として、これからも寄り添うのか。自己嫌悪にも似た思いで、少女を突き放すのか。それとも……?

 

「……もう、いい」

「え……?」

 

 あどけないほど真っ直ぐで、まだ他人の心理を考えるのが難しい少女を前にして、ニャルラトホテプは小声でありながらどん底に落とし込む一言を言い放った。

 

「もういいよ、眠って。もう我慢しなくていい。本当はずっと眠たかったんだろ?」

 

 そう、壊れた少女を冷たく突き放し――

 

「君は寝て、あの子に戻ってくれ」

 

 造ったような表情を捨てた。

 瞳に秘めていた黒い感情はどこへ行ったのやら。ただただ切に、そう言った。

 

「え……あ、あの子っていったい……それにわたし、眠くなんか……」

 

 膝にかかっていた毛布は引っペがされ、布団に座る少女は俯きながらも問い質そうとする。

 そんな少女の額に、ニャルラトホテプは何の躊躇いもなく手を当てた。

 ビクリと身体を震わせる少女に、ニャルラトホテプは優しい声色で話し始める。

 

「わかっているはずだよ。私の話してる内容も、そうした方が自分にとって都合がいいことも……眠り方も。探り当てられなくなっているだけだ。今からやり方を思い出させてあげるから、やってみな」

「……っ?」

 

 いくら優しい言い方であってもその言い分にまるでついていけず、じわじわと内側からくる恐怖心で少女は身を竦める他ない。

 

「元より『君』は夢みたいな存在なんだ。読まされた本は……そうだな、井戸の中にでも放り投げて、頑丈な蓋で閉じ込めてしまえ。大丈夫……その術を君は、心得ている」

「……」

 

 ――と、不意に、少女の面持ちから恐怖心が抜け落ちた。

 代わりに無機質であった黒い瞳に、同情の色が帯びていく。

 

「だい……じょうぶ、ですか? なんだかとても……悲しそう。あの殺人鬼の人や……あのピンク色の生き物に、何かされましたか?」

 

 他者に配慮することを覚えた少女は心から彼女を慮り、下から背の高いニャルラトホテプの素顔を覗こうとする。

 だが、額に乗った彼女の手がそれを阻んだ。

 なかなか少女は食い下がらず、抵抗気味に確かなる祈りを込めて口を開く。

 

「お前を真っ二つに引き裂いたら、あなたは消えてくれますか?」

 

 脈絡もなく、そんな異彩な望みを吐いても、それでもニャルラトホテプは対応しきる。

 

「……ああ、そんなことをせずとも、今すぐにでも『君たち』の前から消えるよ。そしてきっと、いつか彼らが私たちを本当の意味で消滅させてくれる。まだそれが誰かも、何時その日が訪れるのかも私には予知することができないけど、必ず訪れると断言しよう」

 

 ニャルラトホテプの確言を少女はどう解釈したのか……ともかく彼女の手を受け入れ、すっと目を閉じた。

 その様子に、ニャルラトホテプは複雑な内心を露わに眉を下げて。

 

「……悪かったよ。夢を止めなかったこと。もうやらないから、安心して眠――」

「悪かった? 何が?」

「っ! ――……」

 

 今度は、ニャルラトホテプが身体を震わせる番だった。

 何もかものにも劣ったものは、再び豹変する。

 捉えようによってはその人格こそが、『授かりし英知を使いこなせない出来損ない』と呼べるのかもしれない。

 

「わたしってばなに考えてたんだろ。謝らなくていいし、償いだってしなくていいよ。どうせどうせ無駄になっちゃうしね。全部全部意味なんてないしね。でもでもなかったことになるからね」

 

 少女は歌った。声を弾ませて、リズムよく、晴れやかに。

 そして一切の陰りなく、少女は嘲笑ですらない穏やかな笑みを浮かべる。

 

「心配しないで、誰もあなたを責めないよ。だってだって――あなたはただの幻だもの。誰もあなたを理解できないのでしょう?」

 

 ここに頭のおかしいものがいないという事実が、何よりも残酷なのかもしれない。

 今の少女ならば、誰が間違っていたのかを答えられるだろう。即ち……誰も悪くなんてなかったと。

 その解答に行き着くだけの損害を、夢月はおつりが出るほど支払った。

 それを聴いたらしいニャルラトホテプは放心して、一泊置いてから苦笑する。

 

「ははっ、痛い所を突いてくるな……参ったよ」

 

 誰もが羨む自らのしなやかな髪をくしゃりと掴み、人外らしからぬ黒色の瞳は己に向けていた。

 背を丸めるその姿に威厳はなく、厳格もなく、悠然とせず、何も照らさず、どこまでも質素で、まるで恥と外聞が欠けていて。

 自嘲気味に、彼女は小さく口端を開く。

 

「……その言葉、その姿で言われたくなかった」

「……」

 

 しかし少女は、幻覚を相手にするのは馬鹿らしいのだろう。彼女に何の関心も抱く様子もなく、涙や汗で少し湿った薄い毛布を掛けなおして横になる。

 

「――永遠におやすみ、ガラクタちゃん」

「っ――」

 

 夢月以外の誰かは、最後に何かを言い残そうとして……声を出す方法を忘れてしまったのか、

 

「  」

 

 音を残せぬまま、少女の意識は途切れた。

 すやすやと、痛みが引いていくように、苦痛が引いていくように気持ち良さそうな吐息を立てる夢月。

 

「……狂ってる……そっか」

 

 何をするでもなく、ニャルラトホテプは呟く。

 

「君であっても、私を理解することはできなかったか」

 

 静寂に包まれた部屋の中、面を伏せて。それはそれは、とても落ち着いた声で……。

 ぽつりとした彼女の憂愁を聞きいれた者は、誰もいない。

 ぐぬぬ……とニャルラトホテプは自分の手首を掴み腕を上げて背筋を伸ばし、一気に力を抜いて盛大に嘆息をつく。

 

「発散しないと抑えられないなんて……面倒臭いな。人間のストレスというやつは」

 

 そして天井をしばし見つめ、

 

「――明日、アーチャーにでも酒たかるか~」

 

と、とんでもなく軽い口調で独り呟いて、眠る夢月をそのままに部屋を後にした。

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