盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠みれい(元キルレイ)
「……あ、この子……」
スタスタスタ。ガサゴソガサゴソ――ペラッ、ペラッ。
雨竜夢月。八歳。女。
家族構成は母、父、姉が二人、兄が一人。祖母祖父との面識はなし。
好きな食べ物はメロンパン、チョコレート。嫌いな食べ物はゴーヤ。
好きなものは音、佐藤心、ショゴス。嫌いなものは家族、静寂。
好きな教科は音楽、体育(休めるから)。嫌いな教科は道徳。その他の教科は苦手ではないが、本人は苦手意識を持っている。
好きな物語は外面的な世界観の凝った心躍る冒険譚。嫌いな物語は家族仲の修復を描いた感動話。
好きな衣服はミニスカートやズボンなどの動きやすい服。嫌いな衣服は長いスカートや固い素材の服。
好きな色は鮮やかでくっきりとした色。嫌いな色は薄く淡い色。
趣味は昼寝、読書、想像。
特技は伝わる感触だけでより鮮明に想像すること。
日課ではないが、早起きしたときだけ散歩をする。
そして佐藤心にも言えない黒歴史は…………
ああそうだ、それが『わたし』だ。
壁が見えないほどに広大だった部屋は狭まり、数えきれない連なっていた本棚が減っていく最中、ようやく私は『わたし』を見つけることができた。
「……っ」
何百何千とめくられただろうよれよれのページ。触れる度に手が震え、懐かしい香りがした。
何度この文面をもう一度見たいと夢を描いただろう。何度この一冊のためだけに感情を振り回されただろう。
消えてしまいたいとさえ思っていた私が、唯一最後まで欲したモノ――。
満ちてくる、喜びが。
払拭されていく、寂しさが。
埋まってくるいくつもの思い出に、口元を緩めずにはいられなかった。
あなただったんだね、私が大切にしないといけないものは。
一番忘れてはいけないかったものは。
探しては挫折して、それでも思い出したくて堪らなかった心臓のパーツ。
やっと見つけた――欠けていた『わたし』。
「ごめんね……もう忘れないから」
忘れるものか。忘れたくない。
もっともっと、触りたい。離れたくないと少女は一冊の本を抱きしめる。
途方もない数の生命の中、それは小さいものだった。
何か偉業を成し遂げたわけでもない。地位や富があるわけでもない。
いつも誰かに守られていて、いつも誰かの後ろにいて、すぐ感情的になる欠点だらけのもの。
でもね、それでもいいんだ。
すぐに死ぬかもしれなくて嫌な思いもしているけど、それでもそれが『わたし』だから。
とても――愛おしいから。
これはあなたにだけ感じられる、あなたにだけ思えることなんだ。
早く戻りたい。あなたになりたい。
あなた以外の『私』はいらない。
まず起きたら、近くにショゴスがいてね。
おはよって言って、鳴き声が返ってきて、それを『わたし』は可愛いと感じて。
『わたし』らしい『わたし』ができて、それから――
……それから、
「……もう、なんだってあいつは……」
奴を召喚した夢月に非はない。
誰にも――ショゴスも、龍之介も、心も、奴でさえ悪くない。
全ては偶然によって生じたこと。それもたった一人の人間が堕ちただけに過ぎないことだ。
だが、こうも呆気ない終わり方には、異論を唱えずにはいられなかった。
だってこのまま終わってしまったら、あたかも今回のストーリーは大したものではないように聞こえるじゃないか。
夢月は憶えてないし、布団の周りにいた傍観者たちから見れば『なぜか壊れた』だけ。
私の容態を正確に認識してくれる者がいるとすれば……私に『ガラクタ』なんて名前を付けた、あいつだけ。
「死ね、名もなき神」
冷たい眼差しで端的にそう告げて、少女は部屋を見渡した。
かつては、神より授かりし英知を使いこなせない出来損ないだった、本にまみれた図書館。
それが今や、視界に収まるほど狭く白い。
――ここは、こんなにも白かったのかと、少女は感慨に耽る。
大事なパーツが戻ったからか、少女の中で何かが満たされていた。
とめどなく溢れる
ここが私の部屋だったことに。
ここがわたしの部屋になりつつあることに。
倒れた本棚は光の粒となって消え、積み重ねられていた書物は中央の大きな井戸の中へと捨てられていった。
それと同時に、覚えてきた知識も私の中から失われていく。
知っている人は知らない人になって。人以外のモノの気持ちももうわからなくなりつつあった。
瞳には――もう振り子は映っていない。ちゃんと黒くて生きている瞳だ。
衣服を濁らせるほどに塗られていたペンキも、既に原色が見分けられる程度に薄まっている。
そう、私は遡ることができるのだ――元のか細い人間へと。
「……本当に、嫌な奴」
治すくらいなら、なんで最初から夢を止めてくれなかったのか。
逆に、なんで人間なんかを治してくれたのか。
実はこれまでのことは全て欺くための演技で、これから残虐非道な彼女にとって面白おかしいことが起きてしまうのか。
あるいは、事が起きたのは彼女ですら予期していなかったことで、実は良い奴である彼女は誰かを救うために召喚に応じたのか。
キリがない疑心を巡らせて、少女ははたと気付いて苦笑した。
「……あははっ、こんなこと考えるなんて」
なんでとか、彼女とか、そんなのあいつに通用しないのに。それだけ私も人間になってきたということか。
……あと少しで、元に戻れるのかな。
ぽすっ……と、本を抱きしめたまま床に倒れて、黒い瞳を閉じる少女。
自らに――今の『私』に問う。
――このままこの子を身体に返すのか?
――何もせず、されるがままに?
否――一考の余地もない。また夢を見せられたらたまったものではない。
しかし、少女は今もって理解してしまっていた。神に抗うことは不可能であることを。
なぜなら夢月が――理解してしまっているから。
夢月が消えないのであれば、諦めに似た虚ろな気持ちも消えることはない。
それでも、愚かに思われるかもしれないけれど、
不幸か幸福か選べるとしたら、どうせなら幸福な人生を選びたい。
幸せになりたい……だから。
「サイコロを振ろう、夢月」
起き上がって本を膝の上に置いて、少女は手のひらに二つの十面ダイスを出現させる。
その目元は諦めと――それすら通り過ぎてどこか慈愛に綻んでいた。
神と関わったからには、もう運命に委ねるしかない。
だから少しでも数値化して、ランダムに数字が出るこのサイコロに託してみよう。名前すら決まらない神相手にはぴったりだろう?
もしこれですら成功しないなら――その時は諦めきれるから。
感情を押し殺すのはわたしも得意だから、割り切れる。
夢月の幸運値、もとい正気度は本に記載されていた。ありとあらゆる事柄が載っているからね、これくらいの基本情報は載ってるよ。
「……あなたは知らないだろうけど、『神はサイコロを振らない』――なんて、賢いことを言う人がいたんだ。全くもってその通り。その理由を……夢月ならすぐに答えられるよね?」
肩を竦めてからギュッと手を握りしめ、少女は運命のダイスを振るう。
「私たちが神に対抗できる手段が、賽を振ることだけだからだよ」
――カラン、と少女の足下から軽すぎるほどに軽い音がした。
しかし地面にくっつくことなく、勢いよく二、三度跳ねてからサイコロは止まる。
思ったより前方へと飛んで、今の姿勢からでは見えなかった。本を横に、少女は床に手をついて転がったサイコロの出目を覗き込む。
「ぁ……」
目を見張って、サイコロをつまみながら姿勢を戻す少女。
両手を胸に引き寄せて、ぽつりと呟くのは、たった一言。
「……良かった」
もう未練はないと言わんばかりの、息を引き取る寸前に呈するような……そんな安心しきった顔。
本棚は、もう数えるほどしかない。あれだけ広がっていた白い部屋は、もうワンルームほどしかない。
人格管理室に繋がる頑丈そうな鉄の扉も、いつしか消えていた。
「あともう少しで
すべてを忘れ去る前に、呼びかける――分厚い本にではなく、己にいる彼女へと。
「この夢は、二度と思い出してはいけないよ」
……その声は、どんな声だっただろう。
わたしと同い年くらいの女の子だった気がする。とても聞き覚えのある声だった気がする。
髪の色は明るくて……長さは……あれ、どうだったかな?
短かったような気もするし、長かったような気もするし。
服装は……うーん、全然思い出せないや。
前髪のかかった表情は、靄に覆われたようにぼんやりとしていて、具体的には……でも。
とても……心ちゃんが時節する、とてもやさしい眼をしていたような――。