盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠みれい(元キルレイ)
そのお話は、一体誰から聞いたものだろう。
先生、家族、友達、絵本……しかし、思い当たる人物は見つからない。しいて挙げるとすれば、自身の身体を巡回する血であった。
わたしの血はくるくると回りながら、独りでに描き、語る。
遠い遠い昔、この星でないどこかに、どこからともなく一体の化け物が湧いてきたのだという。
その化け物は悍ましい姿をしていた。触手で覆われ、その色は不気味に輝きを放ち、街を溶かしたらしい。
その星に住む者たちは必死に抵抗した。侵略を防ぐため、愛する者のため、犠牲となった者のため――そんなありきたりな理由で、武器を手に思考を巡らした。
その世界で最も強力な爆発を起こしてみせた。
その世界で最も勇敢にして頭の切れる者が指揮を執った。
だが。
化け物は強かった。どうしようもないほどに強大だった。
その世界で最も強力な爆発を飲み込んだ。
その世界で最も勇敢にして頭の切れる者を消した。
そうこうしているうちに、いつしかその世界の大半の住人は肉塊に変わり果ててしまう。
気付いた時には、もう遅い。
もっと早くに気付けば良かったと誰もが後悔し――そして。
生き残った者は化け物を「王」と呼んで慕うのだった。
その日から化け物は、王となった。
その世界の住人は、完膚なきまでに敗北したのだ。
――わたしの血が語るお話は、はたしてバッドエンドだったのか?
わたしはそうは思わない。そのお話に救いはないけど、悲しみもない。
だってその結末は――実によくある、当たり前な史実なのだから。
どうして今、そんなことが思いつくのだろうと、夢月は思う。
……ああ、そうか。
ようやく……これでもかというほどにようやく戦いが始まろうとしてるから、思い出したのだ。
思い出させられた。誰かに。
夕方に近づくにつれ、夢月は人がいなさそうなところをてきっっっっとうに歩き続け、車の通らない峠道まで来ていた。
日はすっかり沈み、星がぽつぽつと見え始めた辺りで、ここにきて初めて夢月は四人の英雄の姿を目にする。
視界は悪く、色も暗いが、何となく直感的に察することができた。
それはニャルラトホテプと同じように、オーラとも呼べるような、雰囲気としか形容しがたい――彼らと会った者にしかわからない理解させられた感触。
あの時のような弛緩した空気は一切なかった。どこかピリピリとさえしていて凛としているけれど、わたしに対しては穏やかですらある。
最も前に出ていた金髪の女性が、声を上げた。セイバーさんだ。
「キャスターのマスターよ。貴方に危害を加えるつもりはない。だから、令呪を用いてキャスターを召喚してはくれないか? どこを探しても見つからないのだ」
その時。夢月は気付かなかったが、その後ろで控えていたライダーが残念そうに、アーチャーが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
(うぅむ……あの時余がチョキを出していたら、この中の主導者として発言できたものを……)
(フン……まぁいい。じゃんけん如きで負けたからといって何だというのだ)
だがそんな心中など知らず、小さきマスターは己の右手を見つめて、届いてるかどうかほどの声で小さく頷いた。
「……はい」
けれど、少しだけ渋る。
――彼らは輝いている。
戦わないでほしいとさえ思ったほどに、輝いている。ここに心がいなくて、本当に良かった。
彼らを止める意味はない。力がない。権利もない。絶望する必要も――ない。
だってそうだろう? これから起こるだろう出来事は、実によくある当たり前な史実なのだから。
ニャルラトホテプが負けてしまうかも、なんてことを考えていたこともあるけれど、いざ戦いが始まりそうになって理解した。理解させられた。
彼女は神っぽくないけれど、神様なのだ。誰が何と言おうとも。
だから負けない。
絶対に負けない。
……負けてくれない。
だが、約束は約束だ――。
右手を差し出し、初となる……いや一回目があったらしいが、ともかく令呪を使用する。
「ニャルラトホテプ、き――」
――て、と言おうとして、頭に激痛が走った。味わったことのある痛みだった。
ああこれは……あの時の痛みだと。銃で撃たれた時の、痛み――……冷静に、少女はそんなことを思う。
セイバーが血相を変えた様子で、慌てたように森を見ていた。きっとそこから誰かに狙撃されたのだろう。理由は……さぁ、わたしがマスターだからではないか?
「き……って……」
痛みに負けずと、振り絞るように声を上げて、ふらっと倒れかけたところを――誰かに、支えられる。
「いやー六日目にしてようやく初戦かー。ま、長期スパンであることは承知だし、これからのことを考えれば早い方かな?」
それは、すぐ頭上から聴こえてきて――よくよく聞き覚えのある声だった。軽くて、うざったらしいほどに軽い、親しみのある声――ニャルラトホテプだ。
どうやら令呪は成功したらしい。今度は瞬間移動か。どうやって出てくるのかちゃんと見ておきたかった。
「って、夢月撃たれたんだ。ふーん、慎重なマスターもいたもんだね。私としては温情のつもりだったけど……敵の言うことをまともに受け取るような奴よりかはよほどいっか」
「いや、良くないよ。痛かったよ」
「でも治ってるでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
……治ってるし、いっか。痛かったのも一瞬だ。何よりニャルラトホテプのせいじゃない。
自分の足でしっかり立ちながら、夢月はニャルラトホテプに問う。
「それで……呼び出したはいいけど、わたしどうすればいい?」
「んー、少し離れるだけじゃ、この人数と戦うともなればたぶん辺りが爆発しまくって巻き込まれるだろうね。騒音状態だろうし……というわけで、夢月はここにいたい?」
「騒音は苦手だな……」
「じゃ、帰る? たぶん襲われても死にはしないよ。君は魔術師から好かれてるだろうからね」
「……うん、そうする」
戦闘音は聴きたいは聴きたいけれど、うるさいなら話は別だ。それに……おそらく勝負の結果は見えている。そう思うと、不思議とあまり聴きたい気はしなかった。
「そう、じゃ、気を付けて帰ってね」
「うん」
……この時夢月は、己がサーヴァントに不相応にもマスターとして、せめてそれらしい気の利いた言葉をかけて見送るべきだろうと、足りない気概から捻りだし、取ってつけたような威風で口にしようとした――けれど、敗北を望むサーヴァントに相応しき言葉が思うように見つからなくて、結局、この場の雰囲気にそぐわない、凛々しさに程遠い普段のトーンでこう言うのだ。
「じゃなね」と。
別れの言葉を告げた。
そうなったら、いいなと。
「……」
するとニャルラトホテプは、何を思ったのかこちらを向いたままこんな言葉を返すのだ。
「ありがとね。私のマスターになってくれて」
……こういう死亡フラグも、きっとあっさり叩き割るんだろうな……。
なんというか、ちょっと笑ってしまって、夢月は来た道を戻った。
セイバーの視力であっても見えなくなるほどに夢月が遠のくと、ニャルラトホテプは英雄の方へとゆっくり向き直る。
しかし、その瞳の色は伺えない。
「さて、それで、戦場はここでいいのかい?」
「……いや、おそらく我々が正面から打ち合えば被害は隠しきれないものとなる。故にライダーの固有結界内で雌雄を決するつもりだ」
セイバーからの返答に、ニャルラトホテプは掴みどころのない笑みを浮かべる。
「ああ、そりゃあいいね。隠蔽工作も楽だろうし、そっちの土俵で戦える。地の利でも何でも活かせるべきものは活かすべきだ。……それにしても固有結界かー、ライダーは面白い宝具を持ってるんだね。こりゃあ他のサーヴァントの宝具も楽しみだ」
心から楽しみだと。
「けどねセイバー、雌雄を決するという表現は全く違う」
そして、心からつまらなそうに。
「この戦いで勝負はつかないつけさせるものか。三分経ったら私は問答無用でライダーの固有結界を壊させてもらうよ。意味のない戦いを長々とするつもりはない」
「――なんだと?」
「これ以上言葉なんかいらないよねぇ? 殺りゃあわかることだし、これは英雄同士の戦いではなく相いれない神と人間との対決なんだ。私が死ぬまで殺り合う終わりなき対決」
――そう、終わらない。
終わらせないよ。絶対に。
「さぁ――始めようよ、人間」
それを開始の合図と捉えたのか、砂が舞った。
壮大にして雄大。一瞬にして暗い峠道だった景色は、広大な砂の大地と化す。
吹き荒れる風を、ニャルラトホテプは瞬き一つすることなく見届けた。
前方に見えるは四人の名を馳せた英雄と、数万もの兵士。
その圧倒的な光景に、ニャルラトホテプは口の中でただ一言、口の中で転がす。
こんなものか……と。
しかし、今彼女の瞳を塗りつぶす色の意味を知らぬサーヴァントは、砂を蹴り、駆ける。
アーチャーが放った光輝く鋭い矛は、確かにキャスターの美しき眼球を撃ち抜こうとしていた――。
音が、しない。
戦いが始まったはずなのに、爆音一つしない。
「……」
魔術は隠蔽するものだと、ニャルラトホテプは言っていた。ならば、そういうことなのだろう。きっと知らない誰かが、何らかの手段を使って偽装しているのだ。
彼女が彼らを惨殺しているところを。
……。
……まぁ、負けたがっていたから、殺しはしないかもしれないけれど。
ともかく帰ろう。
心ちゃんとは電話できたし、役割も果たした。家に帰ってショゴスを握って……そういえば、夢を見たというあの日からお兄ちゃんやミゴさん、それとムーンビーストとも会話してない。会ってすらいない。あの三人は、夢のことを知っているのだろうか。
……お兄ちゃん、聖杯戦争が終わるまでにわたしのこと殺すのかな。というか、あの人は生き返ってしまうわたしのことを、どう思うのだろう。話したら後悔しそう。もっと早くにやればよかったって。同情はしないけど。むしろ自業自得だってからかいたいくらい。
ミゴさんは……あまり会いたくないな。また脳を揉まれそうだし。
ムーンビーストとなら会ってもいいけれど、別段すぐに会いたいってわけでもないしなぁ。
……。
もしも、もしもニャルラトホテプが負けたなら、あの拠点ともお別れしないといけないのだろうか。
少し名残惜しいけれど、でも、仕方ないよね。一週間だけでも拠点に住めたのが奇跡みたいなものだし。
……またあの家に戻らないといけないのかな……。
……だんだんと、考えるほどに、ニャルラトホテプに勝ってほしいのか負けてほしいのかがわからなくなる。
勝ってしまったら、どうするのだろう。セイバーさんたち、もう挑まないんじゃ……。
……。
そもそもどうして、セイバーさんたちはニャルラトホテプに挑戦しようと思えるのだろうか。
ニャルラトホテプが鬱陶しいのはわかる。けれど、だからといってこんな無謀な戦いを、どうしてやろうと思えるのだろう。
……わからない。
あの人たちのことが……いや、昔から。
みんなのことが、どうしてか、わからない……。
わかってくれるのは、わかるのは、いつも――。
「――っ!? なにっ!?」
突如として、白い煙が夢月を襲った。それが吸っていいものなのか、吸ってはならないものなのか、その判断さえもつかず狼狽える。
逃げる、べきだろうか――その程度の思考に辿り着くも、それは無駄に終わった。
死んだから、ではない。けれど、足を動かせる状態ではなかった。どこからともなく目の前に現れた人物によって、頭が疑問で覆いつくされたからだ。
それが誰かわからず、ではなく――。
なぜ自分が、彼女の正体を看破できたのかを。
わかって、しまったのかを。気付いてしまったのかを。察せられたのかを。
なぜ――なぜ――!?
――夢月は、知らない女性に抱えられていた。
見覚えのない大人。赤く長い髪に、黒い瞳。ニャルラトホテプと同じくらいの背丈の人だった。間違いなくわたしはこの人を知らないはずだ。
暴れたっていい。怖いはずなのに……。
漠然とそう直感しただけだけど、なぜそんな発想になったのか自分でも恐ろしくなったけれど。
訳が分からないまま、ぼんやりとした意識で謎の安心感に包まれながら、夢月はまどろみの中で問いかける。
「心、ちゃん……?」
すると、女の人は目を見張った。悲しそうな顔を隠しきれないでいた。
そして、硬く、硬い声で、答えてくれたのだ。
「あなたは――私を、知らない」
その様子に、わたしは眠ってしまう前に思った。
――心ちゃん、嘘吐くの下手だなぁ……って。