盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠れい(元キルレイ)
齢三の子供であるにもかかわらず、それが『夢』であることはすぐに理解できた。
その景色が虚構であることは明白だったから――いや、それ以前に。
己の瞳は、白を認識するわけがないからだ。
だから彼女は、ここが現実でないどこかであることをすぐに察した。
――ぱっちりと開かれた少女の瞳は、光を通すことができない黒い瞳。
なのに映るのは、気の遠くなるほどの白い大地と空だ。
ただの静寂がこの場所を支配していて、自分以外に色はありはしない。
少女はただ座り込むばかりで、唖然とするばかりだった。
ここが非現実な場所であることがわかったとして、ならばどうすればいいというのだろう?
目覚める方法など知らないし、歩いたとして出口が存在するのかどうか。
というより、仮にアクションを起こさなければならないとして、面倒くさい。このまま勝手に起きるまで、姿勢を楽にして待っていたい。
待つのは行動するよりも簡単だからだ。
そう思って三角座りで居続けるも、指をすっぽりと隠す丸めた手を、不安げに口元に近づけた。
本当にこのままで、起きるのだろうかと。
一体どれだけの時間、この孤独に耐えなければならないのかと。
やがて何もなかった内心に焦燥と恐れが滲み、繋いでいただけの両指を握りしめる。
ついには開けていた黒い瞳も結んで、少女が頼れる唯一の友達の顔を何度も想起させた。
心ちゃん、心ちゃん、心ちゃん……。
念じるように、自らを落ち着かせようと必死に、胸の中で優しい人の名を呟く。
あの子のことを思い出せば、どれだけ辛くても息をすることができた。
あの子との会話を思い出せば、包み込む恐怖を和らげることができた。
……だけど、そんなのは所詮、気休めにしかならなくて。
小さすぎるその身体はぷるぷると震えていて。
早く終わってほしいと、切に祈っているようだった。
嫌な人どころか、信頼できる人ごとごっそり消えてしまった空間。
生きるための頼りとしている音すらも無くなり、終わりの見えない白い地獄。
――悪夢だ。こんなの。
ついにはぎゅっと閉じた瞳の目尻に涙を溜め、それを手の甲を覆う袖で拭おうとした――その拍子に。
しばらく瞼で遮っていた少女の視界に、『ナニカ』が映った。
突如として目の前に現れた不思議な存在に、少女は瞳孔を大きくして、凝視する。
居座るようにして佇むそれは……見たことのない、モノだった。
いや、知らない。聞いたことがない。こんな音……こんな、異形。
それはどす黒くて、口にすることすら吐き気がして、とてもとても、大きくて。
この白い空間を、押し被せるほどに――塗り潰すほどに。
広がる――静寂を支配せんばかりに。
深まる――純白をかき消すように。
打ち付けられる――身体の芯まで、どくんどくんと。
「あな、たは……」
気持ち悪いはずのソレは。
見れば見るほどに魅入られて、目が離せなくなった。
吸い付かれて、引き込まれてしまって……。
――なんなんだ、これは。
「あな、たは……なに……?」
……少女はその生き物のことが、怖いはずだった。逃げたくなるはずだった。
全身が警告した。今すぐ目を覚ませって。
なのに。
少女(わたし)は。
その夥しい絶望に、手を伸ばしてしまった。
「……え?」
わたしは後悔しているのだろう。きっと、心の奥底では。
夢を見る度に、『あの時手を伸ばさなければ』と。
だけどそんな思いは、すぐにどこかに行ってしまって。
残るのは空っぽな器。何の液体も、固体も入っていない。
たぶん、空気さえも……。
だって、わたしが後悔しているのは。
あの時手を伸ばさなければ、『殺されなかった』という精神の死なのだから。
「……ぁ……ぁぁ……っ」
いつだって最初に消えるのは、右腕だ。
アレに向かって、不相応にも伸ばした腕。
肩ごと、血を一滴も出すことなく、跡形もなくいなくなった。
右腕を覆っていたクリーム色のぶかぶかな衣服と、痛みだけがここに留まる。
何が起きたのか理解できず、理解させてくれず、ただただ顔を感情で歪ませることしかできなかった。
まだ失われていない左手で右肩を抑えて、ないことがわかって、更に泣き崩れて。
次はどこを狙われるのか、命はいつ削られるのか。
心臓が潰れたみたいな感触。何も考えられないほどに、怖い。
……あの子を思い出しても、なぜか痛みは薄れなかった。
名前を呼んでも、あの子は来てくれない。
嫌な想像が止まらなくて、ただでさえ黒い景色が真っ暗になっていって。
代わりに聞こえてきたのは、一筋の『声』、だった。
『大丈夫だよ、夢月ちゃん』
どこからともなく現れた、安心できるはずの、声。
なのに少女の中は妙にざわついて、その声から、遠ざかろうとする自分がいる。
「ここ、ろ、ちゃん……?」
少女はどこかへと、か細い視線を向けた。
安心できる声に対し、どこからともなく芽生えた不信感は嘘だろうと無視した。
逆立つ体の毛を、衣服で覆い隠してなかったことにする……。
だって、彼女の言葉は正しいはずだ。
彼女への『怯え』なんて気にするな。こんなの間違いのはずだ。そのはずなんだ。
そのはずなんだと……言ってくれ。
『大丈夫だよ、夢月ちゃん……だって、アレは』
友達は呆気なく目を向ける。冒涜的なソレに。
そして真っ直ぐと――悲しげに紡いだ。
『だってアレは、神様なんだから』
諦観したように。
仕方がないことなのだと。
「――っ」
立ち止まる夢月の思考に、彼女の声が流れ込む。
『信じればいいい』
『身を委ねればいい』
『怖がらなくて、いいんだよ』……と。
……違う。違うんだ。
欲しかったのは、そんな言葉じゃないんだ……。
「――っ、――、」
優しい口調で語られて、少女は静かに涙を流した。
嗚咽もなく、ただただ、泣いた。
もやもやとした青い思いは、輪郭を忘れ、霧散する。
どこにぶつけていいのかわからず、どこに吐き出せばいいのかもわからず。
だけど、真っ白になった頭は、痛みを感じさせないでくれた。
この苦痛が露となってしまったら、あとに残るのは空っぽだけだ。
なんにもなかった。
どこにもなかった。
記憶喪失になったみたいだった。
わたしが間違っているのだと。
ただそれだけを……理解した。
「……そっ、か……」
泣きながら納得するのは、この夢の中だけだ。
「かみさまなら……しょうが、ない、よね……」
ぷつりと切れたように笑うのも夢の中だけ。沈むように俯くのも夢の中だけ。
いつからだろう……それが不自然に思うようになったのは。
小さな頃の自分を遠目に見て、夢月は思う。
なぜこんなことで感情を抱くのか。
なぜ泣きながら蹲っているのか。
「わからない」、と問いかければ、あの声は気まずそうに黙り込む。
心ちゃんがこんな風に目を逸らすのも、夢の中だけだった。
気にはなったけど、きっと個人的な事情があるのだろう。あまり関わってほしくなさそうにしているし、ならばそっとしておくのが一番だ。
なんでそんな風にするのか、全然わからないけど。
あの子供については……。
三歳の夢月は、まもなく死ぬ。
何もせずとも、何かしても、どのみち神様に殺される。
別に視界に入れても入れなくても、大して変わらない光景だった。
音もなく消滅していく子供の音を耳にする少女の表情は、とても冷淡で、無表情で。
興味なさげに、聞き届けるばかりだった。
そんな夢を、ずっと、ずっと。
ずっとずっとずっとずっと、繰り返し見ている。
なんでこんな夢を見るのかとか。
なんでアレに殺されなければならないのかとか。
……馬鹿らしい。
そんなの、『神様だから』の一言で説明がつく話なんだよ。
この夢を見ない人の方が、狂ってる。