盲目少女がニャルラトホテプを召喚したようです 作:零眠みれい(元キルレイ)
ぼんやりと、冷たい風に当たりながらの登校。 家から出る直前まで重かった足取りは、まぁまぁ軽くなっていた。
時間はいつもよりかなり早いけど、いつもと同じくらい人はチラホラ見かける程度しかいない。わたしと同じ制服の人となると、見かけない。
メガネをかけてはいるものの、暗くて危ないから一人の時は人混みを避けるようにしているのだ。
今日こんなに早いのは、それに加えて家に居たくないからだけど。
……数分歩いているけど、楽しくなるような想像がはかどらない。良い材料が多いはずが、それらは浮かばずについさっきの言い争いのことや、過去の似たようなトラウマばっか出てきて…特に突き刺さったあのセリフが反芻して、もやもやしたのが取れない。
お姉ちゃんへの復讐じみたのとか、わたしが誰からどう思われてるとか、こんなの考えたくないのに…。
「夢月ちゃーん!」
「!」
明るい声がした方を振り向くと、小走りしてこちらにやってくるわたしの友達、佐藤心がいた。
三歳の頃から仲良しで、学校では一番喋っていて、一番助けてもらってる。頭がすごく良い。
心ちゃんが隣に来てから、再び歩き出す。
「心ちゃん、おはよう」
「おはよう。最近だんだん寒くなってきたね。私も手袋付けてきたよ」
「そうなんだ…」
言い争いのことがあったからか、わたしは不安定になっていた。
働くはずの脳が鈍くなってる。何を言えばいいのかわからなくなってる。たった一つの返事でこれでいいのかひやひやしてる。
朝からこんな憂鬱になる話をされるのは迷惑だと思うけど……相談したい…。
「その、あのね…」
「ん? どうしたの?」
「……聞いてほしいことがあるの――」
わたしはたどたどしくも、家での出来事を説明した。
順序が逆になったり、言ったり言われた内容が曖昧になっていたりしたけれど、心ちゃんは説明不足になってるところを質問してくれたり、相槌を打ってくれたりで、最後まで親身になって聞いてくれた。
下駄箱で上履きに履き替えて無人の教室に入り、ランドセルをひとまず机の上に降ろして、わたしは自分の、心ちゃんは横の凛ちゃんの椅子に座り、五分が経過したところで――。
「――それでわたし、たくさん迷惑かけてるなって…」
「私は夢月ちゃんにそう思わせた夢月ちゃんのお姉さんが一番迷惑だよ」
どんよりした流れをせき止めるように、心ちゃんはバッサリと言った。声の強さには怒りを感じる。
「で、でも、わたしが学校で迷惑かけてるのは…合ってる…」
「たまにだけだし、あれぐらいならかけるうちに入らないよ。ちょっとのことでそんな一々気にしない。夢月ちゃんは人にいじわるしないで、なるべく迷惑かけないようにしてる」
「でも……目が不自由で助けてもらってばかり…」
「そこもお姉さん酷いなーって思ってたんだけど、病気にかかってる人が助けてもらうのは普通なんじゃないの? お母さんとお父さんに教わらなかったとしても、先生が言ってたよ。病気が治せそうにないから、夢月ちゃんは目が見えないのを利用して、好きになれるように頑張ったから嫌いにならないだけで、不便なのは変わらないじゃん。メガネをかけたら見えるようにはなるけど、そのせいでいじめられたり、体育を休んだり、そもそも見えてるっていっても少しなんだよね。もしもっと病気が悪くなったら、メガネは使えなくなる。他にも嫌な思いしてるのに…お姉さんの態度は酷いよ」
「……」
あんなに悩んでいたことを、心ちゃんは当たり前のように根拠を並べてあっさりと否定した。
ムカつかない反論。
ムカつかない言い返せなさ。
きっとそれは、わたしの気持ちを決めつけじゃなくて、理解しようとしてくれて、理解してくれたから。
わたしは確認するように、こんなことを訊いた。
「……心ちゃんに、迷惑かけすぎてない?」
心ちゃんには返しきれないほどに助けてもらってる。こういう時に話を聞いてくれて、勉強や宿題だけでなく、色々なことを教えてもらったりしてる。学校では話し相手になってくれて、いじめられた時も庇ってくれた。
こんなにも恩があるのに、わたしが心ちゃんを助けることはできてない。
何も、できてない。
しかし、心ちゃんは穏やかに笑って真っ直ぐに答えてくれた。
「この程度、かけていいよ。やりたくてやってるんだから」
「…ありがとう…。すごく…ありがとう」
心ちゃんはすごい。
頭良くて、優しくて、こういうことを純粋に言えて。
わたしは尊敬して、再認識した。
詰め切れない感謝を述べて、締めくくりに心ちゃんに訊いた。
「今回のこと、どうすればよかったかな?」
「そうだね…私なら、無茶しないでお姉さんがいなくなるのを待ったかな。学校に来るのは諦めて」
「先生の説教も?」
「その方が多分、ダメージ少ないよ」
どっちの傷が深そうか、考えて――。
「……わかった。次からそうする」
言って、わたしは時計を見た。
宿題の回収まで、あと三十分。
ぎりぎり……いや、平日二日分と休日分だから…終わるかな…。まぁやるしかないんだけど。
そんなわたしの考えを見抜いて、
「軽めだったし、一つは四時間目に回収するから、終わらせられると思うよ」
「ほんと!?」
「うん、範囲教えるね」
心ちゃんが連絡帳を取りに行ってる間、わたしは手袋を外してランドセルから筆箱とノート等を引っ張り待機していた。
そして、心ちゃんが連絡帳を片手にわたしに近づいてから、目を丸くした驚いた表情で。
「……あれ? 夢月ちゃん、右手…」
「?」
右手? 寝てる時に怪我でもしたのかな……え? なにこれ。
よく見ると、右手の甲には紋章のようなものがあった。
「なんだろう…わたし知らない」
「そうなの? マジックペン…じゃなさそうだし、シール…でもないよね」
覗き込んで分析している心ちゃん。
わたしはこの紋章が何なのか知らないけど、目星は付いていた。
……ニャルラトホテプの悪戯なんだろうな…。かっこいいけど…クラスメイトや先生に見られたら何を言われるか…。
心ちゃんが見当がつかないなら、魔法かなんかで描いたのだろう。消すのはできないだろうし、宿題やんないと…
「とりあえずこれは後回しにして、宿題の範囲教えて。この四日間で話したいことたくさんあるんだ、歴史の王様の話もあるよ」
歴史の王様という単語に明らかに反応して、
「聞かせて! 聞きたい! こんなのとっとと終わらせよう」
そうして、宿題に取り掛かってから十五分経つと、徐々に数人入ってきた。
右手について誰にも触れられなかったのは、心ちゃんが右側の方に立っていたからだろう。集中してできるようにという配慮かもしれない。
宿題終了が目前まできて、横の席の遠坂凛――凛ちゃんが来た。
「おはよ、心、夢月」
「おはよう、凛ちゃん」
「あ、おはよう」
心ちゃんに続けて、凛ちゃんの方を向いて挨拶する。
凛ちゃんも成績優秀で、弱い者いじめを嫌い、クラスの中では人気者。あの人気っぷりには、初めて見た時ほんのり嫉妬してしまった。今では努力してそうなっているのだと分かって、席が隣ということもあって時々話してる。
そういえば聖杯戦争に凛ちゃんの家族からも誰か参加してるんだっけ。そういう話題は触れない方がいいか、敵だし。
凛ちゃんは左の机で朝の準備を始めてるから、宿題に戻ろうかなー、と思ったが――
「――ぇ? あんた、それ……」
凛ちゃんの様子が急に晴れから台風に変わったみたいな、それほどに青ざめた顔になった。明白にわたしの右手を凝視している。
「り、凛ちゃん…? ……っ!!」
右手の甲を覆い隠すように掴みかかり、微かに震えた声を出す。
「……ゆ、づき、怪我…してるじゃない。包帯巻きにいきましょう」
「い、いや、怪我はしてな――凛ちゃん!?」
そして有無を言わせないオーラで、強引にわたしを連れて教室から飛び出す。
保健室まで早歩きしている最中、話しかけようとしても、凛ちゃんの圧を感じる真剣な目つきには何も言えなかった。
驚いたの一言では足りず、恐れるようにして、絶望して、ぐちゃぐちゃに混乱しているような。それでも強い意志で踏みとどまっているような、そんな目つきには。
鍵は開いていたが、保健の先生は居なかった。奥へ移動させられ、凛ちゃんは先生に無断でわたしの右手の平から甲に包帯を使っている。
しばらくされるがままに紋章が見えないほど丁寧に巻かれ、重苦しい沈黙であったが、凛ちゃんが破いた。
「…………夢月、聖杯戦争にマスターとして参加してるの?」
俯いていて、表情は見えないけれど、その沈み切った声で、予想できる。
「う、うん」
「聖杯戦争はどんなものなのか、理解してる?」
「して…るよ。殺し合い、だよね」
「……参加してる動機は?」
「巻き添え…というか」
「なら…!」
希望があると言わんばかりに、立つ勢いで顔を上げた。
「なら、辞退しましょう。サーヴァントを令呪で自害させて、教会に保護してもらうの。そうすれば夢月は安全「それはできないよ」――! けど――」
「だって、ニャルラトホテプを殺したくない」
低めなトーンで口にしたわたしの想いが伝わったのか、凛ちゃんはそれ以上の辞退しようという提案を飲み込んで、
「……お父様も参加してるの。綺礼と協力して。夢月もお父様の味方について…私からも話してみるから、そうすれば完全に…とはいかないかもしれないけど、安全のはずよ」
「それも、ニャルラトホテプが反対するからできないかな。戦いたがってるから」
いつも通りの軽いトーンに戻ってそう返した。すると凛ちゃんは甲高い声を上げる。
「そんなの令呪で従わらせればいいじゃない!」
……分からない。
ここまで感情的になるなんて、凛ちゃんは何をそんなに焦ってるんだろう。
わたしを危ない目に遭わせたくないとか、死なせたくないとか思っているだろうか、凛ちゃんは他人想いだから。でも――
「無理やりはよくないよ」
「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ! だって……」
迷いに迷って、歯切れ悪く言葉を紡ぐ。
「殺される、かもしれないのよ…?」
――でも、わたしが死ぬってそんなに危惧するようなことかな?
「そうだね。仕方ないよ、わたし弱いもん」
「しかた、ないって……死んじゃうのよ! 分かってるの!?」
「分かってるよ」
理由がお兄ちゃんの殺人現場を聴いてきたからとか、口が裂けても言えない。
「じゃあ怖いとか……死にたくないとか、思わないの?」
「怖いし死にたくもないけど、人間って結構あっさり死んじゃうからね、どうしようもないよ。それにね、ニャルラトホテプが守ってくれるから大丈夫だよ」
「学校を行くのを止めず、令呪を隠させないサーヴァントなんて信頼できないわ。こんなの…夢月を狙ってくれって言ってるようなものじゃない…」
あぁー…恐らく違う、よね?
ニャルラトホテプ守ってくれる宣言してたから、自信がある……と思いたいけど、案外敵を誘いたいがための囮にしたかったのかも。これは庇えないなぁ。
凛ちゃんはわたしの無言でサーヴァントを信頼できないと確信したのか、訴えかける。
「ねぇお願い、お父様に味方するか、辞退して…。殺されてほしくないし、殺してほしくないの」
「……」
……わたしは知ってる。凛ちゃんはお父さんのことが大好き。どれくらい好きなのか、わたしには想像できないけど、死んだら受け入れられないだろうぐらいは察せる。
それにも関わらず、わたしを切り捨てようとしなかった。本当にわたしの身を案じて取り乱している。
けれどわたしも、ニャルラトホテプを殺したり洗脳したくないという選択肢は譲れない。わたしの命より断然大切なものになってるから。
提案を蹴って凛ちゃんの気持ちを踏みにじり、自分の命を危険にさらすのと、わたしの命より大切なものを比べたら――後者を取る。
とても気が引けた。だからわたしはこう返した。
「ごめんね」
それから、宿題のことを口実に、逃げるように保健室を出た。