[11]
頭上で稲妻が走った。
マリアは空を見上げる。雨を顔で受け止めた。それから数分で雨は弱まり、今度は小ぬか雨になる。マリアは前進したかった。時間が虚しく過ぎていくにつれて、不満が怒りに変わっていくのを感じた。今は自分の戦車―T34/85の車長ハッチに身を乗り出し、ひたすら1両前の戦車の尾灯に眼をこらしていた。
隊長はマリアが所属する第3大隊の全車両に待機命令を出していた。いまプラウダは戦車道全国高校生大会のまっただ中にいる。相手は黒森峰。今もマリアの脳裏に浮かんでいるのは昨年、自分のT34を屑鉄に変えた《ティーガー》。重要な局面を迎えているにも関わらず、自分の大隊を遊軍にしておく隊長の気が知れなかった。
今夜はひどく寒い。マリアは身震いした。こんな日はあまり身体を動かさない方が良い。誰かがマリアの戦車のエンジン部分に乗り出して脚を滑らせた。戦車帽を被って物思いにふけっていたマリアは物音に不意を衝かれて眼を向けた。人影はサーシャだった。
「命令は?」マリアがサーシャに尋ねた。
サーシャは首を横に振った。
「じきに来るわ。まちがいない」
この時、マリアとサーシャは第3大隊の小隊長になっていた。
「サーシャが小隊長になったわけも、実に面白い」《同志》が言った。
プラウダ高校は青森県にある。広大な陸奥湾に艦首方向が巨大なスロープ状になっている巨大な学園艦が浮かんでいる。大会の数日前、マリアとサーシャが戦車隊長に会いに執務室に行った。執務室は荘重な調度品に囲まれ、赤い絨毯が敷かれている。ステレオからクラシックが流れている。普段はチャイコフスキーかショスタコーヴィチだが、今流れているのはプロコフィエフが作曲したカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」の第4曲「立てロシアの民よ」だった。マリアが以前にリクエストした曲だった。
執務室では、隊長と副隊長がチェスをしている最中だった。マリアは盤面を覗き込む。ゲームは中盤。隊長の方が優勢だった。相手に押され気味の副隊長が一手を差す度に、マリアは低い声で呟いた。
「うげ」「それはないわ」「はぁ」「ダメダメ」
副隊長は声を荒げた。
「ちょっとぉ、邪魔しないでくれる?イライラする」
「イライラするのは、コッチよ」マリアは言った。「そんな手で勝つ気あんの?」
「うっさいわねえ」
「まあまあ、2人とも」
隊長はマリアに顔を向ける。
「チェスの心得が?」
マリアはうなづいた。
「少なくとも副隊長よりはね」
「それなら、ひとつ勝負してみようじゃないかと隊長が提案した」《同志》が言った。「大会が始まる前に第3大隊で小隊長が1人足りないという話が出てたから、隊長が勝ったらサーシャ、マリアが勝ったら他のメンバーが小隊長になるという条件で三番勝負をしたわけだ」
「サーシャが小隊長?なら、マリアの戦車は誰が操縦したんですか?」私は言った。
「これがまたすごいじゃじゃ馬でね。T34で曲芸をしてみせたのさ」
ある日、マリアは練習場で小隊の全員が集まって何か見ていることに気づいた。人垣の背後からマリアも見学する。練習場から黒く舞い上がる埃が渦を巻き、深い壕の中で戦車―T34/76がエンジンを轟かせて、まるで悍馬のように動き回っていた。その場で踊り、スピンし、ギャロップまでする。マリアは傍にいたサーシャに大声で尋ねる。
「アナタも、あそこまで運転できる?」
サーシャは苦笑を浮かべながら首を横に振る。
不意にゴーグルを付けた操縦手がハッチから顔を出して観客に拳を振った。皆が歓声を上げて応える。操縦手はハッチに身体を引っ込め、エンジンをふかして戦車を塹壕から動かす。最後に戦車を小回りさせ、埃のカーテンを舞い上げた。エンジンが切られた後、操縦手が前面装甲板によじ登って地面に滑り降りた。戦車帽とゴーグルを取り、髪に手を走らせてから観客に向かってお辞儀をする。マリアの胸中で次の操縦手が決まった。
「操縦手はラウラといった」《同志》は言った。「実家が農家でトラクターを運転してたというぐらいだから、操縦の腕前もうなづけるというわけだ。話が脇道にそれたな。大会に戻そう」