1945年に滅びる日本を救って欲しいであります(未来知識チート)   作:火焔+

12 / 83
12.1835年 北海道開拓

 

今回は「北海道の開拓」であります。

 

★北海道の開拓(0か月)

★兌換紙幣(金本位制)の研究(0か月)

●開国準備(0か月)

○富岡製糸場建設(0か月)

○蒸気機械の研究(0か月)

○予防接種や衛生概念の普及(0か月)

・大政奉還による立憲制近代国家形成の”準備”(5か月)

・国立大学設立(5か月)

・防諜・諜報機関設立(5か月)

・労働法と最低賃金の制定(10か月)

・琉球統一(10か月)

・ビタミンの発見「2枠」(2年)

 

・研究:工学+2「4枠」(3か月)

・研究:政経+2「4枠」(3か月)

・研究:生物「2枠」(3か月)

 

――――――――――――――――

 

【江戸城】

 

 水野忠邦は富岡の紡績工場建造の主命のほか、北海道開拓も音頭を取る様に徳川家斉から命ぜられていた。

 幕府の威信をかけた2つの大仕事、忠邦ならばやりきるはずだと家斉も側用人(そばようにん)(将軍の側近)も期待していた。

 

 そして結果から言うと大成功を収めていた。

 

 忠邦の取った政策は、湾岸という湾岸を押さえて内外共に北海道を日本領と示すものだった。

 内陸部はアイヌ民族、そしてヒグマの脅威に有効打が存在しないという打算的な考えもあった。

 それ故、無茶をして開拓民の応募者が減少することを危惧してのことだった。

 

「打開策が無いなら後回しにしちゃえばいい。

 今の日本なら何れ打開策を見つける事が出来る。」

 

 その妥協で済んでしまうほどに北海道は広大なのだ。

 沿岸部を開拓するだけで相当量の食糧(農作物、海産物)を生産できるのだ。

 

 

 

――――――――――――――――

 

 事の始まり――――

 幕府は大々的に北海道開拓民を募集した。

 まずは、北海道入植者に一定額の補助金を出すことにした。

 そして北海道に開拓村を築き、定住したものには向こう10年間、村を維持できるだけの報奨金を与えた。

 

 これに飛びついたのは、自分の家の農家を継げない次男坊、三男坊。

 それと、工房を継げない弟子たちだった。

 

 中には村で希望者を募って、村人で徒党を組んで入植しに行く者もいた。

 知らない人々で入植するより、見知った顔の方が治安も悪くなり辛いからだ。

 彼らは予想通り、短時間で定住に成功して報奨金を貰う事になる。

 これを知った忠邦は、素晴らしいアイデアとして追加で10年分の報奨金を与え、さらに大々的に宣伝した。

 これにより更に入植者が殺到する事となる。

 

 この様にして(基本的に金に釣られて)、北海道の入植および、開拓は驚異的なスピードで進められた。

 特に、小樽、石狩、留萌、稚内、紋別、網走、根室、釧路、十勝、苫小牧、室蘭、函館は良港になる素質があり、他の開拓村より大きく育っていった。

 

 忠邦が前述の方針を決めるにあたって3つの後押しする要素が存在した。

 

 

 1つ目は、毛織物の防寒具が史実より多くあった事。

 オランダから輸入したイギリス製の毛織物とロシアから輸入していた毛皮を防寒具に仕立てたのだ。

 そして、先に入植した入植者たちが羊を広大な草原に放牧した結果、羊毛が多く収穫できたのだ。

 特にロシアの毛皮が大いに役立った。

 島津が先走った結果だが、日本にとって有益になったようだ。

 その結果、凍死する入植者が減少したのだ。

 

 

 2つ目は、クリッパー船だった。

 正確にはクリッパー船の高速輸送能力だった。

 忠邦が沿岸部の入植にこだわったのは、水運の優秀さに目を付けたからだ。

 江戸に集まる物資をクリッパー船に載せて北海道を一周する。

 そこで物資を売買して需要を満たしていた。

 一説によれば、一般的な寒村より北海道開拓村の方が物資は豊富だったくらいだ。

 驚異的な水運により、開拓村とは思えない物資を入手する事が出来たのだ。

 

 

 3つ目は、兌換紙幣の実用実験が功を奏したことだ。

 開拓村の報奨を減税ではなく、報奨金にしたのはこのためだ。

 減税では経済は回らないのだ。

 

 兌換紙幣は基本的に江戸から派遣される幕府の商船で使われている。

 幕府が発行したのだから絶対に使えるのだ。

 しかも、機微に聡い商人たちはそれぞれ北海道で商売を始める。

 

 

――――――――――――――――

 

 未来の天下の三菱財閥を擁する、岩崎弥太郎の父親である岩崎弥次郎も商人たちのように土佐の村々を駆け回り入植者を募った。

 そして、私財を投げ打って購入した「やる夫式あいのこ船」を用いて入植後の物資の面倒を見たのだ。

 これが土佐人の心を掴み、岩崎の入植事業は軌道に乗り、後に三菱財閥の基盤を作っていくことになる。

 弥次郎が事業を起こしたのは1835年、長男弥太郎が生まれた年だった。

 裕福ではなかった家であるため、産まれた我が子を「職業訓練所」に通わせてやれる様なんとかして、財を成したかったのだと言われている。

 

 この様に、兌換紙幣は機微に聡い者達の間に流通する。

 しかも従来の貨幣では、その複雑さから納税の時、商品作物を金に換えて納税する場合、両替が発生して手数料分損していた。

 だが、兌換紙幣の「円」とその補助貨幣の「銭」「厘」は幕府公認の両替所ならば、手数料が掛からないという便利なものであったため、できるだけ税を払いたくない庶民にも歓迎された。

 

 このとき「円」「銭」「厘」は十進数で作られた。

 そのため、四進数の「両」「分」「朱」よりも受け入れやすかったのも一因だろう。

 

 貨幣単位の統一というのもよかった。

 何せ金貨と銀貨で単位が異なるのだ。

 今までは金貨と銀貨は実質、別々に相場が存在して両替は機を見なくてはならなかったのだ。

 

 高くなった幕府の権威にモノを言わせて「円」「銭」「厘」は金貨、銀貨の両替が一定額と決まっていた。

 (幕府の公式両替商だから当たり前ではあるが……)

 つまり「円、銭、厘」⇔「金、銀」の相場は固定であるが、金⇔銀は変動するという事態になった。

 既に金銀が貨幣ではなく相場変動のある高級資産とみなされ始めた。

 これは、「金本位制度」が始まる前に「管理通貨制度」の足音が近づいてきたということでもあった。

 

 こうして、両替商を通じて旧貨幣を回収し、兌換紙幣および補助貨幣が浸透していく事になる。

 

 これ程に「兌換紙幣」が力を持ったのは他にも理由がある。

 「兌換紙幣」の「一円札」は幕府公認ではなく、日本公認=天皇家公認というのが影響力の高さの理由だった。

 

 つまり、江戸幕府が倒れようとも日本が存続する限り「一円札」は効果を継続するのだ。

 これは忠邦達幕府が公家達朝廷に対して根回しに尽力を尽くした結果の賜物だった。

 

 

――――――――――――――――

 

 これらの3つの要素が、北海道開拓を劇的に後押しした。

 そして1835年、徳川幕府の宣言により北海道は正式に日本の一部となった。

 (実効支配は沿岸部だけだが)

 

 

――――――――――――――――

 

 この年、北海道が正式に編入されましたな。

 北海道では、金・銀・銅のすべてが産出されますが、何よりも石炭の産出が多いでありますな。

 油田、ガス田もそこそこあるようですが、世界に比べれば……お察しですな。

 なによりも、広大な平野による農作物(商品作物含む)、海産物、そして鉱山が重要でありますな。

 内陸部の開拓は始まったばかりですが、技術の進歩と共に自動的に発展していくことになるであります。

 

 ただし、むやみに内陸部に入植するとヒグマの餌食になるであります。

 忠邦殿の仰るとおり、時期尚早でありますな。

 北海道の「三県一局時代」を開拓の一区切りとするならば、1869~1882年までかかっているであります。

 初期レベルの開拓だとしても、34年以上の時代先行でありますな。

 

 

 ちなみに、幕府が開国の用意があるという話が「親藩・譜代大名」の重職に伝えられました。

 あくまで準備なので、効果としてはこの程度ですな。

 

 北海道開拓による閃き増加はないであります。

 現在のところ、出費のほうが多いでありますからな。

 

 これによる閃きボーナス効果は以下の通りであります

 ・コークスの実用化に掛かる時間が半分になる

 ・高炉の開発に掛かる時間が半分になる

 ・金本位制度に掛かる時間が半分になる

 ・1837年以降、樺太・千島列島の入植に掛かる時間が半分になる

 ・1837年以降、新貨条例に掛かる時間が半分になる(貨幣を円、銭、厘に統一)

 ・1840年以降、日本銀行の設立、および管理通貨制度の制定に掛かる時間が半分になる

 ・北海道の産業振興が可能になる

 ・北海道の内陸部入植が可能になる

 ・開国が可能になる

 

 

――――――――――――――――

 

【日本の技術レベル】

|科学:01(基本的な理学全般)

|工学:03(モノづくり全般)

|材料:01(素材やエネルギー全般)

|生物:02(農業・畜産・医学・薬学など)

|電磁:00(電気製品・発電・コンピュータなど)

|環境:00(地学・建築・土木・自然保護など)

|流通:01(物流や兵站など)

|政経:05(政治経済や社会問題の解決能力全般)

|文化:01(外交・異文化交流・芸術・娯楽など)

|軍事:00(兵器開発・戦術・軍制など)

 

※00を史実相当、30(Max)を2020年相当とします

 

――――――――――――――――

 

【年表】

・1830年

 救荒作物推奨令が公布される

 

・1832年

 共通規格化令が公布される

 職業訓練学校が開校する

 

・1833年

 幕府公認の銀行(後の日本銀行)が設立される

 株式会社の設立を幕府が許可する

 日本初の和製クリッパー船が航海する

 水稲農林一号が開発されて全国で栽培が開始される

 

・1834年

 様々な農機具、農技法が編み出されて全国に広がる

 特許法が制定される

 

・1835年

 日本初の軽工業工場「富岡紡績工場」が稼動開始する

 日本において公衆衛生の概念が確立される

 北海道の開拓が一段落着く

 兌換紙幣の実用実験が始まる

 

 

 現代から見た考察

 この頃の北海道開拓は、今後の日本に大きく影響を与えた。

 商品作物の甜菜大根、菜種、亜麻は近代化する日本の需要を満たし、

 じゃがいも、小豆、小麦、大麦、燕麦、ライ麦などの穀物は貧困国に輸出する程の生産量となっていた。

 牧畜も羊から始まり、牛、豚、鶏など広い牧草地に様々な家畜が育成されている。

 この頃から羊肉、牛肉、牛乳が日本で食され始めたのも、十分な家畜が育成されていたためであろうと推測される。

 このとき、北海道で羊が多く育成されたため、ジンギスカンという北海道名物が生まれたのだとされている。

 

 また、兌換紙幣の実用実験は北海道を中心に広まり成功を収めている。

 このときの成功が、将来の管理通貨制度を推し進める要因となったのは間違いないだろう。

 

 

――――――――――――――――

 

さて、次回予告ではありますが次回は「大政奉還準備」「国立大学設立」「諜報機関設立」であります。

 

●大政奉還による立憲制近代国家形成の”準備”(5か月)

●国立大学設立(5か月)

●防諜・諜報機関設立(5か月)

・労働法と最低賃金の制定(10か月)

・琉球統一(10か月)

・ビタミンの発見「2枠」(2年)

+コークスの実用化(6か月)

+高炉の実用化(6か月)

+ベッセマー転炉の発明(1年)

+陶器、漆器などの貿易用商品の開発および振興(1年)

+藍、茜、紅花、綿、麻、桑、養蚕などの商品作物の開発および振興(1年)

+パーカッションロック式ライフル(1年)

 

・研究:工学+2「4枠」(3か月)

・研究:政経+2「4枠」(3か月)

・研究:生物「2枠」(3か月)

・研究:材料+2「4枠」(1年)

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。