※作者の世界線では、すでにフッド様が実装されております。あらかじめご了承ください。
バレンタインデーにチョコレートを手作りする、という文化を知ったのは、私――ウォースパイトが、日本の艦隊へ出向していた時だった。
――「市販の板チョコを湯煎して、型に入れたり、少しトッピングを追加したり、クランチにしたりするんです。そんなに難しくないですよ?」
お湯を張ったボウルに、刻んだ板チョコの入ったボウルを浮かべて、ヘラで丁寧にかき混ぜる秘書艦は、そう言って日本のバレンタイン事情を説明してくれた。彼女は、同じ艦隊の仲間たちと司令官に、チョコレートを配るのだとも言っていた。
バレンタインデーに、大切な人へチョコレートを送る文化は、イギリスにもある。それでも、わざわざ市販のチョコレートに手を加える人は、そう多くないと思う。少なくとも、私は見聞きしたことがなかった。
市販のチョコも綺麗で美味しくていいですよね、と笑いながら、彼女は砕いたナッツを溶かしたチョコレートへ投入していた。それでも、自分で手間暇をかけて作りたいのだと、彼女は語った。
――「自分の作ったもので、自分の大好きな人が喜んでくれるなら、それが一番嬉しいじゃないですか」
やや照れた様子で笑う彼女の気持ちは、私にも思い当たる節があった。
あれから一年。私は今年のバレンタインデーを、祖国で迎えようとしている。
◇
「これで……いいのかしら」
アフタヌーンティーに向けてお菓子を準備する傍ら、昨日の内に冷蔵庫へ仕舞っておいたものを、私は取り出した。
本国艦隊旗艦と、その副官や侍従隊だけが使うことを許されたサロン。その一角にあるシンクは、ほとんど私だけのものと言ってよかった。普段、ここを使う艦娘はいない。食事もお茶も、大抵は食堂で済んでしまうからだ。定期的にここを使うのは、週末のお茶の準備をする、私くらいだった。
しかし、そんな私も、今回は珍しく、二日続けてシンクを使っていた。その理由というのが、たった今手に取った物にある。
深い焦げ茶色をしたものは、チョコレート。ナッツやクランベリーを混ぜて、一口大の球形にしたそれは、昨日の内に作って冷蔵庫に入れていたものだった。
日本では一般的だという、バレンタインデー用の、手作りチョコレート。出向先の秘書艦が教えてくれた作り方のメモを頼りに、初めて作った物だった。
納得できるだけの出来には、なったと思う。あの時の秘書艦も、きっと拍手とともに褒めてくれる出来だ。それでも――
「……やっぱり、売っている物の方が、おいしいかしら」
試食用の一個を摘まんでも、そんな不安しか浮かばない。
果たしてこれを、彼女に差し上げてもいいものだろうか。このチョコレートを、彼女の口に入れていいものだろうか。そんなことばかり、頭の中をぐるぐると回っている。
焼きあがったばかりのスコーンの上に、思わず溜め息が漏れた。
一先ず、教えてもらった通りにチョコレートを包装して、メッセージカードとセットにしておく。もうすぐ午後三時だ。一週間の執務を終えて、彼女がテラスにやって来る。これから過ごす一時の幸福と、手にしたチョコレートの不安。二つがない交ぜになったまま、私はサロンを後にした。
午後三時。昼下がりのテラスで、紅茶の用意をして人を待つのが、週末の習慣だった。日和に合わせて茶葉を替え、お菓子を替え、ティーセットを替える。今日はどんなものを出そう、と考えるのが、楽しくって仕方がない。
時間を見計らって、ポットにお湯を注ぐ頃、待ち人は現れる。
「お待たせ、ウォースパイト」
冬の庭園に、花一輪。テラスへ繋がるガラス戸から、彼女が現れた。
透き通る黄金色をした、錦糸のような長髪。長い睫毛を揃えたはっきりとした目元を、しかし穏やかに細める。彼方を見通す双眸は高貴なる紫を帯び、見る者全てを魅了した。整った目鼻立ち、抜群のプロポーション、気品溢れる所作と言動。イギリス本国艦隊が「
ゆったりとしたドレスの裾を綺麗に折り、用意したテラスのテーブルへ、彼女が腰を降ろす。チラリと窺うと、彼女はうっすら微笑んでウィンクを寄越した。
「いい香りだわ」
カップへ注ぎ入れた紅茶に、彼女はそう感想を述べた。その言葉に、私はほっと胸を撫で下ろす。執務で疲れたであろう彼女には、いつだって一番の紅茶を出したい。
二人分の紅茶を注ぎ入れ、私も席に着く。今日一日、やるべきことを終えての、一息のお茶の時間。毎日繰り返されるこの時間が、掛け替えのなく、大切なものだ。
「お菓子はスコーンにしてみました」
「まあ、本当?丁度、スコーンが食べたかった気分なの」
ウォースパイトは私の心が読めるのね、と悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女に、頬の熱を感じた。朝、執務前に頬へキスをする日は、彼女がスコーンを欲している日だと、私は憶えている。
それを知っていて、こんなことを言うのだから。彼女は本当に、意地が悪い。
お皿へ取ったスコーンに、彼女がゆっくりとフォークを入れる。サクリ。私が焼いたスコーンは、いい音を響かせてフォークを受け入れる。一口サイズになったところを器用に口へ運び、彼女は満足そうに笑った。潤んだ唇から、小さな欠片一つ零さない、見事な所作だった。
「今日もとても良い出来ね」
「フッド様のご教授あってのことです」
私に美味しいスコーンの作り方を教えてくれたのは、彼女だった。
「まあ、ご謙遜。これは貴女のスコーンよ、ウォースパイト。貴女だけの味だもの。もう私では敵わないわ」
そう言って、彼女はもう一口、スコーンを口にした。
彼女にそこまで言われては、返す言葉はなかった。二口目も美味しそうに味わう彼女に、自然と頬が緩む。
彼女が嬉しそうにしているのが、私にとっては何よりの褒賞だ。
気の早いイギリスの太陽は、午後五時には夜の訪れを告げてしまう。彼女と話していれば、時間なんてあっという間で、気づけば日が傾いていた。陽の光に輝いていた庭園が、今は斜めに差す茜で染まっている。
「そろそろ、お開きにしましょうか」
寂しそうに眦を下げて、彼女がお茶会の終わりを告げた。その言葉は、いつも彼女のものだった。名残惜しさが勝って、私は頷くことしかできない。週末の夕食を、軍の高官や王族、議員と過ごすことが多い彼女とは、翌日の朝まで会うことはない。今日も彼女は、王族主催の晩餐会へ招かれていた。
……けれど。今日の私は、ここで、終わりにする訳にはいかなかった。
「フッド様」
慣れた手つきでティーセットを片付けようとする彼女の袖を、遠慮がちに掴む。顔を上げた彼女が、その美しい瞳で私を見ているのがわかった。
……どうした、ことだろう。それ以上の言葉が、出てこない。勇気を出して呼び止めて、けれどその先に紡ぐべき言葉が、浮かばない。空っぽな頭の中に、高鳴る心臓の音だけがこだましていた。
どうしてこんなに緊張しているのだろう。後ろ手にしたチョコレートを、メッセージと共に渡すだけなのに。プレゼントを渡したことも、一度や二度ではない。だというのに、どうして……。
視線を伏せたままの私を、彼女は何も言うことなく、見つめていた。私の言葉を待っていた。
いけない。このままでは、だめだ。この後も用件のある彼女を、困らせたくはない。後ろ手にしたチョコレートの感触を確かめて、私はようやく視線を上げる。透き通る紫紺の瞳に、私の姿が映っていた。
「バレンタインデーの、チョコレートです」
包装したチョコレートを差し出す。ぱちくりと瞬きした彼女は、私の顔とチョコレートを交互に見て、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。……貰えないかと、思ったわ」
そう言って、彼女はほっとしたように息を吐く。私が初めて見る、彼女の表情だった。どんな困難な戦場でも、決して不安の色など見せなかった彼女が、私からのチョコレートに安堵している。胸の奥で、一際大きな鼓動がした。
「このチョコレート、もしかして、ウォースパイトの手作りなの?」
「ええ、そうです。日本では、手作りのチョコレートを渡すのだと、聞きました」
「そうだったの。――ありがとう。とてもとても大切に、いただくわ」
たった三粒のチョコレートを、それは大事そうに胸へ当てる彼女。あたかも赤子を抱くようにチョコレートを包む彼女が、再びその瞳を私の方へと向けた。とても良い悪戯を思いついた、と言わんばかりに目を細めて、彼女が微笑んでいる。
「ねえ、ウォースパイト?これは友チョコかしら?それとも……本命、かしら?」
……そんな、わかりきったことを、訊くのだから。やっぱり彼女は、意地が悪い。
「……もちろん、本命です」
私の返答に満足したのか、彼女は一層笑みを深めた。蠱惑的な表情を浮かべる彼女は、そのまま一歩、私への距離を詰める。極々自然な所作で、彼女は私の額に口づけた。
その晩、私の部屋に、小さな箱が届いていた。開いた中には、手作りのチョコレートが一粒。添えられたメッセージカードに、よく見知った筆跡が並んでいた。
Dear my Valentine. From your Valentine.
ウォーフッドをすこれ