「やったー!なのよ!」
ベアトリスは両手で抱える本を抱き締めてピョンピョンと跳びはねる。
よほど嬉しいのだろう。最後のページに書かれた文字を見返してはニヘラと表情を砕き、くるくると回っている。
「そんなに面白いのかしら、あれ」
「どうだろう。でも僕のアイデンティティである『癒し』が奪われかねないなら、気が気じゃないね」
あれほどパックにご執心だったベアトリスだが、試しにパックがその回りを飛んでも見向きもしない。
ガーンとショックを受けたようにパックはエミリアの肩で力なく項垂れる。
「う~む。私の見立てだと三日はあの調子だぁーね」
それにロズワールは苦笑い。もう『影の女王と最優の騎士』という書物は精霊を狂わす力でもあるのかと疑い始めてしまったほどだ。
「そんなに人気ならお見舞いに持っていこうかしら」
「お見舞い、誰の?」
「うえっ、な、なんでもないの!」
つい、あの男の人の話を出してしまいアワアワと慌てる。
「う~ん。怪しいな~」
「ほ、本当に何でもないのよ!」
ジクリとした痛み。
ついボーとして引き出しに挟んでしまった指の皮を見ると血豆が出来ていた。
「はぁ」
蝋燭に火を灯して細く尖った針を殺菌し、指の腹の血豆に穴を開ける。
そうすると、血が抜けてふやけた皮だけになる。
「…………」
暗い部屋に蝋燭の火と治癒術の光が重なった。
「慣れたもんだな」
その肉声とは裏腹に空いた穴は塞がらずに、血はトクトクと指先を伝う。血小板が集まって血を凝結すれば簡単に止まる筈なのに、蛇口を開けっ放しにしたみたいに机の上に血だまりが出来た。
(……あれ?)
何かがおかしいと治癒を止めるも、ぼんやりと血が抜けすぎたのか視野が白黒になって、よろよろとよろめく。
「スバル。傷を開くなんてどうかしてると思うよ」
背後から肩を持たれて、取り上げられた手に赤い光が灯る。今度こそ指の腹の傷は塞がって「サンキュー」と彼女は言った。
「……そうか。またか」
「あぁ、まただ。最近は頻度が多くなっている気がするよ。
本当に心辺りはないのかい?」
「あー、うん。心辺りといえば過度な労働環境なんだが、別に裁判官の時も
時刻はおおよその人間が寝静まる深夜の刻。
加護か、虫の知らせというやつかは分からないが、時たまチャンネルが切り替わったみたいに無意識に動き始める自分の前に現れて目を覚ましてくれるのが、このラインハルトという男である。
「ただ、今回は少しだけ悲しいことがあったかな」
「悲しいこと?」
「友達になろうって伸ばした手を断られた」
思い浮かんだのは王選候補者にして銀髪のハーフエルフのエミリアという女の子。
「友になれなかったことが悲しかったと?」
「――いや、私……俺からしたら滅茶苦茶タイプの子だったんだよ。でも、全然ピンとこなくて……それが、自分の根幹に関わる大切な何かが知らぬ間に変わったと思うと急に怖くなってさ。
……咄嗟に友達になろうなんて言っちゃったの。
自分の情けなさに悲しくなったぜ」
今までも何度か、自分はナツキ・スバルではない。
ナツミ・シュバルツだと自覚させられることはあったけど、それでも俺は俺なんだと自分に言い聞かせてきた。
「やはり記憶の侵食が進んでいるんだね」
「……そうかもな。最近はナツキ・スバルなんて存在は初めから存在しなかったんじゃないかと考えるようになる機会が増えてきた」
まだまだ先だと思っていたけど、思ったよりこの状態の限界は近いらしい。
「ラインハルト。もし変わっちまった私が俺の
段々と消えていくナツキ・スバルとしての記憶。それが全て失くなってしまった時、果たして自分はどうなるのだろうか?
幼児退行。心神喪失。
心がぐちゃぐちゃになって自傷行為に走るか弱い女。
そんなものなら問題は起きない。
けれど権力を笠に立てて暴君のように振る舞ったり、目的の為に犠牲もやむなしという化け物が生まれたのなら……。ルグニカの権力が自分という個人に集中してしまっている今――大変なことになるのは想像に難くない。最悪死人が出る可能性すらあった。
だから、もしもの時は頼む。
もう何度、このお願いをしたのだろう。
その度に決まって泣きそうなほど辛い顔をするお前を見たくないのに、
お前には、つい酷な選択ばかり突きつけてしまう。
「…もし君が邪悪なものに堕ちてしまったのなら、僕は友として君を切り裂こう」
それでこそ正しくしかあれない男だ。とナツミは言う。
「けれど、君が君であるために僕はそれ以上に全力を尽くそう。それが僕が君に示せる最大の親愛であるのだから」
その決意に満ちた強い瞳。
正しさとは残酷なことじゃないことを彼の瞳を見るといつも思い知らされる。
ナツミは大きく目を見開いて、重い息を吐いた。
――そうだ、この男は
きっと、自分がそういう状態になっても、まだ助ける道を探してくれる最高に優しい友達だった。
何を一人で安心していたのか。このままだとダメじゃないか。
今のままでは、
「……あぁ、お前だけだよ。『私』の友達は。
私の状態を知ってて、そんな言葉を吐ける人間は……」
聖母のように優しい笑みを浮かべるナツミは両手を広げてラインハルトを抱き締めた。
「スバル……?」
――だからもう終わりにしよう。
「今日は月が綺麗だな」