努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。
これは世界的に有名な天才打者の名言の一つである。
彼が描く天才像について濃密に語られたこの名言に、心打たれ今一度努力とはなんなのか、才能とはなんなのか……再考した人も多いのではないだろうか?
実際、彼が立った大舞台で躍動するためには誰だって人外的なセンスと、超人的な努力量を熟さなければならないだろう。
でなければ、あれほど偉大で神聖さすら覚える大記録を成し遂げるには至らない筈だ。
とある到達点に達した彼の言葉は、さらに真実味を持たせ人々の心に深く刻み込まれた。
努力とは必ず報われるものではない。
これは誰もが理解していながら、努力は必ず報われる。と、綺麗事だけを抜き取ったものの原型だ。
人は未だに努力は必ず報われると信じていて、それが報われなかった時、自身の失敗を正当化させる言葉に縋る。
それが偉大な偉人を冒涜しているとも知らずに、人は努力を嫌い逃げたり、たった一度で辞めたりする。
当然、そんな自覚はない。だからこそ、それはこうして偉そうに語っている俺にだって当然、当てはまるかもしれないし、もしかすれば貴方にも当てはまるのかもしれない。
それでも、努力をしない者に望みが訪れないのもまた事実。
これは、そんな努力に縋るしか道を見出せない少女が、努力で自身の音楽だけを求める話……。
そんな彼女と深く関わり合う事になったのは、今井先輩と偶然再会して後日、なんやかんやあって宇多川と今井先輩が湊先輩と氷川先輩のバンドに加入した翌日の話になる。
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月曜日の昼休み、音楽室にて。
「違う違う……ここはもっと小さな動作で指を移動させるとこだ。特に、俺らみたいな短指はスピードと精緻さが武器になるんだからもっと意識して」
「け、けどここをどうやって移動させるのかよく分からなくて……」
「指に力が入り過ぎ。指先に力が入ってるってことは、肩に不必要な力が加わってる何よりの証拠……肩から力を抜いてリラックスした状態で弾けば、自然と指が動く筈だ。気をつけて」
「は、はい!」
とある休日に羽沢珈琲店という珈琲店で色々あって出会い、(第七話参照)色々あって俺が練習を手伝う事になった少女……羽沢 つぐみは、真っ直ぐで懸命な視線で鍵盤に指を添えた。
まだ辿々しいが、非常に丁寧に鍵盤をなぞる指先に応えるように、ピアノから優しい音色が溢れ出す。
うん、いいリズムだ。細やかなミスを差し引いてもいい音色だと思う。
小気味よく、されど丁寧さを欠かさぬように弾くのにはそれ相応の練習と基礎がいる。
恐らく、羽沢は常日頃から練習を重ねて基盤をしっかりとさせているのであろう。ピアノを奏でる基礎的な指使いや呼吸の整え方は、しっかりと出来ている。
後は、基盤を活かした応用能力の向上と実践的な曲調に合わせたアレンジ能力の習得が出来れば、聴き栄えのある奏音を自ずと出せるようになる。
今やっている練習曲も、基礎を積んでいれば積んでいるほど到達が容易なもの。細やかな技術は、どうしても個人の差が出てしまうので指導のしようがないが、大まかな連弾くらいなら半端者の俺でも教えることは可能だ。
それに、彼女は自信が無さげな発言を繰り返すが高校生ならば十分の演奏能力はあると思う。
だが、自分に自信がないが故か、それとも周囲にもっと優れたものがいるのか……羽沢は、少なからずの劣等感を抱いているようだ。
その音楽に対する真摯で熱意ある接し方は、今後、必ず、見ているものを魅了するだろうが……。
この子の場合、ガス欠が一番怖いところ。
それぐらいには、羽沢は努力を積むことに懸命になっているし、それ故に見ず知らずの俺なんかに指導を乞うた。
年頃の女の子なんだからもう少し警戒心を持ってほしい……とは、彼女の両親も思うところだと思う。
しかし、不安定極まりない要素をそれなりに抱えながらも、この短時間での成長速度は目を見張るものがある。
やはり、基盤がしっかりしているものは物覚えが早くて指導も楽だ。
「ふぅ……」
課題曲を弾き終わったのか、羽沢は小さく一息吐いて心配そうな瞳をこちらに向けてきた。
……そんなに自信なさそうな表情で感想を求められても、困るのはこっちなんだけどな。
俺は苦笑しながら、言う。
「お疲れ。ほぼ完璧だったな」
「そ、そう……かな? あ、あはは……ありがとう」
どうしてだろうか? ちゃんと労いながら褒めたつもりなのだが、彼女の表情は一向に優れない。
本当に疲弊しきってしまったのか? そんな考えがよぎる中、羽沢は俯きながら言った。
「……けど、ほぼってことは出来てないところはある……って、ことだよね?」
「……まぁ、そりゃあ始めて間もない曲だからな。完璧には弾けてないし、ミスも少々見られたぞ」
「だよね……」
俺の言葉にズーンと肩を落とす羽沢。
「いやいや……そんなに落ち込む理由がわからん。始めたばかりの曲を完璧に弾けた方が怖いわ」
「……で、でも日神君は弾けるよね?」
「勿論。けど、最初から完璧に弾けた訳が無いし、なんだったら今でもちょいちょいミスるし……そこまで気を落とさなくてもいいと思うぞ? この短時間の間で普通に弾けてるだけでも大したもんだよ」
「私はそれじゃあダメなんだと思う……」
「え?」
自信を持たせるつもりで言ったが、逆に羽沢の気分を下げさせてしまった。……なにやら地雷を踏んでしまったようだ。
そう悟るも、時既に遅し。羽沢は落ち込んだまま唇の端を強く噛み締めたまま黙り込んでしまった。
……気不味い。たっぷり五秒間の沈黙が静寂を包み込み、俺の心情を酷く揺さぶる。
やってしまった。と言う後悔は後立たず。何やらコンプレックスのようなものを抱え込んでいるのかもしれないが、見事に踏み抜いたらしい俺が聞ける立場にあるはずもない。
このまま彼女が話してくれるのを待つのが妥当か?
そんな考えが頭の隅でチラつく。しかし、その解答は即却下させた。それでは結局、時間オーバーで彼女に後味悪いまま授業を受けさせる事になってしまう可能性が高い。
そうさせてしまうのは、こちらの気が引ける。
だとすれば、やはり音楽で語れば良いのではないか……と、時計を見るが、生憎と神様はそんな猶予を与えてはくれないようだ。
こうなれば、一か八か……!
「……出会ったばっかで馴れ馴れしいかもだし、言いにくい事は百も承知で聞くが……なんか、その…………そんなに焦ってるのには何か理由でもあんのか?」
ちょっとだけ勇気を出して羽沢にそう尋ねる。
核心をついた問いかけに羽沢は驚いたように顔を上げる。
その顔はやっぱり、少し泣きそうなそんな弱々しい表情だった。
「日神君はそれでも聞くんだね……」
「そりゃあ、聞きますとも。なんたって初弟子の困りごとなんだからな……なんとかしてやりたいって思うのは当然のことじゃないか」
その言葉を聞いた途端、羽沢はまた目を瞠いて驚く。
「弟子?」
「おうよ。弟子だ、弟子。それとももう忘れたのか? 偶然入った店でいきなり弟子入りしてきたのはお前自身だろ?」
「うん。でも、日神君にとっては迷惑な提案だったと思ってたし、実際に渋々了承してくれたみたいな反応してたから……実は嫌なんじゃないかと思ってた」
「まぁ、めんどくさいと思ったのは事実だな」
ただな……と、続けた。
「俺は渋々だろうが、嫌々だろうが、了承したことを中途半端に放ったらかしにするような人間じゃないんだ。教えてくれって頼み込まれて了承したなら、それを最後までちゃんと全うしてやる」
俺は真剣な面持ちのまま手を差し出した。
「だから、それに支障が出るような何かを抱え込んでるようなら話せ。その苦悩を出来る限り一緒になって考え悩み抜いてやるよ」
かっこつけ過ぎたな……。少しの後悔と大きな羞恥心に苛まれながら、それを表に出さぬように懸命に心の内に留める。
自分で地雷踏み抜いたくせに、何偉そうに言ってんだよ、俺。
流石に、ダメな奴すぎる。
どうせ羽沢も呆れているだろうと思いきや、愛らしく微笑っていた。
「日神君、ありがとう!」
「……お、おう」
そして、なぜか天使の微笑みを頂いた上にお礼まで言われる始末。え? 本当になんで?
頭が困惑状態の俺は、生返事しか返す事が出来ずに、羞恥心に従ってそっぽ向いてしまう。
これでは、先日、今井先輩に揶揄われた二の舞だったりする。
「そ、それで……何に悩んでるのか教えてくれるのか?」
「う、うん。実はね──」
気恥ずかしさを押し殺しながら訊ねると、彼女も話し辛そうに……けれど、言葉を慎重に選んで悩みを打ち明けてくれた。
内容的には、音楽に精通する人間ならば……いや、社会的にもよくある事だと思う。
彼女はとあるバンドを幼馴染み四人と組んでいるようだ。しかし、そのバンドメンバーが羽沢以外、個性豊かでそれぞれのオリジナル性という形で才能を発揮し始めているらしい。
羽沢も当初は焦りはなかったという。自分にもいずれ、自分だけの音楽が見つかると信じていたのだと……。
けど、彼女の願いは切なくも叶わないものだと、前触れも無く突然、悟ってしまった。
様々な音色が入り混じる中、自分の音だけが溶けて消えてしまう……そんなイメージが浮かんできたようだ。
いつしか、彼女はバンドメンバーに置いていかれていると引目を感じ、懸命に自分だけの音楽を模索したが上手くいかなかった。
結局、その音色は今尚見つからないまま……こうして苦悩に陥っていると。
「……なるほどな」
小さく呟きながら、羽沢の抱いていた問題が思ったよりも大きいものだった事に内心でため息を吐く。
これほどの問題を、さらに深く考え過ぎて精神的疲労が傘増しして、招くリスクはあまりに多大すぎる。
スランプ止まりならまだしも、下手をすればイップスにもなりかねない。小さく見積もるのは危険な内容だろう。
答えを言うのは簡単だ。だけど、その答えは自分で導き出してこそ、真価を成す。
「私はみんなと一緒に演奏を楽しみたい! だけど、このままだと、私だけみんなから追いていかれちゃう」
ただ、泣きそうになりながら語る羽沢の姿はあまりに痛々しくて、とても見ていられるようなものじゃなくて……。
「羽沢、よく頑張ったな」
彼女の頭に優しく手を添えながら月並みな励ましを述べて。
「羽沢は十分に頑張ったよ。だから一回だけ休もう」
「え……そんなわけには……」
戸惑う羽沢。しかし、俺は首を横に振る。
「現在進行形で追いていかれているなら、思いっきり立ち止まってやればいい」
「え?」
「羽沢の話を聞いている限り、お前たちのバンドは何よりも絆を大切にするチームなんだろ? だったら、メンバーもきっと一緒に立ち止まって迎えに来てくれると思うぜ」
それとも……。
俺は一拍空けてから言う。
「───メンバーは誰かが立ち止まっても前に進んでしまうような薄情な奴らなのか?」
「そんなことないッ!」
俺の言葉に、らしくなく激しく反応を示す羽沢は強い意志を持って言った。
「ひまりちゃんや、巴ちゃん。モカちゃんや蘭ちゃんだって、みんなそんな人達じゃないよ!」
強く言い放つ羽沢の瞳は、直情だ。そこに嘘や偽りはない。
……それだけ自我を出せるなら、十分自分を誇っていいと思うんだけどな。
俺は苦笑する。
「だったら思っクソ止まってやれよ。迷惑かけるのが怖いなら仲間なんて最初から作らなきゃいいだけなんだからな」
「……だけど、追いていかれてたら追いつけばいいだけで……私が、私が今以上に頑張れば──痛っ!?」
「アホか」
言いながら俺は頭に乗せていた手を、羽沢の額に持っていき軽いデコピンを見舞う。
喰らった羽沢は若干涙目で唸って、俺を可愛らしく睨みつけてくる。
「その自己犠牲から生まれる努力はなんの意味もなければ、無駄な体力と時間を浪費するだけのヤケクソだ。やたら無闇に練習した果てに倒れた成果が何もなしじゃ笑草にもならない……違うか?」
「うっ……! そ、そうだけど……でも……!」
ここまで来てもまだ納得いかない様子を浮かべる羽沢に、今度こそ徐にため息を溢す。
「はぁ……オッケー。納得いかないってことだな。それなら、俺にも考えがある」
「考え?」
「羽沢」
可愛らしく首を傾げる羽沢に真剣な眼差しを向けて……
「午後授業、サボんぞ」
俺は堂々とサボろう宣言をした。