俺の人生にこんな彩りがあるとは思わなかった   作:猫ノ助

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駄々捏ねる子供には音楽ってはっきりわかんだね

四月八日。

 今日も今日とて、怨みがましいほどにキラキラと輝く春の斜陽が、俺のいる病室へ差し込んでいた。

 

 

 入学式から既に二日が過ぎた今日この頃。しかし、二日過ぎた今でも、俺は学校に登校できずにいる。

 

 

 理由は単純明快。この現状が全てだ。

 ことの発端は俺の遅刻から。慌てて走っていた俺の耳に届いた少女の小さな叫びが届き、路地裏に入ってみた結果……案の定、少女が二人の男に襲われていた現場に出会した。

 

 

 その後、なんやかんやあって鉄パイプで殴られて、なんやかんやで倒して、なんやかんやで意識を飛ばして、なんやかんやで今に至る。

 

 

 警察の聴取は凄くプレッシャーだった。普通の一般人やってて警察官の厳ついおじちゃんと目を合わせながら事情を事細かく説明するのは至極困難だと思う。

 

 

 その時、ついでに聞いたところによると、女の子の方は無事で、男二人も今は務所で臭い飯を貪っているらしい。

 

 

 俺の方は学生ということもあるし、女の子を守るために動いたことと自衛の為の暴力ってことで正当防衛として無罪放免らしい。その際、女の子が必死に俺の無罪を証言してくれたみたいだ。感謝。

 

 

 そして、今は憂鬱げに窓辺を覗き込む。

 

 

 学校ではオリエンテーション的な事をやっているのだろう。俺は不参加が確定的なわけですが……。

 

 

 検査の結果、軽い頭部の裂傷だけで済んでいた為二、三針縫うだけで特に重い症状が診断されることはなかった。それは僥倖だった。

 だが、退院を言い渡されるのは、今日。登校許可は明日。

 つまり、今日まで凄くつまらない日々を過ごしていた。ということだ。

 

 

 その上、学校生活において俺は、初っ端からディスアドバンテージを受ける羽目になっている。

 

 

 もはやクラス内ではそれぞれのコミュニティが出来上がっている頃合いだろう。

 

 

 要は、仲の良い者同士が固まり合ってグループを作るということ。そこからハブられた者は悲しくも『ボッチ』という大変不遜な名称を与えられることとなる。

 

 

 これで俺も虚しいボッチの仲間入り……。

 中学の最後も、色々あったせいで友達というべき人間はいなくなってしまったし、本当に憂鬱だ。

 

 

 両親から手渡されていた生活用品一式が揃えられた紙袋の中から、文庫本を一冊だけ取り出して読書することにした。

 流石にぼんやり過ごしすぎると怠け過ぎてしまう。身体を動かせない分、少しでも気を紛らわせておかないと落ち着かない。

 

 

 

 

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 暫く、大人しく読書をしていたが身体が凝ってきたのでしおりを挟んで紙袋にしまう。

 

 

 さて、こうなると本格的に手持ち無沙汰になってしまうわけだが……はてさて、どうしたものか。

 

 

「あれ、日神くん。起きてたんだね」

 

 

 そう言って、こちらに微笑を向けてくれるナース女性は、姫川 千鶴さん。

 俺が入院してから頻繁に面倒を見てくれる担当者、みたいな人。

 大らかで柔和、そして人当たりの良い口調で親しみやすい優しくて、見た目も若くて美人。欠点を挙げる方が難しい完璧に近しい人だ。

 

 

「はい。ちょっと前に起きました」

「そう? 目が覚めてる割には随分と気怠そうだよ? やっぱりまだちょっと違和感があるのかな?」

 

 

 いい人だ。少し気怠そうにしているのをすぐに勘づいて気遣ってくれる。ま、病院の関係者なんだから当たり前って言えば当たり前なんだけどな。

 

 

「いえ、それよりもここからあんまり動いてないので、身体が鈍って気怠いというか……」

 

 

 ベッドをポンポンと優しく数度叩きながら苦笑いを浮かべると、姫川さんは「あぁ……」と、理解を示したようで、あちらも苦笑いする。

 

 

「ごめんね。ただ本当は頭の怪我を負った人に限った話じゃ無いけど、頭は特に容態が急変することだってあるから、あんまり立ってブラブラされると怖いんだよねぇ」

 

 

 病院側の見解としてはその通りなのだろう。病傷者が勝手気ままに歩きまくっていたらそれこそ無法地帯同然であるである。死傷者が多数出かねない。

 

 

 とはいえ、こちら側からすれば退屈な時間をどう過ごせばよいのだろうか? 出歩く許諾を得られない人間にはせめて、発散方法を一つは提案してほしい。読書とテレビは抜きで頼みたい。ありきたりすぎて既に満喫済みだから。

 

 

「とりあえず、今日の晩には退院できるだろうし、それまでの我慢ね……って言いたいところだけれど、たしかに暇よねぇ」

 

 

 そう言って、うーん……と、顎に手を当て何やら色々逡巡し始める姫川さん。

 しばらくすると、うんと頷き笑顔を浮かべた。

 

 

「うん。じゃあ少しだけなら散歩しようか」

「いいんですか?」

「特別にいいよ。ただし、私の保護付きだけどね」

 

 

 姫川さんはオレに向けて目を愛らしく眇めて、そう言った。

 やはり、凄くいい人だ。これで独身だというのだから、本当に勿体ない。

 心の片隅でそんな事を考えながら、俺は姫川さんに付き添われる形で院内を散策することになった。

 

 

 

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 三十分ほどブラブラと院内のあらゆるところへ歩いていた俺と姫川さん。外の空気は吸えなかったものの、とりあえず散歩したことでガチガチに固まっていた関節や倦怠感は若干晴れた気がする。

 

 

 そんな時のことである。

 

 

「困ったわねぇ……」

「あれ? 千紘さん。こんなところでどうしたんですか?」

「あら、姫川さん。……いえ、少しね」

 

 

 そう嘆息するのは、どうやら入院しているらしい女性であった。この人も優しそうな雰囲気を纏っているし、悪い人ではなさそうだ。

 だが、どうにも困り顔を浮かべて遠目で遊んでいる二人の子供を見ていた。

 どうやら、彼女のお子さんのようだが、あの子達がどうかしたのだろうか?

 

 

「あぁ、純君と紗南ちゃんですね。いつもみたいな感じですか?」

 

 

 しかし、姫川さんはこれだけで全てを悟ったようだ。マジ優秀。

 女性は苦笑いで頷いた。

 

 

「えぇ、そうなのよ。今回ばかりは沙綾が迎えに来るし、あんまり手間を取らせたくないのだけれど、どうしようかしら……」

「沙綾ちゃんが迎えに来るならなおのことですね。千紘さんの娘さんだけあって、無理しがちですし……」

「もう、私はそんなつもりないのよ?」

「それでも、無理してるからまたこんな風に検査入院を繰り返すんですよ? 体には気をつけてくださいね」

 

 

 何か知らないけど、どうやら姫川さんが女性を言い負かしたらしい。詳しい事情はわからないが、女性が少しだけむくれているのはわかる。

 そこでようやく俺の姿に気がついたのか、微笑みながら訊ねてきた。

 

 

「もしかして、お散歩中だった? 姫川さんを借りちゃってごめんなさいね」

「い、いえ。僕の散歩なんて気分転換でしかありませんし、特に時間制限を設けているわけではありませんからお気になさらず」

「ウフフ、礼儀いいのね。しっかり者そうだし、将来はいい男になるわよ。きっと」 

「それはわかります。彼、なんか雰囲気もいいですよね。年頃の割に達観しているというか」

「そうそう。こういう子の方が将来的に甘えてきたりしてね、それもギャップよね!」

 

 

 ……なんか思わず照れてしまった。

 というより、なんの話してるんだ。俺が将来いい男になる話で、そこまで談に花を咲かせるとか……大人の女性って怖い。

 

 

「ごほん……それはそうと、話が脱線してしまってますけど、あの二人がどうかしたんですか?」

「あ、あぁ……えっとね……」

 

 

 俺が咳払いして問い掛けると、姫川さんが少したじろいで苦笑する。

 もしかして忘れてたとか言わないですよね? その顔は、ちょっとだけ忘れてましたね。

 ……この人、やっぱり完璧人じゃなかった。こういう可愛らしい一面もあったらしい。

 

 

「あの子達、此処にいらっしゃる千紘さんの子供さんなんだけどね? まだ小さいからお母さんと離れるのが嫌みたいで入院している日は毎日顔を見せてくれるんだけど……」

「中々、離れてくれなくて、挙句帰りたくないと駄々を捏ねる、と……」

「そうなのよね……」

 

 

 大まかな事情を口にすると、女性────千紘さんは眉根を下げて困ったように首肯する。

 

 

「けど、それって別に大きな問題はないのでは? 千紘さん……で、いいですか?」

「えぇ、いいわよ。それで?」

「ありがとうございます。で、あの子達が帰りたくないって言ってるなら、泊めてあげたらいいのでは? 千紘さんの負担が増えるのがダメなら姫川さんや他のナースの方が交代で様子を見ておいてあげるとか……」

「以前、そうしたことがあるんだけどね、同室の方が子供の声で目が覚めちゃってね。流石に他の人に迷惑をかけちゃうぐらいなら……って、ことになったの」

 

 

 なるほど、そういうこと。てか、それ以外考えられないか。

 俺の病室は警察の人が出入りする可能性があるからって配慮があって偶々個室だが、普通は病室は共用だよな。

 となれば、必然的に子供の声が迷惑に直結する可能性が高いわけで……。

 

 

「わかってくれた?」

 

 

 姫川さんが微笑みながら訊ねる。

 

 

「まぁ、大方……。それなら、納得です」

 

 

 俺も頷きながら、二人の子供を見る。

 キッズエリアで兄妹らしく仲睦まじそうに遊んでいる二人。中々に活発な子達らしい。

 良いことだが、あの快活さが病室でってなると、確かに厳しいものがあるだろう。

 

 

「何か満足するものがあれば、少しは大人しく話を聞いてくれるんだけどねぇ……」

 

 

 苦笑する千紘さん。

 ふむ、満足するもの……。

 辺りを見渡して、少し考え込む素振りを入れる。

 

 

「とりあえず、話してみましょう……純、紗南! こっちきてくれる?」

「「はーいっ!!」」

 

 

 呼びかけれれば大人しく話を聞くらしい。この様子だと問題ないと思うんだけど、ここからが厄介なのだろう。千紘さんは笑顔を作っているが、少しだけ引き攣らせていた。

 

 

「そろそろお姉ちゃんがお迎えに来るらしいから、帰る準備をしよっか?」

「「ヤダァ!!」」

 

 

 ハモりながらヒシっと千紘さんに抱きつく二人。よほど母親と離れるのが嫌なのだろう。悲痛なほどに駄々を捏ねていた。

 これには、さしもの姫川さんでもお手上げらしい。首を横に振っている。

 

 

「「ぅぅ……」」

「困ったわねぇ……」

 

 

 困り顔が定着しつつある千紘さんは、優しく二人を抱きとめたままで動かない。

 俺は、この際、ふと疑問に思った事を姫川さんに訊ねてみる。

 

 

「いつもはどうやって、二人を帰らせてるんですか?」

「いつもは結局、お父さんに引き連れられるんだけど、今日はそうも行かなくてね」

「? それは……」

「千紘さんの旦那さん、パン屋さんをやってるの。時々、差し入れを持ってきてくれるいい人なんだけど、今日は仕事で来れなくて……それで、そんなお父さんの代わりにもう一人の娘さんが迎えにきてくれることになってるんだ」

「じゃあ、お父さんのようにとは言いませんけど、娘さんにしっかりと連れて行って貰えばいいんじゃ?」

 

 

 しかし、姫川さんは首を横に振る。

 

 

「その子もしっかり者なんだけど、やっぱり二人はお父さんの時よりもハッチャケちゃうというか……とにかく、大人しくするのに時間が掛かっちゃうんだよね」

 

 

 それは、困るかも。

 

 

 事情を聞き、辺りを見渡す。

 千紘さんは子供の相手をしている。姫川さんは代替え案を模索検討している。場所は人の多い広場のような場所。近くにはキッズエリアのような場所も設けられており、子供が楽しめるような玩具があちこちに散らばっている。そして、広場の片隅には観賞用のグランドピアノが置かれてあり、俺の視線を釘付けにした。

 

 

 これならばあるいは……と、考えたのだ。

 

 

「姫川さん。あのピアノって弾けるんですか?」

「え? えっと……たしか弾けたと思うんだけど」

「了解です」

 

 

 それが聞ければ十分だ。

 早速、近場のピアノに寄ってピアノ椅子を調整。

 一音だけ軽く鳴らすために、指で優しくタッチするかのように鍵盤を叩く。

 

 

 ポーンっと、静かな音を立てて広場に響き渡らせる。

 

 

 視線が集まる。

 けど、違う。この音じゃない。ピアノの性能は関係ない。まだ指と音の感覚が合っていないだけだ。

 

 

 もう一度鳴らす。ポォーン♪っと、今度は上手く噛み合ったようだ。澄み渡った音色が耳当たり良く響いた。

 

 

 衆目が一気に集まる。今か今かと楽しみに待っているものもいれば、突然のことに困惑している人もいる。後者の方が多いだろうか?

 

 

 ゆっくりと息を吸い込み、肺腑を通して息を吐き出す。頭と身体をフラットに、視線と姿勢は真っ直ぐ、表情は柔らかく……。

 

 

 

 

 “感情を込めろ”

 

 

 

 

 

 楽譜は要らない。音なら血液と一緒に循環している。

 引っ張り出せ。自分の音を表現しろ。

 

 

 

 

 

 

 

そして─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 指をそっと鍵盤に添えた。

 

 

 

 

 

 メンデルスゾーン:【春の歌】

 

 

 

 

 美しい旋律の中に、春を仄かに漂わせる『清らかさ』と、冬の終わりを告げる『凛々しさ』を兼ね備えた、メンデルスゾーンの【無言歌集】でもトップクラスの知名度を誇る名曲だ。

 

 

 冬が明け、春に至る情景を描いた奏音が人々に与えた暖かみと過ぎ去っていく哀愁は、心を安らかに癒していく。

 

 

 春の穏やかな空気に音色が溶け込むように、丁寧に……けれど清らかに指を柔らかく鍵盤に落として行く。蕾が花開き、満開の桜が春を知らせる。そして、時が過ぎるにつれて桜の花弁が儚く散って舞うように、春風が吹く様をアレンジで表現する。

 

 

 その情景を思い描きながら、体内から音を表現する。

 

 

 もっとだ……もっと、深く音を表現しろ。息をするように簡単に、けれど詰まらせないように滑らかに奏でる。

 この音色は誰に向けたものだ? 誰にこの情景を魅せたい?

 

 

 届け、届け、届け─────

 

 

 あぁ、もっと魅せたかったけど、もう終わりか。けど、役割は充分に果たせただろう。

 

 

 最後、乱雑にならないように集中し、すっと添えた。

 

 

 立ち上がり、一礼。

 

 

 一瞬の静謐。

 

 

「ぉ……」

 

 

「お見事ぉ!!」

「スゲェ!!」

「感動したぞぉ!!」

 

 

 続いて巻き起こった喚声に包まれた俺は、再度一礼する。

 場所は違えど、こんな風に拍手喝采に包まれるのはいつだって心地よいものだ。身に余る幸福感に満たされながらも、真っ直ぐに子供達の方へ歩いていき、同じ目線に合わせるためにしゃがみ込む。

 

 

「どうだった?」

「凄かったぁ!!」

「にいちゃん、天才かっ!?」

 

 

 元気よく称賛してくれる兄妹の声に、嬉しさが募るが、今は置いておこう。

 二人の頭にポンと手を置いて撫でる。

 

 

「俺は別に天才じゃないけど、ありがとな。それと、あんましお母さんやお姉ちゃんに迷惑かけちゃダメだぞ? にいちゃんとの約束な?」

 

 

 そうして優しく微笑みかける。

 

 

「「うん!!」」

「よしよし、偉いな!」

 

 

 それに、二人は満面の笑みで答えた。

 これで無事解決すればいいんだけど、後は本人達の掛け合い次第だろう。俺がでしゃばるのはここまでかな?

 

 

「ありがとうございます。この子達の為にわざわざ……」

「いえいえ、お気になさらず。こっちが勝手にしたことですから、頭をあげてください」

 

 

 頭を下げて御礼を述べてくれる千紘さんに、俺は頭を上げるように申し出る。流石に自己満足でやったことで頭を下げられるとか、なんか凄く罪悪感がある。しかも歳上だし。

 

 

 とりあえず、こうして二人は千紘さんの言う事を聞くようになった。めでたしめでたし……。

 

 

 

 

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「「ねぇちゃん帰ろ!!」」

 

 

 純と紗南を迎えに来たら、二人が大人しく言う事を聞いてくれた。

 どういう風の吹き回しだろうか? いつも二人はお母さんにべったりで帰りたがらないのに、今日は駄々を捏ねるわけでもなく、自ら帰ろうと申し出てきた。

 

 

「沙綾、忙しいのにわざわざ迎えにきてもらってごめんね?」

「お母さん。ううん、大丈夫だよ。ウチにはお父さんもいるし、お母さんはゆっくりしててね」

 

 

 病室のベッドで大人しく寝ているのは私のお母さん。けれど、いつもと比べても明らかに顔色が良い気がする。

 三人の間で本当に何かあったのだろうか?

 

 

「純も紗南も、お姉ちゃんのいう事をちゃんと聞くのよ?」

「わかってるよー、“にいちゃん”との約束だもん!」

 

 

 “にいちゃん”? 純は満面の笑みでそう言った。それには紗南も笑って頷いている。

 どういうことだろ?

 

 

「にいちゃんとの約束?」

「あぁ、そういえば沙綾は知らないわよね?」

 

 

 私が訊ねると、お母さんはトートバッグから自分のスマホを取り出して、とある動画を流しだした。

 

 

 それは、私と同年代くらいの男の子がピアノを伴奏している映像だった。

 

 

「っ!」

 

 

 思わず息を呑んだ。ゾッとするほどに流麗な音色と、圧倒的な感性が生み出す存在感が画面越しにも強烈に伝わってくる。

 彼が思い浮かべている情景が、こちらにも映しだされるような表現力の高さに思わず聴き入ってしまう。

 

 

 なまじ、音楽というものを経験していたからだろう。ピアノのことが詳しくなくてもわかる。彼は“天才”、もしくはそれに準ずる凄腕ピアニストだと。

 

 

「彼がね、駄々を捏ねる純と紗南にピアノの音を聴かせてくれて宥めてくれたのよ。感謝してもしきれないわ」

 

 

 そういうお母さんも、どこかやつれていた顔付きから活力の湧いてきた面立ちになっているような気がした。

 

 

「この人、名前はなんていうの?」

「あら? 沙綾ったら〜、まさか惚れちゃった?」

「ば、バカなこと言ってないで教えてってばー!」

 

 

 あらあらっと言う母だが、本当にそう言うわけじゃないのに……。

 変な勘違いをされたまま、お母さんは答えようにも困ったように首を振った。

 

 

「ごめんなさいね。そういえば、あの時は名前を聞いてなかったわね」

「そうなんだ……」

 

 

 少し残念な気持ちだ。別に恋心云々ではなく、ただ一度だけでも生で彼の演奏を聴いてみたかったなぁ。

 でも、よく見たら入院着だし何かの機会に恵まれて明日にでも会えるかもしれない。

 

 

「千紘さん、入りますよー。っと、沙綾ちゃんきてたんだね」

 

 

 そう思っていると、顔馴染みのナースさんの千鶴さんが屈託のない笑みで入室してきた。どうやら、母の体調検査に来たらしい。体温計などの器具を持参していた。

 

 

「はい、今から純と紗南を連れて帰るところです。母達がいつもお世話になってます」

「本当に最近の高校生は礼儀がいいよねぇ。気にしないでね、これも仕事の一環だし」

 

 

 大人の微笑で私の礼にも対応してくれる千鶴さん。

 

 

 うーん、やっぱり可憐だなぁ。私も将来、こんなふうになれるかな? 無理な気がする。だって、見た目から凄く美人さんだもん。端正や端麗って言葉がこれほど似合う女性を私は知らないし、性格も良しと来た。勝てっこないよね。

 

 

 などと、私が千鶴さんとの差に打ち拉がれている時に、お母さんは何か閃いたように訊ねた。

 

 

「そうだ、姫川さん。あのピアノ弾いてくれた子の名前、知ってたら教えて欲しいんですけど」

 

 

 千鶴さんは一瞬目を瞠ったけど、すぐに合点言ったのか、微笑んだ。

 

 

「そういえば、あの時は名乗ってませんでしたものね」

 

 

 けれど、次の瞬間には小難しそうな顔をした。

 

 

「教えてあげたいのは山々なんですけど、個人情報ですしねぇ……」

 

 

 おっしゃる通りだ。

 患者の名前を教えちゃいけないよね、普通は。だってそれはプライバシーの問題だから。

 

 

 残念ではあるが、今回ばかりは諦めた方が良さそうだ。お母さんも「そうですよね」って残念そうな顔をしてるけど、引き際は弁えている。だからすぐに引き下がった。

 

 

 とはいえ、気になっているのは事実だ。

 

 

「ねぇ、お母さん。私にもその動画頂戴」

 

 

 だから、せめて顔ぐらいは覚えておこう。そして、いずれあった時に感謝しよう。そう思って、私はお母さんから送られてきた動画を目に焼き付ける。

 

 

 ────そんな彼と再会するのは、そう遠くない未来になるのだが、この時の私に知る由などなかった。

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