少し離れた花咲川商店街まで足を運んだ俺は、現在時刻を確認する。
現刻は、午前十一時前。
少し早いが、昼時ちょうどになればどこも混み合うことは必至。
となれば、今から何処かで軽く食べておいてもいいかもしれない。
そう考えて、あたりを見渡す。昼飯はどこにするか……。
スマホを起動し、この辺りの飲食店を検索する。近場のラーメン屋のレビューが多くて高い。どうやら巷では有名らしい。
だが、今はそこまで重いものを食べらそうにない。他の店を探す。
続いてレビューが良いのはパン屋。山吹ベーカリーというらしい。
客層は、学生客をターゲットに絞ってあるようだ。フードコートもあり、金額も学生価格。
一つだけ、レビューを読む。どうやら近場の高校に通う男子学生のようだ。えーっと……『味も品質も良く、店員さんもべらぼうに可愛い! てか付き合ってを通り越して結婚してくださいっ!』……こんな公開告白は初めて見たな。
下にスライドしても似たような公開告白はなくとも、それに近しいセクハラ発言紛いのものまで含まれていることから、相当に可愛い子が接客してくれているのだろう。
その子がこのレビューを見ているのなら、ドン引きもいいところだろうが。
とりあえず保留。軽食とはいえ、俺は昼飯にパンを食べる気にはなれない。よく、購買でパンを購入して食べている人がいるが、俺には理解不能だ。
勝手な話、俺からすればパン=おやつといった認識に据え置かれている。惣菜パンも同様だ。
ただし候補から外すのは勿体ない。理由は……ふ、言わずともわかるだろう?
俺とて健全な男子高校生……可愛い子がいると聞いて見に行きたくなるのは必然と言える。
さて、続いての候補は……北沢精肉店か。
商店街に根付いた地元特化型の精肉店らしく、客層は近所の御婦人方がメインのようだ。
しかし、ここのコロッケは別格に美味いらしい。若者にも人気があって、帰宅途中に買いに来る学生も少なくないようだ。
このレビューを投稿した男子学生によれば、『コロッケをハグハグ! 美味いっ! そして、純情無垢な店員ちゃんをハグハグしたい』……なんだこの変態は。
なんだか頭が痛くなってきた。パン屋に続いて、なんだこのレビューの変態度合いはっ!
女性陣の投稿した内容は『肉汁が飛び出してきて美味しい』や『接客が丁寧』とか、簡素ながらにちゃんと店の良さが伝わるような投稿をしてるというのに……男は変態しかいない。
むしろ、変態を輩出してしまうこの商店街が狂っているのか? だとすればなるほど、真理だ。(混乱)
じゃあ、ここも保留だな。
コロッケを買い食いするのも悪くはないが、やはり一度腰を落ち着けたい気持ちはある。それと、歩きながら食べるとなると、誰かと一緒の方がいいだろう。一人だとただ虚しいだけだしな……。
それでも切り捨てず保留の理由は、先と同様とだけ言っておこう。
純真無垢は正義。はっきりわかんだね。
スマホをレビュー欄から元のサイトに戻り、下にスクロールさせる。
次いで名前が上がってきたのは、羽沢珈琲店という喫茶店だった。
商店街の癒し空間とも呼ぶべき静謐さがウリの店のようだ。客層も老若男女問わず繁盛しているようで、隠れ名店のような扱いを受けていたりする。
マスターの入れる絶品のコーヒーのほか、充実したメニューが豊富に取り揃えられており、まさに喫茶店の鏡ともいうべき店らしい。
……レビューを見るのは怖いが、やっぱり他の人の意見は見ておきたいのもまた事実。
一呼吸置いて、投稿レビューを見る。
『コーヒーの深みと香りは一級線っ! その他のメニューも他店にも劣らぬ味わいがあります! そしてホールの女の子がエグ可愛ァァァ─────っ!!? 天使ィィィ─────♡』
すっとスマホから視線を逸らして、電源を落とす。ポケットにしまい、何も言わずにスタスタと歩く。
……ふ。
羽沢珈琲店。そこまで言うのなら、直々に行ってやろうじゃないか。
わずかばかりに悟りを開いた僧侶の如く、気分を落ち着ける。
天使か……誇張じゃないとするのなら、どれほど幸福な光景が広がっているというのだろうか。
俺は、見てみたい。本物のユートピアを────!
人ならば、男ならばその光景を目に焼き付けず、何をすると言うのだ!
ある種の覚悟を決めて、足を羽沢珈琲店に運ぶ。その足取りは重いはずなのに早足だった。
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羽沢珈琲店……。ここで間違いないようだ。
スマホの地図表示と、看板を見合わせて場所があっていることを確認し、店内の様子を少々見る。
客数はそれなりにいるが、席全体が埋まるほどではない適した混み合い具合といったところだろうか。喫茶店ということもあって、混み合うのは昼過ぎといったところか。
一通りの確認を終えた俺は、少しだけ身嗜みを整えて入店する。
さて、ホールの店員さんよ。その戦闘能力は如何様だ?
カランカラン……!
「いらっしゃいませ!」
「おふっ!?」
入店直後、鐘の音と共にパタパタと駆け寄ってきた天使の微笑みに、俺は気力をゴリゴリと奪われてしまった。
俺のスカウターは一瞬で消炭だ。け、計測不能だとっ!?
「? 大丈夫ですか?」
小首を傾げて天使のような声音で呼びかけてくれる少女の対応……すでに昇天寸前です。
はっ、お、俺は何を!?
頭を振って正気に戻る。
「あ、あぁ。すみません……ボーッとしてただけで、なんでもありません」
「そうですか。よかったです」
可憐な微笑みでホッと息をつく少女に、ドキリと心臓が高鳴る。
……レビュー。最初は頭おかしいと思ったが、お前達の言っていたことは間違いではなかったな。
認めよう。彼女こそ本物の天使だと!
「え、えっと……一名様でよろしいですか?」
「あ、はい」
気を取り直して、少女の質問に頷く。
おっと、取り乱してしまった。最近テンションがどうにもおかしい。ずっと高ぶりっぱなしだ。
「では、カウンターのほうに────」
「あぁ────ッッ!!」
少女の案内に従ってカウンターに向かおうとしたところで、ガタッと椅子が激しく揺れた音と、何処かで聞いたことのある大きな声が静謐な空気の中に響き渡る。
何事か、と周りも俺も音源に振り向く。
すると、そこには見覚えのある紫色のシルエットが……
「友希那さんと一緒に演奏してたズルい人だっ!!」
「あ、あこちゃん……っ?」
「………………は?」
ビシッと俺に指を突き立てながら、俺をズルい人認定をして立っていた。
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ひとまず、店側にも迷惑をかけてしまいかねないので、煩い少女を宥めるためにも相席してもらうことにした。
一人で落ち着いて喫茶デビューを果たしたい気持ちはもちろんあった。しかし、こうなった以上は一々角を立てて文句は言っていられまい。いささか甚だしいが、他の人の憩いの場でもある、ここを姦しくしたくはない。
注文し、淹れてもらったキリマンジャロブレンドコーヒーを一口付け、気を鎮める。
仄かに漂う深みの香りが鼻腔を通り抜けて、コクのある旨味をより強調してくれる。
ほぅ、と一息つく。
絶品だ。今まで飲んできたコーヒーは、殆どがインスタントや、両親が仕事帰りで持って帰ってきた豆を自力で焙煎したものを飲んだりしていたが、ここのは口当たりから全然違う。
今飲んでいるこれをコーヒーと言うのなら、今まで飲んでいたものはコーヒーの皮をかぶった黒い何かである。
流石はプロ職人。豆の見極めだけではなく焙煎技術も、桁外れに違うのだろう。でなければ、これほど芳ばしい珈琲を提供できるはずがない。
先に淹れて貰ったが、これなら食後の方が良かったな……と、少し後悔する。だが、話し合いをするにあたって昼飯を目の前に置くのはさすがに失礼だろうと思ったのだが……別に問題なかっただろうか。
何せ、相手の方は特別そんな意識もなくゴリゴリにボンゴレパスタを口一杯に頬張っているのだから……。
「もごごっ! むごっ! もごご!?」
「……なるほどな」
「……あこちゃんが、何を言ってるのか…………わかったんですか……?」
「何も?」
え、と明らかに困惑色を示すあこと呼ばれた少女の隣に小さく纏まって萎縮気味の女の子。さっきから辺りをキョロキョロと見渡し、オロオロとしている印象が凄く強い。
その度に、チラチラとこちらにも視線を向けてくるので、こちらも普通に見返すのだが。
向こうはひっと喉を痙攣らせて顔色からすぅ……と色彩を消していく。……もはや、この女の子は対人耐性が皆無である。
見た目はちんまりとした活発な子と、とある一部が暴力的に実った小心な子……全てにおいて実に凹凸だ。
こうして凹凸コンビに参っていると、ちんまりした方がゴクンと喉を盛大に鳴らし、今度はボンゴレパスタを呑み込んでからちゃんと発声した。
「ズルの人っ! どうしたら! あこは友希那さんとバンド組めるのかな!?」
「あ?」
この子にとって俺はズルの人らしい。よくわからないが、この子にとっては、湊先輩とバンドを組めるのがズルく映っているようだ。
……それで俺が納得いくかは別だがな。
「あわわ……! …………あ、あこちゃん……し、失礼だ、よ……」
その俺のちょっとした怒りに逸早く気がついたのが小心な女の子だ。
今もビクビクと怯えながらも、あこと呼ばれた少女を諭している。
それでも、諭されている彼女はムスッとしたままで、俺に向かってバッと指を突き出す。
「だってズルいじゃんっ! あこだって友希那さんとずっとバンド組みたかったのにぃ〜!! なんであこがダメでぽっと出のこの人がいいのぉ〜ッ!」
失礼な奴だと、一喝してやろうと思ったが。既に半ベソ状態でバンバンと机を叩いているせいで、奇異の視線が俺達の方に向けられている。
このまま俺が一喝すれば、女の子を怒って泣かせた悪どい男として世間体に殺されかねない。
もしこれが計算だとするなら……ちんまり少女、恐ろしい子!
「……とりあえず、自己紹介しないか? ずっとズルい人のままだと、他に対する俺の印象が悪すぎるからさ」
とはいえ、これ以上のさばらせていたら俺の悪噂ばかりが立ってしまう。
流れを変えるために、自己紹介という一手を打つ。
「……わ、わかりました……」
「むぅー……あこもそれでいいよっ」
黒髪の少女がこくんと頷き、ちんまり少女もまだ何か言いたげな様子ながら渋々了承した。
まずは言い出しっぺの俺から名乗ることにした。
「羽丘一年の日神だ。日神 剣」
「……! ひ、かみ…………」
「? りんりん、どうかしたの?」
「う、ううん……なんでもないよ…………」
俺の名前を聞いた途端、黒髪の少女が反応を示す。
顔色は先程よりも悪くないようだが、どこか強張ったように肩を震わせている。
あこと呼ばれた少女が気遣うように声をかけるが、ふるふると首を横に振って大丈夫だよ……と言う。
まるで大丈夫そうに見えないけど……なんで俺の名前を聞いた直後に、様子が変わったんだ?
そんな疑問を抱きながらも自己紹介は続いていく。
「じゃあ次はあこねっ! くっくっく……漆黒の闇より現れし、混沌を司る魔王! 宇多川あこ、さんじょー! どーん!!」
「はいはい。宇多川さんねー」
「うぅっ!! あこ、この人苦手ぇ〜! りっ、りんりーん! 助けて〜!」
痛い子だった。
彼女の自己紹介の際、俺の心の内に潜む黒歴史がヒョコッと顔出して、「呼んだー?」と告げていたので強引に押し戻す。
見れば彼女はゴスロリ装束。よほどそういう方面が好みのようだ。
こういうタイプの人には深く関わっては後々絶対にめんどくさい。だからこそ、軽く流し適当に返答した。
ひしっと隣の黒髪少女に抱きつく半泣きの宇多川さん。その際、何処がとは言わないが、身体の一部がぽよーんと男には大変目に毒なブツが揺れるが、俺は咄嗟に視線を逸らすことで急場を凌ぐ。
その例の黒髪少女は、オドオドしながらも優しく宇多川さんの頭を撫でながら小さな声で名乗った。
「……え、えっと…………白金、……燐子……です…………花咲川女子の、二年生です……」
キョロキョロと視線を彷徨わせる。挙動が先ほどから一定していない。どうにも、彼女は隣の宇多川さんと違って人付き合いが苦手そうだ。
それにしても、白金か……。
何処か聞き覚えのある名に思案するも、すぐにその可能性に首を横に振る。
……まさか、な。
「日神さん。りんりんにデレデレしすぎだよ!」
「……あ、あこちゃん!?」
「……は?」
少し考え事をしていただけで、白金さんにデレデレしているという冤罪をかけられた。
ムスッと可愛らしく頬を膨らませた宇多川さんの発言に、顔を真っ赤にしたのは俺ではなく、肩を震わせていた白金さんだ。
「……俺がいつ白金さんにデレデレしたよ」
「ずぅぅ〜っとっっ! りんりんのこと燃え滾るような情熱的な目で見つめてさっ! 絶対気があるよねっ!!」
「ぅぅ〜……」
そんなにジッと見ていたのだろうか?
あらぬ誤解を受けたせいか、白金さんは顔を真っ赤にして俯いてしまう。
少し見覚えがあるなぁ……と思っていたので白金さんに視線を向けていたかもしれないが、凝視しているほどでないと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。
はぁ、と溜息を徐に吐いてコーヒーで唇を湿らせる。
「……一々、誤解を解くのに時間を割くのも面倒だし、さっさと本題に入ろうか。どうしたら湊先輩のバンドに入れるか……だったな?」
「! そうっ! 日神さん! どうやったらあこは友希那さんのバンドに入れるのかなっ!?」
「……白金さんも同じですか?」
「い、いえ……私は、特に…………」
食い気味に反応してテーブル越しながらに顔を強引に近づけてくる宇多川さんに反して、白金さんは俯き気味に否定する。
……何か思うところがあるのだろうが、今のところ何か差しあたるわけではなさそうなので保留にしておく。
「どうやったら湊先輩のバンドに入れるのか……ぶっちゃけ俺にはわからない。というか、そんなの知ったこっちゃない」
「えぇっ!? なんでぇ〜!! 意地悪言わないで友希那さんにアポとか取ってくれたっていいじゃーんっ!! 日神さんって友希那さんとバンド組んでるんでしょっ!?」
鬱陶しいぐらいに駄々を捏ねる宇多川さん……なんか、コイツにさん付けするのも嫌になってきた。……別に嫌いというわけではないが、こういうタイプは比較的苦手だ。
頭に右手を突っ込みながら、天井を仰いで言う。
「何を勘違いしてるのかは知らないけど、俺は湊先輩達とバンドを組まない。この前、本人達にもその旨を伝えた」
「えっ!? でもこの前は────」
「あの時だけの特別演出だ。ほぼ飛び入りで強引に弾かされただけで、そもそもそれ以前から俺は一度だって湊先輩と音を合わせたことすらない」
事実を述べると、宇多川は驚きの形相を浮かべる。
「そ、それであのクオリティなのっ!? か、カッコ良すぎるぅ〜!!」
「……コイツ、情緒不安定なのか?」
「…………あ、あこちゃんは、いつも元気いっぱいなんです……」
少し落ち着いた白金さんが、宇多川に寵愛を含んだ瞳で見つめながら告げた。
いや、溺愛するのは構わないけれど、元気いっぱいという一言で片付けられる情緒の変動じゃないぞ。
しかし、宇多川ははっと我を戻すと疑問を呈した。
「あんなにバババーンっ! てした演奏だったのに、どうして友希那さんと組まなかったのっ!?」
その質問に対して、俺はわずかに残っていたカップの中身のコーヒーをグビッと一気に呷り、答えた。
「宇多川。お前もそれなりに音楽に精通しているものと考えて逆に聞くぞ? あの演奏を聴いてどうだった?」
「え? ズバパァンっ! バーンっ! て感じで凄かったと思うよっ!」
「……言い方を変える。あの演奏に違和感を覚えなかったか?」
「……っ」
「違和感?」
擬音ばかりで演奏内容を伝えようとするあたり、宇多川は完全に感覚派であろう。こういった質問に対してすぐに返答が浮かぶものと思ったが、予想外にも真っ先に反応を示していたのは、隣の白金さんだった。
ただ、本人はその答えに行きついていながら答えようとしない。そもそも関心がない? ……そんなわけはないだろう。
でなければ、こんな素人では見過ごしてしまいかねない些細な音色に勘付ける筈がない。
うーんっと、頭を悩ませていた宇多川だが、あっと閃いたように満面の笑みを咲かせた。
「ズガガッ! て感じっ!」
「うん。なんとなく正解ぽいからそれでいいや」
もはや何を言っているがわからないが、感情で汲み取るしかあるまい。
正違の判断基準は俺に委ねられているとはいえ、この場合に関していえば正解も不正解もあまり意味がない。
「これは湊先輩達にも言ったことだが、俺と彼女の音は互いの意思が相反しあって喧嘩しあってるんだよ」
そこから、昨日、湊先輩達にした喧嘩論を同様に語る。
黙って聞いてると思えば、時折激しく突っ込みを入れてきたり何かと騒がしかったが、無事話し終えることが出来た。
「────まぁ、つまり、俺に綱渡ししてもらおうなんて甘い考えはやめておいたほうがいい。そんな手じゃあの人は靡かないぞ」
「むぐぐ……っ」
唸る宇多川。
そんな媚びる忠犬のような目をしても変わらない。結果的には軽くあしらわれて終わりだ。
「そもそも勝つ為のバンドを作ろうとしている湊先輩達に向かって、世界で二番目に上手いなんて、遊び感覚として取られてもおかしくないだろう」
「け、けどっ! あこだって本気なのにぃ〜!」
「宇多川自身がそう思ってても、向こうはそう受け取れないって話だ。事実だとしても、もう少し言葉を選んで頼み込むべきだったな」
最後に、皮肉げに声をかけて追加注文したブレンドコーヒーを呷る。
なんと味わい深い珈琲だろうか。普通に感心しながら半ベソをかく宇多川を流し見る。
これでは、俺が完全に悪者だ。
仕方ない……と、一つだけ妥協案を提案する。
「……せめて、湊先輩の歌ってきた楽曲を全部出来る様になれば話くらいは聞いてもらえるかもな」
ポツリと零した提案に、ピクッと肩を震わせる宇多川は、うるうるとした潤った瞳でこちらを見る。
「……ホントに?」
「ほんとほんと……。確信はないがな、そんな気はする」
「じゃあやるぅっ!!」
変わり身はやいなぁ……。お兄さんにはその身代わりの早さは真似できないな。
ちょっと感心。
喜びとやる気に満ちた宇多川に、よかったねと優しく話しかける白金さんは、やはり宇多川の保護者にしか見えない。
本人に言ったら怒られそうだ。
そんな時だった。
ポーンっ……と静かなピアノの音色が店内に響き渡った。
ピアノ? たしか、壁際に調度品のように備え付けられていたのは覚えているが、それが奏でたのだろうか?
では、誰が? 視線を向ける。
「うーん……」
「おねぇーちゃんも難しいの?」
見れば、小さな子供とともに先程の天使のような店員がピアノ前で困り顔を浮かべているようだった。
何度か指を添えては、反復するように同じ前奏を奏でる。しかし、曲の流れに乗り切れないらしく店員の指も何度も止まる。
その度に、隣にいる子供は哀しそうに顔を顰める。
「つぐっち、どーかしたの?」
「あ。あこちゃん」
流石に見かねたのか、宇多川が話しかけに行く。律儀な奴。
どうやら二人は知り合いらしい。愛称で呼び合うほどに仲が良いみたいだ。
事情を聞いている宇多川は置いておいて、静かになった今のうちに珈琲の味をもっと探っておこう。
「……あ、あの…………」
ズズッ……と珈琲を啜っていると、前の席でモジモジと羞恥の色に染まった顔をした白金さんが小さな声で、俺を呼び掛けた。
「なんですか?」
「…………そ、その………………日神さんは、ピアノの日神さんですか……?」
「……あぁ、なるほど」
彼女の訊ねた内容に、俺の心に蔓延っていた疑問が晴れた。
ピアノの日神さん……つまり、この人は俺が過去にコンクールに参加していることを知っている音楽人……それも、湊先輩のような感じじゃなくて参加してた側の人だろう。
「白金……どっかで聞いたことがあると思ってたんだが……なるほど、国内コンクールで何度か受賞経験のある白金さんでしたか」
「……っ」
白金さんは、俺の回答に無言で俯いてしまう。ビンゴのようだ。
しかし、この反応は、過去に何かあったのだろう。そう言った目をしている。
コンクールでトラウマでも持ったか?
そんな憶測を立ててみるが、赤の他人の俺が立ち入っていい問題ではない筈だ。
そして、無言のまま居た堪れない空気だけが二人の間に流れる。
気まずい。
俺がこうした雰囲気を作ってしまった張本人なのだが、こうも黙りこまれると逆に珈琲が味わい辛い。
「あこちゃんはここの弾き方わかる?」
「うーん……あこはピアノじゃなくてドラムだからよくわかんないよぉ……あ」
居た堪れなさすぎて視線をあらゆる方向へと彷徨わせていると、途端に宇多川と視線がぶつかる。
キュピィーンと瞳が輝いたような気がした。……何を企んでいるのやら。
呆れながらカップを傾ける。
それにしても、あんな小さな子供とよく直ぐに仲良くなれるな。精神年齢が近いのだろうか?
「あのおにーさん、ピアノちょー上手いよっ! あの人に教えてもらおうっ!」
「ブフォッ!?」
「え? ほんとー?!」
思わぬ流れ弾に思わず咽せる。
「いやいや、待て待て。急に何を言い出すんだ、宇多川。そりゃあ、確かにピアノは弾けるが、俺は、流石に聞いたこともない曲を楽譜なしで弾けるほどのバケモノのつもりはないぞ」
「ダイジョーブだよっ! 日神さんでも聴いたことあると思うし、ビビってくる曲だから楽しい筈だよ」
そんなふうに楽しげに語りかけてくる宇多川は派手な装飾が為されたスマホを取り出して画面をこちらに向けて、音を流す。
これは……。ヨルシカの【だから僕は音楽を辞めた】か。
確かにこれなら聴いたこともあるし、なんだったら何度か弾いたこともある。
ピアノの伴奏が主張する箇所が多い曲だが、それほど難しいところはない。ペダルを使う際に左手の休符が入り込まないように意識するのと、結構変則的な左手を十全に扱えれば難度は一気に下がる筈だ。
こんなの、俺がでしゃばる必要性なんてない。
「……慥かに聴き覚えはあるが、こんなの反復練習しかないだろう……俺が教える必要は────」
「だめぇ?」
ない、と言いかけたところで幼い少女の潤んだ瞳が上目遣いで向けられた。
他に周りの客も『子供がここまで健気に頼み込んでいるんだから、教えてあげなさいよ』みたいな視線をあちらこちらから向けられる。
……もはや、俺に味方はいないようだった。
はぁ……と今日何度目かわからない溜息を溢す。
「少し、借りても?」
「え? あ、はい」
立ち上がって、ピアノの前に立つと、店員の少女に了承を得る。
横には先程の上目遣いの幼女がワクワクとした様子で鍵盤を眺めていた。
宇多川はしたり顔。完全に俺を嵌めたようだ。さっきの仕返しのつもりなら、よかろう。後で戦争だ。死ぬ程いびってやる。
「……まずは、ピアノの音と自分の感覚を合わせるところから始めようか」
そう言って、俺は一音だけ適当な鍵盤で鳴らす。
ポォーン……と軽く澄んだ音色が響いた。
「キレェー……」
「そうか? だいぶ合ってないんだけどな」
女の子の感嘆した声が隣から聞こえてきた。しかし、自分的には納得いかない音色だったのでもう一度鍵盤に指を添える。先ほどよりも優しく包み込むようにそっと押す。
ポォーン♪
「っ!?」
「お、今度はアジャスト。紛れ当たりだな」
今度はちゃんと澄んだ音色だった。隣の子も目を爛々と輝かせて驚いている。周囲の視線も子供の遊び感覚として見ていたものが変化し、明らかに好奇のものに変わっていた。
何度か合わせてから、感覚を確かめ終えた俺は、グッと指を解す。
「さて……これで大方のチェックは終わりだ。最初は、一度俺が通しでやるから見ててくれるか?」
「わかったぁ!」
元気いっぱいに鍵盤を見る少女。
……俺も、この年頃の時はこんなに純情だったのだろうか?
などと、考えながらもピアノへの意識は忘れない。
今回は指南のようなもの。あまり『感情』を優先してしまうと、『技術』が伝わりにくいかもしれない。
すぅ……と珈琲店特有の仄かに漂う芳ばしい香りを肺腑一杯に送り込み、意識をリフレッシュさせる。
そして、弛緩した指先を、優しく丁寧に鍵盤に添える。
瞬間、音色が弾けた────
ヨルシカ:【だから僕は音楽を辞めた】
これを弾く時、俺は必ずイメージすることがある。
それは……俺が音楽を辞めた情景だ。
音楽を辞めた俺は、人生を投げやりに過ごしてしまっているが、結局それは保身でしかなく間違っている光景。
それでも、微かな悲しみを抱きながら音楽への愛を忘れられずにいるだろう。
演奏家とはそういう人種である。
どれだけ音楽から離れようとしても、その情熱に費やした音色だけはどうしても忘れられる筈がない。
他者の幸福を受け入れられず、心に蔓延る劣等感は身体を蝕む。
それでも、その信念は揺るがせない。
間違っているのはわかっている。けれど、そんな塵みたいな信念を貫き通そうとする。
そんな悲しい情景を鍵盤で表現する。
これも一つの音楽に対する“愛”だと、俺は思う。
響け、響け、響け────。
想いを乗せて奏音が静謐な空気を青色に染め上げていく。
本当に聴かせたい人には届かない切ない曲……あぁ、どうしてこんなにも悲哀の情景が心に宿るのだろうか。
────切なすぎて、指が止まらないじゃん。
それでも、どんな曲にも終わりは訪れるもの。
「ふぅ……」
弾き切った俺は、額の汗を拭う。
涙は出ていないが、表現していても哀しすぎるためか、途中から『感情』が溢れて止まらなくなってしまった。
『技術』も発揮したつもりだが、やはり『感情』が昂り過ぎたかな……。一人で反省していると、ふと隣から啜り泣く少女の声が……
「ひぐっ……えっぐ……」
「マジで泣いてるっ?!」
隣ではガチ泣きする少女がいた。
流石に俺も動揺してオロオロとする。え? なんでないてんの? 俺、いけないことしましたか?!
辺りを見渡して、助けを求めるが皆茫然としているようで助けに応じない。
くそっ! 宇多川、こんな時だけ電池切れ起こすんじゃないよっ! せめて俺を巻き込んだ分の働きはしてくれ!
「えーっと……とりあえず、音を合わせるところからやろうか」
「ぅぅ……うん」
これ以上は俺の精神衛生上によくないと思ったので、今度はピアノを教える側に回る。
少女に提案すると、泣き止んでくれないが小さく頷いてくれたので、ひとまず安心と言ったところだろうか。
その後は、少女に一通りの簡単な基礎練習だけを教えて、後は反復練習あるのみだと言ってお開きとなった。
「おにーさん、ありがとー!」
母親に連れられながら、癒しの笑顔を振り撒きながら姿が見えなくなるまで手を振り続けてくれた少女を、俺も笑顔で送り出す。
にしても、隣で急に泣かれた時はどうしようもなく焦ったものだ。
精神的疲労が重なった俺は、談笑を続けている宇多川さんと白金さんの席に戻ろうとピアノから離れようとした────
「あ、あの!」
……なんだか最近、こうして呼び止められることが多い気がするのは気のせいだろうか?
「なんですか?」
疲労が嵩張っていたせいだろう。少しぶっきらぼうに反応する俺。
呼びかけてきたのは、天使の店員さん。可憐な顔立ちをした可愛らしい少女が、真面目に決心したような面持ちで次のように告げた。
「────わ、わたしにピアノを教えてくだしゃいっ!!」
……噛んだ。
もはや、言われた内容に対する驚きより、台詞を噛んだことに対する笑いが勝った俺は悪くないと思う。