兄は横柄な人だ。
女性に手を出すこと、数知れず。そしてそれを捨てたことも、同数。
友人には暴力を翳し、目上にも敬いがない。
横柄を人の形にしたらこうなるだろう、という見本例。
それが、世間一般の……兄への印象。
だが、家族相手となると、少し。少しだけ、違う。
否、家族だけというよりは、私にだけ、だろうか。母も父も滅多には帰ってこないし、帰ってきたときは必ずと言っていいほど兄のいない時間だから。
私にだけ。
私にだけ、感じ取れるもの。
それは、とても青臭い表現をするなら、家族の親愛、とでもいうべきものだ。家族愛。
私の顔すら認識していないように遠くを見ている兄。だというのに、その顔から、声から、私を心配しているような、気遣っているような気持ちが伝わってくる。
本当に微かな差だ。僅かな違い。
ほかの人と、私とで。少しだけ──何かを慮っている。
それは決して、私との関係を修復したい、といった類のものではないのだろう。
それよりも、何か私個人に。私自身に心配事がある、とでもいうような色を見せるのだ。
だから。
だから、既のことで、私は兄を嫌いになれなかった。
悪い噂ばかり聞く。兄が自身のクラスメイトを殴るところも見た。軽率に女性に手を付け、とても酷い振り方をしたことも知っている。
だけど。
……嫌いにはなれなかった。兄を。兄さんを。
何故かそれが……とても、悲しいことに思えたから。
その日、兄さんはいつものように無言で帰ってきた。
おかしい、とは。
すぐに気づいた。いつもはもっとけだるそうにしているのに、今日は普通に歩いていたから。
そしてそれは、手すりもつかまずに階段を上ろうとする姿を見て確信に変わる。明らかに、何かを隠していた。
呼び止め、追及すれば──やはり。
手のひらに擦過痕。それなりの重傷。ところどころに土が混じっているあたり、転んだ……いや、この兄に限ってそんなことはない。横柄で不真面目な兄だが、その身体能力はアスリートにも匹敵する。それに、手のひら以外は無傷。
つまり、鉄棒などに捕まって全体重をかけた、とか。
あるいは──高速で回転する何かを素手で受け止めた、とか。
そんな事を。
原因をつらつらと考えながら、救急箱を持って洗面台へ向かえば、意外にも大人しく此方の言うことに従って手を洗っている兄の姿があった。
「兄さん」
「……ああ」
面倒を嫌うように、痛むだろうその手を振って水を切り、そのままこちらに突き出してきた。
大きな手だ。そしてその手のひら全体に、酷く爛れた皮膚が赤々と広がっている。
「消毒します」
無言。了承と取って、傷に消毒液を塗っていく。
もっと、"痛くないようにやれ"とか"下手"だとか言われると思っていただけに、大人しい兄が妙に映る。
……悪い噂ばかり聞いていて、悪い印象ばかりあったから、いつの間にか先入観ができてしまっていたのかもしれない。兄は……兄さんは、痛みを我慢しているのだろうか、目をつむったままじっと待っている。
先ほどまでより幾分か落ち着いた心で消毒後の手のひらにガーゼを巻き、包帯を──。
「遅すぎる。自分でやるから、もういいぞ」
「──……」
いつの間にか目を開いていた兄が、そう、言った。
こちらを見て、額に皺を寄せて。
本当に嫌そうに。本当に怒っているように。
「……、……そうですか。わかりました。じゃあ、もう勝手にやってください」
折角見直したのに。
やはり、兄は兄だ。噂通りで、昔から変わらず……苦手な、兄。
救急箱を置いたまま、足早に自室へと戻る。
まだ夕飯を作っていないのでどの道降りる必要があるが、とりあえず今はベッドに飛び込んでしまいたい気分だった。
というか、飛び込む。
枕に顔をうずめて……大きく息を吐いた。
「本当……なんであんな人なんだろ」
なんで、嫌いになれないんだろう……。
目を覚ました時、既に時計の針は0時を回っていた。
やってしまった、という思いと共に、急いで階段を降り、一階へと向かう。
明かりのないリビング。
電気をつける。
「……え」
テーブルの上。
そこに、ビニール袋があった。
おそるおそる中を見てみると、そこにはコンビニのお弁当が一つ。
「……ほんと、変な人……」
*
消え失せろ、と……叫んでいたと、聞いた。
全部噂だから、どこまで本当かはわからない。けれど、色んな人から同じ話を聞くから……真実とは相違ないんじゃないかと思っている。
始まりは、兄がその女の子の手を引いた事だったらしい。商店街近くの横断歩道で、そこを渡ろうとしていた女の子の手をグイと引っ張って、まるで御伽噺の王子様のようにその身を抱き留めたのだと。
容姿と身体能力だけは本当に良い兄の事だ。さぞかしサマになったことだろう。
その後各所で──水族館や映画館やら、所謂デートスポットで女の子と兄の姿は確認されていて、その度に"王子様みたいだった"とか"何かの撮影かと思った"とか……兄の本性を知らない浮かれた子達が逐一私に報告をしに来たものだ。
しかし、その"甘い時間"は、女の子の誕生日のその日に終わりを告げる。
頭を傾けた。女の子が。兄の腕に。
体重を預けるようにして、笑顔で身を寄せた──その瞬間。
──"やめろ"と。
ものすごい剣幕で、その子の体を振り払った、らしい。
訳も分からないといった顔で困惑する女の子に向かって、"消え失せろ"と叫んでいたとも聞いた。
女の子は泣きながら、兄は鬼のような形相で帰路に就いた──と。
その日は直撃こそしなかったものの、未曽有の規模の台風が近くまで来ていて、夜は大雨だった。
だというのに兄が外出したことを覚えている。私は一応、止めた。けれど聞かなかった。
一時間ほど経って帰ってきた兄は川にでも潜ったんじゃないかというほどずぶぬれで、何をしに行ったか知らないけれどこちらの忠告を聞かないからそうなる、という旨を伝えた……と思う。
その時は珍しく、自嘲するように"そうかもな"と言ったはず。その顔をだけは、なぜか鮮明に覚えている。
兄が自分の非を認める事など、そうそうないことだからだろうか。
事の顛末を聞いたのは台風が過ぎ去って学校が再開してからで、私が直接見聞きした事ではない。
だけど……本当なら、やっぱり酷いと思う。
その気がないなら初めから断っておけばよかったのに。そもそもナンパしたのは兄って話だけど……。
それに、なにもそんな大勢の前で、とも思う。
何の説明もしなかったみたいだし、それではその子はずっと"つらい"が続いてしまう。
恐らくは野次馬根性と同情込みなのだろう、一部始終を見ていた私のクラスメイトが、兄へ真実を問うて来てほしいなどと頼み込むもので、しかし私は頷いてしまった。
私も知りたかったから、というのが大きい。
……答えは、得られなかった。
一言。"さぁな"、だけ。
否定もしないけれど肯定もしない。どころか、私に興味がない、とでもいう風に。
その話はだんだんと学校からも、街中からも薄れていった。女子の噂流行りが早いのは事実だが、街の人の井戸端会議もいつまでも同じ話題を扱うわけじゃあない。
だから、波が引くように。
忘れられたわけではない。けれど、話題の中心になるようなことはなくなったのだ。
久しぶりに私がその話を聞いたのは、この中学に入ってからのこと。
私の苗字を聞いて、もしや、と思ったらしい。
その子は、なんと件の噂の女の子──の、妹さんだというのだ。
一瞬身構えた。それは許してほしい。
だって、自身の姉をこっぴどく振った男の妹だ。恨みを共有している可能性は大いにある。
けれど、その子はにこやかだった。
にこやかに、嬉しそうに。本当に──奇跡に感謝する、とでもいうように。
──"お兄さんに、ありがとうございます、って言っておいて!"
などと。そう言うのだ。
当然、私の頭は「?」一色。
しかしその子もそれ以上説明する気はないらしく、早々と自身の席へ帰ってしまった。
なにがなんだかわからないまま学校から家に帰り、一応預かった言葉を兄に伝えた。
……その時の顔は、初めて見るもの。珍しい、とかではなく……初めて。
初めて、私は兄の安堵する顔を見た。
──"そうか……目を覚ましたのか"
と。
ただそれだけ。私への説明は一切なく、言葉への返事もない。
兄は……兄さんは、恐らく私に聞かせないつもりで吐いたのだろう、「本当に、良かった」という限りなく小さな声を漏らした後、自室に戻っていった。
何があったのかは、知らない。
兄がその子を酷い扱いで振ったのは事実だし、それを否定する気もないことは確かだ。
……だけど、何か隠している。それだけはわかる。
多分これが、私が兄さんを嫌いになりきれない理由の一つ。
あの人が、今度は私に向かって"本当の顔"を見せてくれるまで……私は納得ができないから。
だから──。
そんな。
昔の夢……自己認識? を見て目が覚めた。
今度は寝坊していない、いつも通りの朝。
着替えを終えて自室を出ると、丁度兄も部屋を出るところだったらしい、ばったり、遭遇する。
「……邪魔なんだが?」
「……」
私の顔を見るなり、開口一番にコレだ。
溜息を吐きたくなる心を抑えて、廊下の端へ避ける。
チラと兄の右手を見れば、そこには新しい包帯。ちゃんと自分で巻き直したらしい。
私の手はいらない、という事か。
階段を下りていく兄。
その背──というか、後頭部に向かって、声をかける。
「兄さん」
ぴく、と止まる体。その顔がこちらを向き、その口が開かれる──その前に、言う。
「私はまだ、納得してませんから」
「……何の話だ?」
「さぁ、なんでしょうね」
兄が説明をしてくれないのなら、私だって説明をする義理はない。
これは宣戦布告みたいなもの。
私は兄が苦手で。苦手だから、こそ。
だからこそ、苦手を苦手のままにしておくのは……私自身が許せない。
私が兄を苦手に思うのは、単純に性格が合わないからなのか、それとも何か理由があるのか──あるいは、苦手を克服できるのか。
どうやら、まだ嫌いにはなれそうにないみたい。
「……お前の中二病に付き合ってる時間はないんだが」
「ちゅうに……?」
兄は肩をすくめて、階段を下りて行ってしまった。
朝食を食べる気はないのだろう。すぐにドアの開く音が聞こえて、次いで閉じる音が響いた。
……昨日の優しさはやっぱり幻覚だったのだろう。うん。
「べーっだ」
普段は兄にもクラスメイトにも見せないはしたない行為で兄を見送った。