※前話と内容の被りがあります。ご了承ください。
自分がおかしい、ということには、気付いていた。
いつからだったのかは、明確ではないけれど、たぶん、あの時。
横断歩道の真ん中で足を挫き、座り込んでしまった直後の出来事。迫りくる死と──力強い腕。
気付いた時には抱きしめられていて、私は死んでいなかった。
その時、多分、確実に、恐らく、絶対に。
"嫌い"が"好き"になったのを、感じた。
藤堂彩人、という名前は、あまり好ましいものではなかった。
県内に5つある中学の、そのどれもに悪名を轟かせているのだ。少なくとも女子の間では、その名に抱くイメージに悪いものが欠片もないという人間はいないのではないか、というくらいには、好ましくなかった。
無論、容姿に優れることも知れ渡っていたから、その点を評価する子もいたけれど……。
でも、やっぱり。
割合でいえば確実に、悪印象。女の敵。それが藤堂彩人の印象。
そしてその印象は、高校生活二日目の朝に確信に変わる。
新入生代表として挨拶をしていた
小中学校と彼らと同じクラスであった子から話を聞けば、藤堂彩人と浅海さんは幼馴染なのだという。けれど仲の良い二人の喧嘩、ではなく──ほとんど冷え切った、本当に険悪な二人の姿は……私の中の彼の印象を最悪に落とすに十分な材料だったと思う。
そのすぐ前に浅海さんと話していて、その人となりの良さを知っていたから、尚更に。
その最悪──嫌悪は、授業中の天羽さんに対する態度だとか、別のクラスの子に手をかけようとしていた、という噂を聞いた当たりで、心底の忌避に変わっていた。
私はこの時点で、藤堂彩人が大っ嫌いだった。──死んでほしいとさえ、思っていたかもしれない。
授業らしい授業のないその日を終えて、そのモヤモヤした感情を抱えたまま帰路に就いた。
多分、それが悪かったのだろう。集中力が欠片もなかった。
私は小石に、あるいは地面の出っ張りに足を取られ、挫き、座り込んでしまった。
大きく遠のいた、自らを掠めていった死を目の当たりにしながら──彼の腕の中で、私の大嫌いは綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
あれだけ嫌っていたのに。あれだけの悪印象だったのに。
それは、それまで持っていたマイナスの感情は、すべてプラスの……好き、という感情に変わったのだと思う。
自分でも惚れやすすぎる、とは思うけれど。
でも、本当に──
カッコいいと。素敵だと感じた。思った。
カッコよくて素敵でなんて凄い人なんだろう、と。身を挺して、友達でもない誰かを助けることができる──素晴らしい人だと。
……その幻想は、あろうことか本人に打ち砕かれる。
突然の罵倒。一瞬挫いたほうの足に目が行ったにもかかわらず、知らぬ存ぜぬとばかりに立ち去ろうとするその言動に、一度は制止をかけた。
その手は振り払われ、再度の罵倒。
そのまま彼は本当に立ち去ってしまったのだ。
痛む足を引きずりながらの帰り道、溢れてきたのは嫌悪ではなく
何故、と。
何故、と。
何故、何故、どうして、と。
悲しみだった。嫌い、なんて感情は湧いてこない。どうして、どうして──もっと助けてくれないのか、という思いでいっぱいだった。もう少し、手を差し伸べてくれてもいいじゃないか、と。
ようやく家に着いて、家族に治療をしてもらって、自室でベッドに横になって──そこでようやく、我に返った、というべきだろうか。
なんて独り善がりなんだと。どれほど厚顔無恥なのだと。
少し間違えば自身も死んでいたかもしれないというのに、私を助けたことへ何の見返りも要求しなかった彼に対して──どうしても何もないのだろう。
恥ずかしくなった。自責の念でいっぱいだった。
さっきまでの私は
翌日、痛みはほとんど引いていて。
学校に着いた私は、仲の良い
足を挫いて道路に座り込んだ事。それを
話している内に熱が入って、公佳に言われて自分がどれほど幸運だったのかも自覚して。
やっぱり彼が──あの人が
一緒に話している公佳もまた、そんなに良い人だと思っていなかったと……
そのあと彼が登校してきたから、思い切って彼にお礼を言った。
何も言ってこなかったけれど、そういう人だというのはもうわかったから、文句は言わない。
席に戻った私に対して、公佳が少しだけ目を細めていたのが気になったけれど、些細な事。
昨日の悲しみなんかは完全に忘れて──私の目は自然と、藤堂彩人を、藤堂を追うようになっていた。
翌日のことだ。
昼休みになってお手洗いにいって、お手洗いから出ようとした、その時。
「無理するな」
咄嗟に身を隠してしまった。
それくらい、驚きが強かったのだ。驚き。驚き。……あるいは、心の悲鳴。
「こっちも、大丈夫だ」
口調こそぶっきらぼうなのに──その声色の、なんと優しいことか。
相手を気遣う気持ちが込められていた。相手を心配する気配りが込められていた。
優しい声だ。優しくて、優しくて、優しくて──心が裂けてしまいそうな声を、彼は。
私じゃない、私じゃない私じゃない。私じゃない──公佳にかけていた。その声を。彼は。
冷静な私が落ち着けと叫ぶけれど、それをすべて上塗りして有り余るくらい──ドロっとした感情がボコボコと膨れ上がる。
コールタールのような粘性のあるソレが、視界を覆った。
忘れたはずの悲しみが。封じたはずの"どうして"が。
ドロドロと。ぐるぐると。
音を立てて──裂けた心から溢れてくる。
自分がおかしい、ということには、気付いていた。
気付いていてなお、止められない。
よたよた、と。よろよろ、と。
まともな思考の保てない頭を抱えて、幽鬼のように廊下を歩く私は、さぞ恐ろしく映ったことだろう。誰かが心配して声をかけてくれたのかもしれないし、遠巻きに眺めてみていないふりをされたのかもしれない。
そのすべてがどうでもよくなる程、私の心は荒れていた。
そして、私は。
「ねぇ、なんで?」
言った。言う。
「なんでよ」
言った。
言う。零れる。あふれ出る。
言葉が。言葉が。止まらない。
言いたかった事が、言えなかった事が、苦しいほどに。狂おしいほどに。
「なんで──なんであの子には、あんな優しい声で!」
叫ぶほどだった。叫んでいた。
ずるい。ずるいずるいずるいずるい。私も、あの時、優しくされたかった。
痛かった。痛いよ。足が痛い。心臓が痛い。それをわかっていたのに、どうして無視したの。ずるい。なんであの子には優しくするの。優しくできるの。できるなら、できるなら、私にだって。
私の何がダメだったの?
私に何が足りなかったの?
貴方は素敵だった。カッコよかった。それでよかったのに。
どうして。なんで。
優しくしないなら。
どうして──助けたの。
コールタールのような粘性の感情が止まらない。それは糸を引き、ねばつき、ところどころに張り付いて──増殖する。
冷静な私を塗りつぶして、広がり続ける。
助けてくれた。支えてはくれなかった。
どうして? 私が好みじゃなかったから? じゃあなんで助けたの?
だって、私だって、私は、私に。
ずるい。おかしいよ。それじゃあ、私はなんなの?
何が気に入らないの?
私の顔? 声? 性格?
公佳にはあって、私にはないものがあるの?
教えて。それを、それのためなら、それがあれば貴方は私を──!
その思考が。
その真っ黒い汚泥が断ち切られたのは、彼の怒声を聞いたその瞬間だ。
恐ろしいほどの剣幕。凄まじい声量。
怒りの表情は私をにらみつけていて、私は、私にはそれが──酷く悲しそうに見えた。
その後、何かを言われたけど、なにも覚えていない。
気付いた時には保健室にいた。
眠っていたらしい。
自分がおかしい、ということには、気付いていた。
ううん。
気付いた。
私はおかしい。
今でも彼の事は……嫌いではない。悲しみも、失ってはいない。
なんで。どうして。
その思いはまだ心にある。
おかしいな、と思う。
何故。
何故、こんなに穏やかなんだろう。
「失礼します」
その時、保健室のドアが開いた。正確にはノックされてから、開いた。
声でわかる。
公佳だ。
「……ぁ、美紅……起きたんだ。良かった……」
公佳は、心底安堵した表情で、私のベッド脇の椅子に座り込んだ。
──"無理するな"
幻聴が耳朶を打つ。
「榛さん、ちょっと紙葉さんのこと見ていてくれる? 先生、職員室に行かなきゃいけなくなっちゃったから……あら、紙葉さん。起きたのね? 良かったわ」
「……私は」
「頭を打った、とかでもなさそうだし、多分寝不足や疲労だと思うのだけど……今日は安静にしたほうがいいわ。もう親御さんに連絡してあるから、もうすぐ迎えに来ると思うわよ」
見れば、外は夕暮れ……時計は17時を指している。
放課後だ。
「榛さんが倒れているのを見つけてくれたからよかったけれど、ちょっと危険よね。明日になっても不安だったら、ちゃんと休むこと。入学シーズンは緊張で倒れちゃう子も少なくないから……あ、っとと、それじゃ先生はちょっと行ってくるから、戸締りとかは気にしなくていいからね」
そういって出て行ってしまう保健の先生。
忙しい人だ。
先生が去って静かになった保健室で、一度、私と公佳は目を見合わせた。
沈黙。
「……ありがと。公佳」
「え、あ、うん。……」
また、沈黙。
……。
──"こっちも、大丈夫だ"
「……公佳」
「ごめんね!」
声をかけようとした──それに被せて、公佳が頭を下げた。
──。
「……何が?」
「え、ぁ、いやだって……その、藤堂、くんのこと……」
「……わかってたんだ」
「ぅ、その……あの」
しどろもどろになりながら、公佳は言葉を選ぼうと無い頭を回転させる。
……なんて言ったら怒るんだろうなぁ。
ふぅ、と大きなため息。
幻聴なんて、もう聞こえない。
だってこんなにも──穏やかだ。
「そのごめん、って」
「う」
「藤堂に、無理するな、とか、大丈夫だ、とか……優しい声かけられたことであってる?」
「うぇっ、め、めっちゃ知ってる──ッ!?」
「仲良くなっちゃったのが、後ろめたくなった……ってことでいいかしら」
「……その……ハイ。だって美紅ちゃん、あんなにもその……コイスルオトメ! みたいな感じで藤堂くんのこと語ってたから……その」
……そんな顔だったのか。
いや。いやいや。そう、私はおかしかったので問題はない。
「そうね。正直、嫉妬してる。ずるい、って思ってる」
「……」
「でも、思ってるのは藤堂に対してなのよね……。公佳に対しては嫉妬してない。どうしてかしらね」
「それはワタクシメが嫉妬するに値しないというそういうことですか」
「そうかも?」
ひどい! とオーバーリアクションをする公佳を後目に、考える。
彼が、藤堂が公佳に優しくするのは、ずるいと思う。私にしてくれないのは、悲しいと思う。
公佳に対しては、なんとも。友達だし。ずるい、なんて思わない。
穏やかな心で分析する。
「……美紅ちゃんて、藤堂くんのこと好きってことでいいんだよね?」
「そこなのよねぇ」
私は、彼が好きかどうか。
……好ましいとは思っている。だってカッコいいし、良い人……の割合が強い。はず。
でも、好きかどうか。恋愛感情かどうか、と問われれば。
「……違う、かな」
口にしてみて、さらに飲み込んで。
違う。
私は、恋愛感情で彼を好いてはいない。
ドロっとしたものが消えていく。
「ねぇ、公佳」
「はい、はひ」
「公佳は彼の事、好き? 藤堂のこと」
「……えー、あー」
「私は気にしないから、素直に言って」
「好きかどうかといわれれば、まぁ、好きの部類? 嫌いじゃないよ、今は。わかんないけど」
そうだ。私もそう。
好きだ。括りとして、好き。
でも彼の彼女になりたいとは思わないし、彼に振り向いてほしいとも……まぁ、思わない。
好きだけど、
「ん、スッキリしたわ。改めて、ありがとね、公佳」
「お、おう! え? うん。うん?」
何のことかよくわかってない公佳も、私は好きだ。友達だもの。
もちろん恋愛感情じゃない。括りとして好き。
藤堂に対しても、少しだけ深度は高いけれど、同じなんだと思う。
穏やかだ。
自身がおかしかった事に、ようやく気付けた。気付いていたけれど、理解した。
……彼の前で平静を保てるかどうかはまだわからないけれど。
でも、少なくとも今は……大丈夫だと、そう言える。
| ♀ | 15。 | |