ウルフ&バニー   作:とりなんこつ

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第十話 彼女が涙を流すわけ

 

 

 

我を忘れて調はベランダへと飛び出していた。

すぐ隣にきた切歌は必死でベランダの下を覗き込もうとしている。

激しい風雨に遮られ、地面まですら見通せない。

 

「そんな、なんで…ッ!!」

 

調は混乱する。

可愛がっていたペットの飛び降りという行為に、全く理由が思い当たらない。

けれど、はっきりと分かることがある。

この高さから落ちたら、おそらく…。

 

黒髪の少女は、ペタリとベランダへとへたりこむ。

 

「調ぇ…」

 

切歌もボロボロと大粒の涙を零し、唇を噛みしめている。

どちらともなしに互いの身体を抱き寄せて、込み上げてくる悲しみに全力で身を委ねようとしたその寸前―――。

 

白い巨大な物体が、ふわりと視界の下からせり上がってくる。

 

「ッ!?」

 

猛烈な風と雨が吹き荒ぶ中、唐突に現れたあまりにも大きなその存在に、調も切歌も一瞬意識が漂白された。

ただただ呆気にとられて見つめてしまったそれは―――巨大な真っ白いキツネ。

空中に浮かぶそのキツネの尾は、九つに分かれてユラユラと揺れている。その一本一本が、まるで胴体のように太い。

 

「なななな…ッ!」

 

すとん、と切歌が腰を抜かす。

巨大な顔と巨大な狐目がこちらを見ている。

だけど、不思議と恐怖を感じなかった。

こんなのあり得ない光景のはず。

なのに妙に親しみさえ感じるのは………そんな、まさか。

 

切歌を支えながら、調はおそるおそる声を投げる。

 

「…Qちゃん?」

 

キツネの眼つきが鋭くなる。

それから、ツンと澄ました風に、巨大なキツネはベランダから顔を背けてしまった。

拗ねたような仕草は、調にとってあまりにも見慣れたもので。

 

「Qちゃん! Qちゃんなんだねッ!?」

 

思わず叫ぶ調たちの前に、新たな影が。

のっそりと現れた巨大なシルエットは、まるでライオンと虎の相の子だ。

今度は切歌が声を投げかけた。

 

「…リオン? リオンなんデスかッ!?」

 

返答は、まるで整地ローラーをゴロゴロと転がすような盛大に喉の鳴る音。

 

「Qちゃんもリオンもいったい…!?」

 

ただただ圧倒される二人の前に、ゆっくりと最後の一匹が姿を現す。

ゆっくりと浮上してきたのは、純白の神々しいまでの毛並み覆われた巨大な獣。

その姿は、そう、まるで狼のよう。

 

「…小太郎?」

 

調の問い掛けに狼は『ワン!』と鳴いた。

人間の大人一人は楽に飲み込めそうな巨大な口だ。

あまりの迫力に、調に切歌も腰を抜かす。

すると、調の耳に響く柔らかい声。

 

〝 驚かせてすまない 〟

 

思わず調は周囲を見回す。

それからマジマジと正面へと視線を戻して、巨大な狼へと語りかけた。

 

「小太郎? あなたが喋っているの?」

 

〝 ああ 〟

 

よくよく聞けば、声は耳ではなく、直接頭の中へ響いていた。

この感覚、シンフォギアで限定解除した時の念話に近い。

驚きつつ、調はさらに語りかける。

 

「Qちゃんもリオンもあなたも、いったいどうしたのその格好…?」

 

〝 これがオレたちの本当の姿さ 〟

 

小太郎は答える。Qちゃんもリオンも唱和するように軽い鳴き声を上げる。

 

〝 オレは天を照らす神の御使いだった。でも、月が失われたせいで、自分の正体を忘れていた 〟

 

その声に、調はエルフナインとの会話を思い浮かべている。

人類が月に達し、更に破壊されたことによって、多くの神と神話は失墜したこと。

 

〝 けれど、月の娘に出会えた。おかげで自分たちのことを思いだすことが出来たんだ 〟

 

「そ、そうなんだ」

 

月の娘とは自分を指していることを朧げに悟りながら、調としてはそう答えるしかない。

あまりの展開に、仲間内で比較的冷静だと思われている彼女も、少なからず混乱していた。

しかし、すぐに体勢を立て直して訴える。

 

「そ、それより! みんな、早く逃げて!」

 

小太郎はともかく、Qちゃんとリオンの正体を見て、調も薄々と察している。

この二体は、かつて装者として戦った相手だ。

気づかず一緒に暮らしてきたことに、色々と思うことはある。

結果として、敵を助けたと糾弾されるかも知れない。

 

でも、今はそんなの関係ないッ! 

とにかく、翼さんやクリス先輩が来る前に逃げてもらわなきゃ…!

 

調は慌てている。自分が害されるであろう可能性など微塵も考えずに。

そんな彼女の狼狽ぶりにも関わらず、三匹は困ったようにふわふわと浮き続けていた。

たまらず調は訴え続ける。

 

「それに! フェンリルも来るんだよッ!」

 

叫びながら、調は胸元からギアペンダントを引っ張りだしている。

これには成り行きを見守るしかなかった切歌も悲鳴を上げた。

 

「し、調ッ! 何をするんデス!? 小太郎たちと戦うんデスかッ!?」

 

「違うよ、切ちゃん! きっとすぐに本部の人や先輩たちが来る! 

 だから、私がみんなを護らなきゃ…!」

 

「………」

 

「…切ちゃんは、どうするの?」

 

「そ、そんなの決まっているデス! 調に付き合うデスよ!」

 

続けてギアペンダントを引っ張りだす切歌に、調は笑いかける。

それから改めて三匹の方を向いた。

 

「みんな心配しないでッ! 私と切ちゃんで絶対に護るからッ!」

 

〝 ……… 〟

 

小太郎の声は聞こえない。

しかし、念話の波動とでも言うべきものが伝わってくる。

柔らかく、優しく、そして少し寂しげに。

 

「…小太郎?」

 

首を傾げる調の胸元へ、小太郎が優しく鼻先を擦り付けてきた。

続いてリオンがチロリと大きな舌で腕を撫でる。

最後にQちゃんが鼻先で額あたりを軽く小突く。

 

「…リオン? Qちゃん?」

 

困惑する調からゆっくりと離れると、三匹は真っ直ぐ空へと浮いて行く。

 

「ねえ? 逃げるのッ!? どこかに隠れるのッ!?」

 

ベランダから身を乗り出すようにして叫ぶ調。

その様子を、三匹は一度だけ振り返った。

獣の顔付きだけど、多分笑っていたと思う。

 

それから三匹は、悠然と身を翻した。

獣の顔は太陽の昇る方向を睨みつける。

宙を踏みしめ、尾を突き立て、災厄の来る方角へ向けて走りだす。

 

〝 ありがとう、シラベ 〟

 

「…えッ?」

 

〝 オレたちを愛してくれた恩を、いまこそ君に――― 〟

 

顔を青ざめさせる少女を後に、三匹は流星となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「都内でアウフヴァッフェン波形を観測しました! これはッ!?」

 

「それより場所よ! ここは調ちゃんたちのマンションじゃないのッ!?」

 

にわかにパニックに襲われる発令所。

 

「どうしたッ! いったい何が起こっているッ!?」

 

緊急コールを聞きつけ駆け戻ってきた弦十郎の一喝に、どうにか事態は収束する。

しかしながら報告は耳を疑うもの。

連日の過労で疲弊しているのか、と思って聞き直すも、藤尭は同じ言葉を繰り返す。

 

「以前、装者たちと戦った怪物と同じアウフヴァッフェン波形を観測。場所は、調ちゃんと切歌ちゃんのマンションです!」

 

「…至急、観測班に確認に行かせろ! 調くんと切歌くんの安否確認が第一だッ! 続けて、戦闘可能な装装者の派遣準備をしろッ!」

 

「対象は、高速で空中を移動しています!」

 

「くッ! ならば移動先の推定を急げッ!」

 

矢継ぎ早に指示を飛ばす中、友里の声が響く。

 

「観測対象、モニターに出ますッ!」

 

大画面に映るは宙を駆ける巨大な三匹の獣たち。

その一体を見て、エルフナインは真っ先に叫ぶ。

 

「…九尾の狐ッ!?」

 

画面上で九つの尾を揺らして飛ぶ狐は、これほど分かり易いものはないだろう。

同時に、観測されたアウフヴァッフェン波形から、以前に装者たちと戦った超常生物であることも判明している。

 

「つまり、あの蛇の頭に見えたのは、まんまでっかい尻尾だったってことか…」

 

呟く藤尭に、

 

「なるほど、私が天ノ逆鱗を喰らわせたのは、白面金毛の九尾だったのかッ!」

 

いち早く本部へと戻ってきていた翼が応じた。

 

「もう一匹の…これは何? 虎? それともライオンなのッ?」

 

友里の声に答えるものはいない。

だが、その容貌とアウフヴァッフェン波形から、こちらも先日装者たちがS2CAで撃退した超常生物で間違いなかった。

 

「じゃあ、あの真っ白い狼はなんなんだよッ!」

 

続いて戻ってきたクリスが開口一番叫ぶ。

 

「まさかフェンリルみたいなやつの別種かッ!?」

 

「いえッ! 日本では、(オオカミ)とは大神(オオカミ)とも変換出来ますッ! もしかしたらあれは…ッ!」

 

エルフナインの説明を遮るように、藤尭の甲高い声が弾けた。

 

「三匹の到達目標が推定できました! フェンリルです! 三匹は、フェンリルへと突っ込んで行こうとしていますッ!」

 

「なんだとッ!?」

 

 

 

 

 

 

発令所は、時ならぬ喧騒に包まれていた。

以前に敵対していた生物たちが出現し、それが揃ってフェンリルを目指しているこの事態。

 

「あいつらはフェンリルの仲間じゃ?」

 

「合流して力を増すつもりなのかもッ」

 

「それともまさか仲間割れ、とか?」

 

憶測ばかりで明確な判断材料がない。

このような状況で、さすがに装者へ撃って出ろとの命令は躊躇われる。

眉間に深い皺を刻む弦十郎の前に、新たな喧騒が飛び込んできた。

 

「無事だったか、調くん! 切歌くんッ!」

 

切歌に羽交い絞めされた調が暴れている。

二人ともずぶ濡れで、ちょうど合流したらしいマリアがタオルで拭おうとするも、調は躊躇なくその手を跳ね除ける。

 

「司令ッ! お願いですッ! 止めて下さいッ!」

 

「!? どうしたというのだッ!?」

 

常ならぬ調の取り乱しように、弦十郎は面食らう。

 

「あれはッ、小太郎たちで! みんな、死ぬ気で…ッ!」

 

「調ッ、落ち着きなさいッ!」

 

マリアが必死で宥めるも、調はなお興奮状態。

ならばと切歌へ水を向ければ、

 

「あ、あれはリオンがおっきくなってばっびゅーん! なんデス!」

 

「………とにかく、二人とも落ち着いてくれ」

 

弦十郎が慣れない手際で落ち着かせようと奮戦する背後で、藤尭が叫んだ。

 

「対象三体、フェンリルと接敵しますッ!」

 

モニター上の《UNKOUN》と表示された三つの光点が、今まさにフェンリルの勢力圏内へと飛び込んでいく。

 

ふっと光点が消えた。

モニター上では、何も変化が起きていない。

起きていないように見えたのだが。

 

「ッ! フェンリルの進行が停止している…ッ!?」

 

その報告を耳に、発令所の誰もが固唾を飲んでモニターに注目する。

観測データ上でも、確かに台風はその進行を止めていた。

続いての変化に、見ていた人間の全てが唖然としたことだろう。

 

盛大に渦を巻いていた風が、一瞬で赤く染まる。

雲まで赤く染めながら、真紅の塊へと転じていく。

果たして、空前絶後の超巨大台風は、人類観測史上、もっとも巨大な積乱雲と化していた。

 

「まるで『竜の巣』みたい…」

 

一番遅れて未来を伴い戻ってきた響が呟く。

 

「んなの、アニメじゃねーんだからよッ!」

 

すかさずクリスが噛みつくも、目前のモニターに映るそれは言い得て妙だった。

普通の積乱雲との違いは、赤いことは勿論だったが、その表面がまるでアメーバのように不気味に蠢いていること。

雲のようで雲でない。生き物のように見えて機械的な無機質さも感じさせる。

受ける印象が全くちぐはぐで、見ているものを混乱させるそれは、計器類も例外ではない。

 

「…なんだこりゃ?」

 

藤尭が驚愕してる。

膨大な観測上のデータが流れ込んでくるディスプレイの上で、その数値が目まぐるしく変化を繰り返して一定しない。

友里も含めた他のオペレーターもお手上げだ。

ただ一人エルフナインのみが数値から意味を見出そうと奮戦する中、先史文明への造詣を持たないものはモニターを眺めることしか出来ない。

そんな中、弦十郎の視力は、赤いヴェールの向こうに輝く光点を見出している。

 

「あれは…なんだッ?」

 

法則性のある動きではない。まるで生き物がもがいているような…。

 

「…駄目ッ! みんな、駄目だようッ!」

 

突然目を見開き、叫ぶ調。

 

「どうしたんデスかッ!? 調ッ! 調ぇッ!」

 

調の肩を揺すろうとする切歌の手を、マリアが引き剥がす。

 

「およしなさいッ! この反応、普通じゃないわ…ッ!」

 

この調の姿は、過去のマリアの記憶にあった。

F.I.S.の施設時代。

レセプターチルドレンには様々な実験を課せられており、その中の一つに、投薬などにより意図的にトランス状態に陥らせ、疑似的な神がかりの状態まで移行させるというものがあった。

本人の霊的領域を拡大させ、次のフィーネの器として選定される可能性を高めるのだという。

大人たちの会話は、いま思い返しても胡散臭いものだ。

しかし、調がずば抜けて高数値をマークしていたのは事実であり、本質的に、彼女は巫女としての素養も持ち合わせている。

 

そして今この時、調はあの三匹と霊的チャンネルで繋がっていた。

その奇跡は、一緒に暮らした中で育まれたものか。それとも―――。

 

「一体あの中で何が起きているというのだ…ッ!?」

 

弦十郎は唸る。

フェンリルの変化と停滞は、こちらにとって凶兆か。それともこれは、装者たちをぶつける千載一遇のチャンスなのか?

 

「き、きっと、調には見えているんデスよ! 小太郎たちが戦っているのが見えているんデス!」

 

切歌の叫び声に、装者たちは顔を見合わせている。

調と切歌のことを信用するかどうかなど別にして、理解が追い付かないのだ。

 

「…えーと、切歌ちゃん? さっき飛んで行った三匹は、小太郎たちってことでいいんだよね?」

 

気を取り直した響がそう訊ねる。

 

「デスデス!」

 

「ならば、三匹はなぜフェンリルと戦っているのだ?」

 

「それは…」

 

翼の問いに切歌が答えようとした時だった。

 

「あれはおそらく、事象の地平線で戦闘が行われているんですッ! それはすなわち、フェンリルが真の概念存在へと昇華したことの証明に他なりませんッ!」

 

エルフナインが顔を上げて叫ぶ。

一瞬誰もが意味を理解できず戸惑う中、風鳴弦十郎は野性の勘で要点をまとめる。

 

「つまり、何者かとの戦闘に突入したフェンリルは本気を出した。―――ということなのかな、エルフナインくん?」

 

「は、はいッ、その通りですッ!」

 

背筋を伸ばすエルフナインを横目に、クリスは弦十郎へと問い掛けた。

 

「その何者ってのはなんなんだよ、おっさんッ!」

 

弦十郎は、ざらりと不精髭の生じている顎を撫でながら答える。

 

「『神喰らい』が相手ならば、神か、それに比肩するものしか考えられないだろう?」

 

 

 

 

概念の戦い(コンセプシャル・ウォー)

後になってエルフナインはこう評した。

だからといって、神々の戦いはすべからくこのような光景として展開されることを意味するものでない。

これすらも事象の一側面にしか過ぎず、そもそも観察側の人間の認識が正しいという保証すらないのだ。

 

だが、人の身でありながら、ただ一人、この戦いとその行く末を見届けたものがいる。

月の名を持つ巫女。月読調。

もっとも彼女が見たものですら、人間の視認と知覚のバイアスから逃れられない。

人の身で神の事象を理解するためには、人が知覚できるようにダウングレードが必要となるからだ。

それでもなお彼女の脳裏に展開された光景は、きっと事実の一側面に成り得るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

広大な、果てさえ見えない黒い空間。

その中心で、巨大な獣が雄叫びを上げている。

 

それに相対する三匹の存在は、あまりにもちっぽけに見えた。

 

先頭の白い狼はもう無数の傷を負っていた。

それは後続の虎と狐も同様で、こちらも既に満身創痍だ。

 

それでも狐が尾を奮い立てた。

その尾の数から推定できる通り、彼女の正体は白面金毛の九尾の狐だ。

 

虎も吠えた。

虎であり、ライオンにも酷似した容貌を持つ彼の正体はドゥンだ。

インド神話にて、アスラ神族を倒すためにドゥルガーに贈られたとされる神獣。

 

どちらも神殺しの逸話を持つために、中国とインドでそれぞれが錬金術師の手により、封印から解き放たれた。

対ガングニールの刺客として装者に挑み、撃退されたことは語るまでもない。

 

 

 

そして相対する巨大な獣―――神を喰らい(ゴットイーター)フェンリル。

神に所縁(ゆかり)のあるものを悉く食い尽くす様は、かの〝暴食〟の巨人ネフィリムと共通点を見出せるかも知れない。

しかし、その根本は全く違う。聖遺物を喰らい、エネルギーへと変換し成長するネフィリム。

対してフェンリルは、無限に神を喰らい続けるのみ。そこに意志も知能も存在しない。もはや現象とさえ言えた。

 

それもそのはずで、フェンリルとは先史文明に作られた対アヌンナキ用の殲滅概念兵器である。

ヒトが相争うものであれば、ヒトを作りしカストディアンたちも争いあった。

畢竟、戦争とは力のぶつけ合いであり、より強い力を持つものが勝つのが摂理となる。

アヌンナキたちも星霜の戦いの果てに、様々な力と兵器を作り出した。

その一つがフェンリルなのだ。

 

一歩間違えなくても大量虐殺兵器に成り得るフェンリルの運用とコントロールには、細心の注意が払われていた。

にも関わらず、フェンリルは起動した。しかも見事に暴走し、悪い意味で制作者の予想以上の効果をもたらす。

その被害は筆舌に尽くし難く、多くのアヌンナキが飲み込まれ、ようやく制御に成功したころには、地球の統治者たちは一時的にその姿を消したほど。

 

のちに神々の黄昏(ラグナロク)と呼称される出来事の原典はこれである。ただの概念であるフェンリルが巨大な狼の姿を与えられたのは、後世における神話を伝えたヒトの認識であり、本来の〝彼〟に定まった形など存在しない。

 

再び起動した彼は、(シェム・ハ)の亡き世界で、もっとも神の力が残留する日本へと針路を向けた。

シェム・ハの件はなくとも神州と称されるほど、日本は現代においても神の概念が深く息づく国である。

 

神と神に類する力を全て飲み込む。

そのプログラムに従い、日本の全ての神性を飲み込み、果ては地脈や龍脈までズタズタにするべくフェンリルは邁進する。

日本が終われば、次は別の神の〝濃い〟国土へ。おそらく、地球上の神に関する全てを喰らい尽くし、そこで初めて遠く外宇宙へ消えたアヌンナキ()たちに狙いを移す。

神に作られし人間たちになど、成す術はなかった。

もはや制御する術すら失われているはずだからだ。

 

―――にも関わらず、目前のこの三匹はなんなのだ?

 

フェンリルはプログラムでしかなく、自意識を持たない。

仮にもっていたとすれば、目前の光景に盛大に首を捻っていたことだろう。

 

三つの対象は、それなりに高い神の濃度を持っている。

かつて地球上に君臨していた神の末裔か何かだろう。

だかそんなことは些末なことだ。

フェンリルにとってはただの殲滅対象に過ぎない。

 

フェンリルの中の太古のメモリーが情報を吐き出す。

 

逃げまどう殲滅対象(神々)

淡々とそれを飲み込んでいくフェンリル。

 

確定事項ですらなく、自然現象のごとく己のプログラムを執行してきたフェンリルにとって、目前の三体の行動は理解不能だった。

 

なぜに抗う?

 

見苦しく足掻くだけではなく、こちらを倒そうとする意志すら感じる。

概念兵器である彼にとって、神に類する力は無力だというのに。

 

彼は知っている。

神は絶対に自分には敵わない。

 

そして彼は知らない。

自分がどうやって制御され、封印されたのか、など。

 

彼はプログラムだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

だから、知りようもない。知る必要もない。知る意義を認めない。

 

今、目指している日本こそ、この星で未だ言霊の息づく土地であることを。

今、相対しているオオカミこそ、その国の天を照らす神に他ならないことを。

 

 

 

漆黒の世界で、白い狼が遠吠えを響かせた。

続いて首をぐるりと回せば、その口に咥えられるは長大な剣。

 

無骨な、柄と刀身が一体化したそれは神世の形にして、月読の乙女の髪で造られし剣。

『髪切り』の言霊を込められた『神斬り』の剣だ。

 

嘲笑うかのようにフェンリルは口を開ける。

 

それはそうだろう。

《神喰らい》に対し《神斬り》の概念など無意味だ。

いかな二重の言霊を込められようと、哲学的な矛盾すら生じる余地はない。

 

されど白い狼は斬りかかった。

おそらく渾身の力を込めた一撃は、しかしただの一合で粉々に砕け散る。

 

がっくりと項垂れるような狼に、フェンリルはますます大きく口を開いて行く。

脱力したのはドゥンも九尾の狐も同じだった。

三匹はもはや抵抗を諦めたように、黒い空間へと浮かぶのみ。

 

フェンリルの口は、いまや大きく反り返り、黒い世界を呑みこむほどの巨大さを主張していた。

神話において、天と地すら飲み込んだと評されるように、その赤い顎門(アギト)は、己を含めた世界ごとまとめて三匹を飲み込もうとする。

その口の中の光すら通さぬ漆黒こそが、無限に神性を喰らい続ける彼の概念そのものに違いない。

 

その中へ、成す術もなく三匹が吸い込まれていくかに見えた。

だが、三匹は待ち構えていたように一斉に牙を剥く。

それぞれが凄まじい勢いで噛み付いたそれは、何もない空間ではない。フェンリルの口の中にこそ存在する、無限の概念そのものだ。

 

だがフェンリルは動じない。

何事もなかったようにその三匹を飲み込むだけだ。

 

長大な顎が閉じて行く。

三匹の神の力も、そのまま無限へと飲み込まれ消えていくだけ。

そのはずだった。

そのはずだったのに、フェンリルの動きが止まっていた。

 

 

その光景を眺めるただ一人の人間、調だけには見えていた。

フェンリルの口の中で牙を突き立てる三匹。

彼らの犬歯が、先ほどの神斬りの剣と同じ白銀の煌めきを放っていることを。

 

―――(けん)と成り替わりし犬歯(けんし)は、剣歯(けんし)となる。

その剣歯で噛み付けば、神斬りの言霊は更に意味を変えていく。

 

噛み付かれ、フェンリルの全身が揺らいだ。

プログラムに鳴り響く最大の警戒。

感情がない彼をして、危険だという認識が警鐘を鳴らす。

 

異常なアクシデントを回避するべく、フェンリルが身体をねじる。

しかし、三匹はしっかりと牙を突き立てて離れることはない。

 

これが三匹の一縷の勝機。

言霊を用いた最後の切り札。

 

『髪切り』の乙女の髪の『神斬り』で、剣の牙を突き立てば、そこには『噛み切り』の言の刃が宿る。

 

牙を突き立てながら、三匹は同時に吠える。

 

 

 

汝、『切』の一文字に括目せよ!

 

我ら『一切』の事象を『切』り裂き、心より『切』に願わん!

 

 

 

 

無限という際限のない概念は、文字通り『(きり)』がないということに他ならない。

その切を無限に突き立てるなら、有限となるは当然至極。

限りが有るものならば、尽きぬ道理など存在しない。

 

 

フェンリルが全身を震わせた。

突きつけられた概念は猛毒にも似て、たちまち全身を侵していく。

 

その様子に、しかし三匹とも喰い込ませた牙を緩めない。

文字通り噛み切ってこそ、この言霊は成就する。

それは同時に、三匹の命もろとも切をつけ、共に尽きるということ。

 

 

 

 

(止めて!)

 

調は叫んでいた。

聞こえないと思っても、叫ばずにはいられなかった。

 

(三匹とも、なんで、そんな…!!)

 

 

 

 

 

唐突に調の脳裏に温かいものが流れ込んできた。

それは次々と映像を結ぶ。

 

 

 

 

小太郎を抱きしめる自分がいる。

 

リオンの鼻先を撫でる自分がいる。

 

Qちゃんの抜け毛取りをする自分がいる。

 

全ての主観が自分ではないことに調は気づく。

これはきっと、三匹たちの記憶。

 

 

だから、見たことのない光景が次々と浮かんできても不思議ではない。

 

自分の髪の毛を持って、神剣を造るべく鈩神のもとを訪れる小太郎。

その不在を、切歌のオモチャで取り繕うQちゃん。

戻ってきた小太郎のボロボロの汚れを、洗い流すためにシャワー全開にしたリオン。

熱を出してベッドで伏せる自分に、力を合わせて冷蔵庫からスポーツドリンクを引っ張り出す三匹。

その過程で室内は汚れ捲ったので、更に盛大に散らかして誤魔化したり。

 

全てが他愛もなく、それでいて宝石のように希少な時間。

決して長い時間ではない。その中でお互いに、癒し癒され、愛し愛され。

 

埋もれてしまいそうなほどの温もりを胸いっぱいに受け止めて、調は気づいた。

気づいてしまった。

 

これこそが調の守りたかった場所。護りたかった時間。

 

そしてそれは、三匹も同じであることに。

 

 

(駄目、やめて…ッ!)

 

 

調は叫ぶ。

だが、その願いは聞き届けられない。

 

 

黒い無限の空間に、白い閃光が生まれた。

それはきっと有限の命の煌めきで。

 

煌めきが放射状に広がり、空間へと亀裂が走る。

そして黒い空間は、まるでタイルのように次々と剥落して行く。

 

崩壊していく地平線の彼方から、優しい波のように、その声は少女の耳へそっと届いた。

 

 

 

〝 さようなら、シラベ… 〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フェンリルと思しき存在が消失して行きます…ッ!」

 

藤尭の声に、モニター上の竜の巣が解けていく。

赤い異常な雲が消え去った海上は、海面は凪ぎ、眩しいくらいの蒼穹があった。

 

…終わった、のか?

 

誰もが確信を抱けず、腕を組んで仁王立ちした弦十郎へと視線を注ぐ。

 

「うむッ」

 

弦十郎が力強く頷いた。

それが合図とばかりに、発令所、S.O.N.G.本部全体が歓声を上がる。

いや、ひょっとしたら日本中が喝采を上げていたのかも知れない。

 

やった! やったぞ! なんだか分からないけれど、倒したんだ! 日本は救われたんだ…!

 

だが、発令所に限っては、まもなくその喝采も消沈して行く。

 

誰もが歓喜の表情を浮かべる中。

月読調はその場に蹲り、子供のように泣きじゃくっていた。

切歌が一生懸命なだめても、ずっとずっと泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

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