「夏油様」
「ん?」
「あの……何をしていらっしゃるのでしょうか?」
「ああ、これかい?」
少し集中して作業していた夏油傑は、そう問いかけられて顔を上げた。秘書の彼女はとても有能で仕事が早く、おまけに器量も良い。しかし、そんな優秀な彼女の顔は「この人はなにをやっているのだろう?」という困惑に満ちていた。
「いやぁ、なに。ウチの団体も、そろそろわかりやすい教義の一つでも作った方がいいかと思ってね」
「教義、ですか?」
「そう。教義だ。要はキャッチコピーだよ。なるべく簡単でわかりやすいものにしようと思ったんだけど、これがなかなか難しい」
言いながら、夏油は床に大量に広げた半紙を見た。すぐ近くには筆と墨も置かれ、まるで小学生が冬休みの書初めの課題を慌ててやっているような、そんな様相を呈している。ノースリーブで露わになっている肩を竦めて、彼女は溜息を吐いた。
「夏油様、ここは執務室です。あまり散らかされては困ります」
「片付けは私がするよ」
「いいえ。片付けは私がします。それよりも、夏油様は面会のご準備をなさってください。新しい入会希望の方がいらっしゃるので」
「おや? もうそんな時間かい?」
夏油傑は呪詛師である。
そして、宗教団体の教組である。
元々あった宗教団体を取り込んだだけあって、信者の数はそれなり。新たに入会したいという人間も、続々と集まっている。金を出してくれる人間はいればいるほど良い。新しい信者との面会も、夏油の重要な仕事の一つだった。
とはいえ、
「めんどくさ……」
「夏油様」
「猿と会うのは疲れるんだよ」
唇と尖らせて文句を言ってみるも、彼女は優秀なので聞き入れてくれない。筆と墨汁を取り上げられ、夏油は仕方なく片付けに入った。
「だから片付けはわたしが……」
「構わないよ。散らかしたのは私だ」
「時間に間に合わなくなりますよ」
「猿は待たせておけばいい。それに、時間通りにのこのこ出て行くより、少し遅れて行った方が箔がつくだろう?」
「その間、汚らわしい猿の相手をさせられるわたしの身にもなっていただけますか?」
「はっはは。君も言うようになったね」
床の半紙をまとめていると、
「夏油様~!」
「入ります……」
騒がしく、ノックもなしにドアが開けられた。
一人は、黒髪のボブヘアに黒のセーラー服。腕に抱えているウサギの縫いぐるみだけが、白く目立つ。
もう一人は、染めた髪に明るい色のカーディガン。アップにまとめた髪型が、いかにも快活な印象だ。
「美々子! 奈々子! あなた達、夏油様の執務室に入る時はノックしなさいと、あれほど……」
「え~、べつにいいじゃん~。わたしたちの方が夏油様と付き合い長いし。指図受ける筋合いなくない? ねぇ、美々子」
「ねー、奈々子」
「あんた達……」
整った顔立ちにビキリ、と青筋が浮かぶが、夏油はそれを手で制した。
「喧嘩はよくないよ。家族は仲良くしないと」
非術師を『猿』と呼ぶのとは対照的に。夏油は仲間の呪術師を『家族』と呼ぶ。
その単語を聞いて、美々子と奈々子の表情が柔らかく綻んだ。
「それに、この子たちは意味もなく執務室に押し入ったりしないよ」
「そうだよっ! 聞いて聞いて、夏油様! 強力な呪霊が手に入るチャンスかもしれないんだよ!」
「実は……」
午後の予定はキャンセルになりそうだ。彼女は頭を抱えて、夏油のスケジュールを確認した。
「耳なし芳一、か」
また随分と、メジャーな怪談が出てきたものだ。夏油は薄く笑った。
「あー! 夏油様、笑ったでしょ!」
「……バカにした」
「ごめんごめん。バカにしてないよ。続けて?」
先を促すと、頬を膨らませながらも奈々子が答えた。
「なんか~、最近ネットで話題になっている噂があって。この村に行くと、取られちゃうんだって」
「耳が?」
「そ。耳が」
ふむ、と。夏油は顎に手を当てた。
「二人は『耳なし芳一』という怪談について、どれくらい知っているかな?」
「あまり詳しくは……」
「はいはい! お坊さんが耳とられちゃう話!」
「それくらいは誰でも知ってるでしょ、奈々子」
「うるさいなぁ。夏油様に聞かれたんだから、答えただけでしょ、美々子」
「まあまあ」
そのまま頬を膨らませて睨み合う二人を、手で制する。
夏油達は現在、バスに乗って噂の村に向けて絶賛移動中である。一番後ろの席に陣取り、夏油の右側にセーラー服の美々子、左側にカーディガンの奈々子が座っているので、傍から見れば僧侶がJKを二人侍らせているようにしか見えない。
しかし、平日の昼間から片田舎の寒村に向かうバスは、言うまでもなくガラガラである。車中で耳なし芳一の講義に耳を傾ける人間は、美々子と奈々子以外にいなかった。
「耳なし芳一というのは、山口県の下関にある阿弥陀寺を舞台にした怪談でね。小泉八雲という作家が書いた『怪談』から、広く知られるようになったんだ」
出版されたのは1904年。17編の幽霊、妖怪の伝承が収録されており、今も有名な妖怪の話もいくつか綴られている。
「雪女やろくろ首の話なんかも、この本で読めるよ」
「へぇ……」
「呪術師のアタシらが妖怪とかそういう話のルーツに触れるのって、なんか変な感じ」
「そうだね。でも重要なことだ。伝承に残っているということは、多くの人にそれだけ知られている、ということだからね。知っておいて損はない」
呪霊の強さと知名度は決してイコールでは繋がらないが、それでも著名な妖怪や幽霊の類は、無名の呪霊に比べて厄介な存在であることが多い。また、伝承、伝説の多くはその概要だけでも理解しておくことで、対策に繋がる。言葉による『縛り』が重要な術式において、これは非常に重要な要素である。
「耳なし芳一のあらすじは、大まかにこうだ」
琵琶法師の芳一は、小さい頃から目が不自由だったが、琵琶の弾き語りをさせれば並ぶ者はおらず、評判を集めていた。しかしある日、平家の怨霊に取り憑かれてしまい、夜に寺を抜け出して墓の前で琵琶を弾くようになってしまう。
「平家って、源氏と平氏のあの平家? 源平合戦とか平清盛とかの」
「ああ。芳一は特に平家物語の弾き語りが巧みだったそうだよ。それで、平家一門の怨霊に目をつけられてしまった」
芳一の世話をしていた和尚は、このままでは芳一が殺されてしまうと考え、彼の全身に般若心経を写して守ることにした。しかし、耳に写経するのを忘れてしまい、その結果芳一は耳を奪われてしまう。
「そこまでは……なんとなく知ってる」
「あれ? でも、最後はどうなるんだっけ?」
頭の上にクエスチョンマークを浮かべる二人。夏油は微笑んだ。
「無理もない。ここまでのあらすじは、タイトルと紐づけてなんとなく覚えられるからね。逆に、結末まで語れる人は少ないと思うよ」
結果。芳一は怨霊に耳だけを持ち帰られてしまうが、身動きせず声もあげず耐え抜き、和尚に助けられた。それ以後、平家の怨霊は現れず、耳の傷も回復し、芳一は琵琶を奏でて幸せに暮らした。
「最後はハッピーエンド、というわけさ」
「そうなんだ。なんか意外~」
「うん……なんとなく、芳一は不幸になったと思ってた」
「なんとなく、怪談は不幸な結末をイメージしがちだからね。気持ちはわかる」
耳を奪われても怨霊に屈しなかった芳一の忍耐と精神力。己の非を認め、芳一を労った和尚。このあたりが、怪談のおどろおどろしさを中和するアクセントになっている。
「ちなみに、小泉八雲の本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン」
「外国人!?」
「元々はイギリス人だよ」
彼の生まれた島は今はギリシア領だが、そこまで言及するとややこしいので省略する。とにかく、元は外国人であった、という点がおもしろい。
「小泉は日本に帰化して、日本人の妻と結婚している。目が悪かったらしく、極端に高い机に顔を密着させて作品を書いていたらしい」
「耳なし芳一を書いてた人が、実際に不自由なのは目だったんだ。書くの大変そう~」
「そうだね。だから彼は、妻から口伝えに。自分の耳を頼りに日本の様々な怪奇譚を聞いて、それを『怪談』にまとめたんだ」
「じゃあ……『耳なし芳一』は、彼が考えた物語ではなく、もっと古くからあった『呪い』ってことですか?」
「その可能性は否定できない」
例として『特級仮想怨霊』と呼ばれる存在が挙げられる。
呪霊は人間から生まれる。必然、多くの人々が持つ共通認識、畏怖のイメージは、時に強力な呪霊となって顕現することが多い。『口裂け女』や『トイレの花子さん』。あるいは『酒吞童子』や『九尾の狐』といった誰もが知る呪いを、呪術師は仮想の怨霊として警戒しているのだ。
認知されている特級の呪霊は、現在十六体。夏油もいざという時の切り札として、特級仮想怨霊の一体である『化身玉藻前』を手中に収めている。
「強力な呪いは、何体あっても困らない。琵琶法師の耳を奪った平家の怨霊。いただけるのなら、是非とも欲しいね」
物騒な話をしている内に、目的地に到着した。
バスを降りると、むせかえるような緑の匂いが鼻をつく。
「うへぇ……田舎くさ」
「私、ここ嫌いだな」
奈々子が鼻をつまみ、美々子が顔をしかめる。失礼極まりない反応だったが、無理もない。あそこまで小規模で閉鎖的ではないとはいえ、この村の雰囲気は夏油が二人を救った『あの村』によく似ていた。
早速、小型の呪霊を肩にのせ、さらに数匹を放って呪力の気配を探る。が、特段不穏な気配は感じない。やはり、詳しい調査が必要だろう。
「うわ! ここ二時間に一本しかバスないじゃん!」
「今から調べて、帰れるかな……」
「なにを言っているんだい、二人とも。今日は泊まりだよ」
「は?」
「え?」
何気ない夏油の言葉に、奈々子が固まり美々子が絶句する。
「うそでしょ!? こんなとこに泊まるの!?」
「ムリムリムリ、絶対無理! 何の準備もしてきてないのに!」
「真っ先に身だしなみを気にするなんて……二人とも大きくなったなぁ。もう立派な女性だ。私は嬉しいよ」
「立派な女性だと思ってるなら、事前に一言くらい欲しかったんですけど!?」
「大丈夫。明日は祭日だから、学校は休みだろう?」
「言ったそばから子ども扱いするし!」
「そうだ。こうして三人で出かけるのもひさしぶりだし、記念写真を撮ろうか。大丈夫、ちゃんと一眼は持ってきてあるんだ」
「夏油様……さっきから全然大丈夫じゃないです」
「ていうか、こんなど田舎じゃ『バえる』場所全然ないし!」
「ど田舎で悪かったな」
「へ?」
突然割って入ってきた声に、奈々子が固まる。振り返ってみれば、夏油と同じく袈裟姿の僧侶が一人、仏頂面で立っていた。
夏油は、頭を下げて礼をする。
「こんにちは。はじめまして、和尚。お迎え恐縮です」
「……あなたが、連絡のあった夏油傑殿で間違いないか?」
「ええ。本日はお世話になります」
年齢は六十手前といったところだろうか。額や頬の皺が目立つが、全体的に彫りの深い顔立ちで、若い頃は美形だったのであろうと確信できる。だが、なによりも目を引くのは、その瞳だった。薄く濁った虹彩には光が宿っておらず、眼球の動きに違和感がある。
目が悪いのだろう、と夏油は思った。しかし、視線はきちんとこちらを向いているので、完全に見えないわけではないらしい。
「人数は三人か。元より、民宿もない村だ。うちの寺社に泊まってもらうことになるが、構わんな?」
「ええ、御本尊に手を合わせたいですし。助かります」
「……ところで、そちらのお嬢さん方は?」
「ああ、この二人は私の家族です。いろいろ事情があり、預かっています」
夏油に目配せされ、奈々子と美々子は慌てて頭を下げた。
「美々子です!」
「な、奈々子です……」
和尚は考え込むようにしばらく黙り込んだが、軽く頷いた。
「ふむ……よろしく。それでは、うちの寺に案内する。ついてきてもらおう」
「はい。よろしくお願いします」
意外にも軽い足取りですたすたと歩いていく和尚の後ろ姿を見て、奈々子と美々子は顔を見合わせた。
「あの……夏油様」
「あの人、目が……」
夏油は、二人の肩に手を置いて薄く笑った。
「耳なし芳一の噂に、目が不自由な和尚か。いいね。きな臭くなってきたじゃないか」
少なくとも、ただの噂止まりのハズレではないらしい。
和尚に案内された寺社は、拍子抜けするほどに小さかった。だが、小さくても手入れは行き届いており、目につく場所や本殿は綺麗に磨かれている。それでも、廊下の隅には蜘蛛の巣が張られ、窓にはヤモリが張りついていたが、奈々子も美々子も元は田舎暮らしなので、この程度は許容範囲内である。
「耳なし芳一?」
「はい」
小さな御本尊に手を合わせた後、夏油は早速本題に入った。
「そのような噂があると、耳にしました。なんでも、耳を取られかけた人間がいる、とか」
「耳を取られかけた人間がいる、と耳にしたか。冗談が上手いな」
「恐縮です」
淹れた茶を夏油達に薦めながら、和尚は顎をさすった。
「たしかに、そのような噂はある。村の者も、実際に被害に遭ったと聞く」
得てして、こういった田舎の人間は外の人間を嫌うものである。この和尚も例外なくその手の類の人間かと夏油は思ったが、返答は悪意も嫌味もなく淡泊なものだった。
「何か、対策などは?」
「さて……対策と言われると言葉に困る。わしのように修行が足りぬ身では、できることにも限りがあるのでな。仏に手を合わせるだけならいざ知らず、魑魅魍魎の類を退治する心得はまるでない」
「なにそれ? ほったらかしってこと?」
「奈々子」
「そういうこと……じゃない? 対策がないなら仕方ないでしょう」
「美々子も。やめなさい。失礼だろう」
夏油は二人を窘めたが、和尚は特に気分を害した様子もなく、むしろ肩を軽く竦めてみせた。
「元気が良くて、素直な娘さん方だ」
「申し訳ありません」
「いや結構。わしが至らず、村の者に被害が出ているのは事実。まったくもって耳が痛い」
とはいえ、と和尚は言葉を繋げた。
「わしも一度、噂の場所へ手を合わせに行った。まだ日の落ちない時間だったおかげか、特に化生と顔を会わせることもなかった。まあ、わしの運がよかっただけかもしれんが……形だけとはいえ、経も唱えてきた。それ以来、被害は出ておらん」
村の人間にも、日が落ちたらその場所には立ち入らないように強く言い聞かせてあるという。
呪霊という存在は、とかく『場所』というものに縛られやすい。対処療法とはいえ、思った以上に的確な和尚の対応に、夏油は感心した。
「それで、噂の場所というのは?」
「村のはずれの祠だな。山を少し登ったところにある。見に行くなら、日が落ちない内に行ってくれ。夕食の用意もあるからな」
「……和尚さん、止めないの?」
「さっきも言った通り、昼間なら安全だ。娘さん方くらいの年頃なら、怪談話には興味があって当然だろう。でなければ、こんなど田舎に来る理由がない」
強調された『ど田舎』という言葉に、奈々子が居心地悪く小さくなった。
「それに……そちらの夏油殿はわしと違って、なにやら霊に対する心得がある様子。心配はなかろう」
「心得というほどではありませんが……村の方々が安心して過ごせるよう、力を尽くしてみようと思います」
夏油がそう言うと、和尚は床に手をついて、深々と頭を下げた。
「よろしく頼む。村の者に話を聞く時は、わしの名前を出すといい」
「承知しました」
予想以上に協力的な姿勢に、奈々子と美々子はまた顔を見合わせて首を傾げた。
その後、夏油達は三人で分かれて村の中を歩き回り、情報収集を行った。大まかな話は、和尚から聞いたものと大差なく、村の人間が耳を取られかけた、祠には夜に近づかないようにしている、という話がメインだった。耳なし芳一の話を聞くと最初は嫌な顔をされたが、和尚の名前を出した瞬間にそれも消えた。それだけで、彼が村の人間からよく信頼されているのがよくわかった。
実際に祠も確認してみたが、取り込む価値もないような低級の呪いすらおらず、特別な残穢(呪力の痕跡)も見られなかった。平たく言えば、収穫なしである。あとは夜にかけることにして、夏油達は寺に引き上げることにした。
「疲れた~」
「狭い村だけど歩くのしんどい……」
「祠まではそれなりに高低差があったからね。無理もない」
笑いながら、夏油は消臭スプレーを自分の袈裟に吹きかけた。
「夏油様、それって……」
「ん? 消臭スプレーだよ。今日は猿にたくさん会った。臭いがつくといけない」
呪力を持たない人間は猿。いつも通りの夏油に、奈々子は苦笑した。美々子もはにかむように笑って、手を伸ばす。
「夏油様、それ私にもください……猿の臭いはともかく、汗臭くなるのいやだ……」
「アタシも~」
「もちろんだとも」
夏油は消臭スプレーを美々子に手渡した。
「奈々子と美々子は部屋に戻って少し休んでいなさい。夕食の準備ができたら、私が呼びに行くから」
「はーい」
二人を先に部屋に戻して、夏油は台所へ向かった。中を覗いてみると、眼鏡をかけた和尚が食材と格闘している。
「手伝いますよ、和尚」
「……む。夏油殿か。話は聞けたかね?」
「ええ。それなりに」
精進料理だけかと思ったが、和尚の手元を見ると肉や魚も用意されていた。夏油達の来訪を聞いて、村の人間に譲ってもらったのだろう。
「耳は取られなかったかね?」
「おかげさまで。和尚の冗談もハッキリ聞こえますよ」
「それはなにより」
軽口を叩きながら、夏油は包丁を手に取った。和尚では時間がかかるであろう野菜の下処理などを、手早く済ませていく。
「客人に包丁を握らせるとは、申し訳ないな」
「構いませんよ。こちらこそ、何のお礼もできないので、これくらいはさせてください」
「祠は見てきたか?」
「手を合わせてきました。それ以上のことは何も」
「そうか。娘さん方はがっかりしていただろう」
「いえ。あの子達に何かあったら困りますので。悪霊の類が出てこなくてほっとしました」
「……大切にしているのだな」
「家族ですから。こちらの野菜はどうします?」
「鍋に入れてくれ」
「わかりました」
今日会った男が二人。並んで厨房に立って、料理をするというのもおかしな話である。しかし、夏油はこの老人との会話に、不思議と不快を感じなかった。心地良いと言い換えてもいい。会話のテンポが合うのだ。
「きみと話していると、息子を思い出すな」
「私と同じくらいの年かもしれませんね」
「そうだな。生きていれば、きみくらいだろう」
さらり、と。告げられた事実に、夏油は肉を切る手を止めた。
「……亡くなれたのですか?」
「修行を兼ねて、各地の寺を巡っていた。が、事故に遭ってな。あっさりと逝ってしまったよ。ちょうど去年のことだ」
「それは……」
紡ぎかけた言葉は、追加で置かれた食材に遮られた。
「気にしないでくれ。ボケた坊主の独り言だ。ひさしぶりに賑やかな食事で、わしも嬉しい。わざわざ、暗い話しをする必要もあるまいよ」
「……お気遣い、痛み入ります」
逆に気を遣われてしまい、夏油は苦笑した。
跡継ぎもなく、朽ちかけた寺社に一人きり。この老人はどのような心境なのだろう、と。柄にもないことを考えてしまう。
「強がりに聞こえるかもしれんが、べつに寂しくはない」
まるで思考を見透かしたように、和尚は言う。
「手を合わせれば、息子にもいつでも会える。こんな片田舎だが、きみのように寺を訪ねてくれる若者もいる。有り難いことだ」
「それは、和尚の人徳あってこそでしょう」
「きみは世辞が上手いな」
「相手は選んで言っているつもりです」
「ふむ。世辞が上手いのではなく、口が上手いだけか」
「それはよく言われます」
「謙遜しないのも、また好ましい。味噌をとってくれるか?」
「はい」
近頃は、奈々子達のような『家族達』以外の人間とは、まともな会話をしていなかったが。休みなく手を動かし、ふとした瞬間に口を開いて言葉を交わす。そういう時間も、悪くないものだった。
一通りの調理が終わったところで、部屋に奈々子と美々子を呼びに行く。
「二人とも、夕食ができたよ」
「はーい。お腹空いたー!」
「夏油様、スプレーありがとうございました」
「ああ」
夏油は美々子に返してもらった消臭スプレーをしばらく見詰めたが、それを自分の体に振りかけることなく、懐にしまい込んだ。
慎ましやかではあったが、夕食はとても美味かった。
夜が更けた。
呪いの時間だ。
「さて、準備をしようか!」
夏油傑は上裸だった。袈裟をはだけ、腰に手を当てて上裸だった。
「夏油様!」
「どうして服を脱ぐんですか!?」
奈々子は目を閉じて叫び、美々子は両目に手を当てながらも、指の間からちらちらと夏油の上半身を見ている。
「そりゃあもちろん、これから全身に経文を書き写すからだよ。耳なし芳一のあらすじは、バスの中で話しただろう? 裸にならないと、経文を書けないじゃないか」
静けさが満ちる夜の寺。女子高生二人の前に、袈裟をはだけた半裸の男が一人。見方によっては、完全に事案である。煩悩の塊と罵られても仕方ないだろう。
が、夏油は神も仏も信じているわけではないので、なにくわぬ顔で墨を擦った。
「それは! そうだけど!」
「……そこまで、する必要ありますか?」
「もちろんあるとも。噂の呪霊は、耳に執着している。なら『耳なし芳一』の伝承になるべくなぞらえて、こちらも準備した方がいい」
仮に、呪霊の正体を『耳なし芳一』に登場する、平家の悪霊のような存在だと仮定した場合。昼間の調査で気配がなかった理由は、呪霊が未完成の領域を張っていたからだと考えられる。たとえ特級の呪霊といえども、術式を付与した領域を延々と展開し続けるのは不可能。結界内に侵入し、噂の呪霊を発見するためには、何らかの鍵となる行為が必要になってくる。
「近くに川でもあれば、わかりやすくて助かったんだけどね」
川や境界を跨ぐ、彼岸へ渡る行為は呪術的に大きな意味を持つ。そういった場所があれば間違いなく『黒』だったが、噂の中心となっているのは件の祠だけである。
「怪しい場所があの祠しかない以上、あとは呪霊の側に気に入ってもらえるように、こちらが工夫するしかない」
「でも、そのカギになる行為が、ほんとにこれなのぉ?」
ぺたぺた、と奈々子は半信半疑で夏油の上半身に筆を走らせる。曲がりなりにも呪術をかじっているためにこの程度の経文を書き写すのは朝飯前だったが……父のように尊敬している男の上体に墨で文字を綴っていく、というのは。なんというか、言葉にできないものがある。
「……文句言わずに、やりなよ奈々子。夏油様が効果ある、って言っているんだから」
「じゃあ、美々子代わってよ~」
「私は……夏油様の腹筋見るので、忙しいから」
「このムッツリスケベ!」
「はっはは。これでもきちんと鍛えているからね。見られて恥ずかしい腹筋ではないと自負しているよ」
あっけらかんと言ってのける夏油も夏油だった。
「耳はいいんですか?」
「ああ。耳にまで経文を書き写すと、呪霊が寄ってこないかもしれないからね」
流石に下半身は自分でやることにして。全身に経文を書き写し終えた夏油は、再び袈裟を着直した。全身を覆い隠しているため、ぱっと見ただけではわからないが、露出している顔と手の甲だけでも、びっしりと埋まった経文が異様な雰囲気を醸し出していた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「本当にお一人で大丈夫ですか?」
ひらひらと手を振る夏油に、美々子は思わず聞き返した。
「問題ないよ。何かあったら呼ぶから、その時はよろしく」
軽い言葉を残して、足取りも軽く。夜の闇の中へ夏油は消えて行った。
待つ時間は、長く感じる。
「ねえ……奈々子」
「何よ」
「今、気がついたんだけど……夏油様に、多分連絡繋がらない」
「なんで?」
「電波、繋がらない……多分、祠の方に行くと、届かないんだと思う」
「マジ?」
クソ田舎め。思わず奈々子は舌打ちを鳴らした。
こんなことなら、連絡用の呪霊の一匹でも残しておいてもらえば良かった、と。揃って顔を見合わせ、溜め息を吐いた、
その、直後だった。
「「っ……!?」」
元々、素養はあったが、奈々子と美々子は伝統的な呪術師の家系ではない。夏油から術式の指導を受け、戦闘に関してはそれなりの自信があるが、呪力の探知や精査などは、並みの呪術師程度にしかこなせない。
が、そんな二人でも分かるほどの莫大な呪力が、唐突に励起した。目と鼻の先。昼間に手を合わせた仏像がある、本堂の方だ。
部屋を飛び出すと、低級の呪霊が数匹、跳ねるように廊下を駆けてきた。奈々子は術式に使用するスマホを構えたが、それを美々子が前に出て遮った。
「……奈々子、先に行って」
「美々子!?」
「和尚様……あっちで寝てる。助けないと、まずい」
呪霊の一匹が、美々子の術式で吊り下げられ、首を絞められる。
「はやく」
「……わかった。無理しないでね!」
この場を美々子に任せて、奈々子は駆け出した。靴を履く時間すら惜しんで、靴下のまま地面を踏みしめて、走る。途中に数体の呪霊が立ちはだかったが、振り切って進んだ。
昼間は、呪霊の気配などなかった。何かに釣られてこの寺に集まったのか。あるいは、どこか別の場所から一気に溢れ出てきたのか。それにしても、どうして夏油がいないこのタイミングで。
(もしかして……夏油様に何か)
頭に浮かんだ悪い想像も振り切って、奈々子は本堂の階段を駆け上がった。古めかしい、木の扉を開ける。
「和尚のじいちゃん! 生きてる!?」
言ってから、奈々子は大声を出したことを後悔した。
本堂の中には、和尚がいた。そして、一体の呪霊が和尚を見下ろして佇んでいた。
兜と鎧。闇の中に浮かび上がっているのは、まるで武者のようなシルエットだったが、よく見ればそれは甲冑などではなく、蠢く肉の塊であることがわかる。灰褐色と血のような赤に彩られた、肉塊の武者。それが、異常な呪力の正体だった。
(平家の……怨霊?)
耳を剥ぎ取る怪異。眼前のそれに向けて、奈々子は術式のスマホを構えた。
「こっち向け! 落ち武者野郎!」
ゴキリ。
人間では考えられない動きで、鎧の呪霊の首が曲がった。刀を抜いて構えるわけでもなく、ゆっくりと。腕が持ち上がる。
そして、奈々子は次の瞬間に、手元からスマホを弾き飛ばされていた。
「え……?」
何をされたか。わからなかった。
ただ、その瞬間の攻防で奈々子は悟ってしまった。
自分では、この呪霊に勝てない。
死ぬ。
そんな確信が、思考を雁字搦めに縛った。
「ふむ……何か、特別な術を使えるようだが。所詮はこんなものか」
だが。
しわがれた声が、止まっていた思考を再び動かすきっかけになった。
「なにを……言って」
「期待外れだと。そう言ったつもりだが?」
声の主は、呪霊ではなく和尚だった。
「まさか……『呪霊』が見えてるの?」
普通の人間には、呪霊は見えない。だが、老人は薄く笑って、己の指先で白濁した目を指差した。
「この目は不自由でな。光よりも闇の方がよく見える」
「じゃあ……最初から、アタシらを騙して」
「ついてこい、とは言ったが。わしは最初からきみ達を歓迎する、とは言っておらんぞ。娘さん」
「この……クソジジイ!」
「奈々子!」
別の扉が開き、そこから顔を出したのは美々子だった。
ほっとするのも束の間。奈々子は叫んだ。
「美々子! このジジイ、呪霊とグルだ! アタシらを騙してた!」
「……そういうことか!」
怒りで、美々子の頬が紅潮した。
「吊してやる……!」
「次から次へと。本当に元気が良い」
余裕を崩さない和尚を見て、美々子は苛立った。しかし同時に、好都合だとも思った。
間合いは、呪術戦においても重要な要素を占める。
呪力の扱い方は呪術師によって様々だ。拳や武器に直接呪力を流し込む者、楽器や式紙などに呪力を通わせて操る者、そして目に見えぬ遠距離から呪力を伝播させて大掛かりな準備が必要な呪殺などを行う者。近、中、遠距離。呪術師の戦闘レンジは、主にこの三つに大別される。
縄を用いた術式を使用する美々子は、道具を利用する典型的な中距離タイプ。縄の準備も完了し、敵の呪霊は射程圏内。
(油断してる……先手、取れる!)
そう思考するのは、当然。
その当然の選択を、呪霊は容易く踏み潰す。
「ふっ……ぁぐ!?」
悲鳴を挙げたのは、鎧の呪霊ではなく、美々子の方だった。
倒れ込んだ体勢のまま、奈々子は目を見張った。そしてようやく、先ほど自分を襲った攻撃の正体を理解した。
特別な術式が用いられたわけではない。何か、飛び道具を使ったわけでもない。
伸びたのだ。
ただ純粋に、呪霊の腕が。何の予備動作もなく、腕を掲げた瞬間に、20メートル以上。
肉の鎧に包まれた掌が、美々子の首を凄まじい力で締め上げていた。
「あっ……が……ひゅっ……」
まるで巻き戻しのように。伸縮した腕が、そのまま黒いセーラー服に包まれた身体を、手繰り寄せる。首一本に全体重を載せられ、その首も凄まじい膂力で鷲掴みにされ。美々子の息苦しさを、奈々子は想像することしかできなかった。
「やめ……て」
紅潮していた頬が、蒼白に染まっていく。術式に使用するウサギのぬいぐるみと縄がこぼれ落ち、酸素を求める金魚のように、パクパクと。上下する唇からも、色が消えていく。
「やめてっ!? 美々子が! 美々子が死んじゃう!」
「安心せい」
和尚は、何の心配もいらない、といった風に首を横に振った。
「耳はきちんと、殺す前に剥いでやる」
「……ぃゃ」
喉を鷲掴みにされ、声にならない悲鳴をあげる美々子の右耳に、呪霊の歪な指先が伸びる。
そして、
『奈々子。頭を低くして床に伏せなさい』
本殿の屋根が、唐突に砕け落ちた。
轟音が響き、衝撃で爆風で蝋燭の火が消し飛び、木片が散って闇の中を舞う。その過程で、鎧の呪霊が何らかの見えぬ力で吹き飛ばされ、拘束を解かれた美々子の体が床の上に、
「なっ……?」
落ちない。
床と美々子との間に、するりと割って入ったのは『一反木綿』だった。同じ呪霊とは思えない細やかな動きで、美々子の体を包み、落ちてくる破片から守り、そのまま奈々子の側まで運んだ。
「げほっ……ごほっ……ぅ……ぉぇ」
「美々子、大丈夫!?」
和尚は、抜け落ちた屋根の上を見た。
雲の間から月明かりが覗き、屋根の下敷きになることをなんとか免れた、本尊の仏像を照らし出す。暗闇の中、射し入る月光はまるで後光のようだったが。
「いやぁ、すまない」
その後光を背に、闇が舞い降りた。
光を浴びた仏像を、何の躊躇いもなく草履の裏で踏みつけ、足蹴にして。
「待たせたね。二人とも」
夏油傑は、月光の中で微笑んだ。
和尚は、驚かなかった。
ただ、夏油に向けて問いを投げた。
「いつから気付いていた?」
「最初から」
即答する。
元々、違和感があった。
いくら片田舎とはいえ『耳なし芳一』というあまりにもメジャー過ぎる呪いの伝承。それも、実際に被害が出ている段階で、呪術連に話がいかないとは考えにくい。こちらの組織が慎重に情報の網を伸ばしているとはいえ、あまりにもスムーズな情報の取得に疑念を抱くのは当然だった。
何者かが意図的に情報を流し、操作し、呪術師の介入を巧みに避け……訪れた客を喰わせているとしたら? そのためには、連絡役となる存在が必要不可欠だ。
「電話で話した時は半信半疑だったが……出会って確信しましたよ。アナタは目が不自由であるにも関わらず、私のことをハッキリと見ていました。正確には、私の肩の『呪霊』に、視線が向いていた」
「なるほど……最初からかまをかけられていた、というわけか。つくづく食えない男だ」
「目が不自由なふりをしている可能性も疑いましたが、調理中のアナタは本当に動きが鈍い部分があった」
「そこまで確認するとは、随分と用心深いな」
「よく言われます」
「質が悪い」
台所に立った時と同様の、軽口の叩き合い。その間に夏油は、両手から呪霊の展開を終わらせ、自身の背後を固めていた。臨戦態勢は既に万全。
故に、背後からの奇襲など通じない。
性懲りもなく、飛びかかるように襲いかかってきた鎧の呪霊を、再び不可視の力がはじき飛ばした。
「ここは狭いし、暗い。少し、場所を広く使いましょうか」
庭に出た鎧の呪霊を、夏油は一瞥する。それだけで充分だった。
一言、命令を告げる。
「潰せ」
予め展開していた呪霊の一体。空中で座禅を組む『準一級』クラスの呪霊が、掌印を組んだ。
『ゾんば』
人ではない声と共に、発動された呪力が集中。鎧の呪霊のいる空間を、地面ごと押し潰す。蛙が潰れるような音と共に、断末魔の悲鳴が鳴り響いた。
瞬間の決着。格が違う呪術戦はこんなものだ。拍子抜けするほど、一瞬で決着がつく。
毛ほどの同情も表情に乗せず、夏油は和尚に向かって歩み出した。
「一応、聞いておきましょうか。何故、呪霊を匿うような真似を? アナタは術師ではないでしょう」
そう。目の前の男は呪霊こそ見えているが、術式が使えるわけでも式神を使役できるわけでもない。完全な素人だ。人を喰う呪霊に、協力する理由がない。
「きみこそ、何故その娘達を助ける? 血が繋がっているわけではないだろう?」
「家族ですから」
躊躇わずにまた即答する。和尚は、何故か満足気に笑った。
「そうか。それならわしも、きみと同じ理由だよ」
べちゃり。
薄く引き伸ばした肉を叩きつける音がした。
まだ、生きている……?
「っ……もう一度潰せ!」
『ゾ……』
呪霊が呪力を集中させるよりも早く、穴から這い出た呪霊は、そのままの勢いで右の拳を振りぬいた。
『んぼァ……っ!?』
直撃。反応が遅れた。
いくらサイズが小さいとはいえ。準一級クラスの呪霊が、一撃で殴り飛ばされる。その事実に、夏油は目を見開いた。
『…………イェひ』
形を保てなくなった肉の鎧が、呪霊の体からこそげ落ちる。
『いひ……イェいひひひひひひ!』
現れたのは、先ほどまでとは似ても似つかない、やせ細った男の体。今の夏油と同じように、全身に呪詛が書き写されており、まるで骨と皮だけような、貧弱な有り様だった。
だが、そんなことはどうでもいい。
その呪霊の頭。辛うじて原型を留めている歪な造形の頭には、明らかに本来あるべきはずのパーツが存在していなかった。
「これは……」
耳が、ない。
『ミミ、みみ、耳、みみィ……くれくれくれ』
「逸るな。まだ仕留め切れておらんぞ。それに、耳をもぎ取るのは男からだ」
和尚は殺意や敵意を感じさせない、穏やかな表情を変えなかった。
「まさか」
「やはりきみは察しが良いな。そうだ」
全身に呪詛を記したバケモノを、慈しむように見詰めながら、
「
静かに、言い切った。
「……なるほど。そういうことか」
各地を巡礼し、様々な人の話を聞き、説法を授け、闇を取り払う。その道中に命を落とし、邪な存在に呪力の素質を利用され、器にされた成れの果て。
「死の間際。息子が、何に出会ったかは知らぬ。ただ、わしの馬鹿息子は帰ってきた。こんな姿になっても、戻ってきてくれた」
耳なし芳一。そこに登場する耳を奪う平家の怨霊が、今回の呪霊の正体だと、夏油は勝手に思い込んでいた。だが、違う。断じて、違う。
耳を奪われ、堕とされ、帰ることのできなかった耳なし芳一。ホウイチ。彼の息子、豊一。同じ名前なのは、何の因果か。あるいは、それが縛りとして働いたのかはわからない。
ただ、確かなのは。
「和尚、ソレは呪霊だ。ソレは『ホウイチ』という別の存在だ。アナタの息子ではない。意識も魂も、もはや別の場所に消えている。アナタの声はその呪霊には届いていない。利用されているだけだ」
「意識があろうとなかろうと。耳が落ち、わしの声が届いていないとしても。バケモノになった豊一は、この村を選んだ。選んで、戻ってきてくれた。ならば、親として。その孝行に報いねばなるまいよ」
息子を見る父の視線は揺るがない。
正に、聞く耳持たぬと言うべきか。
知識はなくとも、素質はあったのだろう。彼は呪霊を誘導し、自分の目の届く場所に匿い、育てていた。で、あれば。そのやり口も自然と絞られてくる。
「……村の人間もグルか」
「さて、な。豊一が村の人間を襲ったのは事実。しかし、小さな村だ。好きなように食わせていれば、すぐに限界がくるのは自明の理」
「だからあえて情報を流し、外部の人間に噂を流していた、と。何も知らずにのこのことこんな田舎町にやってくる人間を、食わせるために」
「きみ達のような人間が来ないよう、細心の注意を払っていたつもりだが……悪いことはいつまでもできんな」
「そのようですね」
夏油は、微笑みを崩さない。
「夏油様……」
「奈々子、美々子。少しだけ待っていなさい」
呪霊に取り込まれた息子。それを守る父親。心情を鑑みれば、同情の余地はあるだろう。
しかし、自分の『家族』に害を成した時点で、その余地は塵となって消えた。敵は排除する。それだけだ。
殴り飛ばされた手持ちの呪霊を、夏油は横目でちらりと見た。
『ゾら……ゾ、ら』
まだやられてはいない。しかし、あのダメージでもう一度同じ攻撃を仕掛けても、ホウイチには通用しないだろう。準一級の呪霊はそれなりに貴重な手駒だ。無暗に使い潰すのは、少々惜しい。
「……戻れ」
夏油はダメージを受けた呪霊を、手元に吸い寄せて自らの『中』にしまった。
「もう終わりか?」
「まだ次があるさ」
瞬間、ホウイチの周囲を暗闇が覆った。
「これは……!?」
ホウイチは和尚の言葉に反応していた。ならば、耳がなくても音を拾って情報にしているということ。
『ねぇ』
それならば、これが効く。
『わた、わタ、わたし……きれい?』
仮想怨霊。
対象が質問に答えるまで、お互いに不可侵を強制する『簡易領域』である。
全身に巻いた包帯の白が、闇の中に映える。艶のない黒髪の間から覗く怪しい視線は、既にホウイチを捉えていた。
『ねェ……わタし、きれい?』
ホウイチの動きが、止まる。
「……次から次へと、面妖な術を使う。だが、愚かだな」
和尚は、深く溜息を吐いた。
それは、明確な失望だった。
「『耳なし』と。言うておるだろうに」
きれい、という問いかけに対するホウイチの回答は単純だった。
元より、聞いてすらいない質問に対する答え。
『みみ』
返答と同時。闇の中に浮かぶ糸切り鋏が、ホウイチの腕を、脚を、首を、胴体を両断した。
並みの呪霊、並みの術師であれば、間違いなく即死するであろう攻撃。回避する素振りすら見せず、耳なしのバケモノの身体は、寸分違わず裁断された。
裁断された、だけだった。
断ち切られたそれらのパーツが、仮想怨霊に向かって一斉に駆け出す。
「バカなっ……『縛り』を解いたのか!?」
「その『縛り』とやらが何なのかはよくわからんが……耳がないのに、問いかけが聞こえるわけがなかろう」
夏油の驚愕を、和尚は当たり前の理屈で切って捨てる。
一度は断ち切られたはずの人体の部位が、仮想怨霊にまとわりつく。右腕が飛び跳ね、頭が這いずって喰らいつき、腹からこぼれ落ちた腸が蛇のようにとぐろを巻いて締め付ける。
悲鳴をあげさせる側であるはずの怨霊が。狂ったように悲鳴をあげた。
『あ……あアああアアアあああああああ』
『きれいな、みみ』
そして、包帯の間から耳が引き千切られた。
甲高い悲鳴だけをその場に残して、仮想怨霊が霧散する。耳を引き千切ったことでようやく満足したのか、不格好な肉体の再生が始まった。尋常ではない速度で補充されていく呪力と肉の塊が、限りなく元通りに近い『ホウイチ』の形を作っていく。
『いぇㇶ……つぎ、おまえ、の、みみィ……』
逆さまに繋がった首が、ぐるりと回転して夏油を見た。
「心してかかれよ、豊一。本体は手駒よりも手強いぞ」
『うぇひ……大、ダイ、ジョウブ。みみ、とる』
「うむ。気をつけて剥げよ」
ホウイチは和尚の方を見て頷いた。明らかに、意思の疎通が成立している。耳がないはずなのに、和尚の肉声を拾い、情報として得ている。
「どういうことだ……? 耳は聞こえないはずだ。何故、言葉が通じる?」
「……そんなこともわからないのか」
はじめて。
夏油に対して一定の敬意を示していた眼差しの色が、明確に変化した。
侮蔑を含んだ、暗い色に。
「家族だからに決まっているだろう」
バラバラになった全身を繋ぎ合わせ、
けれど、闇の中で濁る瞳は、なによりもはっきりと愛しい息子を写していた。
ホウイチは、夏油に襲いかからない。ただ、その場に立ち、己の肉で形成した一つの楽器を構えた。
涙の雫のような平板に、四本の弦を張った特徴的な形。かつて耳なし芳一が携え、名手として謡われた弦楽器。
「琵琶……?」
「ほう……どうやら豊一は、お前に自慢の演奏をきいてもらいたいらしい」
歪な指先が、髪を束ねた弦を掻き鳴らす。耳を裂く怪音が、闇の中に満ちて反響した。攻撃ではない。夏油の体に影響はなく、ただ周囲の闇に音色が響き渡ったのがわかった。
そう。夏油だからこそ理解できてしまった。
草むらから。軒下から。あるいは階段を登って、もしくは屋根から飛び降りて。境内の中に現れる、大小様々な呪霊達。小型から大型に至るまで、その数、30は下らない怪異の群れが、耳なしの琵琶法師を中心に据え、夏油を取り囲んだ。
「どうかね? 百鬼夜行とはいかないが、中々壮観だろう」
夏油は、絶句する。これではまるで……
「まるで自分のようだ、と。思ったかね?」
バケモノの中で、ただ一人。
「きみは、呪霊を操る姿をわざとわしに見せて、正体を探ったようだが……なんということもない」
その呪霊の群れの中に。
薄く呪力を身に纏っているとはいえ、ただの人間が立っている、異常。
「その程度のことは、わしの豊一にもできる。見慣れておるのだよ」
夏油の視界を。
呪霊の群れが覆い尽くし、襲った。
「さて……結局、耳は剥ぐことができなかったな」
たった一人の人間に群がり、肉を貪り食う呪霊達を横目で見ながら、和尚は嘆息する。
「折角、全身に写経までしていたというのに……伝承通りに耳を取ってやりたかったが。まあ、仕方あるまい」
『ミミ……残念』
「そう気を落とすな、豊一。こちらの娘さん方の耳で、我慢しなさい」
和尚は、奈々子と美々子を見下ろした。
「馬鹿な男だ。血も繋がっていないのに、きみ達を家族と呼ぶ。その姿勢には、敬意を表するがね。血の繋がりよりも濃いものなどない。所詮、言葉で繕った嘘偽りに過ぎない」
美々子はぐったりと倒れ込んだまま。
奈々子は唇を噛み締めて顔を上げた。
「……ふむ。何か言い返されると思ったが、言葉も出ないかね? 最後に、遺言くらいは聞こうと思ったのだが」
「目だけじゃなく、耳まで腐ってるクソジジイに、言う事なんてない」
「これは手厳しいな」
和尚は目を閉じ、手を合わせた。
「すまないな。しかし、わしの息子のためだ。耳を剥がれて、死んでくれ。弔いはさせてもらおう」
息子のため。家族のため。
その謳い文句が、随分と綺麗で気取ったものであるように、奈々子は感じた。
「クソジジイ」
「何かね?」
「アタシは、クソ田舎が嫌いだ」
「ああ、最初に聞いたな」
「アタシ達を否定した、クソみたいな集落の人間どもが大っ嫌いだ」
呪霊が見える。
たったそれだけの理由で『呪いの子』と罵倒され、迫害され、殴られ、檻のような部屋に押し込められた。
あの時、自分達を蔑み、貶めた人間達は、どんな呪霊よりも醜かった、と断言できる。
今でも忘れない。
あの集落の人間達も、口々に行っていた。これは仕方ないのだ。家族を守るためなのだ。家族を守るために、この子達を処分しなければならないのだ、と。
「なぁ、ジジイ……アンタ、その息子のために何人殺した? 何人の人間の耳を剥がした?」
「……それを聞いて何になる? 罪の意識を持て、と言いたいのか? 家族のために他の人間を犠牲にする、その醜悪さを自覚しろ、と? 悪いが、今さらそんな問いかけで揺れる気はない」
奈々子は笑った。
「百十二人だ」
「……なに?」
「夏油様は、アタシと美々子を救うために、集落の人間を全員殺した」
子どもの頃は、わからなかった。
ただ、自分を助けてくれた彼の笑顔が、ヒーローのように眩しかった。
けれど、今なら分かる。
あの時、あの瞬間から。夏油傑という青年は全てを捨てて。百十二人の命を踏み潰して、自分達のような存在を救う、その決意を固めたのだ。
「アンタに殺せるか? 息子のために、百十二人。殺すことができるか?」
馬鹿馬鹿しい仮定だ。
意味のない反論だ。
けれど、罪の重さで、愛の重さが決まるのなら、
「夏油様は、アタシと美々子の家族だ! だから、アンタみたいなクソジジイに、絶対負けないんだ!」
夏油の想いが、こんな老爺に負けるはずがない。
奈々子は、信じていた。
故に、彼は応えた。
「なに……!?」
霧散する。
群がっていたはずの呪霊が、小さな球体のように丸め込まれる。あるいは、動きをぴたりと止めて、静止する。
「その通りだよ、奈々子」
男は、立ち上がる。
「私は、最強だからね」
史上最悪の呪詛師は、この程度では倒れない。
「夏油様!」
「馬鹿な……どうして……!?」
夏油の額は、薄く横一文字に切れて、血が滲んでいた。
滴り落ちるその赤を、紅色の舌が舐め取る。
「『呪霊操術』」
満を持して。
開示された術式の名に、怪異達が首を垂れる。
「私の術式は、降伏した呪霊を取り込み、自在に操る」
言葉を紡ぐ。
言って、話して、聞かせる。
耳のない呪霊に聞かせているのではない。夏油は、呪術師ですらない和尚に向けて、語っていた。
「そんなことはわかっている……っ! だが、これは……こんなことが!」
「そして、階級換算で二級以上の差があれば、降伏の手順を省いて、無条件で取り込み、使役することが可能だ」
和尚は、絶句する。
「他の呪いを琵琶の音で操り、使役する。なるほど。たしかに、片田舎に沸いた呪霊にしては、かなり特殊な能力だ。だが、蓋を開けてみれば呪霊のほとんどは三級から四級。高くて精々、二級が関の山。どうということはない」
夏油は、笑わない。勝ち誇ることも、相手を馬鹿にすることもない。淡々と分析し、事実だけを述べる。
「その力は、見慣れている」
示しただけだ。
火を見るよりも明らかな、格の違いを。
呪いも畏れる、その御業が。皮肉にも和尚には、仏に見えた。
「……見事」
和尚は、認めざるを得なかった。呪霊を操り、使役する。この一点に限って言えば、目の前に立つ男の力は、間違いなくホウイチよりも上。
「だが……それなら、きみ自身を叩けば良い」
『……じゃァ、お前のミミ、ちょーだい?』
ホウイチの腕が、再び伸びる。奈々子と美々子を苦しめた、間合いに左右されない高速の攻撃。骨と皮だけの角ばった指が、夏油の耳に届き、そして、
『ア……ィ?』
ホウイチの指が、粉々にはじけ飛んだ。
『ウ……ィ……ギャァァああああああああああ!?』
「豊一!?」
『指っ……ユビっ……!?』
まるで根元からばっさりと刃を通したかのように。消し飛んだホウイチの指を、和尚は信じられない面持ちで見た。
(あのスピードに反応して、反撃までした、だと?)
和尚は見た。
知らぬ間に、夏油の肩に張り付いていた芋虫のような呪霊。そして、光を捉えにくい瞳にも、鮮明に映り込む、濃厚な呪力を。その呪力の塊を、夏油は振り回して迎撃したのだ。
形状には見覚えがある。しかし、実際に目にすることは稀有な武器。
「三節棍……?」
「御名答」
特級呪具『游雲』。
そもそも呪具とは、呪いを帯びた武器の総称である。呪霊や術師と同様に、基本的に一から四の等級に分けられる。が、その中でも『游雲』は最上位の呪具。基本分類の等級を超えた、呪いの結晶。仮に売りに出したとしたら、五億は下らない値がつくだろう。
「流石にいくら私でも、その『その哀れな耳なし』を無条件で降伏することはできない」
夏油の基本的な戦闘スタイルは、多数の呪霊を使役する中距離戦。
しかしそれは、近接戦が不得手、という意味ではない。
「だから、あなたと考えは同じだ。和尚」
扱いが難しいはずの三節混が、生きた蛇の如く自在にうねる。
「直に叩かせてもらう」
直後、和尚が感じたのは、今までで最も色濃い悪寒だった。
「っ……豊一!」
呪霊が、飛び跳ねる。
夏油が、突進する。
近づいて、殺す。互いにそれしか考えていない。小細工なしの正面衝突。
『ミミ、は、あとッ!』
「そうかい」
繰り返しになるが、三節混は扱いが難しい武器である。飛びぬけたリーチを得られるわけでもなく、振るう際の軌道は変則的で癖が強く、遠心力を得た運動エネルギーは少しでも扱いを間違えば、己に牙を剥く。習熟には、かなりの時間を要した。
故に、游雲は近接戦闘における夏油傑の切札となった。
間合いを測り、分かれた節をしならせる。曲がりくねる軌道は変則的で、相手に次の攻撃を読ませない。遠心力によって増大された呪力を孕む殴打は、やせこけた呪霊の腕を簡単にへし折った。
『がァ!』
しびれを切らして、大きく振るわれた腕を身をかがめてかわす。下から、突き上げる一撃。
呪力を帯びた棍棒は容易くホウイチの体を貫き、砕けた骨と肉がちぎれ飛ぶ。確かな手応えがあった。
が、ちぎれ飛んだそばから、ホウイチの体はビデオの逆再生のように元通りになる。
「へえ」
夏油は眉根を釣り上げた。
呪いといえども、肉体はある。魂を包む器は、決して不定形ではない。自由自在に伸縮する腕は『そういうもの』なのだと思ったが、どうやら違うらしい。
呪霊は人間と比べて、呪力による治癒を比較的簡単に行える。しかし呪力は無限ではない。呪霊といえども、再生には回数の制限がある。体が消し飛ぶようなダメージを受ければ、当然治癒にも時間がかかる……はず、なのだが。
『イぇひひひひひひひひひひひひひ!』
叩き、潰し、折って、砕く。
肉体の再生は、途切れない。
夏油の『游雲』の呪力は強大だ。並みの呪霊なら、それこそ一撃で消し飛ぶ。実際、ホウイチの体は幾度となく消し飛ばされ、その度に再生していた。元通りに治している、というよりも。むしろ、根本から造り変えているような……
「なるほど」
夏油は意識を集中した。ホウイチの本体、にではなく。ホウイチが体を再生させようとした部位に対して、である。
直後、夏油の呪霊操術がホウイチの身体から『ソレ』を引き剥がした。
「低級の呪霊を欠損の度に取り込んで、呪力を補充して補っているのか」
腕の伸縮は、取り込んだ呪霊の肉を繋ぎ合わせて再生と結合を高速で回しているから。異常な再生スピードも同様だ。
音で他の呪霊を操る。その力を有効活用した結果が、叩いても潰しても死なないこの姿なのだろう。
「醜いな」
一言で、切って捨てる。そして、消し飛ばす。
指、胴体、太もも、膝、足首、首筋、肩、肘。振るわれる攻撃は全て迎撃し、その上で体の目についた部位を、上から下まで。端から隅まで祓い抜く。
限界は、すぐに訪れた。
『……ァ……耳、ミミぃ……』
耳のない頭だけが、地面に落ちる。
呪霊の核は大抵の場合、頭だ。どんなに頑強な呪霊も頭さえ潰してしまえば完全に祓うことができる。
「豊一……?」
和尚は、目の前の光景が理解できていないようだった。それでも、体は自然に動いたのだろう。
和尚は、頭だけになったホウイチではなく、それを見下ろす夏油の足にしがみついた。
「頼む……頼むっ! もう人は喰わせない。だから、見逃してくれ……」
頭だけの状態になっても、息子はまだ助かると思い込んでいる、その矛盾。
「殺さないでくれ……」
魂の一滴まで、絞り出すような声。
足元に縋る老人を、夏油は一瞥して。
「
肉を潰す音がした。
翌朝。
和尚は、出立の準備をする夏油の前に立っていた。
「何故、わしを殺さなかった?」
「意味がないと思いましたから。それにアナタは、殺すよりも生かしておいた方が苦しむでしょう?」
冷ややかに、夏油は言う。
「私はべつに、正義の味方ではない。自分の都合で呪霊を集めにこの村を訪れ、実際、その目的は大まかに叶った」
丸めた黒い塊。押し固めた呪霊を、夏油はペロリと飲み込んだ。
「目的を果たせたなら、無用な殺戮は必要ない。騒ぎを嗅ぎつけられても困る」
さらに、付け加えて言うならば。
「アナタは、猿ではない」
結局のところ、それに尽きる。
夏油は猿が嫌いだ。しかし和尚も、彼の息子の豊一も、呪力を持たない猿ではなかった。
あるいは、共に肩を並べて『家族』になる未来があったかもしれない。
「……息子が死んだと聞いた時。わしは、生まれてはじめて仏の存在を疑った」
「この世には、神も仏もいませんからね」
「だが……息子がああいった姿で帰ってきて。あんな『力』がこの世にはあるのだと改めて認識して、少し怖くなった」
「猿共は、その事実から目を背けているだけです」
「……きみは、何者だ? 何をするつもりなんだ?」
夏油は笑った。
和尚に向けて、はじめて心からの笑顔を見せた。
「術師だけの世界を作ります。そのために、呪力のない猿を間引く」
「……そんなことが、本当にできるのか?」
「できますよ」
問いかけは単純。できるか、できないか。
和尚は、可能かどうかを聞いた。夏油は、可能だと答えた。だから、この問いかけにそれ以上の意味はない。
「私は、自分の生き方を決めています。ただ、そのように生きていくだけです」
「きみは強いな」
「弱いですよ」
また一つ。呪いの塊を飲み下しながら、夏油は和尚の言葉を否定する。
「私は弱い」
きっと、その言葉が。目の前に立つ男の、あるいは全てなのかもしれない、と。和尚は思った。
「そろそろ行きます。二人を下で待たせているので」
「……すまないが、最後にもう一つだけ、聞いてもいいだろうか?」
「なんでしょう?」
「きみの……本当の家族は? ご両親は? 健在なのかね」
「……ああ」
家族を愛する。
それは、人間として当然のこと。
「殺しました」
だから、夏油傑は迷わない。
「家族に、本当も嘘もありません。違いますか?」
今の『家族』は、別にいるからだ。
「……そうか。そうだな」
和尚は驚かなかった。
むしろ、何かが腑に落ちたような。確かな納得があった。
「よろしければ、これを」
「なにかね?」
「ウチの団体の教義です。少し決めあぐねていたのですが……今回の経験で、うまくまとまりました」
手渡された半紙を広げる。
小さな半紙には、短く三行。文字が綴られていた。
愚者に死を。
弱者に罰を。
賢者に愛を。
「それでは、和尚。お元気で」
そして、殴り書くように付け加えられた一文。
──猿の言葉に、聞く耳持たぬ。
和尚は見た。
袈裟を纏い、階段を下っていく後ろ姿。顔から首筋までを覆っていた般若心経も、今は綺麗に落とされている。
そういえば、彼は耳に写経をしていなかった。
和尚は、見た。
少女達と笑い合う彼の、両の耳が。
ぼとりと落ちた。
ろくに光を捉えることのできない濁った瞳にも、それは鮮明に見えた。
幻だろうか。
それとも──
「──やはり、きみは耳を取られているよ」
黒く、黒く。眩しい闇の中を、往く背中に。
静かに、手を合わせた。