一方的な憧れという物がアミルにはあった。
それはまだ騎士見習いであった頃に父に言われた言葉に他ならない。
美しい金色の髪。日に焼けていない白い肌。まるで前世のお人形のようである少女。着飾ったドレスもそう思った一端だったのかもしれない。頑なに閉じられた瞼も、またその一端であったのだろう。
光を映さない瞳。怪我を癒やす稀有な魔法を所持したこの国の姫。その隣に立つ事こそが、アミルにとって憧れであり、そして努力の先の結果であるに違いなかった。
アミル・ルテールとして生まれた少女について、少しばかり語らなければならない。
赤毛の騎士として”烈火”などという仰々しい二つ名を戴いた事でもなければ、女であるというのに騎士としての技量が国内外問わず上から数えた方が早い事でもない。もっと言えば槍使いとして随一という事でもない。
アミル・ルテールには前世の記憶という物がある。今の性とは違う性で生を全うし、ようやっと死ねた事に清々したと思っていればまた生まれてしまったのだ。神様から精々まだ生きろと言われたように。赤子であったアミルはくしゃくしゃだった顔をこれまた顰めて生まれてしまったのだ。性も変わって。
前世という物は争いもない生であった。彼であった頃のアミルは武術の真髄を学んだ訳でもなければ、学問を極めた訳でもない。ただ生を全うした。それだけなのだ。
男性としての感性を忘れた事は無い。女を見れば抱きたいとも思うし、男を見ても情欲は沸かない。そもそもアミルの幼少期というのは随分と歪んだ物であったのだ。
子の生まれなかったルテール家にようやく生まれたアミルという存在であったが、その幼少期は男児として育てられた。武術を教え込まれ、戦術戦略を教え込まれ、男としての立ち振舞を教え込まれた。
その中でアミル少女は自身のスペックに舌を巻いた物だ。前世では四十肩だった肩は容易く動くし、筋肉痛は日を跨がない。武術に関してはスポンジよろしく身に付くのだから面白いという感想以外に無い。戦術などに関してもそうである。柔らかい脳は随分と回転が早いし、物忘れもない。何よりピントがすぐに合う。
男としての立ち振舞など言わずもがな。むしろ女として生きたことのなかったアミルにとってはそれは当然の振る舞いと言えた。
そして完成したのがアミル・ルテールという騎士であった。尤も、見習いの肩書が外れる頃には両親が頑張ったのか歳の離れた弟が生まれてお役御免とばかりに女としての教育も入ったのだが、逃げるように戦場に出向いて功を立てたので教育係の涙目によって丁寧な言葉使いが義務付けられてしまった。丁寧と言っても、元々根付いていた前世で幾度も使っていたデスマス口調であり、粗暴であった元よりも幾分にマシ程度で終わったのも余談である。泣きついた教育係が男であったならばアミルは逃げ出していたに違いない。
ともあれ、アミルには一方的な憧れがあった。
それは本当に一方的で、少しだけ夢のような憧れであった。
「すぅ~……はぁ、堪らないわ……」
「……」
その憧れの対象であるドエクーラ国第二皇女、リリィ・エル・ドエクーラはアミルの頭を両手でしっかりと掴み頭頂部に顔を押し付けて深呼吸をして恍惚の表情を浮かべていた。
なぜこんな事になっているのか、どうしてこのような事態になっているか。アミルにはわからない。こうして彼女の護衛役となって数年、ようやくアミルは自身がどういう状況なのかを理解して、そして頭に疑問を沢山生んだ。
最初は確か鍛錬の治癒の為に手を握られた所から始まった。それは間違いない。頭頂部を吸われながら記憶を辿る。
その次はお腹を怪我した時で、患部を「直接触る事により治癒能力を高める」という説明を受けて彼女の手を自身の腹へと押し付けた。確かにその時点で妙な触られ方をされた記憶が今になって思い出す。いいや、しかしソレだけならば自分の勘違いかもしれない。アミルは頭頂部を吸われながら思った。
その次は怪我のしていないかの確認、という名目であった筈だ。アミル自身は怪我をしていなかったが腹部を怪我した際に虚偽報告をしてしまい信用されずに体中を弄られた気もする。いや、しかしそれはお姫様が自分を心配しての行動であるし、と頭の中でアミルは弁明を始めた。頭の外では弁明されている筈のリリィが彼女の赤毛に鼻を埋めて深呼吸をしている。
「あの、姫様?」
「何かしら?」
「どうして私の頭で深呼吸をしてるんです?」
「アミルの香りを嗅ぐと癒やしの魔法の効力が上がるのよ」
「嘘ですよね?」
「ええ、そうよ」
嘘である事をしっかりと明言したリリィは改めてアミルの赤髪へと鼻を埋めて深呼吸をして恍惚とした吐息を吐き出した。
直属の上司という事もあり、アミルはリリィに只管に弱い。彼女が率いている騎士団の部下達が見れば「槍が降る」と言いたくなるほど弱い。事実としてアミルが彼らに向かって槍を降らすから比喩表現などでもない。
一呼吸。
けれども、ともかくとして、膂力としてはリリィなど簡単に引き離せるアミルがこうして髪を吸わせている事を思えばアミル自身はこの行為に関してそれほどの嫌悪感を抱いていない。前世での性がそのまま性嗜好となってしまったアミルにしてみれば美少女に吸われているという嬉しい様な状態でもある。アミルとて女なのだから姫様に会う前には湯浴みをして確りとその肢体を磨いて来ているのだけれど。
一呼吸。
「あの、姫様。擽ったいです」
「大丈夫よ」
一体何が大丈夫なのか。戦術家としてもそれなりに優れているアミルの脳は凄まじい回転を見せて、そして結論は疑問へと変化した。一体何が大丈夫なのだろうか。
ともあれアミルはこのリリィという存在がどういった性格であるかを把握している。
前世で数十年、産まれて十数年。
騎士となって九年。
姫に仕えて数年。
それだけの経験があればリリィの性格など手にとるようにわかる。頭頂部を吸われている事実はさっぱり理解できなかったが。
「やっぱり、貴女を戦場に向かわせるのは嫌よ」
そう呟いたリリィにようやくアミルは合点がいった。
強く抱きしめられている事も、自身を逃さないように、離さないようにする為なのだろう。頭頂部を吸われているのはよくわからないけれど。
「私は無事に帰ってきます」
「戦場では何が起きるかわからない、って言ったのは貴女でしょう?」
アミルが怪我をした時に「無事に帰ってくるって約束したのに!」と泣いていたリリィへの言い訳として口にした言葉がアミルに突き刺さる。
怪我など戦場の常なのだから、と思いもする。けれどこの姫様は極力アミルが怪我を負わない事を願い、アミルはそれを聞き届ける為に訓練に打ち込み、今では”烈火”などと仰々しく呼ばれるまでに至った。
頭を拘束していたリリィの手に自分の手を重ねて包むように握りしめる。槍ダコが残り続ける女にしては硬い戦士の手で華奢な手を包み込む。
「大丈夫ですよ」
嘘だ。とはリリィは言わなかった。言えばアミルが困ってしまう事はわかっていた。
癒やしの力という特異な能力を持っていても、盲目であった自分が姫として生き残る為に沢山の努力を重ねた。だからこそ、アミルが向かう戦場にアミルが必要になる事は理解している。頭の冷静な部分が軍部の判断を肯定している。
そんな冷静な部分とは別に、リリィはアミルを手放したくはない。
けれど、手放さなければならない。
両手の力を緩めて、自分の胸に抱いていたアミルを解放する。まだ手は握られている。
「アミル、顔を触らせてくれるかしら?」
「えぇ、如何様にも」
握られた手が導かれるように人肌に触れる。自身よりも少しだけ温かい肌には所々に傷跡が残り、きめ細かい肌とは別のザラついた感触を指で見る。
一つひとつを覚えるように、しっかりと記憶に刻むように、愛おしさを込めて、彼女の顔を撫でる。
「ちゃんと帰って来てくれないと嫌よ?」
「私が姫様の約束を破った事がありますか?」
「……一番最初の約束以外は守られてるわね」
「私は騎士ですので……怪我をしないというのはちょっと……」
情けなく下がった眉に触れて、リリィは溜め息を吐き出す。
「いいわ。行きなさい、私の騎士。武運よりも無事を祈ります」
「御意」
見えなくともアミルはしっかり膝を突き自身の主に礼をして踵を返す。
閉まった扉の音の後に続く遠くに歩いていく彼女の足音が聞こえなくなるまで、リリィはただ一心にその音を辿り続けた。