「ハイハーイ! マスター! シャルロットですよー」
「あぁ、シャルロット。待ってたよ!」
シャルロット・コルデー。別名、暗殺の天使。その可憐さと儚さでもって、暗殺を成し遂げた英霊。だが、英霊と言っても彼女の戦闘能力は極めて低い。作家系サーヴァントのアンデルセンやシェイクスピアより少し強いくらいだ。でも、彼女の英霊としての役目はそこにはない。彼女には彼女の役割があるのだ。
「お誘いありがとうございます! 久しぶりの休暇、私凄い楽しみにしていました! 普段のレイシフトは連れてってくれませんからね、休暇くらい一緒にいさせてください!」
「ははっ……そうだね、よし、今お茶入れるね!」
普段のレイシフトで彼女を連れていく事は少ない。戦闘能力の低い彼女を連れていく事は彼女を危険にさらす事になるからだ。
「あ、いえ! 今日は私に入れさせてください。マスターはどうぞ座っていて」
「そう? なら、お願いしようかな」
「えぇ、シャルロットに任せてください!」
数分後、お茶をもって戻ってきたシャルロットは上機嫌にコップにお茶を入れて、鼻歌混じりで茶を入れる。
「楽しそうだね」
「えぇ、そりゃ、もちろん! マスターと一緒にいられる貴重な時間ですもの」
「そう言ってくれると嬉しいな」
それから、1時間程、彼女と話す。彼女は本当に楽しそうに笑っていて、こちらまでつられて笑ってしまう。彼女にとって、かけがえのない時間であると同時に僕にとってもこの時間は大切なものだ。
この時間は調整だ。自身の戦闘意識と日常の意識の歩調を合わせる。どちらかに傾いてはいけない。戦闘意識にはまってしまったら戻ってこれなくなるし、日常に浸かりすぎたら敵に命を取られる。だから、必要なのだ。僕にはこの日常がたまらなく大事なのだ。
「シャルロットはさ、いつも楽しそうだよね」
「え? そうですか? えへへ、」
「うん。見てるこっちも笑顔になっちゃうよ」
「うんうん。マスターが笑顔になってくれると、私も嬉しいなぁ!」
そう言って、彼女は座りながらぴょんぴょん跳ねるという器用な事をする。そのせいで豊かな胸が揺れ、目のやり場に困ってしまう。
「あれ? マスターどうしたんですか、目をそらして?」
「い、いや、何でもないよ! それより、結構時間経っちゃったね」
「あ、そうですね、マスターもお忙しいでしょうから、そろそろお暇しましょうか。私もこれから、お料理教室に行くつもりだったし」
「お料理教室?」
「キャット先生の誰でも簡単、お料理教室ですよー。パッションリップさんのあの大きな手でも料理ができるって評判なんです!」
「そりゃ、凄いね。僕も今度、行こうかな」
「いいですね! 今度、一緒に行きましょう!」
シャルロットが帰ると、先ほどの賑やかさはどこへやら、一気に男の一人暮らしの部屋へと変貌する。なんというか落差が酷い。
「はぁ」
一人、ため息をつき、シャルロットに想いをはせる。可愛らしい顔立ち、小動物のような愛くるしさの中にある大人の女性を際立たせる豊かな胸。彼女の清楚さを象徴する白いドレス。
「シャルロット、シャルロット、シャルロット、シャルロット……」
好きだ。この気持ちに嘘はつけない。僕はシャルロット・コルデーが大好きなんだ。いつからかはわからない。気がつけば僕は彼女の事ばかり見ていた。彼女をレイシフトから遠ざけるのも彼女に危ない目にあって欲しくないからだ。暗殺や偵察の任務ですら他のアサシンに任せる程だ。
多くのサーヴァントと契約しなければいけないマスターである僕が特定のサーヴァントを贔屓していいはずがない。そんな事はわかっている。でも、もし、彼女に何かあって、消滅なんて事になったら……
再召喚は確かに可能だ。でも、それはもう彼女ではない。彼女と過ごしたカルデアでの記憶は淡く消え、露と化す。
そんなのは嫌だ。たまらなく。そのためなら僕は誰に何と言われようと構わない。例え、何もかもに見放されようと。僕はシャルロットと一緒にいたい。
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「ふむ。こるでーちゃん、何やらご機嫌であるな」
「え? そうですか? そう見えちゃいますか? キャー!!」
「あぁ、包丁を振り回すでない!! さすがのキャットもこの肉球を解禁せざるを得ない! くらえ! 鯰スラッシャァ!!」
「ぐへっ」
マスターの部屋から出た後、予定通りタマモキャットさん開催の料理教室に参加していました。今日の参加者はなんと私一人。マンツーマンで彼女から指導を受ける事ができるなんて嬉しい限りです。だというのに、私ったら、図星を衝かれて包丁を振り回すなんて……反省、てへっ。
「あ〜、癒される〜」
肉球って何でこんなに気持ちいいんでしょう、だって人間の裏で言うなら足の裏ですよ。足の裏。それを押し付けられて苛立つどころか癒しを与えられるなんて正に神様が与えた奇跡としか思えません。
「落ち着いたようだな、こるでーちゃん。ワタシは嬉しいぞ」
「あ、すいません! 私ったら、折角、お料理教えてもらっているのに」
押し付けられていた肉球を下ろし、タマモキャットさんに平謝り。仮にサーヴァントである彼女に包丁が当たったところで怪我する事はないでしょうが、そういう問題ではない事は私でもわかります。
「むふふっ……こるでーちゃんは恋する乙女と見た。大方、さっきまでご主人と茶でも飲んでいたのだろう?」
「え……!? いや、そんな事……!?」
またしても図星をつかれ、ワタワタと顔の前で手を振り、思わず否定をしてしまいます。でも、自分でもわかるくらい顔は真っ赤。タマモキャットさんは二ャハハ! と楽しそうに笑っていて、とても誤魔化せていません。
「隠さずともよいよい。この事はあの目隠れ系後輩には黙っておいてやろう。ワタシもまだここを火の海にしたくないのでな! まぁ、そこかしこに火種はあるゆえ、いつバーニングするかは予測不能! バックドラフトも真っ青の大炎上がワタシたちを待っている!」
「えっと……」
タマモキャットさんは本当に良い人だと思います。だけど、時折、本当に何を言っているのかわからないときがあります。前、マスターに相談してみても、マスターも8割方何を言っているかわからないとの事でした。それで、契約をし続けるなんて、やっぱり、マスターは凄い方だと思います。
「……ではでは、この現在、作成中のキャット直伝高級卵焼きもご主人のお腹の中にダイブするのだな? ふむ、これは気合を入れねば! 安心するのだ、こるでーちゃん、ワタシが付いているからにはご主人の舌をとろかすなんて容易きこと! やりすぎて襲われても、当方は責任を負いません、になる事請け合いだぞ!」
「やったー! 楽しみです!」
その後、彼女からの直々の指導もあり、何とか、綺麗で美味しい卵焼きを作る事に成功した私はキャットさんにお礼と報酬のカツオブシをお渡しして、キッチンを後にしました。
あぁ、楽しみだな〜。マスターに早く食べさせてあげたいなぁ。彼は何て言ってくれるだろう。美味しいって言ってくれるかな。
そんな浮かれ気分でルンルン歩いていていたせいですね。仮にもアサシンであるのに角から誰か歩いてくるのに気がつかなかった私はその人にぶつかってしまいました。
「あいたっ! あぁ、すいません! 大丈夫ですか! あ、マシュさん!」
「……はい、私は大丈夫です。コルデーさんこそ大丈夫ですか? すいません、ちょっと考え事していて……」
「えぇ、私は何とも。本当にごめんなさい! 私、アサシンなのに……」
ぶつかってしまったのはマスターの大切な人、マシュ・キリエライトさんでした。今日は非番なので、戦闘服ではなく、可愛らしい私服を着ています。小柄で同性の私でも守ってあげたい、って思えちゃう素敵な女の子です。
「……本当ですよ」
「え……?」
今、何か、怖い事が聞こえたような。私の気のせいでしょうか。私が黙っているとマシュさんは我に帰ったように慌てて立ち上がります。
「……あ、いえ、ごめんなさい! 私、用事があるのでもういきますね!」
「あ、はい、ご機嫌よう……」
「……」
なんだったんでしょう。普段のマシュさんなら、あんな事言うはずないのに。やっぱり私の気のせいでしょうか。あのマシュさんが嫌味を言うなんて、信じられません。私がアサシンとして役に立っていないのは事実なので、気にはしませんが、マシュさんが嫌味を言ったという事実が信じられないのです。
「気のせいですよね……」
私はそう思う事にして、その場を後にしました。
この時、私がマシュさんを追いかけていれば、と思うと私は後悔してもしきれません。
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「ダヴィンチちゃん呼んだ?」
コルデーとの会話が終わって、10分後くらいだろうか、管制室から呼び出しを受けた僕はダヴィンチちゃんの工房に足を運んだ。相変わらずごちゃごちゃしていて、足の踏み場もない。それをかき分け奥に進むと彼女は椅子に座って、コーヒーを飲んでいた。
「やぁ、藤丸くん。来てくれてありがとう。コーヒー飲むかい?」
「ううん、さっきまで紅茶を飲んでいたから、大丈夫だよ」
「そう。なら、クッキーをあげよう」
「あぁ、ありがとう」
投げ渡されたクッキーを受け取り、一欠片食べる。ほのかな甘みが口に広がる。
「……で、今日はどうしたの?」
「あぁ、そうだね……君の貴重な休日だ。時間は大切にしないとね」
そう言うと、ダヴィンチちゃんはデスクトップに向きなおり、カチカチとキーボードを叩く。すると、そのデスクトップの頭上にホログラムでデータが映し出された。
「これは……?」
「マシュの定期検診の結果だ」
「……悪かったんですか?」
「……あぁ、身体の方は大した事ないんだが、精神の方がね……」
現在進行形で僕たちはクリプター達と戦争をしている。既に4つの異聞帯を踏破したが、その道のりは並大抵のものではなかった。一つの異聞帯を乗り越えていくごとに自分の中の大切な何かが抜け落ちていく感覚に襲われてきた。
「……無理もないんじゃないかな。あんな、経験をしているんだ。マシュには少しきつすぎるよ」
「……君にもね。だが、彼女の場合、クリプターとの争いだけじゃないんだよ」
「……他に何かあるんですか?」
「わかっている癖に。最近、レイシフト以外で彼女と10分以上話した事あったかい?」
「……」
ない。マシュと最後に談笑したのはいつだったろうか。覚えていない。覚えていないくらいに気がつけば僕は彼女と離れていた。物理的にも精神的にも。
「……でも、それが何でマシュの精神に影響を?」
「本気で言っているのかい? だとしたら、怒りを通り越して呆れるしかないな。君、マシュが自分の事を好きだって事くらい気づいているだろ?」
触れられたくないところを突かれてビクっと身体が反応する。僕は黙ってダヴィンチちゃんの話を聞くしかなかった。
「ノーコメントかい? なら、一方的に話そうか。君とマシュはこれまで多くの戦いを乗り越えてきた。どんな時だって、共に手を取り合い助けあってきた。まぁ、はたから見たら、付き合っているのだろうと思うよね。でも、違った」
そう違った。僕たちは付き合っていない。僕がそれを拒絶してしまったからだ。
「あれはいつ頃だったかな……そう、北欧を踏破してすぐだった……ちょうど、彷徨海に拾われたすぐ後だよ。マシュから相談を受けたよ。君に告白をしたが断られたってね……涙で可愛い顔をくしゃくしゃにして、一目もはばからず大泣きしてたよ。……何で断ったんだい? 君だって、マシュの事は憎からず思っていたはずだろう?」
そうだ。僕だってマシュの事は好きだ。好きだった。でも、あの告白は受けてはいけないものだった。あの時の彼女はとても正常な状態とはいえなかったから。
長年暮らしてきたカルデアを失い、ロシアで異聞帯を蹂躙し、北欧ではオフェリアをなくした。彼女の精神はズタズタだった。彷徨海に拾われて、その鬱屈とした感情が解き放たれたのだろう。彼女の心は僕と付き合う事で今までの不幸を帳消ししようとしていた。
僕が一頻り理由を説明すると、ダヴィンチちゃんは大きくため息をつく。
「……まぁ、君の言いたい事はわかるよ。事実、あの時のマシュは躁鬱病に近い状態だった。ちょっと、押してしまえば、たちまち安定を崩してしまう程にね」
「うん。だから、僕はマシュの告白を断ったんだ。これは依存でしかないって……あのまま付き合っていても、お互いの為にならないと思って」
「そうだね。だが、問題はそこからだ。君がそのままマシュと普通に接していれば、こんな事にならなかったはずだ。君はマシュを避け始めた」
「……それは……」
理由を言おうとした瞬間、ダンっと大きな音で俯いていた顔をダヴィンチちゃんの方に向ける。彼女はいつもの笑みを消し、無表情にこちらを睨みつけていた。
「マシュの為だ、とか言って、これ以上私を失望させないでくれ給えよ? そんなのはただの言い訳さ。自分に都合の良いように解釈した最低の言い訳。それを仮にも人理を救済した男が吐くなんて、お笑いもいいとこだ……君はさ、ただ、怖かっただけだろう? あの子が。マシュ・キリエライトが怖かっただけなんだろう?」
「そんな事……」
言いたくない。言ったら認めた事になるから。言ってしまったら、言葉は現実のものとなり、僕は二度とマシュを昔のように見れなくなってしまう気がするから。
だが、その逃避をダヴィンチちゃんは許さない。いつも使用している杖を僕に突き立てる。
「私に向かって嘘をついたって、無駄さ。君如きが何を考えようと私の叡智は君の感情を推測する。だから、正直に言いたまえ。言って、楽になりなさい、藤丸くん。それがマシュにとっても、君にとっても最善だ」
そう言うと、ダヴィンチちゃんは突き立てていた杖を下ろし、優しくその小さな手で僕の顔を包み込む。散々こき下ろした後に優しくされては僕の心なんて簡単にほだされてしまう。
「……あの時のマシュの目は未だに覚えているよ……あの時のマシュは僕を見ていたけれど僕を見ていなかった。僕個人を見ているのではなくて、ただ何かに縋りたい、その一心しかなかったように見えたんだ。仮にあの時、マシュの目の前に僕がいなかったら、彼女はホームズにでも告白したんじゃないかな……」
「……仮にしたとしても、ホームズも断っていただろうね」
「うん……でも、僕は信じていたんだ。マシュなら僕が告白を断った事で気づいてくれるって……でも、そうだよ……僕が悪いんだ……僕がマシュを避けたから……マシュは……歪んでしまった」
知らず、涙が溢れる。時間神殿を乗り越えた時、こんな事になるなんて思いもしなかった。あの青空を今でも僕は鮮明に覚えている。どこまでも透き通るような青。僕たちの未来を照らしてくれる光。僕とマシュを祝福してくれているとばかり思っていたのに。
現実は暗雲立ち込め、僕とマシュの間にはもう戻らない亀裂ができた。何もかも終わってしまったのだ。もう、僕はマシュと互いに心を開いて話す事はないのだろう。僕に彼女と向き合う資格はない。一度逃げてしまった僕にもう彼女と対等でいられる事なんてできやしないのだ。
ダヴィンチちゃんはそれ以上何も言わず僕が泣き止むまでそばにいてくれた。これ以上僕に何を言っても仕方ないと思い落ち着くのを待っていてくれたのだろう。僕が泣き止むとダヴィンチちゃんは長い沈黙を破る。
「……そんな時だね、シャルロット・コルデーを好きになってしまったのは……」
その言葉に僕は黙ってうなづいた。それを見たダヴィンチちゃんはどこか悲しげな表情を浮かべて、うんうんと頷いた。
「……恋愛事において、何が起こるかわからないなんて事は百も承知だけど、私は君とマシュに結ばれて欲しかったよ……前の私もきっとね……」
「……ごめん、ダヴィンチちゃん」
「ううん。謝るのは私じゃないだろう? 君の過ちは後、一つ。言わなくてももうわかるだろう?」
「うん……マシュに謝らないと」
「そうだ。別に君が誰の事を好きになろうと構わない。だけど、マシュにだけはちゃんと伝えなさい。伝えて、そして、ちゃんとシャルロットにも言うんだ。君の事が好きだって……」
僕が臆病風に吹かれたせいで、マシュの心に大きな傷をつけてしまった。あの時僕が告白を受け止める事はできなくても、逃げずにちゃんと接していれば、マシュは前のような笑顔で世界を優しく彩っていたのかもしれない。
「……マシュは僕の話を聞いてくれるかな……」
「大丈夫さ。マシュは心の奥では君を待っているんだよ。それがどんな未来であろうとね。あの子を新しい未来へ進ませてあげてくれ、藤丸くん。それは君にしかできない事だよ」
「うん。ありがとう。ダヴィンチちゃん」
その後、落ち着くまでダヴィンチちゃんとポツポツと会話した後、マシュを探す為、工房を後にする。どこにいるものか、とまずはマシュの部屋を当たって見るがブザーを押しても返事がない。仕方なく、周辺を探しているとブーティカが声をかけてくれた。
「や、マスター! 何か無くしたりしたの? 一緒に探そうか?」
「あぁ、ブーティカじゃないか。ちょっとマシュをね」
「……マシュかい? その言いづらいんだけど、君、あの子と最近、上手くいってないみたいだけど……」
ブーティカが感づいているという事は他のサーヴァントも僕とマシュの関係が破綻している事に気がついているのだろう。それでも、僕らに何もいわなかったのは彼らの気遣いか。
「……うん。だから、話してくるよ、マシュと」
僕は黙ってうなづくと、ブーティカは優しく微笑む。
「やっと、前の君に戻ったって感じだね! 頑張ってね、どうなろうとお姉さんは君の味方だよ」
「ありがとう、ブーティカ!」
「うん。君ならきっと大丈夫さ。……あぁ、そういえば、マシュの居場所なんだけど、さっき、シャルロットの部屋の前にいるのを見たよ」
マシュがシャルロットの部屋を訪ねた。その事実を聞いた瞬間、僕は全力で駆け出した。
* ****************************
自分の部屋に戻ると、私は早速さっき、タマモキャットさんに教えてもらった卵焼きの作り方を書いたノートを見直し、イメージを反芻させます。そこにマスターの喜ぶ顔が浮かぶのはご愛嬌ですね。愛情はお料理の一番のスパイスって言いますし。
「あぁ、マスター、マスター、マスター……立香さん、立香さん……」
マスターと呼ぶだけではもう我慢できません。私は日頃イメージしていた名前呼びを敢行して、その妄想をより濃厚なものにしていきます。他の人に見られたら、ドン引きされる事間違いなしです。
ですが、そういう時に限って邪魔というものは入るというもの。お邪魔虫な事に来客のチャイムが私を現実へと引き戻します。
「は、ハイー、ちょ、ちょっと待ってくださいねー!!」
「……いえ、お構いなく、シャルロットさん。今、お時間宜しいでしょうか?」
「……え? あ、え……?」
慌てて、返事をすると、聞こえてきた声は何とマシュさんのものでした。当然、よぎるのは先ほどぶつかった時の事。あの時の彼女の雰囲気が一瞬変わった事がどうしても記憶からこびりついて離れないのです。ですが、部屋に入るのを断るのも不自然です。私はいつも通りを意識しながら、内心恐る恐る彼女に返事をしました。
「はい! お待たせしました! いいですよ!」
「失礼します。シャルロットさん、先ほどはすいませんでした」
部屋に入ってきたマシュさんはいつも通りの雰囲気でおかしな雰囲気など微塵も感じられません。やっぱり私の気のせいだったのかな。
「ううん。私もぼうっとしていましたから、お互い様という事で! それより、マシュさんは紅茶派ですか? それとも、コーヒー派?」
「あぁ、いえ、私は結構です……そういう仲でもありませんもんね」
……気のせいではありませんでした。マシュさんの雰囲気が一瞬で普段では考えられない冷たさに変わったのです。でも、彼女は笑顔なのです。笑顔をそのままにその雰囲気を氷のような冷たさへと変貌させたのでした。私は恐怖で震える唇を何とか動かして彼女に問いました。
「……マシュさん、どうしたんですか?」
「わかってますよね。私の用事なんて……?」
「全然、わからないですよ、私には……」
「いいえ! わかっているはずです!」
「キャッ!」
その言葉と共にマシュさんが凄まじい怒気と共にこちらに詰め寄ってきて、そのまま私の胸ぐらを両手でつかみ、苦しむ私に構わず怒鳴り始めます。
「あぁ、マシュさん……離して……
「あなたは知っていますよね!! 私がここにきた理由も! 私がこうして怒っている理由も! あなたは全部知っていて、そういう風にとぼけているんですよね! 私がどれだけ苦しんでいるかわかっているのに、あなたはあの人と今日も一緒にいたんだ! 私がいた場所に! 私がいるはずの場所に! あなたはいたんだ!!」
マシュさんの目にもはやいつもの理知的な光はありません。あるのは怒りと嫉妬で彩られた狂気。それをぶちまけるように彼女は私をそのまま壁際まで追い込んで、さらに大声でその感情をあらわにしていきます。
「何で! どうして、私じゃ駄目なんですか! どうしてあなたなんですか!! ずっと一緒だったのに! ずっと一緒に旅をしてきたのに! 先輩の事が大好きなのに! なぜあなたを選ぶんです? 教えてくださいよ!? ねぇ!?」
私は怖くて怖くて、声が出ません。手足は震えいう事を聞いてくれませんし、頭はパニックでろくに働いてもくれないです。完全にマシュさんに気圧された状態で私は俯くばかりでした。そんな私の態度が癪に障ったんでしょうか。マシュさんはさらに私を責め立てます。
「そういう風に可愛子ぶって、庇護欲を駆り立たせて、男の人から今までずっと守ってもらってきたんですよね? 恥ずかしくないんですか? 私は恥ずかしいですよ。あなたと同じ性別である事が!」
「……」
マシュさんのいう通りです。私は生きてた頃からドジで鈍くさくて、子供の頃から鈍ちん扱いされていました。でも、本気で私を怒る人はいませんでした。誰もがその怒りの矛先を私から逸らし見当違いのものを責め立たのです。だから、マシュさんが言っている事は正しいのです。所詮、私はただの小市民なのですから、その身分に相応しい事をしていればよかったのですから。
だけど、私はマスターの事が好きです。たまらなく、どうしようもなく大好きなんです。だから、マスターとマシュさんが上手くいっていない事を知るやすさかず私はマスターに近づきました。そして、傷心し、弱っていたマスターを優しく慰め、彼の心を癒したのです。
気付けば、マスターは休暇の多くを私のために使うようになってくれました。言うまでもなくその時間はそれまでマシュさんと過ごしてきた時間でした。私はマスターとマシュさんが築いてきた関係を私はまるまる乗っとる事でマスターの心を奪ったのです。悪い事をしたという自覚はあります。
でも、恋は戦争。ましてや、マスターとマシュさんは付き合ってすらいない仲です。私がその地位を奪ったところで誰かに責められる筋合いはないんです。
だって、これは紛れもなく私の恋路なのですから。私が応援しないで誰が応援するっていうんですか。
気がつくと、私は震える唇を心で抑え、気持ちのままマシュさんに怒鳴りつけていました。
「……言わせておけば……私だって! 私だって、好きだったんですよ! マスターの事が! でも、諦めてた……マシュさん、あなたがいたからですよ? あなたがいたから私は身を引いていたのに……」
「じゃあ、今、引いてくださいよ! 私に先輩を返してください!!!」
「絶対に嫌です! 私はマスターの事が好き! この世界の誰よりもあの人との事が好きなんです! 私は逃げません。マシュさん、あなたにマスターは……立香さんは絶対に渡しません!!!」
瞬間、掴まれていた胸ぐらをそのまま持ち上げられ、マシュさんのその華奢な腕から作り出されるとは思えない力で投げとばされてしまいました。背中から伝わる痛みが全身を襲い、呼吸すらできません。
マシュさんは壁に打ち付けられ倒れた私に馬乗りになって、追い討ちをかけるように胸ぐらを掴んで、私を責め立てるように叫びます。
「かはっ!? ゴホッ、ゴホッ……!!」
「……立香さんって何ですか? ねぇ、シャルロットさん……シャルロットさん!! 何であなたがあの人の名前を呼ぶんですか? どうして、どうして、どうして、どうして……どうして!!!!! 私だって呼びたかった、呼びたかったのに!!」
マシュさんは確かに怒鳴り、私を苦しめようとしてきます。でも、私にはそれと同時に彼女が酷く悲しんでいるように見えました。叫ぶ度に彼女の心は軋み、そして、何かが欠けていく。あぁ、マシュさんも私と同じなんだな……彼女も本当にあの人が好きなんだ……だから、悲しい。こんな事をしても無駄だってわかっているから。わかっていても、止められない。怒りと嫉妬が彼女を突き動かし、彼女の心を壊していくのです。
「あなたが呼ばなかったから」
「……え?」
ですが、どんなに痛めつけられたって、どんなに彼女の心が壊れていったって、決して私はマシュさんに同情はしません。この恋を諦めたら私は絶対に生きていけないのです。私が私であるために私は彼女に立ち向かうのです。
「何年も一緒にいて名前を呼ぶ事すらできなかった……その時点で、あなたは負けてたんですよ。私にだけじゃない。自分にも。あなたはただやつあたりしているだけ! ただ行き所のない感情を私に叩きつけてるだけなんですよ!! 私は絶対にあなたに譲らない! 今のあなたには絶対に!!」
「あぁ! あぁ!! あぁぁあああぁあああああ!!!!!」
もう、言葉はありません。マシュさんはただ私を痛めつける為だけに拳を握り、振りかぶります。あの大きな盾を振り回すマシュさんの腕力です。私なんて、ひとたまりもありません。きっと消滅するでしょう。
未練ばかりが残ります。いくら再召喚されるとはいえ、次の私はもう今の私ではない。記録はあっても記憶はありません。この私があの人に会う事はもうないのでしょう。
さようなら、マスター……卵焼き食べさせたかったな……
「そこまでだ、マシュ!」
でも、その声は確かに聞こえたのです。愛しいあの人の声が。
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ブーティカに言われ、全速力で走った。今のマシュの状態ではシャルロットに何をするかわかったものではない。最悪の予想を振り払うように足を回転させ、廊下を駆けていく。
あぁ、嫌だ。何でこんな事になってしまったのか。後悔ばかりが残る。全て僕が悪い、そんな事はわかっているのに。まだ、心の中でマシュと話すのに躊躇している自分がいる。
僕は最低な奴だ。優柔不断で臆病者で彼女たちに好きになってもらう資格なんかない。だから、今は走れ。何も考えずに。少しでも罪悪感があるならば、あの二人ともう一度ちゃんと向き合うんだ。
シャルロットの部屋が近づくと、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。マシュとシャルロットのものだ。彼女たちのこんな声は聞いた事もない。僕は迷わず、空いていたドアを開け、中に飛び込む。
最初に目に飛び込んだのは何かに馬乗りになっていたマシュ。そして、次にその下にいるシャルロットだった。マシュは拳を振りかぶり今まさにシャルロットを殴らんとしているところだった。
「そこまでだ、マシュ!」
呼びかけ、マシュは拳を振りかぶったまま動作を停止し、やがてゆっくりとこちらを向いた。
「……先輩?」
髪は乱れ、目に生気はなく、そこにかつての可憐な少女の面影はない。肉体的にも精神的にもズタズタなマシュはただ、その目で僕を見つめる。ありえないものを見る目で。
「何でここに先輩が……?」
「マシュ、落ち着くんだ。落ち着いてシャルロットから離れてくれ」
そう言いながら、シャルロットの様子を伺うとどこか怪我をしたという事はなさそうで一先ず安心する。
「……また、シャルロットさんですか……?」
「マシュ、そうじゃない。僕は今日、マシュと話しにきたんだ。だから、シャルロットから離れてくれ」
できるだけ、丁寧に心からマシュに向けて話しかける。だが、彼女には届かない。シャルロットに馬乗りになったまま、こちらを見て、譫言を並べ立てる。
「何でこの人なんですか私だったじゃないですか私がずっとそばにいたのになんでこの人に先輩の隣は私の場所なのになんでですか私が悪いんですか私が悪いんですね知ってます知ってますよそんな事でもどうすればいいんですかどうしたらよかったんですかねぇ教えてくださいよ教えてくださいよ!」
いつからだ。いつからマシュはこんな風になったのだ。それすらも僕は知らない。これが彼女から逃げた代償なのだろう。マシュをこんな風にしたのは紛れもなく僕だ。
ゆっくりとマシュの元に近づいていく。マシュはそれに合わせてふらふらと立ち上がると、こちらに歩いてくる。
「マスター! 危ないです!」
シャルロットが必死に呼びかけてくれるが、それに構っている余裕はない。今はマシュととにかく話さないといけない。
「マシュ、今までごめん。僕が間違っていた。僕が悪かったんだ。僕は君から逃げた。逃げて、逃げて、君を傷つけてしまった。今日はね、マシュに謝りにきたんだ」
「謝りにですか……?」
「うん。君から逃げた事、君の気持ちに応えなかった事、全部、全部、謝りたいんだ……」
「……今更ですか? 今更、私に謝るんですか? 何で、どうして……?」
「気づいたんだ。このまま逃げていても何も変わらない。いつまでも止まったままだ。僕もマシュも……ここで止まるわけにはいかない。僕らはここで終わるわけにはいかないんだよ」
マシュはこちらを見ない。いや、見ているが見ていない。僕の事などもう見ていないのだ。
どうすればマシュは僕を見てくれるのか。どうしたら、前みたいに戻れる。マシュの心を振り向かせるには何をすればいい。
「そうですね……私たちはここで終わるわけにはいかない。私たちの世界を取り戻すために……そうですね……わかりました……」
言葉とは裏腹にマシュの目に生気はない。ヒクヒクと朴を引きつらせ、僕に縋るように僕の肩を掴んだ。
「じゃあ、先輩? 私と付き合ってくれませんか?」
それは僕とマシュの仲を引き裂いた決定的な質問。それをまた、彼女は問うた。
「いいですよね? 私たちはまだ終わるわけにはいかない。だったら、私がこのままじゃ駄目ですもんね。付き合いましょう、先輩! それが、私たちのためです!」
「……ッッッ!!」
掴まれた肩に痛みが走る。マシュが握り潰さんばかりに力を無意識に入れているのだ。それをなんとか我慢して、必死に彼女と向き合う。
「……悪いけど、それはできない……」
瞬間、肩から先の感覚がなくなり、そして、痛みが全身を駆け巡る。肩が脱臼したのだろう。だが、マシュは肩から手を離してくれず、さらに力を強めた。
「グゥアァアア!!!!!」
「先輩? 痛いですよね? それが私の痛みですよ。その苦しみを私はずっと耐えてきたんです。なのに、先輩はまだ私にそれを耐えろと言うんですか? いい加減、私を助けてくださいよ!」
「……ハァ、ハァ……マシュを助ける事が告白を受け入れる事だっていうなら、僕は君を助ける事はできない……くっ……僕は今、好きな人がいるから……」
「私ですよね!? その好きな人っていうのは!? そうですよね?」
「……違う」
はっきりと告げる。マシュに、想い人だった人に。あなたの事はもう好きでない、と。自分がどれだけ酷い人間かを彼女に話す。
「……僕はマシュが好きだったよ。本当に。でも、今は違う。僕が好きなのはマシュじゃないんだ」
マシュの目が大きく見開かれる。その目は告白を断った時と同じ目だ。記憶が発声を拒まんとパルスが身体を駆け巡る。それに負けじと僕は拳を握り、マシュを見つめ続ける。
「あの時、マシュの告白を断ったのは、僕が君を怖がったからだ。マシュとあのまま付き合っていたら、僕とマシュは依存し合って、どうにもなくなっていたと思う。だから、告白を断った。そうすれば、マシュなら気付いてくれると思ったから……」
でも、そうはならなかった。マシュは余計に歪み、そしてとうとう、シャルロットに手を出した。
「結局、僕が向き合わなかったのが、悪いんだ。マシュと向き合う勇気を僕は持てなかった。こんな事になるまで放っておいてしまった。だから、もう絶対にマシュから逃げない。マシュがどう言おうが僕はマシュが納得するまで、マシュと話し続け
「……何なんですか?」
目を見開いたまま黙っていたマシュが唐突に言葉を遮る。声はどこまでも低く、マシュの声とは思えなかった。
「先輩、自分だけ納得して、それを私に押し付けて……結局、先輩は自分の事だけじゃないですか!! もうやめてくださいよ! これ以上私を惨めにしないでください!!」
「マシュさん、そこまでです」
そこにいた。彼女は当然のように、そこにいた。彼女の名はシャルロット・コルデー。別名、暗殺の天使。それを知っていたのに忘れていた。彼女がアサシンであるという事を。僕だけでないマシュまでもが、彼女が暗殺者である事を忘れていたのだ。
シャルロットはそのまま、マシュの鼻にハンカチを押し付ける。すると、マシュは眠るようにストン、と床に倒れ伏す。
「……コ、コルデーさん……な、何を……」
「マシュさん、いい加減にしてください。これ以上、あなたの戯言なんか聞いてられません。一度、頭を冷やして」
コルデーがそう言うと、マシュは意識を失ったのか、そのまま寝転がる。僕はそれを呆然と見ている事しかできなかった。
✳︎*****************************
マシュさんを気絶させた後、私とマスターで彼女をベッドに寝かせると、マスターは痛めた肩を抑えながら医療室に連絡を取りました。すると、ものの数十秒でナイチンゲールさんがやってきて、マシュさんを連れていってしまいました。去り際、ナイチンゲールさんは何か言いたそうな顔をしていましたが、敢えて何も言わないでくれたようです。
「シャルロット、ありがとう……」
「いいえ……ごめんなさい、マスター……私、余計な事しましたよね……」
「ううん。あのまま、僕が話していてもマシュの心を開く事はできなかったと思う」
マスターはそう言って、うつむいてしまいます。結局、マシュさんをどうする事もできなかったわけですから、無理もないでしょう。ですが、今はうつむいている場合じゃありません。マスター自身の怪我はもちろんですが、今はマシュさんの側にいてあげるべきなのです。
「マスター、あのう……」
「あぁ、ごめん、シャルロット、部屋滅茶苦茶だね……手伝うよ」
「……いえ、マスターはマシュさんのところに行ってあげてください。それに肩の脱臼も治療しないと。部屋は一人で綺麗にしますから」
私はそう言うと、棚から落ちた本を一冊ずつ拾い上げていきます。あえて、彼の顔を見ないように。
「……あのさ、シャルロット、もうバレているだろうけど、僕が好きなのは……」
「いいえ、マスター。今はその話はやめましょう。今はとにかく、マシュさんと……」
彼の言葉を遮るように私ははっきりとそう告げます。マスターは迷ったようなそぶりを見せますがやがて、ドアへと向かっていきました。
「……そうだね、全部終わったら必ず伝えるよ……」
「はい! 待ってますね、マスター!」
別れ際、マスターの背中に元気いっぱいの挨拶。彼は振り向いて微笑すると、部屋を出て行きます。そんな、背中に小声でもう一言。
「さようなら」
聞こえるか、聞こえないかの声で呟くのでした。
マスターがいなくなると、部屋は先ほどの喧騒はどこへやら、すっかりと静まり返ってしまいます。
「ふぅ……はぁ……」
私は深いため息をつきます。そして、そのまま腰が抜け、盛大に尻餅をついてしまいました。
「こ、怖かったぁ……」
あの狂気に犯されたマシュさんを思い出すだけで身体が震えてしまいます。でも、マシュさんを気絶させた時は何故だか、身体が勝手に動いていました。きっと、マスターがいたからでしょう。好きな人に少しでも格好いいところを見せたかったのかもしれません。
「……両思いだったんだなぁ」
私はマスターの事が好き。マスターは私の事が好き。あぁ、とても幸せ。幸せすぎてどうにかなってしまいそう。でも、私たちは結ばれない。きっと。
本当は引き止めたかった。行かないでって。マシュさんのところよりも私の側にいて、と。
でも、言う事はできませんでした。言ってしまえば、もうマスターはマスターでなくなってしまうと思ったからです。
それは駄目です。だって、そうなってしまえば、それはもう私の好きな人でなくなってしまうからです。
輝かしい目をした彼。私の愛した人。だから、彼には彼らしくあって欲しいのです。そのためには私の隣にいては駄目。
あの人はマシュさんといないと駄目なんです。
「……あれ? あれ……?」
私どうして泣いているんでしょう。悲しくないのに、嬉しいはずなのに。彼がまた彼として進めるのに。どうして、私は泣いてるんでしょうか?
「あはは……止まらないや……」
涙は止まりません。抑えても抑えても、止まりません。留めなく涙は溢れ出て、地面を濡らします。
「あぁ、あぁ……あぁぁあああ……」
私は声を殺して泣き続けます。あったかもしれない幸せに思いをはせて。
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「ミス・マシュは現在、眠りについています。暫くの間、安静にしなければなりません……それにあなたも肩を脱臼しているでしょ。すぐに治療します」
「……うん、お願い、ナイチンゲール。治療してくれたら、マシュの側にいても?」
「……お静かにお願いしますね」
「あぁ、もちろん」
医療室に着くと、待ち構えていたのはナイチンゲール。僕を待っていたかのように脱臼を治療すると、彼女は気を遣ってくれたかのように、用事があるので、と医療室を出ていってしまった。
医療室に一人残された僕はマシュの寝ているベッドのカーテンを開ける。マシュはぐっすりと寝ているようで気づく気配はない。隣に備え付けられていた丸椅子に腰をおろす。
寝ているマシュに先ほどの狂気はない。以前と同じあどけなさを残した可愛い寝顔だ。
「……」
結局、僕は勢いだけだった。僕が勝手に納得して、解決を急いだ。状況が切羽詰まっているからって、マシュの心を軽んじてしまったのだ。もっと、ゆっくりと彼女の心をほぐすべきだったのだ
マシュを見ながら、後悔ばかりが積もる。もっと上手くできなかったのか、僕は。かける言葉は間違えってなかったか。あぁ、嫌だ。どうして、僕はこう失敗ばかりなんだ……
「……マシュ、ごめん」
僕にはもう見えないあの青い空をマシュは今も見ているのだろう。二人なら必ず行けるって。何があっても必ず進めるって信じていたのに……
それはまやかしでしかなかった。ただ僕はそう思いたかっただけだったんだ。人理を救済し、色々な不安要素から目を背け、心の深いところでマシュと向かい合おうとしていなかったんだ。
「先輩……」
不意にマシュから呼ばれ、見ると、彼女はまだ寝ていた。寝言だったようだ。
夢にまで、彼女は僕と会いたがってくれているんだ。
たまらなくなって、彼女の手を握る。
「もう一度、もう一度だ……」
もう一度、あの青い空を。あの明るい未来を。あったはずの未来を。
必ず、取り戻す。どんなに時間がかかっても、必ず、だ。
シャルロットだってそれを望んでいる。
あの別れ際、彼女が僕に何と言ったのかを思い出す。
彼女はサヨナラと言ったのだ。
つまり、そういう事だろう。僕とシャルロットが結ばれる事はもうない。
シャルロットは僕が僕であるために敢えてそうするのだろう。
だから、僕はそんな彼女の心に報いなければならない。
僕が僕であるために。マシュと共に歩み、あの青い空を再び。
「……見よう、必ず」
僕は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。