今になれば「そんなこともあったなぁ」で済ませられることでも、その当時のそんな風に考えられるかは、はなはだ疑問。
悩んでいる時に手を引っ張ってくれる。
そんな人の存在は、とても有難いものだと思います。
「やっちまったなあ……」
中庭のベンチに腰掛け、大江博人(おおえひろと)はため息をついた。
彼の手に握られているのは前に行われた模試の結果。その点数は、博人の反応から容易に想像することができる。
(今回もあんまり、よくないだろうな)
今日も今日とて模試があった。
せっかくの土曜日を半日も拘束されてわざわざ受けたもの。
その出来は、博人自身がよく分かっていた。
本格的な夏の足音が日を追うごとに大きくなっている六月も半ば。先ほどまで降っていた雨はすっかり上がり、今は嘘のように晴れ渡っていた。
久しぶりの快晴。しかし、その日差しはまるで博人の不甲斐なさを責めるように、ワイシャツをまくった素肌を刺す。
お天道様は何でもお見通し。
博人はそんな言葉を思い出していた。
(分かっちゃいるけどさ……)
受験生ならばそろそろ焦らなければいけない時期。それは自分自身がよく分かっていた。
進路希望には大学への進学と書いている。しかし、どこの大学に進むのか、学部はどうするのか、何という学科に進んで何を勉強するのか。そういったことは全く決めていない。
夢がないと言ってもいい。
目指すものがないと言い換えることもできる。
将来の自分の姿が見えないとも言えるかもしれない。
だからだろうか。
勉強に身が入らないのは。
(所詮は言い訳、か)
しかし、そんなものは勉強をしなくていい理由にはならない。
それもまた、自覚している。
「はあ……」
足元の水たまりに映る空は、どこまでも青い。
飛び込めば大空に繰り出し、嫌なことを忘れられそうだった。
「なにしてんの?」
水たまりにひとつの影が差した。
顔を上げると、そこには見知った笑顔があった。
「みなもか」
日差しに照らされた白波瀬(しらはせ)みなもの笑顔に、博人は目を細めながら言った。
「自分の馬鹿さ加減に辟易していたところだ」
「馬鹿さ加減?」
みなもは腕組みをした。
今は模試が終わって一息ついている放課後。
そして、彼の手には見覚えのあるプリントが二つ折りになって握られている。
「……そういうことか」
そうすると、彼の言葉の意味は想像に難くない。
「ちょっと失礼」
みなもは博人の隣に腰掛けた。
肩ほどまで伸びた髪がしなやかになびく。
「どれどれ? お姉さんに見せてみなさい」
言うが早いか、みなもは博人の手から模試の結果をひったくった。
「あ、おい!」
慌てて取り返そうとした博人だったが、軽くかわされてしまう。
「うわあ、これはひどいね~」
みなもの反応は実にストレートで。
点数は全国平均と比べてかなり低く、偏差値も言わずもがな。志望校の合格判定には、どこも「E」という文字が踊っている。
「この時期にこのスコアってのは、かな~り危機感を持ったほうがいいと思うよ?」
容赦のない言葉の矢が博人の心を貫く。
彼女の言葉は博人自身も分かっていることであり、反論の余地もない。
「分かってるよ、そんなこと」
博人は強引にみなもの手から用紙を奪い返した。
「そういうお前はどうなんだよ?」
お返しとばかりに今度は博人がみなもに訊く。
「私? 私はこんな感じかな」
みなもはためらいもせずに結果を見せてきた。
点数はそれほど高くはなく、志望校の合格判定もまだ低い。
しかし、博人と違うのは、点数の伸び。
みなもは模試を重ねるごとに着実に点数を伸ばしてきている。それを示す棒グラフは順調に右肩上がり。
ずっと低空飛行の博人とは違い、みなもの頑張り具合を如実に物語っていた。
「夢見る少女は無敵なのさ!」
みなもは「いえいっ!」と親指を立てた。
「夢、ねえ」
みなもの「夢」とやらは確実に原動力となり、今の彼女を突き動かしている。博人の知るかぎり、みなもはそれほど勉強が得意な女の子ではなかったはずだ。
夢見る少女は無敵。
眩しい笑顔で親指を立てている幼なじみの姿を、博人は見ていることができなかった。
「羨ましいな。目指すものがあるってのは」
足元の石ころを蹴飛ばし、博人は首を振った。
「博人くんには夢とかないの?」
みなもが顔を覗きこんできた。
煌めく瞳が、痛い。
「あったらこんな苦労してねえよ」
博人はみなもの視線から逃れるように顔をそらした。
「そっか、そうだよね」
みなもはそれ以上追及しようとはしなかった。
二人の間に沈黙が流れる。
その沈黙を埋めるかのように、どこかでセミがけたたましく鳴き始めた。
二つの校舎に挟まれた中庭に、一陣の風が流れ込む。
その風に、芝生の緑はそよぎ、博人のネクタイとみなものリボンがはためく。
そうして風は、彼方へと吹き抜けていった。
「あ、虹!」
その彼方を、みなもが指差した。
「見て見て! 虹だよ! 虹!」
みなもの指差す先。そこには七色の鮮やかな虹がアーチを描いていた。
「久々に見た!」
みなもはまるで幼い子供のようにはしゃいでいた。
「さっきまで雨が降っていたんだ。虹のひとつも出るだろうよ」
博人は特に感慨深くもならず、東の山の向こうに掛った虹を見つめる。
「別に珍しくもないだろう」
「むー。ロマンがないなあ」
みなもは怒ったように頬を膨らませる。
「ねえねえ、博人くん」
しかし、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「虹のふもとには宝物があるって、知ってる?」
「宝物?」
博人は首を傾げた。
「どっかで聞いたことのある話だな」
「うん!」
みなもは大きく頷く。
「あの虹のふもとにも、きっと素敵な宝物があるんだろうね」
みなもは希望に満ち溢れた顔で、虹を見つめていた。
一方、博人は眉をひそめた渋い顔。
みなもの横顔から、何やらただならぬ気配を感じ取ったと言ってもいい。
「まさかとは思うけど――」
「行ってみよっか!」
みなもは勢いよく立ち上がると、両手で博人の腕を引っ張った。
「虹のふもと! なんだかワクワクしない?」
「しねえよ! いつまでも子供じゃないんだから!」
山の向こうに掛かった虹までの距離は、少なくとも徒歩で行けるようなものではない。というか、そもそも辿りつけるかどうかすら分からない。
博人はみなもの手を振り払おうとしたが、みなもはなかなか離そうとしない。
「子供でもいいよ! 行ってみようよ!」
「断る! 俺は帰って勉強でもする!」
「しないのは分かってるもん! してたら博人くんの模試の結果がそんなに悪くなるはずがないもん!」
図星である。
やはりと言うべきか、幼なじみの名は伊達ではなかった。
「ねえねえ、行ってみようよ~」
みなもはおもちゃをねだる子供のように腕をぐいぐいと引っ張ってくる。彼女の中で何がそれほどまでに突き動かしているのか分からないが、このままでは虹が消えるまで引っ張り続けられるのは間違いなさそうだ。
「分かった! 分かったから!」
博人は観念するしかなかった。
「もう好きにしてくれ……」
みなもに引っ張られるままに、ベンチから腰を上げる。
「最初からそうしておけばいいの。素直じゃないんだから」
みなもはようやく博人の腕を離した。
口では博人を責めるようなことを言っているが、それは子猫がじゃれつくようなもの。本気で責めていないのは容易に感じ取ることができる。
その証拠に、みなもの屈託のないぱっちりとした瞳は大きく細められ、口元には可愛らしい犬歯が顔を覗かせている。
「まったく、しょうがねえんだから」
そう言う博人にもみなものこぼれるような笑顔が伝播したのか、ため息をついてはいるが顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「じゃ、行きましょうか!」
みなもはくるりと身を翻す。
制服のスカートがその動きにつられる。空と同じような青色が、彼女の腰元で鮮やかに花開いた。
「目指すはあの虹のふもと! レッツゴーだよ!」
緑の萌える山と、海の色を映したような空。
双方の間には二人が目指す虹が弧を描き、その向こうには入道雲が聳(そび)聳(そび)えている。
二人の行き先には、一足早い夏の風景が広がっていた。
◆
『にじのふもとにはね、たからものがあるんだよ』
それはまだ幼いころ。
いつものように二人で遊んでいる時に聞いた言葉だった。
『たからもの?』
『そう。たからもの』
その時も今日と同じような雨上がりの日で、公園のブランコに座って遠くに掛った虹を眺めていたと思う。
たからものってなんだろう。
そう思ったけど、あんなに綺麗な虹だから、宝物もきっと素敵なものなんだろうなと、幼心にそう感じていた。
『いつか、さがしにいってみようね』
『うん!』
彼女は元気よく頷いた。
ひまわりみたいな笑顔がひどく印象に残っている。
(そうか。その時に聞いたんだな)
虹のふもとの宝物。
どこかで聞いたことのあるその言葉は、幼き日の記憶の中にあった。
(まさか現実になるとは思わなんだ)
ひと時の思い出旅行から帰ってきた博人は、額を流れる汗を拭った。
「で、どこだよ。ここは」
辺りに広がるのは稲の育った水田。建物らしいものといえば農具をしまっておく物置小屋ぐらいなもので、人家は近くに存在しない。それどころか、車の気配も、人の気配もしない。
むせかえるような緑の匂いが鼻をくすぐり、深緑の山々が目に鮮やかである。
「どこだろうね? 私にも分かんないや」
先を行くみなもは通学鞄を手に、道路のセンターラインの上をバランスを取りながら歩いている。彼女の言葉に不安の色はなく、むしろこの状況を心底楽しんでいるような印象を受けた。
「おいおい……」
お気楽なみなもの様子に、博人は頭を抱えるしかなかった。
学校を離れて、最寄りの駅から終点まで電車に揺られ、降りた先の駅からバスに乗り込んだ。そのバスの終点まで付き合ったあとは、虹のある方向を目指してひたすらに徒歩での移動。
(まるでタイムスリップしたみたいだな)
日本にもまだこんな風景が残っていたのかと、博人は内心驚いていた。
「虹が見えなくなっちゃったなあ」
みなもが立ち止り、右手を日避けにして遠くを見つめる。
「たしかこっちの方だと思ったんだけど」
「もう消えちまったんだろ」
博人はみなもの隣に立ち、彼女と同じ方向を見つめる。
バスや電車の中から確認していたわけではないから、もうとっくの昔に消えていたのかもしれない。虹が出ていた空には、もうその痕跡すら残っていなかった。
「また降ってきそうだな」
そのかわり、青かった空は灰色の雲に覆われ、今にも泣き出しそうなぐらいに曇っていた。
「残念だなあ」
みなもは足元にあった小石を蹴飛ばした。
小石は道路を転々と転がり、水を湛えた水田の中にダイブする。
波紋が水面を走る。その先でまた別の波紋が起こり、バトンタッチをするように走っていく。
まるで小石の起点としたように、水面に次々と輪が広がっていく。
「げ、降ってきやがったか」
博人は空を見上げた。
鈍色の空から水滴が降ってくる。その勢いは次第に強くなってきて、アスファルトを黒く濡らしていった。
「このままじゃずぶ濡れになっちまう」
「あそこにバス停があるよ!」
みなもが道路の前方を指差す。
そこには木で出来た簡素な小屋があった。少々古びてはいるが、雨をしのぐには十分だろう。
「早く行こう!」
「そうだな」
互いの顔を見て頷くと、二人はバス停に駆け込んだ。
それと同時に、雨脚が一気に強まる。しばらくは外に出られそうになかった。
「ギリギリセーフだったね」
「まったくだ」
二人は小屋の中に設置してあるベンチに腰を下ろした。
「雨が止むまで休憩だ。しばらく大人しくしていよう」
「はーい」
それから二人は口を閉じた。
雨が屋根を叩く音だけが聞こえる。
それは決して重苦しい沈黙ではない。二人は並んで座り、しばらく雨の奏でる音楽を楽しんでいた。
「ねえ、博人くん」
みなもが、語りかけるような口調で言った。
「博人くんは、何を悩んでいるの?」
唐突な発言ではあったが、博人にはみなもの言わんとしていることが何となく分かった。
「模試のことか?」
「うん」
みなもは足を伸ばし、ゆらゆらと動かす。
「私でよかったら、話を聞くよ?」
みなもの横顔はどこか微笑んでいるように見えた。
それは自分が深刻な顔をしていては、博人が打ち明けづらくなってしまうという優しさの表れ。
博人と長い付き合いである彼女は、こういう時に自分は何をするべきかということをよく理解していた。
「悩み、か」
博人は小屋の窓から外を見やる。
雨は一段と強く降り始め、少し視界が悪くなっていた。
「なんていうんだろうな。自分の未来がよく分からないんだ」
それは、自分の親にも言ったことのない言葉だったかもしれない。
「将来の夢とか、俺にはないからさ。このまま惰性で大学に行っても仕方がないんじゃないかって。学費だって馬鹿にならないし。かといって就職はいまいちピンとこない。そんなことを悶々と考えていると、机に向かっても集中できないんだよ」
受験生という身分で、今は何に一番力を入れなければいけないかということはよく分かっている。しかし、今は人生の大きな分岐点である。ここでの選択で自分の将来が方向付けられてしまうのだ。
果たしてここで、安直な選択をしていいのだろうか。
将来の姿が見えない状態で、周りや教師に促された選択をしていいのだろうか。
頑張らなければならないが、様々な問題が押し寄せてくる。
今の博人を苦しめているのは、そういう不安だった。
「そっか」
幼なじみの告白を聞いたみなもはゆっくりと立ち上がると、小屋の入口に向かっていった。
「ね、博人くん」
外の景色を眺めているのだろうか。博人の位置からはみなもの表情をうかがい知ることはできない。
「博人くんはさ、虹の仕組みっていつぐらいに気づいた?」
みなもは振り返ることはなく、声だけでそう聞いてきた。
「虹の仕組み?」
「そっ。虹の仕組み」
彼女は空を見上げたのだろうか。黒くしなやかな髪が静かに波打った。
「光の加減が~とか空気中の水分が~とか、そういうこと。小さいころってさ、そんなこと考えもしなかったじゃない? 私は、虹っていうのはきっと魔法が作り出しているんだろうなって、ずっと思ってたもん」
屋根を叩く雨の音が、少しだけ小さくなった。
みなもの声がよく通るようになる。
「それが大きくなるにつれてさあ、科学とか気象学とかを知って、虹はこういう風に発生するんだよって、分かっちゃうんだもん。そんな複雑なこと、考えなくてもいいのにね」
みなもは身を翻し、自分の座っていた場所へと歩き出した。
「だけど、大人になるってそういうことなんだと思う。色々と複雑に考えちゃって、何にでも明確な答えを求めようとする。虹の仕組みを知ったところで、それで世界が変わるわけでもないのに」
そして再び博人の隣に座ると、子供のように足をぱたぱたと動かす。
「うまくは言えないんだけど……。博人くんは、難しく考えすぎなんだよ。たしかに将来のこととかで不安になる気持ちは分かるよ? だけど、それで他のことに身が入らないのは本末転倒だと思う。答えはけっこう、シンプルだったりするんだから」
そこで言葉を一端切り、みなもは博人に顔を向けた。
「ね?」
彼女は笑っていた。
それはいつもと変わらない、見る者を元気にさせるようなとびきりの笑顔。
その笑顔の裏側で、彼女は色々なことを考えていたのだろう。
将来への不安。選択の苦しさ。その悩みは彼女だって抱えているはずだ。
しかしこうやって誰かを励まし、元気な笑顔を見せることができる。
「……夢が、あるんだっけ?」
不安の前に立ち止っていただけの自分とは違う。
みなもは自分で考え、行動し、その不安を打ち破っていた。
「お前の夢は、なんだ?」
幼なじみの思わぬ成長に、博人は眩しさを覚えた。
「おお! それを訊いちゃうかい?」
よくぞ訊いてくれましたとばかりに、みなもはジャンプをするように勢いよく立ち上がった。両足を揃えて着地をする間際、彼女の腰元で青い花が咲く。
「ま、博人くんになら教えてあげちゃおうかな? 私の夢。それはねえ」
みなもは上体を曲げて後ろで手を組み、にんまりと笑って、博人の顔に自分の顔を近づけて言った。
「お・よ・め・さ・ん・!」
みなもの言葉を聞いた博人は、ぽかんと口を開けたまま言葉を紡げずにいた。この時の彼の顔が、豆鉄砲を喰らった鳩よりも間抜け面であったことは言うまでもない。
「……は?」
しばらくしてやっと発したのがこの言葉が、彼の間抜けさに拍車をかけた。
「お嫁さんだよ!」
顔を離し、満足そうに頷くみなも。
「先行きの見えない今の日本では、お嫁さんになるにも学が必要だと思うんだ。どこに嫁いでも恥ずかしくないようなお嫁さんになるために、私は勉強しているのだ!」
学生鞄を相手にステップを踏み、楽しそうに小躍りをしている。
「お嫁さん、か」
一体みなもが何になるために成績を伸ばしているのか、これではっきりした。
彼女の勉強は学者になるためでも大企業に勤めるためでもない。家庭に入り、良き妻になるためのものだったのだ。
やりたいことの答えは、意外とシンプルなものである。
たしかにその通りだ。
こんなシンプルな答えは、そうそうあるものではない。
「みなも」
だが、彼女らしいと言えば彼女らしい。
「ん?」
博人に声を掛けられ、みなもはステップをとめた。
「今、楽しいか?」
勉強することは苦しい。
成績を上げることは難しい。
だが、みなもはそんな素振りを一切見せていない。
みなもの様子を見ていれば訊かなくても分かる質問だった。しかし、博人は聞いてみたかった。
彼女の口から、その答えを。
「うん! とっても楽しいよ!」
そう言ってみなもは笑った。
それは夏空の元に背を目一杯に伸ばし、大きく花開いたひまわりのような、昔と変わらない笑みだった。
夕日に照らされた彼女の姿はまるで輝いているようで、博人は少し目を細めた。
「あ、止んだね!」
みなもは自分の背後、バス停の入り口から差し込む光を確認すると、博人に向かって手を伸ばした。
「帰ろ! 外はとっても綺麗だよ!」
どこまでも無邪気で、単純で、こうと決めたら一直線で。
しかし、どんなに大変なことでも楽しいと言ってやってのけてしまう。それは博人の持っていないものだった。
彼女が眩しく思えてしまうのは、きっとそのせいだろう。
答えはとてもシンプル。
夢見る少女は無敵。
口で言うのは誰でもできる。
しかし、それを実行している人間に言われてしまっては、ぐうの音も出ない。
(かなわねえなあ)
しかし、博人の顔はどこか晴れ晴れとしていた。
自分にはみなものような夢なんてない。
だけど、それは何もしなくていいということの理由にはならない。
これ以上みなもに迷惑を掛けないために、今ここで立ち上がらなければならない。
「うん。帰ろうか」
博人はみなもの手を握った。
そして二人は、一緒にバス停を出て行った。
◆
真っ赤に燃える夕日が山の稜線を色濃く染める。
ここは空気が綺麗なのか、街で見るよりも鮮明な色合いを感じることができた。
「すごいねー。綺麗だねー!」
ここに来てからというもの、みなもはほぼノンストップではしゃぎっぱなしだったかもしれない。今も夕日を見て、感動と興奮で胸を躍らせている。
この無尽蔵とも言えるパワーは、一体どこからわき上がってくるのか。
「ああ、本当に綺麗だ」
しかし、博人がそのパワーに元気づけられたというのも事実。夕日に照らされた彼の顔に、迷いの色はなかった。
二人の住む街は沈みゆく太陽と同じ方向にある。夕日に向かって歩を進める彼らのうしろには、ふたつの影がまっすぐに伸びていた。
「結局さ」
鞄を肩に担ぎながら、博人は口を開く。
「虹のふもとにある宝物ってのは、どんなのなんだろうな」
「信じてないんじゃなかったの?」
すかさずみなもが、悪戯っぽく博人の顔を覗きこむ。
「そりゃまあ、信じてないけどさ」
博人はみなもから視線を外し、後ろの空に目をやった。
「俺もロマンが分かるようになったのかな? なんつーか、気になるじゃん」
二人が目指した虹は、今はもうすっかり消えてしまってした。
もしあそこでふもとまで辿り着けていたのなら、自分たちは一体どんな宝物を見つけていたのだろう。
博人はそんなことを考えていた。
「ね、博人くん」
しばらく顎に人差し指を当てて考え込んでいたみなもだったが、思いついたように博人を呼んだ。
「ん?」
「ちょっとここに来て」
なにか企んでいるような雰囲気のみなも。
「妙なことしたら怒るぞ?」
訝しげながらも、博人はみなもの指示に従って場所を移動する。と言っても、大きく移動することはなかった。
道路のセンターラインを挟んでみなもと向かい合い、右手の方向に夕日が位置している。要は、体の向きを少し変えただけなのである。
「これになんの意味があるんだ?」
「いいから鞄を置いて、手をこうやって伸ばすの!」
こんなに無邪気な笑顔を向けられては、断ることなど出来るはずもなく。
「分かったよ」
博人は鞄を道路に置いた。そして、みなものジェスチャーに従って手を伸ばす。
頭の前方、やや上よりに手を伸ばした格好になった。倒れそうなものを押さえているような、そんなポーズである。
「そうそう。そのままだよ!」
みなもは嬉しそうに頷くと、今度は自分の手に持っていた鞄を道路に置いた。
「よっと!」
そして、背伸びをして博人の手に自分の手を重ねた。
「……は?」
「ふふ~ん」
意味不明という表情の博人と、なにやら満足そうなみなも。
遠目から見るとハイタッチをしているような感じになっているが、どうやらみなもの目的はそれではないらしい。
「で、これにどういう意味が?」
「影、見てみてよ」
みなもに言われ、博人は自分の左側に伸びる影を見た。
路面には、自分の影と、みなもの影。それぞれの影から、細い線のような影が伸び、二人の中間あたりで交わっている。
「これってさ、虹が掛ってるように見えない?」
たしかに、二人の腕がアーチ状に合わさり、それぞれの体を結んでいるように見えなくはない。
「たしかにそれっぽく見えるけど」
それでも、みなもがなにを言わんとしているのか、博人には分からなかった。
それどころか、余計に混乱するばかりである。
「もう! 鈍いんだから!」
みなもは拗ねたように頬を膨らませたが、すぐに顔を綻ばせた。
そして、満ち溢れた自信をもって、声高らかにこう言った。
「つまり、私にとっての素敵な宝物は、博人くんってことだよ!」
遠くの方でヒグラシの鳴く声がする。
博人はしばらく二の句が継げなかった。
「どうしたの?」
「どうしたのってお前……」
首を傾げるというみなもの姿と、不純な気持ちなど一切ない無垢な瞳を向けられ、思わず博人は手を離してしまった。
「よくもまあ、そんなことを恥ずかしげもなく」
博人はみなもを置いて、一人で歩き出してしまった。
彼の顔が赤く染まっているのは、おそらく夕日のせいだけではない。
「ちょっと! 鞄忘れてる!」
みなもは二人分の鞄を手に提げ、慌てて博人のあとを追った。
「本当のこと言ってなにが恥ずかしいの! ちょっと博人くん! 聞いてるの!?」
みなもが水たまりを蹴飛ばして走る。
その水たまりに映った赤色の空には、微かに虹が掛っていた。