提督と不知火が浮気している話
黒潮スキーはちょっと閲覧注意です
どシリアスなのでアダルト系の期待には沿えません



最近村上春樹さんの本を初めて読みました。
評価感想お待ちしています。


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大輪の花

 

 

 

 夜八時に回転ドアを押すと、決まって彼女の横顔が美しく見えた。カウンターの一番奥。照明が彼女の前髪と襟足を結ぶように光と影を断ち切って、唇に微かに残る滴が(もちろん、その滴は僕の欲求からくる妄想であった可能性も高い。彼女と会う時、僕はどうしようもなく期待している)揺れるともなく照り返した。彼女はいつも右斜めにスツールに腰かけている。そうしないと、手元の文庫本に影が落ちるのだ。

 一人の男が彼女から一つ空けた席に座り、ちょっとギムレットを呷って近付いていった。その男が追い返されるまでの数分間を、僕は白痴のように呆けたまま入口の横に突っ立って眺めていた。その時僕の心を過っていた複雑な感情はたぶん、男としての恥部に近い。

 

「『痴人の愛』か。酷いね」

 

 男が去ったその席に僕が座ると、彼女はちょっと本から目をあげ、すぐに落とした。

 

「どんな作品だか知っているのですか?司令」

 

「つまり、倒錯的なエロティックだ」

 

 彼女、不知火はおかしそうに笑った。何度も逢い引きして、その度に彼女は様々な本のことを僕に聞かせてくれるが、僕は興味をもったことがない。唯一、本を読む彼女の横顔だけが、嫉妬という形で僕の興味を引き立てた。

 

「ご注文は?」

 

「ウイスキー。ボウモア以外ならなんだっていい」

 

 バーテンは困ったような素振りを見せてから、瓶を取り出した。この店について、僕と不知火は常連である。ボウモア以外なら、という僕の言葉がそのままの意味でないことを彼はイヤというほど知っている。

 

「マッカラン」

 

「弱ったな。スコッチの気分じゃないんだ」

 

「バーボン・ウイスキーは?」

 

「悪くないね」

 

「ワイルドターキー」

 

「君が素晴らしいバーテンであることに感謝しているよ」

 

 恐れ入ります、と頭を下げて彼はウイスキーを注ぎに行った。本当のところ、バーボンだのスコッチだのの違いがわかるような上等の舌を僕は持っていなかった。不知火が読んでる小説を盗み見て、それっぽいことを言ってみたのが始まりだ。その時彼女は『マルタの鷹』を読んでいた。ハードボイルドというやつは、いつもなにかゴツい酒を飲んでいる。

 

「その小説は、どんな教訓をくれるんだい?」

 

「教訓なんてものがあるのですか?」

 

「さあ。しかし文学というやつだ。学だよ、がく」

 

「海の上にある教訓は、水と食料とビタミンですから」

 

「弾薬と燃料は?」

 

「いざとなればこの身だけでも」

 

「躰だけか」

 

「ちょっと心配性な通信も、イヤというほど聞こえていますが」

 

「きっと情けない男だろうね」

 

 そう言うと彼女は困った顔をしてしまう。

 

「自分が一番情けないと思った時、戦場では死が見えます」

 

 そして、そんな不器用を慰めを口にするのだった。

 

「どうぞ」

 

 ワイルドターキーがやってくると、僕はちびりと一口舐め、チェイサーを口に放り込んだ。それからワイルドターキーを大口開けて飲み、一緒に出された生ハムを一枚口に突っ込んだ。そこまでやると、ようやく僕は入店したような気持ちになった。

 彼女がページを捲る。そのペースが普段よりずっと速いことに気付いて、一声かけようとしたが、僕の言葉の出だしは後ろのテーブル席にいた男のやけにデカイ酔い声に掻き消された。

 

「馬鹿野郎。そんなんじゃお前は永遠に『坊や』のままさ」

 

 そう怒鳴りあげた年配の男の話は、非常に人間的な生命の神秘に触れ、山から海へと下る水のようにくねりながらも淀みなく、最終的にはその賛美に幕を閉じた。まったく名調子というべきで、その内容がセックスに始まり愛に終わるようなものでなければ、あるいは隣に不知火がいなければ僕は彼の話に胸中で相槌をうち、拍手とともに一杯のカクテルでも奢ったかもしれない。

 残念ながら条件はどちらも満たされておらず、従って僕は努めて何事もなかったかのように不知火の方へ向き直った。

 僕が目を離している間、時間が止まっていたのではないかと思うほど変わらぬ姿勢で彼女は本を読んでいた。そのページが進んでいないことを、僕は見てみぬ振りをした。

 

「『痴人の愛』、読んだことがあるのかい?」

 

「ええ」

 

「一回?」

 

「いえ、何度か読み返しているはずです」

 

「お気に入りという訳だ」

 

「どうでしょう。気に入っている、という感じは自分では無いのですが」

 

「じゃ、まったく嫌いなんだな。そういうこともあるよ。嫌いなものって、目に入れてみたくなるんだ。背筋に悪寒が走ってね」

 

「それこそ倒錯というものではありませんか?」

 

「一般的なものだと思うな」

 

 ワイルドターキー。今気付いたが、この酒は甘い。

 彼女の前にはグラスが置かれていたが、減った様子がない。僕が生ハムの皿を寄せると、思い出したように彼女は杯を傾けた。

 

「なんと言って出てきたのですか?」

 

「接待だと言ったとして、君は信じるかい?」

 

「いいえ」

 

「だろうね。だから接待だと言って出てきたよ。大真面目に、眉と口元をひくつかせながらね」

 

「なるほど。あの子の好みそうな言い方という気がします」

 

 僕には恋人がいた。黒潮といって、微笑みを好み、嘘をつく時挙動不審になってしまうような馬鹿正直さを愛する心優しい子である。きっと僕はプレゼントを持って帰るだろう。接待というのはサプライズのための方便だと彼女は信じてしまうだろう。穏やかとはいえないけれど危機的という程でもない戦況の中、慎ましい幸せの花弁が一片舞い降りたように、僕は彼女にプレゼントを手渡し、彼女はそれを胸に抱くようにして受け止めるだろう。

 その光景を誰かが愛と呼称してしまうことを、僕は心から恐れていた。愛は偽りではなく、僕は黒潮を心底に愛している。しかし、愛は須く触れざるものであるべきだった。僕が恐れているのは愛の真贋などではなく、その光景を『愛』として定義してしまった時にきっと起こるであろう愛の失墜だった。

 

「いつも思うのですが」

 

 前置きだけして、不知火は一度グラスを傾けた。

 

「河合とナオミの間にある感情、カースト、歴史、肉体を、いったいどう飲み込めばよいのでしょう」

 

「サディスティックな美女とマゾヒスティックな中年男による隷属だろう。感情は性欲で、歴史はなく、肉体は快楽の発生装置、あるいは受容器」

 

「それでは官能小説ですよ」

 

「つまりそう言っているのさ。痴人の愛は倒錯的なエロ小説で、君は今バーの片隅で恥ずかしげもなくそれを広げている」

 

「そんな女の横で、司令はなにを考えているのですか?」

 

「君が僕に馬乗りになろうとする可能性」

 

 後ろの酔客はますます酒を浴びたようで、呂律の不調がそのまま彼の品格(これは人としての品格ではなく語り手としてのそれである)の低下に表れた。名調子が鳴りを潜めるとともに言語野は足元から崩れ去ったようで、端的に言って下品な男に成り果てている。僕は自分でも驚くほど辛抱強く粘ったが、連れらしい若い男(顔が真っ赤だが、怒りのためか酔いのせいかはわからない)に唾を飛ばしながら童貞呼ばわりを始めた辺りで限界に達した。

 

「セックスってのは愛なんだよ。わかるか?愛を知ってこそ男は強くなるんだ。『坊や』のまま一端の口を利こうったってそうはいかねえんだ」

 

 無言のまま僕は不知火の腕を掴んだ。彼女はちょっと困ったような顔をして、それでも栞を本に挟むとスツールを立ち上がった。会計を済ませて、騒がしくてすみません、と頭を下げるバーテンの言葉を背中に聞きながら夜の街に踊り出した。やかましいネオンの中を僕が先に、彼女はちょっと左後ろに、二人でそのまま歩いた。ホテルの看板をいくつか通りすぎる。僕は足を止めなかったし、彼女はなぜと訊かなかった。やがて、軒先で雨宿りでもするかのように肩をすぼめながら、僕たちはホテルの入口に吸い込まれていった。名前も金額も見ないままに。

 エレベーターの中で、僕たちはキスをした。いまだに手に持っていた『痴人の愛』を右手で取り上げると、僕は左手を彼女の右手へ複雑に絡ませた。彼女は抵抗しなかったが、一瞬薄く開かれた目が『痴人の愛』の背表紙を撫でたのを僕ははっきりと感じ取った。

 部屋に入り、僕がシャワーを使い、彼女がシャワーを使っている時間を黒潮へのプレゼント選びに用いてから、僕たちはひとつになった。

 裏切りの罪悪が肥料のように僕たちの愛に振りかかってくるのが、目に見えるような気がした。僕と不知火の愛ではない。僕と黒潮の、そして不知火と黒潮の愛にだ。それはとても美しく毒々しい大輪の花を、愛の薄皮に咲かせるだろう。慎ましい白百合の愛より、もっともっと大きな愛の造花。

 

「ありがとうございます、司令。これでまた、不知火は強くなることができます」

 

 きっと遠くない将来、強い彼女は黒潮を庇って沈むだろう。深く、深く、船員の代わりに愛を抱きながら、水底への旅路に出る。僕は鎮守府の中でもっとも情けない人物としてこの戦争を生き抜く。そして黒潮と一緒に、儚く散った姉の墓参りでもするだろう。

 僕は彼女にキスを落として、それから馬鹿げた一つの妄想を頭の奥底に捏ねて詰め込んだ。

 もし。もしも許されるのなら。この戦争が終わり、情けない提督が必要なくなるその時。その時僕は、強くなってしまっても許されるのではないだろうか。

 不知火のように。黒潮のように。

 強く、強く。

 

 

 

 

 


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