では。
師匠が疲れて帰ってきたとき、俺たち弟子がやることは決まっている。
熱い薬草茶を淹れ、蜂蜜を垂らして出す。
それだけだ。
それだけなのだが、薬草茶は温度やら分量やらを間違うと鼻の奥に突き刺さる酷いえぐみが出てしまうため、美味しく淹れるには少しばかりコツがいる。
そのコツをなるたけ迅速にルグナへ伝えながら茶を淹れて戻れば、師匠とホノメは居間に座っていた。
板張りの床の上に分厚い布を敷き、丸い座布団を置いてそこに座る習慣は、師匠の故郷の習慣だ。
だけど、蜂蜜入りの薬草茶はあの里から持って来たものだ。
異なる地方の、異なる習慣が混ぜ込ぜになった暮らしが営まれているこの家では、別に珍しいことでもないのだが。
「師匠、茶です。熱いし濃いから気をつけてくださいよ」
「……ああ。ありがとう」
ホノメが軽く片目を瞑ってきたので、同じ仕草で返す。
普段こちらにきついホノメでも、師匠に何かあれば協力し合うのは暗黙の了解だ。
ずず、と湯呑を両手で持って茶を飲むと、師匠の雰囲気はかなりいつもに戻った。
「何か、あったんですか?」
「あったと言えばあったが、大したことではない。お前たちは早く寝ろ。明日からまた、外へ出る。……茶は、助かった」
はいはい、と立ち上がりかける。
「待て。ハヤだけ残れ。話すことがある。ホノメとルグナは寝ていい」
昨日の今日で自分だけが残されるとくれば、言うまでもない。
剣を勝手に持ち出したことに関して、以外にはないだろう。
来るべきものが来たとしか思えなかった辺り、自分はやはりひねくれていると思う。
ホノメは軽く頷き、何か口を開きかけたルグナを無言で促して、去って行った。
ホノメは自分のことを好いてなどいないだろうが、昔自分のことを救ってくれた師匠のことは一途に想っていて、言うことには従順だ。
師匠と俺だけが部屋に残される。
師匠が持つ湯飲みから、白い湯気が螺旋を描いて立ち上っているのが、やけによく見えた。
「……お前が剣を持って出たのは、俺が、ドラゴン乗りならばこの剣を抜ける、と言ったからだろう」
いつもの如く、師匠には前置きというものが一切なかった。
「ドラゴン乗りならば抜ける、というのは、正確な言い方ではなかった。これを抜けるのは、魔力を体外で操れる人間のみだ」
だから、剣を抜ける者は、ドラゴン乗りでなくてもいる。きっと、いくらでも。
膝の上に置いている剣を、師匠は音も立てずに抜いた。根元から切っ先まで、その剣は淡い紅色に染まっている。
ゆら、と波立つように紅色の刃紋が揺れた。そんな気がする。その揺らめきの向こうで、何かが光ったようにも見えた。
「体外に魔力を放出する才能は、生まれつきだ。が、ごく……ごく稀に、瀕死になるほどの衝撃を受けて箍が外れるときがある。お前は、それを狙って大会に出たんだろう。最終戦では、俺ではないドラゴン乗りと、戦うことができるから」
「そこまで知ってるんだったら、聞く必要なんかありませんよね」
薄暗い部屋の中でも消えない光を放つ剣と、それを手にする師匠の凪いだ瞳を直視できなくて、目を逸らす。言葉も刺々しくなった。
師匠の言うことは、一から十までその通りだった。
「お前がドラゴン乗りになりたい理由は、なんだ?」
俺が目を逸らしても、逸らさなくても師匠は話すのをやめなかった。
やめては、くれなかった。
静かなその声に、自分の最初の記憶が引きずり出される。
あの子の笑顔と、繋いだ手と……血を吐くような、慟哭が。
噛み締めた唇から、血の味が滲む。
あの光景が、自分の始まりにあるのだ。
「箍が外れるというのは、本来必要ない生命の境界を踏み越え、触れられなかったものに触れることができただけだ。触れて、戻って来られる保証もない。まして、龍の宝を持ち出したりなぞ二度とするな。あいつらは情が深い分だけ、己のものに対する執着が強い。特にコクヨウは、最初の乗り手に今も拘り続けている」
師匠は剣を鞘に戻し、傍らに置く。
はい、と答える声は、自分のものではないかのように掠れていた。
「師匠」
ぐ、と喉が鳴るのを押さえながら声を絞り出した。
「……ごめんなさい」
返事代わりか、とん、と師匠の指が額を突いた。
「二度とするなよ。……お前が戦おうと思った理由を、忘れるな。方法を間違うな。目的を見失った人間には、決してなるな」
この話はもうこれきりにする、と師匠は湯飲みを手に持った。
一口啜り、肩をすくめる。
「師匠。……その剣の話、聞いてもいいですか?」
立ち上がろうとしてか、膝を崩しかけていた師匠に、自分は尋ねていた。
一瞬、虚を突かれたような顔になった師匠だが、何事もなかったかのように、元の通りに座り直してくれた。
「……元々、これは普通の剣だった。五十年前に、魔力を大量に浴びて鞘諸共素材の魔鋼が変化しただけだ。魔剣なんぞと言うやつもいるが、ただ、それだけの武器だ。切れ味は良いがな」
五十年前から使われ続けているだけで、相当な業物だと思うのだが、師匠にとってはただの武器で……形見の品なのだろう。
「結晶化、の亜種なんだろうな、この色変わりは。唯一珍しい特徴と言えば、魔力を持って握らなければ、剣が鞘から離れないことか。原理は俺にはわからないのだが、少々特殊な癒着状態にある。素材は……なんだったかな、西山地の魔鋼山から取れたという話だったと思うが……すまん、五十年以上前のことだから、細かいことは忘れた」
しまった、と思った。これは完全に額面通りに受け取られている。
剣の話を聞きたいと言ったから、師匠はこのままだと延々剣の話しか語らない。型番の名前とか、自分にはどうでもいいのだ。
本当に聞きたいのは剣じゃなく、それを使っていた人の話なのに。
「あの、師匠。ほんとすいませんごめんなさい。間違えました。俺が知りたかったのは、その剣を使ってた……ジザさんの話です」
「なんだ、そっちか。珍しいな。お前が俺の昔の話を聞きたがるなんて」
師匠に悪気は一切ないのだが、だからこそこちらのこれまでの無関心ぶりを指摘されたようだった。
茶を一口啜ってから、師匠は続けた。
「ジザはあだ名で、本当の名前はアジィザだった。俺の四つ下で、長いからそう呼んでいいと俺たちはあいつに言われてな」
「俺、たち、って……」
「俺と、シャクラにフェイだ。その二人はお前も知ってるだろう。ルグナの父母だ。あいつらと俺たちは、四人と三頭の一組で戦っていた。前に出て戦うドラゴン乗り三人と、司令塔役のフェイ。俺の龍だったシランと、ジザの契約龍のコクヨウ、シャクラと契約した龍、エラワーンだ」
ドラゴン乗り三人に、ドラゴン三頭。それに【魔力持ち】。
今の時代ならば、それだけできっと街や村ならば時間は多少かかっても攻め落とせる。
そんな師匠たちですら、あの時代においては五翼将でも何でもない一兵卒で、死なずに戦い続けることが精一杯だった。
「ジザさんは、俺たちの姉弟子だったんですよね」
「ああ、そうだな。俺とジザには師匠がいた。師匠が死んでからは、俺があいつの修行も見ていたから……あいつは、後輩でもあったし弟子の一人でもあった。ジザから俺は、先輩と呼ばれていたな」
「先輩?」
「それより前は、兄弟子と呼ばれていた。師匠が死んでからは先輩、だ」
自分の契約龍にとにかく甘いやつだった、と師匠は語る。
紫の瞳が、静かに地上を見る細い月のように細められていた。
「コクヨウは元々、ジザの龍で、俺の龍はシランと言った」
「……そのドラゴンは、どうしたんですか?」
乗り手が入れ替わることはあっても、騎乗龍が入れ替わることはほとんどないとされている。
単純に、人間は龍より弱いからだ。精神も、体も。
師匠はああ、と頷いた。
「シランは、死んだ。……龍の心臓に、莫大な魔力が蓄積されているのは、お前も知っているだろう。ジザはシランの心臓の魔力を解き放って、あの結界を張った。シランを起爆剤に、自分を回路にして、結界を編んだんだ」
龍の心臓の魔力濃度は、凄まじい。
仮に間近で浴びたならば、人間など一瞬で細胞が汚染されて結晶化する。
【魔力持ち】やドラゴン乗りでない並みの人間ならば、即死しているのだ。
「この剣は、シランの心臓を突いた剣だ。爆心地とも言える場所にあったから、こうして刀身の色が変わってしまったんだ」
「なんで、赤くなったんですか?」
姉弟子だった人のかつての名は【黒】。師匠は【蒼】だった。ならば、【赤】はどこから来たのだ。
「さあな。だが、コクヨウの瞳は赤で、ジザが放つ魔力は赤だった。俺も、昔は蒼で今は紫だ。契約龍により変化するんだろう」
知っている。
師匠が放つ魔力は、紫色を帯びている。滅多に見たことはないが、綺麗な色なのだ。
「とはいえ、あいつの最期のことなんて、この世界の皆は知っているだろう。……知らない話と言うなら、何があったろうかな」
知っている話など、今更語る必要なんてないだろう、と師匠は遠く、窓の外を見た。
風でかたかたと鳴る硝子の向こうは、ひたひたと迫る夜闇に満たされていた。
「ジザの好きなものはあのカレーという料理と、それに小さな猫と犬だった。だけど、俺たちはほぼ龍舎に住んでいたからな。髪にも体にもあちこちドラゴンのにおいが染みつき過ぎて、な」
「……それは、絶対怖がられますよね」
「正解だ。近寄ってももらえないから、遠くから眺めていたな。食糧庫では、鼠取りのために猫を飼うだろう?厩には犬もいて、だが馬にも犬にも怯えられないように、やはり遠くから見ていた」
先輩の、さらに四つ下だったジザ。
五十年前なら、今の自分と同じか一つ上程度だろう。
「嫌いなものは、ヤツミ草の汁だった。あれは切り傷に効く薬だが、なにせにおいがきついし染みると痛いだろう?一度、間違えて眼に入ったとかで大騒ぎするものだから、コクヨウまで騒いで大変だったんだ」
「……」
あの黒龍が慌てるという姿がまず、想像できない。
ドラゴンとその乗り手が騒ぐって、それはどういう災害だ。なのに、たかが染みる薬で大騒ぎ。
色々と情けない自分でも、さすがにやらない失敗だ。確かに、ヤツミ草の汁は染みるし痛いが。
「それと……そういえば、あいつには前世の記憶があってな。前は男だったと言っていた。異なる世界に異なる形で生きていて、転生したそうだ」
「はぁ!?」
転生、と鸚鵡返しに言ってしまう。しかも、男だと。
明らかにあり得ない、重要なことなのに、師匠にとっては、好きなものと嫌いなものの話の後に、ついでに思い出すような、些細なことでしかないらしかった。
「生き物の魂が転生するというのは、最近学術的にかなり明らかにされたが……あいつが、転生の自覚のある実例一例目なわけだ。二例目があるのかは知らないがな」
「だけど、転生したら記憶はなくなるはずなんじゃ……」
「毎日毎日、人も獣も多くが死ぬ。何百何千何万もの生命が、日々死んでは生まれるを繰り返すんだ。一つや二つ、他と違う何かを抱えたまま生まれてくるやつくらい、いるだろう」
中央部の学者が唱える【転生】と、それに関わる【魂】と【体】と【心】、そして魔力の関係は、複雑だ。
人も獣も、虫も魚も、植物も、この世界に生きているものは、【魂】を持っている。
【魂】が体に宿ることで、生物として動けるようになるのだ。
自分たちの体は、魔力という力がなければ動けない。人も獣も、鳥も魚も虫も、ありとあらゆる生き物がそうだ。
食物を摂取するのも、生きるための魔力を得るためである。
魔力は、体の細胞を結び付けるための力であり、日々心臓を動かすための力なのだ。
だからこそ、その生命そのものとすら言える力を、自分の意志で操ることのできる【魔力持ち】やドラゴン乗りは特別となる。
【魔力持ち】とはいうが、魔力そのものは体のある生き物ならば皆持っていて当然なのだ。
そして、【魂】はその魔力を体に留めるための楔とされている。
不可視で、莫大な量の力を秘めた高濃度の【力】の塊なのだ。
【魂】がないならば、生き物の体はただの細胞の塊だ。
意志が宿らないどころか、時間が経てば亡骸は生き物としての形を維持できなくなる。腐敗するのだ。
【魂】にある【力】が魔力と同質なのか、それとも異なる次元の力なのか、それはまだ解明されていない。
【魂】が体を離れることが生命の死で、体が壊れれば、【魂】は体との結合力を失う。
残った体は、当然、腐る。腐って分解されて、また新しい体の一部になる。
体を失った【魂】が、どのようにしてまた別の【体】に入るのか、これもまだ解明されていない。
それでも【転生】とは、体から離れた魂がまた別の体に入り、生きていくことになる。
だがそこに、転生前の記憶が残される余地はない。
記憶は、脳の細胞に蓄えられるもの。
脳とは詰まる所、体の一部でしかなく、それそのものに意志のない【魂】に記憶が刻まれるわけではないのだ。
だとしたら、【心】はどうなるのだろうか。
「心は、魂と体の間に発生する現象、だったな。記憶を元に組み上げられる感情の形成と発露という一連の現象が、学術的な意味での心とされている」
「魂が離れた体は分解されて、で、また新しい体を作るんですよね?」
だから、同じ人間は二度と現れない。
魂はただの力の塊で、記憶はただ体の、脳の、細胞に刻まれた情報だから。
「そうだ。この世界で、魂と体はそうやって、永遠に巡っていく。きっと、この世界に満ちている力の量には、限界があるんだろうな」
師匠の視線が、剣に注がれる。
帰って来たときに纏っていた、あの重く怖い、濡れた布のような空気があった。
いや、怖いというのとは少し違う。
そこにあるのは、ぽかりと口を開いてこちらを見ているような、深淵に繋がる虚無だった。
腹に力を込めて、自分は問うた。
「師匠、やっぱり何か、あったんですよね?」
「いや、特には何もなかった。気にするな。……もう寝ろ」
嘘だ、と思った。
何もなかったはずはない。
自分は魔力をろくに扱えない人間だが、勘は鋭い。他に取り得がないと言えるほどに。
じっと見つめれば、師匠は黙り、軽く肩を落とした。
「師匠、俺は確かに馬鹿ですけど、でもあなたの弟子なんです」
心配しないなんてこと、あるわけないのだ。
この人がいなければ、自分たちなんぞろくな生き方ができない、という打算はあるにしても。
睨み合うこと数秒で、師匠は肩を落とした。
「……あの結界はな、魔力汚染で結晶になって砕け散ったあいつの……ジザの体でできている。だったら、魂は一体どこにあるんだろうかと、俺はずっと思っていたんだ」
体が壊れれば、魂はそこから離れる。
離れた魂はまた、新たな体に宿って、生まれて来る。
大切な人の【魂】が新たな生命を授かって生きているならば、慰められる心はある。
それが喩え、人間でなかったとしても。決して生まれ変われないで虚無を巡るよりは、余程いい。
「あいつの魂は……今もあそこにあるそうだ。薄く薄く広がって、結界の一部となっていると、最近の研究で明らかになった、らしい。それが今日、わかった」
結晶となって砕けた体は魔力で結ばれ、結界の膜となった。
だが、術者の意志がなければ、魔術は続かない。
【魂】と【体】が揃って生まれる意志がなければ、空中に漂う魔力を結界の形へと加工することができない。
なのにあの結界は、ずっと、ずっとずっと存在して、世界を守ってくれているのだ。
「あいつが死んで、【魂】がこの世を巡って、それで新しい生命として生きていまいか、とずっと思っていたんだが」
─────それは都合のいい、空想だったと、師匠は呟くように言った。
「仮初でも、今は平和だ。平和な世界で、人間として生きていてくれないか、と、な。何も覚えてなくたって、生きていてくれるならばと思ったんだが」
「……」
魂が結界にまだあるならば、ジザという人は死んでいないし、死ねていない。
【体】は結晶となって結界に、【魂】は【体】が完全に崩壊しないための楔になって、今もあそこにある。
しかし、到底人間と呼べる存在ではないのだ。そんな状態は。
だのに【魂】と【体】が揃っているのだから、生命としての死は、訪れていない。転生できるはずがない。
それならば。
「ジザの意志……【心】とは、どこにあるんだろうな」
湯飲みを手に持って、今度こそ師匠は立ち上がった。
剣を手に、こちらを振り返った顔はもう、いつもの湖面そのものだった。
ほんの短い時間垣間見えた、五十年前に取り残されたままの、知らない誰かはもう、そこにはいなかった。
「お前の守りたいものは、失われていない。だからお前は……そのままであれ」
無鉄砲はもう少し、どうにかしてくれなければならないがな、と微かに笑いを含んだ声で師匠は言った。
自分には、何も言葉が出なかった。
弟子なのに、何か言わなければならないのに、言葉が喉の奥で凍てついて、何も言えなかった。
俯いた自分の頭の上で、ふ、と師匠が表情を緩める気配があった。
「早く、寝ろ。明日から任務だ。さっき言っただろ?」
ぴし、ともう一度指で額を弾かれる。
結構、痛かった。
「……師匠、痛いんですけど」
「当たり前だ。今度は痛くしたんだからな。……お前は、」
迷うように、師匠の瞳が揺れてそれっきり静まる。
何かを言いかけ、しかしこの人はやめたのだ。
「また明日、だ。俺はコクヨウの様子をもう一度見て来るから。俺が戻る前に、寝室に帰っておけ」
それっきり、自分たちの師匠は外へと出ていき、床の板が踏まれて、軋む音が遠ざかっていった。
自分は一人座ったまま、その音を静かに聞いていた。
人間としては終わっているが、生命体として終われていなかった人の話です。
50年で色々研究とかは進んでいますが、逆に言うと50年前は転生やら魂やらまでわかっておらず、結界を張る為だけの術式が組まれました。