天界の僕、冥界の犬 作:きまぐれ投稿の人
「―――!?」
何か恐ろしい声が聞こえた気がして、急き立てられるように目が覚めた。
むくりと体を起こすと、何かがおかしい。まず視界が低いのだ。
元々俺は身長が高い方であったので、かなりの違和感がある低さだ。
此処まで地面を低く感じるのは随分と久しい。
次になんか白い。何を言っているかわからないと思うが、俺もわからない。
とりあえず白いのだ。下を向いた自分の視界に、やけにふわふわとした白い毛がフェードインしている。何だろうと手を動かすが、その手も何かがおかしい。
まず指がない。丸に近い形をしており、拳を握った時と比べ物にならないくらい大きい。
「……!?」
まさかと思い立ち上がろうとして、失敗した。
それはそうだろう、四足歩行の生き物に突然二足歩行を強いるなど……。いや待て、まだ混乱しているようだ。四足歩行だと? 人間は二足歩行であった筈だ。
良くわからないままに丸い手に力を入れると、刃物そのもののような鋭い爪が現れた。
「わ、……わふっ」
いや『わふ』ってなんだ、と自分自身にツッコミを入れるがなんというか口の可動域が狭い。
まさか、本当に―――俺は人間ではなくなってしまったのか?
恐る恐る四肢に力を入れると、安定して起き上がることが出来る。
これは明らかに、あれだ。人間ではない体だ。だとすると何故、こんなことになっているのかを考えると頭が痛くなる予感がしたので、とりあえず歩いてみることにする。
真っ暗な場所だ。此処が所謂冥府なのだろうか。はじめて来た。
何せ死ぬのははじめてであるので、全く状況がわからない。
おどろおどろしい声と気配がするので、おそらくそうなのだろう。
慣れない体を動かしながら、ゆっくりゆっくりと歩を進める。
地面がやけに明るいなと思って、ふと足元を見た。
そして再び吃驚して思わず悲鳴を上げてしまったが、悲しいことにまた「わんっ」という犬のような声が出ただけであった。
なんと、片足を地面に付けるとふんわりと淡い光が灯り、離すと消えていくのだ。
その光は花のような形をしていた。砂漠の地にいたのでそう花を見る機会はなかったが、いつか本で見た蓮という花の形に近い気がする。光の花が咲くと、嗅いだことのない瑞々しい香りが一気に広がった。この場所にはあまり似つかわしくない香りであったが、混乱しまくっている俺の心を少し沈めてくれる。
暗闇を彩り、咲いては消えていく光と花がとても綺麗なものだから、ついつい地面を跳ねまわっていたが、ふと我に返り足を止めた。いい年の男が花で燥ぐなんて絵面がひどいにも程がある。
「なっ……な、な、」
しゃりん、という金属がぶつかるような不思議な音がしたかと思うと、足元の光とは別の薄明かりが姿を現す。それと同時に、“聞いたことがあるようでない”声が聞こえて、後ろを振り返った。
「お、……お花、だわ……」
がしゃん、と手にしていたランプのようなものが地面に落ちる。
ぺたりと座り込んでしまったそれの顔を見て、一瞬息をすることを忘れた。
すっぽりと被っていた赤い頭巾は、尻もちをついた衝撃でずれてしまっており、その顔が露わとなっている。あまりにも“かの女神”に似ているものだから一瞬意識が飛んだが、よくよく考えると目の前のそれは幼女だ。金髪のまだ幼い子ども。あの女神とは似ているが髪の色も目の色もサイズも違う。いや胸のサイズは同じ、いやこれ以上はやめておこう。
その幼女は大きな目を丸くすると、表情を輝かせた。
キラキラと星が散って見えたのは気のせいだろうか。
誤解が生じると俺の尊厳に関わるので先に言っておくが、俺は
悲しいことに今の俺は人間ではないので、ロリコンだったとしても色々と関係ない筈だ。少なくともそういう趣味は持ち合わせていない。だから、何の問題もないのだ。そう自分に言い聞かせて、恐る恐る幼女へと近づく。
「あ、あの……、あなたは、……だあれ、?」
傍まで来た俺を、不安げに揺れる瞳で見上げる。
赤いローブから零れる金髪といい、気弱な赤い目といい、これはなんかこう……。
狼になれそうだ。外見的にはもうなっているかもしれないが、精神的というかナニ的な意味で。
というか、獣なんだからちょっとばかり頬をペロッとしても許されるんじゃ……いや違う、俺はロリコンではない。違うんだ。
「くううん」
下らないにも程がある葛藤を頭の中で繰り返していると、思わず情けない声が出てしまった。
そんな俺に何を思ったのか、その幼女は俺のもふもふボディに抱き着いて来たのである。
幼女とは言え異性の体である。柔らかくて、毛並みとは違った意味でふわふわとしてて、なんだか良いにおいがした。そのにおいは、某王様とは違い女性経験が悲しいくらい薄い俺の動きを止めるには、充分な技であった。
「……っ、わふっ!?」
衝撃のあまり声を上げて固まった俺に、抱き着いたまま顔を上げた幼女はゆっくりと口を開く。
それが、さらなる追い打ちだとは思いもしなかったのだ。
「女神エレシュキガルの名のもとに、あなたに名を授けましょう―――」
―――はあああ!? どうしてそうなった!!
もし言葉を話すことができれば、全力でそう叫んでいただろう。
なんで? どうして、ほんとなんでそうなった? 突然の事態に頭が付いていかない。
まるであのイシュタル様のようだ。あの方も突発的にとんでもないことを言い出す癖があった。それに逆らえない俺は、ただ振り回されるだけで……。ああ思い出しただけで胃が……。
もしかして、俺が良からぬことを考えていたのと同時にこの幼女も何かを考えたのだろうか。
遠い目をする俺と、真逆の表情をした幼女―――女神エレシュキガルは、花が咲くように笑った。
***
―――
それは『戻ることのない土地』または『不帰の国』と訳された、光なき箱庭である。
その場所は、とある豊穣の地の下かあるいは西方の彼方にあるとされ、生者を拒み死者を受け入れる“聖域”であった。
光を知らない暗く乾燥した世界は、天空神アヌの娘の1人エレシュキガルによって統べられている。
地上もしくは天空と比べてしまえば、地下の国はそれはもうひどい世界であろう。しかし冥界の住人にとって、静謐に包まれた世界は“揺り籠”だ。女主人であるエレシュキガルが守り続けるのは、生きとし生けるものがやがて辿り着く夜の眠りである。
からからと、細長い鳥籠にも見えるそれを手にして、エレシュキガルは自分の管理する地を見回っていた。冥界の地は彼女の体にも等しいもので、何処にいようと何か異変があればすぐにわかる。だからこの時それに気付くことが出来た。
「えっ ……こ、この感じは、」
外の世界を知らないエレシュキガルにとって、冥界の“つめたさ”は普通のことである。
つめたさを知る為にはあたたかさを、あたたかさを知る為にはつめたさを知らねばならない。一切の温度を許さない冥界において、エレシュキガルがそれを知ることは不可能に等しいのだ。それ故に、彼女は戸惑いの声を上げる。
何が起こったのかわからなかったが、それを認識した途端にエレシュキガルの胸にほわほわとした妙な感覚が宿ったのだ。知らない感覚にそれ以上を言葉で表すことは出来なかったが、体が溶けてしまうのではないかと不安になった。
「ど、どうしよう……って、そんなこと言っている場合じゃないわ」
ぎゅっと小さな手がローブの端を握り締める。
どうしようなんて、冥界の女主人が言うセリフではないのだ。
自分がしっかりしないと、とエレシュキガルは歩き出す。
彼女が感じた得体の知れない気配が出現したのは、冥界の最深部ともいえる場所であった。
冥界の主以外が立ち入ることは許されていない地に、一体何が起きたのかと足が早くなる。
そうして急いで駆け付けた先には、なんと……。
見たことがないくらい大きな“白い犬”と、その足元に咲く“白い花”があった。
「は、はわ……」
エレシュキガルにとってそれは、はじめてみる“花”であり“光”である。
神としてまだ“幼い”彼女は、やっと冥界を治められるようになったばかりで、外のものを全く知らない。常世の闇と、亡者のつめたさが彼女の全てであったのだ。
「……きれい、……きれい、だわ」
冥界に下りて来る死者から、外はどういう世界であるのか話だけは聞いていた。
豊かな恵み溢れる大地に、澄んだ川や海、青い空、燦燦と照る太陽……。
1つ1つの単語の意味は何となくわかっても、それがどういうものであるかを思い描くことは出来なかった。
「わふ」
「きゃっ! あ、あなたは……」
自分が尻もちをついたことにも気付くことなく、ただ茫然としているエレシュキガルの視界いっぱいに何かが映り込んだ。赤い模様のついた純白の体毛に、どこか間の抜けた顔は、狼ではなく犬のそれに近い。だが、そもそも生きている動物を見たことがない彼女は、はじめてみるそれから感じる“生気”と“体温”に、目を丸めるのが精いっぱいであった。
完全に硬直してしまいぴくりとも動かないエレシュキガルを、それは心配そうに覗き込む。そうして、ふんふんと鼻を鳴らしながら小さなその体に擦り寄ったのだ。
「ひっ……。あ、あれ……?」
はっと我に返ったエレシュキガルは、目前に迫った未知の生物に身を強張らせぎゅっと目を瞑る。すると次の瞬間―――。
もふん、と何かが触れた。
柔らかくて弾力のあって、あたたかいもの。
じんわりと染み入るそれに、思わず手を伸ばす。
「わ、わあ……」
指先が、ふわふわに沈む感触。
じんじんと指先から何かが伝って心臓がぽかぽかとする。
エレシュキガルの鼻を甘くて瑞々しい香りが擽る。再び白いそれを囲むように、白い花が咲き始めた。
「え、えっと、あの……。その、」
エレシュキガルは頭に浮かぶ大量の疑問を言葉にしようとして、失敗する。
なんで“生き物”が冥界にいるのか、なんていう“生き物”なのか、どこから来たのか、何をしているのか。どれから口にして良いのか、いやそもそも聞いても良いのだろうか、話しても良いのだろうか。そう思いながら、エレシュキガルはゆっくりと顔を上げる。
「……?」
黒々としたつぶらな瞳と目が合うと、それは少しだけ首を傾けた。
その仕草が、どうしたの?と問い掛けているようにも見えて、エレシュキガルはぎゅっと唇を噛み締める。
「……そ、そうだわ、えっと、私……エレシュキガルっていうの。
えっと、その、……あなたはだれなのかしら?」
胸の前で両手を握り、恐る恐るといった様子でエレシュキガルは問い掛けた。
するとその白いそれは、少しばかり視線を彷徨わせると―――。
「わんわふっ」
「え、ええと……わ、わん、……?」
エレシュキガルの言葉は通じているようだが、それの言葉は彼女には伝わらない。
冥界の主である彼女は、少なくとも冥界にいるすべてのものの言葉を聞くことができる。
しかし、何故か目の前の白いものの言葉は一切理解することができなかった。
言葉が通じていないのを悟ってか、悲しげに耳を垂らしたそれの姿に、エレシュキガルは胸がきゅっと締め付けられる感覚に襲われる。同時に、何とかして話したい、言葉を聞きたいという欲求が沸き上がって来た。
「そ、そうだわ……。あなたを、この冥界のものにしてしまえば……!
ええ、そう。それが良い……!」
エレシュキガルもまた、神に名を連ねるものだ。
少しばかり強引な手を使ったとしても、欲しいものは欲しい。
そしてそれを手に入れるための力を、彼女は持っている。
冥界という自分の領域にいるうちに、捕らえてしまおう。
彼女の目がキラキラと輝いた。
「女神エレシュキガルの名のもとに、あなたに名を授けましょう。
あなたの名は―――シャマシュ“ギガル”。
今日から私に仕えるのですわ!」
弾む声で歌うようにエレシュキガルは、それに名を与えた。
はじめての興奮のあまりに途中で噛んでしまった為に、彼女はシャマシュギガルと言ったが、正確には“シャマシュキガル”と名付けられたそれが、ぽかんとした表情を浮かべていることなど構わず、エレシュキガルは嬉しそうにその首元へと抱き着いたのである。
“生前散々振り回された女神”の顔によく似た女神に、勝手に名前を与えられ、勝手に仕えさせられることになったシュマシュキガル本人の声にならぬ