天界の僕、冥界の犬 作:きまぐれ投稿の人
かつて人間であった頃、俺には100を超える仲間がいた。
年齢はそう変わらなかったこともあり、自然と打ち解けていった。
今思うと、同じにおいを感じたからなのかもしれない。
何万といるウルクの兵士たちの中で、彼らは掛け替えのない同志であったのだ。
とある日、仲間の中に“裏切者”が出た。
その者はすぐさま捕らえられ、尋問に掛けられる。
俺はただ絶望した。それは一番付き合いの長い友であったからだ。
彼は潔く罪を自白し、俺たちのもとから去って行った。
一度解れてしまった糸を、いくら繕おうとしても無駄であった。
1人、また1人と、去って行く仲間に、何と言葉を掛ければ良かったのか。
最後の1人が、申し訳なさそうな、でも晴れやかな顔で去って行った時。
俺は引き留めることも責め立てることもせず、『卒業、おめでとう……』と涙ながらに呟くしかなかったのだ―――。
「う……うう、最悪な夢見た、」
冥界に来てからというもの、どうも夢見が悪い。
その大半が某王様とか某女神により、犬の如く扱われていたあの時代のもので、おかげで此処に来て何千いや何万かもしれない時間が経とうとも、その顔を忘れることはなかった。
だが今日は違う。よりによって人生最悪のトラウマを掘り出されたのだ。
あれから俺は男の友情も、いや仲間すらも簡単に信じることは出来なくなった。
裏切者とは、即ちハサミである。組織という布を、友情という糸を、あっさりと切り捨てる酷いヤツである。『たとえなにがあろうとも友情は不滅』と語り合ったその口で、告げられた別れの言葉は、今も憶えている。
ぐぬぬ、余計なことを掘り起こされたと、埃っぽいベッドの上でごろりと寝返りを打つ。
「ん……」
「ふあっ!?……そそそそ、そーだった、忘れてた」
寝返りを打った先に待ち受けていたのは、ドアップの“美少女”の顔である。
はじめて出会った時に、思わず『やだ、この幼女将来有望すぎ……』と内心で思わず口元に手を当てたくらいだ。美幼女が、美少女に進化しただけで、俺の心の中では毎日お祭りが開かれている。
あの女神様と顔がそっくりなだけに、いつあの過激な罵詈雑言が飛ぶようになるのだろうかとドキドキしていたが、エレさまはどれだけの時間が過ぎてもエレさまのままであった。こういうと、語弊が生じるので先に行っておくが、そのドキドキは決してそういう意味ではない。断じて、ないのだ。
「エレさまー、エレさま、起きてくださいー」
「ん、んー、……いや、なのだわ、」
「だめですよお、折角時間を決めたんですから。
ちゃんと守ってください!」
「……いや」
「ああ、だ、だめです、困りますー、エレさまー!」
時間という概念のない冥界の生活は、想像以上にキツいものであった。
朝と昼が存在しなければ、夜という概念は消失する。月も星も太陽もない、まさに常夜の世界といったところか。
そんな世界に缶詰となった俺は、精神が擦り減り発狂するのが先か、順応力が開花し慣れるのが先かのチキンレースに白旗を上げて、ついにエレさまに泣きついた。
普通の人間であったので、神の力だとか魔術だとか良くわからない為に表現に困るが、なんかとても頑張ってくれたらしい。手渡された少し歪な形をした“懐中時計”とやらは、エレさまと俺が出会った瞬間を“ゼロ”として、時を刻み始めた。ウルクでは、太陽や月の傾きで時間を読める学者がいたが、此処ではこの時計が学者の代わりを勤めている。これが神の力かと、とても感動したものだ。
「シャマ、……お願い……」
「あっ、はい。仰せのままに」
薄らと開かれた瞳は、まだ眠たげでとろりとしていた。
そもそもいくらペット扱いとはいえ、
すっかり寝入ってしまったエレさまを、これ以上起こそうとするのは色々とマズい気がするので、一足先に起きさせてもらうことにする。
すっぽりと体から頭に被せられた毛布から鼻先を出して、ベッドから這い出るとじめじめとした埃っぽいにおいが鼻を刺す。今日も良い冥界日和である。
エレさまの成長に伴うように、俺の体も大分大きくなった。
この体の成長のピークはわからないが、エレさまを乗せて悠々と走れるであろうサイズには変わりはない。前にも言った通り、乗せたら色々と問題が生じるので絶対に乗せないけど。
ベットから飛び降りて、とん、と軽やかに着地を決める。
さて今日は何をしようか、と前足を一歩出した。
「―――っ、!?」
「わっ!?」
がばっと後ろで大きな音がしたので、驚いて振り向く。
そこには半身を起こした状態で、大きく目を見開いたエレさまがいた。
ただならぬ様子に、どうしたのだろうと俺の鼓動も早くなる。
エレさまは焦点の合わぬ目を何度か動かすと、あっという間に立ち上がり俺の傍へと降りて来た。
「シャマ。———シャマシュキガル。
良いかしら、良く聞いて頂戴。
これから言うことは、冥界の女主人エレシュキガルとしての言葉です」
いつもの柔らかい口調とは違う、凛としたそれは冥界の主としての声であった。
その言葉を聞き終わった時、ずしりと体が重くなり、何か鎖のようなもので縛り上げられたような感覚に襲われる。
「え、……エレさま……?
ど、どうなさったのです?」
「時間がないわ。アナタは私の言葉を守っていれば良いの。
“例えなにがあろうとも、絶対にこの部屋から出てはいけない”」
「……っ」
「約束よ、私のシャマ」
わけがわからず戸惑う俺の目をじっと見上げたエレさまは、ふと微笑んだ。
女神の微笑に相応しい気品に溢れたそれに、やはりこの方は冥界にありながらもその生まれに相応しい存在なのだと実感する。
呆然とする俺の首に、その腕を回したエレさまは、いつものようにぎゅうと抱き着いて来た。
暫くするとゆっくりと離れていき、もう一度だけ「約束よ」というと部屋を出て行ってしまったのだ。
「ええ……」
エレさまの起床から部屋を出るまで、あっという間過ぎて頭が追い付かない。
とにかく、何か大変なことが起きたのだろう。
ああやってエレさまが意味深いことを言って、部屋を出るくらいには。
エレさまの、冥界の女主人の眷属となったらしい今、俺に出来ることは部屋をウロウロとするだけである。ご主人様の言うことは絶対であるし、神の力を込めて命じられた言葉に逆らうことは出来ない。
そうして歩き回っているうちに、何処かでジャラジャラという音が鳴っていることに気付いた。
俺が足を止めると、その音もぴたりと止まる。
俺が歩き出せば、その音も鳴り始める。
まるで見えない首輪でも付けられたような気分だ。
試しに部屋を出ようとしても、首に巻き付く何かが邪魔をして出ることが出来なかった。
ずっとそうしていてもただ俺の首が締まるだけであるので、ベッドへと戻ることにする。
くわあ、と欠伸を1つすると、不思議なくらいあっさりと眠気は訪れるのだ。
つい先ほどまで寝ていたエレさまが残していったぬくもりの、と表現すると色々と誤解が生まれそうだが、あたたかさが残る布団の上で俺は丸くなった。
***
生者の立ち入りを拒む冥界の大門番―――ネティ。
冥界の女主人に仕える彼らは、揃って困惑していた。
「だ・か・ら、言ってるでしょ。
アタシは最愛の姉に会いに来ただけよ。
姉妹なんだからそんなに警戒することないでしょう?」
「で、ですが、いくらイシュタル様であっても、そう易々とお通しするわけにはいかないのです。
エレシュキガル様が来られるまではどうか、どうか……!」
「下がりなさい。このアタシが直々に行くって言ってるのよ!」
「イシュタル様。ここは冥界の地です。
全ての権限は貴女様ではなく、冥界の主エレシュキガル様のあるのですぞ」
「そんなこと、わかっています!
アタシはただ……“落とし物”を拾いに来ただけよ。
アイツが下手なことをしない限り、こちらも何もしません」
「左様ですか……。
ではイシュタル様、今ここに“冥界の掟”を示しましょう」
冥界の住人でもある彼らは、暗い色のローブを深々と被っている為にその表情すら窺えない。
一段と低くなったネティの声に、イシュタルは眉を顰めた。
「我が名は、ネティ。
エレキシュガル様の命により、冥界の門を守護せし者。
我が女神と対なる存在、天界の女主人イシュタルに門を開くかわりに、冥界の掟の実行を宣言する」
「……っ!」
「どうされますかな、イシュタル様。
掟を受けることは、貴女様にとってこれ以上ないほどの屈辱を味わうことになりましょう。
恐れ多くも私としましては———」
「良いでしょう」
「……今、何と?」
「……っ、良いって言ってんのよ!
屈辱ですって!? ふざけないで!
アタシはね、屈辱という屈辱はもう散々味わったわ!
大体こんなじめじめした薄暗い
死んだからって諦めてたまるものですか!!」
冥界へ通じる最後の門の前に立った、天界の女神は凄まじい形相で冥界の守護者を睨み付けた。ぎりりと奥歯を噛み締めて、吼えるように叫ぶその姿にネティとフブルは目を丸くする。たださえ感情の起伏が激しい彼女の怒りは、一度火が点いてしまえばそう簡単に止まらない。その怒りの儘に叩き付けられる神気は、此処が冥界でなければ揃って地に膝を付いていたであろう程だ。
イシュタルに気圧されながら2人の守護者は、顔を見合わせた。
実はイシュタルが冥界を訪れたのはこれが初めてではない。
彼らの記憶では、“この女神らの父親が開いたとある宴”を切っ掛けとして何度も足を踏み入れている。だがこの冥界で絶対の存在であるエレシュキガルが、イシュタルを受け入れることはこれまで一度たりともなかった。よって、7つの門はイシュタルを拒み続けたのである。
「それでは、イシュタル様。どうぞお覚悟を―――」
本来であれば、1つ門を潜る度に“冥界の掟”は科せられる。
しかしイシュタルは、強引に門を抉じ開けて此処まで来てしまった。
はじめは彼女の姉神に対して、ちょっかいを出しに来たのだろうと思われたがどうも様子が違う。
―――女神は“本気”らしい。ならば、とネティはイシュタルを見据えた。
冥界の女主人に仇なす可能性のあるものとして、扱わねばならない。
それが彼の、冥界の大門番としての役目であるのだ。
「貴女様も“冥界の掟”について、ご存じであった筈。
それなのに此処まで来られたということは、相当な覚悟があると―――」
「どうでも良いわ。さっさとして頂戴」
イシュタルは、2人を睨み付けながらそう吐き捨てた。
その表情の中言い知れぬ焦燥感が垣間見えて、ネティは目を細める。
“今の女神イシュタルを、エレシュキガル様に会わせてはならない”
さもなければ、冥界の崩壊を招く恐れがあると彼の勘が告げていた。
ネティは、エレシュキガルより賜った力を発動させる。
彼は拒むものだ。女神イシュタルの存在を拒み、妨げるもの。
だが相手は自分よりもずっと神格の高い女神である。
“掟”を“全て”適応させるにはまず彼女の守りを剥ぎ取らねばならない。
天界の女神の衣を剥ぎ取るなど、冥界でなければ決して許されぬ行為であろう。
だからこそ意味がある。この冥界の主は一体誰であるのかを、思い知らせるのだ。
ネティの力により、イシュタルに与えられた守りを全て消し去った。
これにより『冥界入りを成す時は綺麗な着物を着てはならない』とする掟は1つ果たされたことになる。
エレシュキガルの名の下に定められた“掟”は、冥界に入ろうとする者ならば守らねばならない“法”である。法を1つでも破ると二度と外の世界に戻ることを許されない。
たとえ、どんな高位の神であれ例外はないのだ。
「なによ、これくらい。大した事ないじゃない」
一糸まとわぬその姿は、恥じるところを知らない。
闇ですら隠すことの出来ない白き四肢に、ギラギラとした瞳は、冥界に最も相応しくない存在であることを示している。
ふん、とイシュタルが鼻を鳴らしたその時であった。
―――ばしゃんっ! と水が跳ねるような音がしたかと思うと、イシュタルの頭から泥のようなものが降り注ぐ。
「きゃあっ!! な、なんなのよこれ……!」
「……無様ね、イシュタル。無様な格好だわ。
でもあなたにはとてもお似合いよ」
「アンタっ……! 出たわね。この
「盗人? アナタ何を言って」
「返しなさいよ。早く!!
どうせ傍に置いているんでしょ、わかっているんだからっ!」
「だから、何を言っているの?
私はあなたから何も盗ったりしていないわ」
「嘘だっ!! なら、今すぐ見せてみなさいよ。
アンタの宮殿の隅々まで探してやる……!」
いつの間にか開かれていた扉から、赤いローブを頭からすっぽりと被ったエレシュキガルが姿を現した。彼女は、嫌悪丸出しの瞳でイシュタルを睨み付けると、ぎゅっと唇を噛み締める。
イシュタルとエレシュキガル、天界と冥界を統べる彼女らは姉妹ながらも互いをひどく嫌悪し合っていた。故にこうして顔を合わせたのは、生まれてから今に至るまで数回しかない。
イシュタルは冥界の泥に穢された自身の体を厭うことなく、エレシュキガルに怒鳴り付けた。
唐突にぶつけられた罵声にエレシュキガルは目を丸くしていたが、ふと何かを察したように、一度視線を地面に移した。
「……。そう、……そうなのね。
あなたが態々冥界にまで下って来た理由、わかってしまったわ。
だって、忌まわしいことにわたしとアナタは―――だもの」
「なら、さっさと返せ……!
返さないのなら、冥界ごと消し去ってやるっ!」
「帰りなさい。イシュタル。私はアナタに用はありません」
「っ!! アンタ、」
「……お下がりなさい!!」
「っく、……」
「誰がっ、誰が返すものですか……!!
アナタにはわからないでしょうね、だっていつだって光に触れられるのですもの。
私は、私は何も触れられない。何もない、冷たい世界しか知らない。知らなかった!!
アナタは私とは逆。恵みに溢れた地、光差す宮殿、心を向けてくれる存在、全部全部持ってたじゃない!!
でも、良いの。そんなことはもう良い。
私はたった1つ、私だけのものを手に入れた。
だから―――今、アナタが大人しくこの地を離れるのならば、手出しはしません」
「それで、……アタシが、引き下がるとでも……っ」
「……。そうね。そういう意味では、アナタのおかげかもしれない。
だってアナタが取り溢してくれなければ、きっと今も私は暗い闇の中にいたでしょう」
「ふざけんな! それがアンタの使命でしょう!?
この冥界で、その
それがアンタの女神としての運命なのよ!
そりゃ、天界の女神として高位の座を約束されていたアンタが、冥界へ“堕ちた”ことは同情してあげても良いわ。そんなに“使える召使”が欲しいなら、良いのを望むままに送ってあげる。
だから、あんな“ポンコツ”必要ないでしょう!? 早く、早く返せ―――っ」
「っ……―――!!」
揺れる、冥界の地が脈打っている。
エレシュキガルが、イシュタルと言葉を交わす度に、段々と強くなっていくそれに、ネティとフブルは顔を蒼くした。微弱な振動がはっきりとした脈動へと変わる。
イシュタルが、“その言葉”を吐き捨てた。
ぴたりと脈動が、止まる。
しん、と静まり返った世界は、時を忘れたようだ。
俯いたエレシュキガル。息を荒げるイシュタル。
イシュタルが再び唇を動かそうとして―――。
誤字脱字報告ありがとうございます!
本当に助かります。ヌケが多くて本当にすまない…。
さて、まだ謎はありますがエレシュキガルの想いは大体こんな感じです。次からイシュタルの話になる予定です。