天界の僕、冥界の犬 作:きまぐれ投稿の人
じゃらり、と手足に付けられた枷が音を立てる。
白い服を着た屈強な男たちに周囲を囲まれながら、それは神殿に足を踏み入れた。
女神の為にと用意された神殿は、彼女の権力を示すように、彼女のうつくしさを示すように豪華絢爛で壮大である。
目が痛くなるほど白い石の床を、それはぺたぺたと歩いていく。
頭からすっぽりと被せられた上質な布は、それの顔を隠し、それの視界を奪っている。
それらは神殿の祭壇前で、一斉に膝を付くと女神に祈りを捧げ始めた。
―――われ汝に祈る。ああ、淑女の中の淑女、女神の中の女神よ。
ああ、イシュタル、あらゆる民の女王よ。
ああ、支配の冠をいただくあらゆる神力の所有者よ。
礼拝堂も聖所も神聖なる土地も汝に注意を払う。汝の肖像のなきところなし。
ああ、われに御目をそそぎたまえ、わが淑女よ。わが祈りを聞きたまえ―――
一心に捧げられる言葉は、荘厳な響きとなり音色となる。
地に付かんばかりに頭が下げられ、再びしんとした静寂に包まれた。
「私は夕べの女神イシュタル、暁の女神イシュタル。
最高の統治者として天界の門を開くイシュタルである。
私を奉り崇める者たちよ、約束のものを此方へ」
ぱっと弾けた光と共に、その女神は降臨する。
それでも彼らは顔を上げることなく、ただ頭を垂れるのみ。
許可なく面を上げることは許されていない。
もし、思いの儘に女神の姿を目に収めようならば、この神殿に大量の血が流れることになるだろう。
うつくしい赤い刺繍が施された布が、ふわりと動く。
じゃらりと枷を打ち鳴らしながら、それは声のする方へと歩き始めた。
「止まりなさい。他の者は下がりなさい」
女神の御言葉に、それはぴたりと足を止め、白い服を着た屈強な男たちは神殿を出て行く。
女神の御前では呼吸すら命懸けの行為であり、女神の機嫌によっては呼び出しただけで血が流れることになるのだ。淡々とした短い儀式であったが、神殿を後にする者たちの額には汗が滲んでいた。
「さて、と。アンタがアイツの“大切なもの”ね。
ふん、いい気味だわ。今頃アイツどんな顔してんのかしら。
ふふふっ、想像しただけでゾクゾクしちゃう!」
「……」
「ああ、そうね。アンタの発言は許してあげるわ。光栄に思いなさい。
でも余計なこと言ったらすぐに黙らせるから」
「……んです、」
「なにか言ったかしら?」
「大切なものなんかじゃないんです」
「このアタシに嘘を吐くの? 殺すわよ。
それに違うならなんでアンタが此処に連れて来られたのかしら」
「……」
「まあ、アンタのことなんてどうでも良いわ。
今からアンタはアタシの贄よ。
でも、安心なさい。すぐにどうこうするつもりはないから。
このアタシを袖にして追い払ったアイツが、無様に懇願してくるまで生かしておいてあげる」
「女神様、イシュタル様、どうか言葉を聞いて下さい。
……私は、決して……王の大切なものでも、何でもないのです。
ですから、私を贄と選んだところで貴女の望みは叶わないでしょう」
「はあ? アンタ、アタシが間違ったと言いたいの?」
「いいえ、いいえ。そんなことはありません。
貴女様の成すことに間違えなどありはしない。
ですが、……私は全てを失いました。もう大切なものなどないのです」
イシュタルの前で跪いたそれは、深々と頭を垂れた。
その声は悲痛に濡れていたが、そこに彼女に対する畏怖はない。
それどころか女神イシュタルを前にして、何か他のことに心を向けているのだ。
もちろん彼女がそれを許す筈がなかったが、態々生かして連れて来させたのには意味があったので、苛立ちをぐっと堪えると同時に少しばかりの興味を持った。
女神を前にした人間たちは揃って震え上がり、上擦った声で聞こえの良い言葉をただ羅列する人形となるだけだ。だから、イシュタルは人間に飽きかけていた。
そんな中で出会った、とある存在に彼女は心を惹かれていた。
一等輝きを放つうつくしい人間を一目見ただけで、欲しいと思ったのだ。
それには神の血が混じっていたものの、完全なる神であるイシュタルからすれば人間の領域である。
輝かしくうつくしいものを好むイシュタルは、その存在を手に入れようとして、極上の贈呈品や権力を誇示して誘惑しようとしたが、全て失敗に終わった。これは彼女にとって、かつてないほどの屈辱であった。その存在が目を向けているものがあることに気付いてしまったのも、女神の怒りをさらに激しいものとした。
煮え滾る怒りの中で、イシュタルは“とある方法”を思いつく。
“アレの一番大事なものを奪ってしまおう”
“すぐに泣きついて来るに違いない”
“そうしたらアレの目の前で殺してしまえば良い”
“アタシを怒らせたことを後悔して、アタシのものになる筈だ”
そう考えたイシュタルは、国王のみならず国民にもこう告げた。
『3日以内に国王のもっとも大事にしている人間を差し出さなければ、私はこの国を1日で滅ぼすであろう』
女神イシュタルの気性の荒さは、国中が知っていることである。
やるといったらやる女神であることを、国中が恐れているのだ。
そうして3日目ぴったりに捧げられたそれに、イシュタルは喜んだ。
あの王も、女神イシュタルを恐れている。だとすれば、自分の思い通りになる時が近いと思ったのだ。
その喜びは欲しいものを手に入れるそれではなかった。
自分の思い描いた通りに事が進むこと、女神イシュタルの高揚はそこにあったのだ。
だから今、目の前にいる贄などイシュタルにとってはただの餌であった。
真の獲物が釣れるまで適当に飼っておけば良い程度の、どうでも良いもの。
そんなどうでも良いものの言葉に、イシュタルが耳を傾けたのはほんの気紛れであったのである。
「女神様、……私はもう希望を失っているのです。
絶対の信頼を置いていた人間の裏切りを皮切りに、1人また1人と姿を消しました。
私は、1人取り残された。私はもう大切なものなどありはしない」
「だああっ!! 面倒くさいわね!!
うじうじしてんじゃないわよ男の癖に!
贄じゃなければ即効でその首を刎ねていたところだわっ!」
「酷いんです。だって、“女神イシュタルにも誓う”って言ったのに、あっさりと反旗を翻して。そこに友情なんてなかった。私は騙されていたんです……ううう」
「全くもう、なんでこのアタシがそんな辛気臭い話聞かなきゃならないのよ。
そんなどうでも良い奴ら放っておきなさい、どうせ全員死んだって話でしょ?
あーやだやだ。人間なんてすぐ死ぬように出来てるんだから、アンタもすぐに後を追えるわよ。いっそ追わせてあげようかしら」
生命の生き死には、自然の流れだ。
女神にとってそれはうつくしくも、愚かしいものであり、彼女のような高位の神ですら覆すことが出来ないもの。そんな生命の流れを、ただの人間が嘆くなど無粋にも程があるとイシュタルは眉を寄せた。
それに、今すぐその流れの1つとなってもおかしくない立場の贄が、他人の不幸を嘆く様こそ愚かしいの一言であった。
「情けない顔してんじゃないわよ。
……アンタには、アレがいるでしょう?」
「アレ……?」
「あのバカよっ、憎きギルガメッシュのヤツよ!」
「王様は、王様ですから。もうとっくに。
ううう、そうやって皆して俺を置いていくんだ……」
わあっと泣き出したそれを、イシュタルは心底鬱陶しそうに見下げた。
戦いと破壊を司る女神が一等嫌ったのは、“うじうじ”と“根暗”である。
もしもこの布を被った男が贄でなければ、既にその首はなくなっているだろう。
欲しいものを手に入れる為だ、と珍しく働いた理性がイシュタルを引き留めていた。
「鬱陶しい! ああ、ほんっと鬱陶しいわ!
そんなに嘆く暇があるんだったら、命ある間アタシの下僕として働きなさい」
「……げぼく」
「なによ、文句あんの?」
「いいえ、ありません。むしろ今の私に相応しい……」
女神イシュタルは、あまりの苛立ちに適当に発した言葉であった。
布の男は、あまりの絶望感に自暴自棄となり発した言葉であった。
まさかその言葉たちが、イシュタルと男の運命を変えることになるとは思いもしなかったのである。
***
アタシは女神イシュタル。豊かなる前兆を授ける為、光満ちた天界へ生まれ落ちた尊い存在。
最高の女神として誇らかに歩を進めるものであり、天界を破壊し地上を荒廃させる力を持つものである……。
そんな口上が、“つまらないもの”でしかなくなったのは、いつからであっただろう。
あの根暗な姉は、アタシを“恵まれしもの”と呼んだけれど、アタシは決して“満たされては”いなかった。思う儘に振舞う代わりに、荒んだ大地に豊穣を授ければ人間たちは喜び勇んでアタシを奉る。最高位に近い存在として君臨するこの力を以てすれば、なんでも出来たから、少しオマケでも付けてあげると、何千万もの信仰が寄せられる。
はじめはただ気持ち良かった。でも、すぐにそんな快楽には飽きた。
「い、イシュタル様っ! ふ、服はちゃんと、お、お召しに」
「煩いわねえ。このアタシの体の何処に文句があるのかしら?
言って御覧なさい! その首刎ねてやるわ」
「ひえっ、そ、そんな恐れ多い……」
「あら、もしかして……。あるのは興味の方かしら」
「っ!? なっ、ないです!!
女神様に対してそんな、絶対ありません!!」
「……全力で否定されると腹立つんだけど」
小汚い下僕を神殿に置いてから、少し時間が過ぎた。
気紛れで下僕とした贄は、神殿内で好きにさせることにした。
まだ死なせるわけにはいかないので、毎日運び入れられるアタシへの貢ぎ物を分け与えると、蒼い顔をして調理部屋へと飛び込んでいった。普通の神殿には神殿に仕える料理人がいて、それが料理を運んで来るのだけれど、ついこの前うっかり殺してしまったから今はいない。だって仕方ないじゃない。あの時はイライラしてたんだもの。
贄は貢物のパンとビール、果実や肉などを使って料理をつくりあげた。
女神に捧げるのに全然相応しくない、粗末で単純な料理であったけど渋々口にするとこれが案外……。お、おいしかったなんて言っていないわ! ただ、その少しなら食べてやっても良いかなって思った程度よ。
でもそれから、アタシの身の回りの世話をさせるようになったことは認めましょう。気分で誘惑してみても、慌てふためくのにちっとも靡かないのが、また腹が立つところだけど。
「ちょっと、アタシに黙って何処に行くつもり?」
「へ?」
「そんなに暇ならアタシの部屋でも掃除しておきなさい!」
「え、ええ……。イシュタル様の脱ぎ散らかした……ぱ、じゃなくて、そ、そのお召し物だらけじゃないですか」
「だからちゃんと片付けておきなさいって言ってんでしょ!!」
「あ、はい。仰せの儘に……」
ちょろちょろと動き回るそれは、嫌でも目に入ってしまう。
別に何処で何をしていようともアタシの知ったこっちゃないし、逃げ出したらお仕置きすれば良い話だから、どうでも良いのだけど。でも、アタシの手を煩わせることには変わりないし、面倒だし便利だから傍に置いといた方が使いやすいでしょう。
ひらひらと布を靡かせてアタシの部屋へと向かっていったソイツの後ろ姿に、はあと溜息が零れる。
歩く度に一々鳴るじゃらじゃらとした音。
―――はじめは、首輪に付いた鈴のようだと思っただけだった。
頭のてっぺんからつま先までを隠す布。
―――はじめは、別に何とも思っていなかったしそれで良かった。
全部アタシの気紛れから始まった。
それなら、これから先もただの気紛れでしかない。
だってアタシが欲しいと思ったものは―――。
「ねえ、ちょっとアンタ。脱ぎなさいよ」
「ふあっ!?」
「煩い! 殺すわよ!」
「ヒエッ」
「良いからさっさと脱ぎなさいって言ってんの。
このアタシの言うこと聞けないっていうの!?」
「えっ!? そ、その、あ、あのイシュタル様、私は、その、は、はじめ」
「鬱陶しいその布っ切れ、さっさと取っ払って頂戴!!」
「あっ、はい」
ぐだぐだと煩いソイツの胸元を掴み上げると、やっと観念したように首を上下に振った。
そのついでに邪魔な布を掴み剥ぎ取ると―――。
「ちょ……!」
「……ふうん。そう。アンタ、今日からそのままでいなさい」
「で、ですが王には」
「はあ!? アンタ馬鹿あ!?
アンタはアタシの下僕になったの。
つまりアンタの王はこの女神イシュタルってこと! おわかりかしら?」
「アイタタタッ! く、くびし、しまってます……!
しまってます、イシュタル様……!」
欲しいと言ったものを手に入れないと気が済まない性分であることは、自覚している。そして、手に入れた後は途端にどうでも良くなる性格であることも、まあ知っている。
でもそれの何が悪いのか、さっぱりわからない。一瞬でもこの女神のものになれたことは、他の何にも替えることの出来ない“光栄”でしょう。
だからコイツもどうせ飽きてしまう存在に決まっている。それにアタシが本当に欲しいものが手に入れば、あっという間に興味は尽き果てるのだろう。
「あと、これもいらない!
アタシの下僕なら、こんな美的センスの欠片もないものぶら下げておかないで頂戴」
「むっ、むりですって!! それは、やめっ!!
とれるっ、手首ごと……イタタタタッ!」
どうせ飽きる玩具ならば、飽きるまで散々遊んでやれば良い。
そうと決まれば、この趣味の悪い布も枷も全部剥ぎ取って、仕方ないからアタシが新しいものを与えてやれば良い。
そう思って、コイツを毎日毎日毎日弄り倒して……。
そうしてやっと、念願“だった筈”の日が訪れた―――。
―Q&A―
時間の都合上個別にコメントを返信することができかねますので、多かった質問の回答に関しましてはこのように回答させて頂きます。ネタバレも含みますので抵抗のある方はスルーをお願いします。
Q:エレシュキガルのシャマシュキガルに対する呼び方が所々違うのは何なの? 伏線なの? ミスなの?
A:初めの命名の部分は、今後の穴となる部分ですので放置で大丈夫です。
そしてそれ以外はミスという罠。グダグダで本当に申し訳ないと思っている。
ご指摘ありがとうございます……!
次は主人公視点で、ただのヘタレだけではないことを証明してもらおうかと。
視点がバラバラで時系列がわかりにくいかと思いますが、そこはギル様という大取に繋げてもらう予定です。決してギル様に丸投げするわけではないんだ。