あの頃、私はあの学園庭師のことを想っていた。
 思い返せば彼やその周囲には、怪しいこともあった。
 けれど私には関係のないこと、些細なこと。
 あの人と一緒にいる時間は、とても素晴らしいものだったのだ。

 ”私”がそれまでの染みついた想いを振りきって立つまでの、ちょっとしたお話。
※この小説は「小説家になろう」にも投稿しております。

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ある令嬢の回想:学園庭師といたあの日々のこと

 ──あの人と初めて会ったときの事は、いまでも鮮明に思い出す。

 

 

 わたしはあの時、泣いていた。

 学園の隅の隅。誰も来ないような、三階の資料室の片隅に隠れるようにして、泣いていた。

 

「──どうしました、お嬢さん」

 

 けれども、その声は聞こえてきた。いったいどこからだろう。

 視界に写るのは塵と埃を被った箱やら用途も使い道もわからぬ機材ばかり。人の姿はどこにもない。

 まさか妖精さんとは言うまいて。塩や鉄(魔除け)は手持ちがない。

 

「え──ど、どこから」

「こっちこっち、外ですよ」

 

 振り向いた窓の向こう。そばの樹の太い枝に乗っかって、大柄な、恰幅のいい庭師がにこやかに手を振っていた。

 

「どうしたんです、お嬢さん」

「いえ……探しものをしていただけです」

「こんな先生もめったに来ないような、校舎の隅っこでですかな? それに、そんなに泣いてしまって」

「これは、埃が目に入っただけです! 掃除すらもできないなんて、何て……なんて、できない人たちなのかしら」

「ええまあ、私は所詮庭師ですからね。掃除は庭園と道具小屋くらいですわな」

「自分の部屋も、やりなさいよ……」

 

 その時は、そう言い返すのが精一杯で嗚咽を漏らすしかなかった。

 

 ──ただただ、惨めだった。

 傍家末妹とはいえ王家の血を継ぐものとして、そこらの庭師にすら心配されるなんて情けない。そうとしか、思えなかった。

 

 きっかけは、わからない。

 ものを隠されたり、少しばかり物が汚れたり、そんな、そんな些細なこと。

 訳もわからず首をかしげていたけれど、すぐに気づいた。

 

 小さな悪意がずっとまとわりついてくる。

 そのことに、最初は驚いた。戸惑った。それでも、みんなはクスクスと笑うだけ。

 あとはなにも言わず、眼をそらす。

 

 面と向かっての非難は皆無。ただ、誰からも”壁”を作られているは明らかで。

 それでも兄さんは、そんなもの押し退けろとただ言うだけ。

 

 ひとつひとつは些細なこと。しかし塵も積もればなんとやら。

 そんな思い思いを好き勝手に吐き出されても、庭師は黙って頷いていた。

 受け止めきって、ポツリと呟く。

 

「あー、つまり……ほんとにいじめですな。辛いものでしょう」

 

 庭師は苦い顔で、頭を掻く。

 

「まあ、嫌だといってあしらうのが一番です。とはいえ吠えるだけの犬コロと同じですから気にしてもしょうがないでしょうけど」

「うちのメイドと同じことを、言うのね」

「え、犬っころですって?」

「嫌だって言うことよ。お付きのメイドも、そんなことをいっていたわ」

「ほほう。こういっちゃなんですか、その時には言えなかったので?」

「いえ、……その、誰だか、わからなかったの」

 

 ずいぶんと、言い訳じみたことに思う。だけども、その通りなのだ。 

 下手人がわからないような、さりげないものばかりがずっと続く。それでも私を目の敵にしているのも、確かなことで。

 

「うーむ、ずいぶんと陰湿なこと」

 

 庭師がげんなりとした顔をするのも、その通りと思う。

 メイドは『私がみつけてやる』とひとり息巻いて張り切ってはいたものの、やがて過労で倒れてしまった。

 

「何もできなくて、メイドにも無理させて、私もう、情けなくって……」

「そのまま泣いてばかりじゃ、せっかくにかわいいお顔が台無しになってしまいますよ」

 

 お世辞だなんてと思ったけれど、彼は大真面目に首を振る。そして、自信満々の笑みで言った。

 

「そのメイドの働き、”私たち”が継ぎましょう。尽力いたしましょうぞ!」

 

 自慢げに、力強く彼は胸を叩く。

 

「我々にも我々なりの繋がりというものがありますとも。この庭師のロベルがお手伝いいたします」

 

 そして彼は──ロベルは膝まづき、深く頭を垂れる。

 

「ですからもう、泣かないでくだせぇ、笑っていてくださいな」

「えぇ、そうよね」

 

 その時は、慰めるための言葉、だなんて軽く思っていたのだけれども。

 涙を拭って、たしかに私は立ったのだ。立つくらいはと、思えたのだ。

 

 

 少し愚痴って、気にも止めずに泰然と構える。彼やメイドの言葉を倣って実践するだけ。

 気の持ちようを変えるだけでも、ずいぶんと違ったように思う。

 嫌がらせの数々が、心に余裕を持つだけで本当に子供じみた悪戯に見えてきた。

 こんなことにメソメソしていたのはバカらしくて、自分を恥ずかしく思うほど。

 

 そうして放っているうちに、嫌がらせは減っていったのだ。

 とはいえその決め手は、理事を勤める”お兄様”がよく顔を学校に出すようになったことだけれど。

 メイドの過労や、ロベルたちのような下のものたちの噂を聞き付けたらしい。

 

 

 ロベルに洗いざらいぶちまけなければ、たいして変わらなかったように思う。

 そこを考えれば、彼のことは十分にありがたく思ったものだ。

 

 ──同じ頃に、ある令嬢のメイドが一人去っていったと私のメイドから聞いた。

 彼女がこのいたずらを主導していたので、 その責を負ってのことだと言う。

 動機は”私が地位を脅かすから”だとか言うけれど、どこまで本当のことなのやら。

 子供じみたいたずらもあまりものを知らないから、というそうだけれど、あまりにも無理があったもの。

 

 何せ彼女が雇われて学園に来る前から、嫌がらせはあったのだから。

 来てから二ヶ月もたってないのに、と私のメイドは残念がっていた。

 ずいぶんと、仲良くしていたらしい。

 

 

 

 

 

 ──あの時、私は校長室にいた。

 

 兄が校長とお会いになるとき、私もお側に呼ばれるもの。でもその時は、校長室には私だけだった。

 兄と校長は連れたって、部屋の奥に潜り込んでいる。

 冷めた紅茶をただただ見つめているに飽きても、だからといって校長室をあちこち見るわけにもいかない。

 以前に二人の行った方を覗こうとして、どれ程こっぴどく叱られたことか。

 

 じっと座り彼方に意識を飛ばしていると、突然扉が空いたことに驚いた。何せノックもせずに入ってきたのはロベルだったのだから。

 

「おや、お嬢さん?」

「あらロベル。こんなところで会うなんて」

 

 彼も驚いたのか大層眼を丸くしている。

 

「なんだってこんなところにいらっしゃるんです。何かやっちゃいました?」

「あら、ひどいわね。お兄様よ、お兄様。そのお願いに付き合わされているだけ」

 

 お兄様が呼ぶときはいつも「せっかくの機会だから」と言うのだけれども、白々しい、と思ってしまう。

 相談したときは「自分で何とかしろ」と言ったのに、事が大きくなりそうになって、出張ってくる。

 でもたいして会おうともせず、なのに呼びつける。

 そんなことでもうれしく思う自分がいるのも、確かなのだけれど。

 ホロリと思わずこぼした愚痴には、彼も苦笑い。

 

「上がいるとどこも大変ですわな。私はね、これですよ。ちょっと企画書をね」

「企画?」

 

 どこか誇らしげに、彼は抱えたファイルを示す。

 

「頭がつっかえるのはこっちも同じでね、庭や森を大きくいじろうとするなら、話を通せって言うんですよ」

「手間ですけれど、仕方ないですわね。曲がりなりにも王家の土地でありますから、その改造は大変ですもの」

「ええ。ですから自信たっぷりの書類を作ってきましたよ」

 

 見せてもらった図面は、彼の自慢のわりにはいささかおとなしいもの。

 それでも森を改造した遊歩道は、概要でも美しい光景が思い浮かび、ため息がでる。

 そして、見てわかるほどに改造の範囲は広い。大がかりな作業も多いもの。

 

「これ大丈夫なの? こう……予算とか時間とか」

「行けますよ。そういう渡りはつけてます」

「わぁ、悪い顔」

「ひどいことを言いますねぇ」

 

 図面に含み笑いをこぼしていたロベルが、ふと目線をあげた。その先には、私の首元。

 

「……おや、珍しいですね。お嬢さんがペンダントしてないなんて。いつも肌身放さず下げてるのに」

 

 意外そうな顔を、ロベルがする。

 彼が気にしたのも当然か。いつも下げていたペンダントは今はない。

 軽い首が少し違和感があって、もどかしいもの。

 

「あぁ、あれ。今はちょっとお兄様が、ね」

「なんだってまたそんなこと」

「もう、良いんじゃない。やりたいようにやらせれば──それよりも、そんなことに気づくなんてずいぶんと眼が良いのね」

 

 これ見よがしにそっと胸を隠せば、苦笑い。困ったとばかりに頬を掻く。

 

「いやぁ、よく言われるんですよ、回りをよく見てるって」

「それで私のも?」

「ちょっと人聞きの悪い。変な眼で見てませんよ、きれいな”鍵”のペンダントだなって」

「……ほんと、よく見てますこと」

「あぁ、そんな眼で見ていた訳じゃないですよ!?」

「どうだか」

 

 慌てたロベルの顔がコロコロと変わるのが面白くて、しばらくからかっていた。

 

 あのあと、計画は無事に通ったようで、業者が森に入っていった。彼もまたそこに加わって、泥にまみれていた。

 穴を掘り、道を作り、小川を作り、丘を作った。

 

 

 

 

 

 

 ──その夜は、私は森の道を歩いていた。

 夜中の外出、ちょっとした”お忍び”だ。いつも誰かは盛っていると聞く。”致さなければ”問題ないのだろうけど。

 

 普段通る道の柔らかな木漏れ日がさす緑の道とは違って、月の光も遮る、薄暗い道だ。時おり鳥と虫の囀ずる声が、静かな森に心地よく響いていく。

 

 そこはロベルの計画していた遊歩道。

 昼夜でまるで変わるその雰囲気には、眼を丸くしてしまったもの。

 木々に囲まれた、闇に通じる道を歩くと、やがて光が見えてきた。

 森が開けて、小さな丘になっていた。

 月明かりの下、丘の一面を覆う草が緑に萌え、風にそよいでいる。 

 その輝きは、露に濡れているかのよう。

 ──思い返しても、ため息をついてしまうほど。 

 

 誘われるように、足踏み出そうとして。

 

「おやおや、お嬢さんですかい。どうしましたんですかな」

 

 背後からの声に、飛び上がるように驚いてしまった。

 

「あら、ロベル。あなたこそこんなときにどうしたの?」

 

 平静を装っていたけれど、やはりひきつっていたのだろう。

 

「今日はパーティでございましょう。そっちに警備の人手が取られて森の警備が手薄になるから、しっかり見ておけってお達しがあったんです」

 

 実際怪しいものを見つけましたがね、なんて冗談めかしたことを言うものだから、笑ってしまう。

 

「もう、ひどいわね」

「ははは、冗談ですよ冗談。お嬢様だから言えるんですぜ?」

 

 ロベルの言うことにも頷くしかなかった。

 整備された森のなか、草花に覆われた暗い夜道をひとりさ迷うのは、きらびやかなドレスの少女。

 これは怪しいとしか言いようがない。やましいことがあるのか、それとも。

 気がかりになるのは仕方ないだろう。

 

 その姿はパーティから抜け出した、なんてことで、一言でくくってしまえるのだけれども。

 それは実際、その通り。

 

 静まり返った森の彼方では、眩しく輝くホールが見えるはず。

 

 二ヶ月に一度の学園主催のパーティだ。誰かとのお付き合いを得るには、最適の機会。

 殿方に、あるいは麗人に見初められることを夢見てか、みんな思い思いに着飾っていた。

 町の腕利きの職人に贅を凝らしてドレスやアクセを作らせて、己を誇示しようと言うもの。

 それはメイドもまた同じこと。主を立たせんと腕を振るう。

 私とてその犠牲となって、きらびやかなドレスに身を包んでいた。

 

 そんな私が、パーティ会場に背を向けて、森の小道を歩いているなんておかしいようだけれども。

 ロベルもそう思っているようで、あきれたような眼差しを向けてくる。

 

「こんなところで一人でいて、踊らなくてもいいんですかい」

「踊りたくはあるんだけど、もういいのよ。みんな目が血走ってて、私はあっさり競り負けたし。来るのは露骨な”キープ”ばっかりで、気乗りもしなくてね」

「それがなんで外に出て、こんな森まで来るんです」

「ただの息抜き、気分転換よ。うるさいのは正直嫌いなの」

 

 そう言えば、ロベルは頭を抱えて大きなため息をついた。

 

「踊れないってのはもったいない」

「あれはきれいだからいいのよ。やかましいのは別だけど」

「ははは、私としてはそんな人気者が羨ましいですなぁ」

 

 けらけら大笑いする彼をみて、不意に思った。

 

「ねぇ、あなたは踊る相手はいらっしゃらないの」

「ほんの二、三度、お戯れに付き合ったことはありますが、これがなかなか」

「あら、もったいない」

「もし私がお貴族様でしたら、あなたと一曲踊っていたいのですよ」

「私だから、じゃない?」

「えぇ、その通り」

 

 笑いもせずに、彼は頷いた。

 

「まあ、あなたも他の皆さんと同じなのね。私だからって言う」

「それでも、あなたはあなた。私が共に踊りたいと心から願う乙女(ひと)ですよ」

 

 そういいながらの礼はとてもきれいで、仰々しくて。

 

「何より、ミリアーナさま。あなたとともに、踊ってみたく」

 

 その眼差しは、おかしなほどに真剣で。

 つい、頷いてしまった。

 遊びのようなもの。でも少し嬉しくて、たまらない。

 

「ふふ、せっかくのパーティですものね。踊らないのは損かしら」

「とはいえ、曲がありませんよ」

「あなた、鼻唄でいいから歌ってちょうだい」

 

 そのアイデアに面食らったような彼の顔が面白くて、つい笑ってしまう。それでも渾身の思い付きと自負したもの。

 

「花壇を弄っているときによくやってたじゃない。それもいつも違う曲。好きなのを歌いなさいな。私がエスコートしてあげますから」

 

 

 そう言いながら、靴を脱ぐ。地面にハイヒールは辛いもの。

 うっすら夜露に濡れた芝が冷たく、元気にたっているものだから、こそばゆかった。

 

「ふふ、元気な草ね」

「汚れてしまいますよ。それに怪我も」

「こういう広場の石は避けてるって言ってなかったかしら? ほら、あなたも。こんなに気持ちいい絨毯なんてないわよ!」

 

 ひらひらと二歩三歩、軽やかに舞うのを見てか、ロベルも苦笑して靴を脱ぐ。

 私とは違う、太く根っこのようにがっしりとした指が、草をつかむ。

 

「ほう、こりゃあいい」

「でしょう?」

 

 そういうと、ロベルの手をとった。ロベルもまた、私の手をそっととる。

 

「では──」

 

 一息、息を吸い込んで。彼の奏でる鼻唄は、森の広場に染み渡る。

 穏やかに、それでも踊るような高揚を抑えきれない、そんな音色の歌。

 ああ、聞いたことがある。それは町にお忍びに行く”いけない”少女の小咄の歌。

 

「まあ『マルグリット』? なんてこじゃれたものを」

「お好きに、と申したじゃないですか」

「ええ、そうね。じゃあ──」

 

 また、彼は奏でる。

 調べにそって、共に踊った、舞った。

 ぎこちないのも最初のだけ。ふと区切りがつけば、もう二人はお手のもの。

 

 互いに手をとり、寄せては離れ、ともに手をとり足鳴らし、腰に抱かれて舞い踊り──

 

 まるで花畑を羽ばたく蝶であり、森に飛び立つ小鳥のよう。

 不思議な高揚が、私を包んでいた。

 

 一曲では物足りない、なんて思いながら。

 鼻唄が終わるまで、二人で想うがままに、踊っていた。

 

 

 

 

 ──パーティも明けて、しばらく経ったある日の事だった。

 

 放課後、どうしても空いてしまったその時間。勉強でもしてればよかったのだろうけど、なんとなしに足は庭園をうろついて、やがて森に向いていた。

 気受けばロベルの姿を探している。

 大抵は庭園のどこかで花壇を弄ったりなんてしているのだろうけど、その影もない。

 

 もう馴染みある、木漏れ日射す遊歩道。

 だけれども、その日は少し違っているかのように思えた。

 首筋になにか冷たいものが迫るような、そんな恐ろしい気配。

 賑やかな鳥たちの声も様子がおかしい。森が、ざわめいている。

 なにか、おかしな事が起きているのだ。

 

 がさりと、遠くで茂みが揺れた。獣かと思って見ると。

 茂みの間を掻き分けるように走り抜けていく、ロベルの姿があった。何かから、必死に逃げている。

 そして彼を追い立てるのは軽装鎧の男たち。あれは警士たちだ。

 その腕にまかれた、青の印に眼が止まった。

 

「あれは──お兄様の兵? どうして?」

「──追え、やつが反逆者だ!」

「お兄様!?」

「おぉ、ミリアーナか!」

 

 そして、兵たちに檄を放つお兄様もまた、木々の間から出てきた。

 

「お兄様、いきなりどうなさったのですか。反逆者だなんて、ロベルが!?」

「あぁ、あやつとお前は知り合いだったな。なんとむごいことを。大丈夫かい、汚されてはいないか? ペンダントはしっかり持ってるな!」

「なんなのです、なんなのですかこれは」

 

 大袈裟な身ぶりに心配する兄を問い詰めれば、あっさりと語った。

 

「あのロベルという男、スパイだったのだ。どこかからお前に預けた鍵を盗みだし、校長室の金庫を開けていたというのだ! ターナーとウィリアムズ先生があやつがあの部屋から出てくるのを見た」

 

 ──おまえ、誰かに触らせたりなぞせんな

 

 突き刺すその眼差しはひどく冷たいもの。

 あの瞳ににらまれれれば、なにも言えなくなるのが常。

 でも、そんな怯える心を奮い立たせた。

 すくみそうになる足を伸ばし、しっかりと正面から、兄の眼差しをとらえた。

 

 

「いいえ、触れさせてはおりません」

「そうか」

 

 意外そうに目を瞬かせていた。

 けれども、たいして気にするようでもなく、 

 

「ですがお兄様、あの鍵は、あの中身は……本来いけないものです。私的流用をしてるとは──」

「なにを言う。ただの我らが校の機密書類だぞ。そんなものを盗まれて、黙っていられるか」

 

 わからない子だと、頭を撫でる。

 その扱いには、癪にさわった。

 

「ですが、あの人は、お兄様は」

「まあいい、気にしなくていいんだ。──さぁ、やつを逃がすなよ!」

 

 鼻を鳴らし、そう吐き捨てて、兄は森の奥へと走っていく。

 

 

 ──私も、走った。

 兄とは違う方へと、必死に走った。

 森が完成されてから何度となく来た道だから、隅々までわかる。もはや実家の庭のようなもの。

 起伏を無理にこえることなく、より早く駆け抜けられる道を、ひたすらに走った。

 

 あんな兄の言うことなど、信じられない。ロベルがそんな人だなんて、思えなくて。

 

 必死に走っていると、警士の追い立てる絶叫が聞こえてきた。

 目の前には、一面の水が広がった。森の端に面する川だ。

 ここまで、来ていたのか。自分自身に驚いてしまう。そう思うのも、つかの間のこと。

 バシャリと、水音が聞こえてきた。そのほうを見れば、川面をわたる彼の姿。

 

「ロベ────っ!」

 

 思わず叫ぶその声を遮るように、銃声が何度も響いた。

 

 ロベルが何度か、仰け反った。身をよじらせて、一心に腕を伸ばそうとする。

 けれどもその手は力なく空をつかむだけ。川の流れにも負けて、彼の体は沈んでいった。

 

「──え……あ……?」

 

 呆然と見つめるなか、警士たちが笑って、去っていったことは、覚えている。

 

 

 

 

 ──川下で、ロベルが見つかったと聞いたのはその次の朝のことだった。

 

 見るも無残な姿に、せめてもの慈悲とその場で焼き払われたという。

 そんな話を、メイドが恐る恐る伝えてきた。

 一晩枕を濡らし、食も進まない気の落ちようだから、勇気のいることだったろうに。

 とはいえこちらはむしろ困惑したもの。

 なにせメイドのあまりの恐縮な様を見せて、それでも勇気を一心に奮い立たせたのだから。

 

「そう……焼かれたのね」

 

 もう、その姿はどこにもないのだろう。

 死者が穏やかに朽ち果てて静かに自然に帰ることは、慈悲であり、死後の安寧を願うもの。

 焼き捨てて灰として打ち壊すのは、一息つくことすら許さない冒涜だ。

 その所業は、苛烈なお兄様らしいもの。

 

 

 ロベルのことは、思い返せば怪しいことも、確かに多くて。

 

 ──ちょっとした小川を作るってわりには、大がかりな水道工事を計画していた。

 ──ペンダントの鍵がわかるほど近づいたのは、踊ったときくらい。その時に型を抜いても私はわからない。

 

 まぁ、余計な想像だ。彼はスパイだった。それだけは”事実”。そうなっている。

 

 パンを無理矢理スープで流し込まないと進まない朝食をひたすらにつまみながら、そんな風に納得して。

 はしたなくも机に突っ伏しても、私は悪くない。机を濡らしても悪くないんだ。

 

 

 

 

 スパイが学校に潜っていたことは、学園の空気をまた変えた。

 特に彼と親しかったものは、怪しまれて、疎まれた。

 いわれのない風評も広がって、さりげなくやめるように薦められているものもいるという。

 

 弓術外部講師のウィルテルム先生が去っていったのは、そのためだろう。

 元々短期だとか、都合がつかなくなったとか言っていた。まあ体よく追い出したのが事実に違いない。

 けれど、彼が居なくならなければ、今もその悪評は生まれ続けていたのもまた事実。

 彼は、余計な波風をたたせないための犠牲になったのだ。

 

 

 ロベルの手掛けた花壇はすべて植え替えられた。緑に溢れたあの森は開かれて、大きな広場になった。

 ベンチや小池も作られて、まるで公園のようなその場所は、今はその明るい雰囲気で大好評だそう。

 ──彼のやってきたことは、どれも塗り替えられた。

 

 すべてをなくして、すべてを忘れてようとしている。

 ただ悪夢を、嫌なものを見たと蔑み、何事もないように忘れ去って平然とする人たちをみて、嫌気がさす。

 

 今も、思い出すのだ。あのとき、川面に流されるロベルの周囲が、赤く染まっていくのを。

 

 

 

 

 

 それからしばらく経った先日、珍しく兄がパーティに誘ってくれた。

 

 「来い」と言うのではないのは、ずいぶんと久しぶり。

 「好きにしてろ」だなんて言って置いていくのも、久しぶりだった。

 それこそ、子供のころだけだっただろうか。

 

 今日はさっさと挨拶回りにいってしまったけれど、たぶん兄なりに心配しているのだろう。

 空返事を返してしまったのは、ちょっと不味かったかもしれないけど、怪我の功名か。

 なんにせよ、放っておいてくれるのだから。

 

 纏うドレスがなんだかこそばゆくて、重く感じる。

 騒がしいパーティ会場も、普段以上の疎外感。ぽつねんと、一人だけ取り残されているかのよう。

 学園のパーティでも、こんなことはなかったのに。

 

 ダンスのお誘いもやはり何度かあった。けれどもあまりに気乗りしない。

 誘ってきた人たちは、今までのパーティで見覚えはあったけれど、だれもが”ちょうど良い”とばかりに笑っていた。

 どれも嫌悪感しか感じない笑み。あれを笑顔だとは思いたくない。

 

 結局、一人でテラスで風に吹かれているしかなかった。

 周囲には誰もいない。みんな、光溢れる目の痛いきらびやかな世界がお好きな様子。

 

 気付けの酒もあまり効かず、眩しい世界に背を向けて、ただただ時間が過ぎてお開きになることを祈っている。

 踊る気もない。食べて飲む気もない。話を広げる気もない私は、あまりパーティにふさわしくないだろう。

 

 じっと外を見つめた。目の前には、庭園が広がるばかり。

 乾いた風、ざわめく木々。穏やかで静かに光を射す、丸い真白の月。

 

 ──丘なら、まだ。

 あぁ、なんでそう思うのだろう。憂鬱な思いに耐えきれず、テラスの手すりに身を預けた。

 視界も、滲む。

 

「──お一人ですかな」

 

 声を、かけられた。

 そっと目尻を拭って振り向けば、隣に男性が一人。

 見上げるほどに背が高く、大柄で、溢れた髭面。

 見覚えのない男だった。聞けば遠方に数年行っており、ようやく帰ってきたのだという。

 

「ちょっと体を酷使しすぎましてね、そのためにこちらにやって来たのです。まあどうにか治療できましたが」

 

 だからこの通りと元気に肩を回そうとして、すぐに押さえてうずくまり、呻きをあげる。

 思わず心配になって寄れば、彼は苦笑していた。

 

「まだ万全じゃないじゃないですか。ちゃんとしてください」

「いやはや、驚かせてしまって。体が動くもんで、まるで生まれ変わったようですからね、つい」

「もう、ちゃんと自分のことは把握してくださいね」

 

 自分に帰ってくるような、偉そうな言葉だ。

 ほのかな嫌悪を自戒しながらも、それとない挨拶を残して、避けようとした。

 けれども男は、むしろこちらの顔を心配そうに覗き込む。

 

「ずいぶんと暗いかおをしていますね」

「まあ、色々とありましたので」

「おやおや、何か口さがないことでも言われてしまいましたかな」

「そんな軽いことでもあるませんよ。これは、そう……なんて言えば、良いのでしょうね」

 

 酒は存外効いていたのか、やけに舌が回る。

 まだ言えることも。言いたいことも。言うべきこともあった。

 でももう出来なくて。もう、届けようがなくて。

 心にのしかかる責念と後悔を、思い思いにぶちまける。

 

「ふうむ。……それは失恋、となりましょうかな」

「失恋──あぁ、失恋ですか」

 

 ずいぶんあっさりと口にされたその言葉を、思わず繰り返した。

 

 その言葉を租借して、ようやく腑に落ちるものがあった。

 

「私は失恋したのですね」

「おやおや、気づいていませんでしたか」

「えぇ、ずいぶんとバカなことです」

 

 ほんとうにバカだろう。愚かだろう。

 なんて、なんて素晴らしいもの。なんて苦しいもの。

 そんなことを、今さらに知るなんて。

 

「でもよろしいのではないですか? まともに恋できないこともあるこの世で、そのような想いはなかなか得られないもの。よい経験ですとも」

「そうまで言ってくださる?」

「おや、いけませんか? それでは今頃気づくだなんて、と言えば?」

「まぁ、ひどい」

 

 脳裏の思い返すのは、月夜の森に浮かんだ彼の姿。

 それまでの語り合い。泣いて、笑って、好き放題に口々にしたあの日々。

 

 そういえば、初めて会ったのは。

 

「あぁ──そう思えば、あなたは似ていますわね。私が想っていた方に。こんな私に声を掛けるのですもの」

 

 こうして隅で寂しく泣いている時だったっけ。

 

「おやおや。あなたにそうまで思われるとは、さぞかし吟われる勇猛果敢な男でしょう」

「どうでしょう。顔も違いますし。──まあやけにはっきりと物を言う人で、大雑把で。でも何かを成す信念は、確かにあるお方でした」

「ほう、それはそれはかなりのお人」

「でも、もうよろしいのです。あれは、遠い遠い夢のことです」

 

 ”彼”の事は忘れてしまおう。しかし、なればその”跡”はどうしたものかと思案する。

 考えていると、男は、言った。

 

「いっそ、振り切ってしまいましょうか」

「どうやって?」

「こうやって」

 

 男はそっと一礼。手を、差し伸べた。

 

「──それでは、一曲いかがですかな」

 

 ただのダンスのお誘いにしてはずいぶんと仰々しくて、笑ってしまう。

 

「あら、よろしいの? あなたを夢の誰かと間違えてしまうような、おろかな女ですのよ」

 

 そっと諌めるように言えば、男はくすりと笑ったように、一瞬見えた。

 柔らかな笑みと真剣な眼差しを、こちらにくれる。

 

「──それでも、あなたはあなた、私が共に踊りたいと心から願う乙女(ひと)ですよ」

 

 ──あぁ、その言葉。その瞳。その眼差し。

 脳裏に、走る稲妻。それを、私は掴みとる。

 震える足も、ざわめく心も、はち切れそうな鼓動も、私のすべてががなり立てている。戸惑っている。

 

 それでも、振り払うことはできなかった。もう、放したくなかった。

 

「──えぇ。叶うことならば、あなたと一緒に」

 

 私はそっと()の手を取り、握り返した。

 

 彼は”変わらぬ笑顔”ではにかんでいる。

 

 私もまた微笑んで、ダンスホールへ共に行く。

 

 ──さぁて、この”彼”はどうなのだろう。

 思わずつかんだものだけど、果たして手にとってよかったのか。

 いや、後悔する必要はない。ただの思い込みかもわからないのだ。

 ただひとつ、確かなこと。

 

 ──夢の続きがここにあるんだ。

 

 ”彼”のダンスの申し出に、私は乗ったのだ。

 

「今度は、こっちで踊るのね」

「お外のほうが、よかったですかな?」

「いいえ、こちらが良いわ。せっかくのパーティですもの」

「あぁ──それは、良かった」

 

 彼の手が、ガラス戸に触れる。

 そこにあるのは、眩しい世界。

 私が好まなかった、待ち焦がれた、思い描いた世界が、そこにある。

 

「ちょうど良い。そろそろ次の番ですよ」

 

 戸が開く。華やかな音が、目の前に溢れて広がった。

 


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