戦艦<武蔵>艦長 知名もえか(High School Fleet & Red Sun Black Cross) 作:キルロイさん
枢軸海軍部隊カリブ海・大西洋方面総司令部、グアンタナモ市、キューバ島
同日 午後四時二七分
枢軸海軍部隊カリブ海・大西洋方面総司令部が置かれている、ホテル・マチャドの一室には大日本帝国外務省が間借りした執務室がある。
執務室といっても、一人掛けの机と椅子が各三脚、六人座れば満席になる応接用の
そして、この部屋は客間だった頃の内装をそのまま使用している。そのため、国家の威光を背に受けて諸外国と交渉する、外務省としては素っ気ない室内だった。
事情通と自称する一部の者は、この部屋の内装では欧州を制覇した
それに対して、部屋の主は馬耳東風とばかりに聞き流していた。その指摘を実現しようとしても、労力の無駄でしかないと考えていたからだ。
なぜなら、数年後にはこのホテルから引き払うことが明確だからだ。戦争の勝者として新庁舎に転居するか、敗者として逃げ去るのかは不明だが。
日没が近づき空が次第に明るさを失っていく頃、この部屋には外務省対中南米工作班に所属する外務省の書記官だけがいる。班長である平田ともう一人の来客は、執務室に隣接する寝室にいたからだ。
この部屋は、執務室の主と不意の来客に備えた寝床がある部屋であり、打ち合わせに適した部屋ではない。だが、この書記官の耳に触れさせられない情報を扱っているので、仕方なくこの部屋を使用していた。
寝室の隅で煙草の煙を立ち昇らせていたのは、少年野球団に参加していた時代に先輩だった森口航海参謀である。それに対して、平田はベッドに深々と腰を掛けていた。
そんな室内で森口はゆっくりと口を開き、抑えきれない怒気を含めた言葉で話し始める。
「はっきり言えば、腹が立っている。貴様じゃない。ベネズエラ政府にだ」
彼はそう言ったが、本心は異なる。ベネズエラに振り回されたまま対抗策を打てない平田にも、若干の不満を抱いていた。
そして、平田は森口が醸し出す険悪な空気を察知しているので、いつもの
「自分の力不足を実感しています」
彼は素直に答える。ある意味で事実だからだ。
彼にとって森口は、少年野球団の時と同じように敬意を示すべき先輩として認識していた。
ただでさえ、外交工作という軍人に理解できない業務を行うためには、森口の後ろ盾が必要だったからだ。彼や叔父の春崎長官がいなければ、平田は成果を挙げることなく孤立してしまう。それを十分に理解していた。
彼らの話題は、ベネズエラまで重油を受け取りに向かった二隻の油槽船のことだ。
今朝の時点で部下からの報告を受けた時、平田は顔全体から血の気が引いてしまった。大問題になると予感したからだ。
しかし、夕方になる頃には問題視すらされなくなった。別の手段による燃料調達の目途がついたからだ。
だから、平田が自分自身でこの件を蒸し返してもメリットがない。それにも関わらず森口をこの部屋に呼んだのは、彼が知り得た情報を伝えたいためだった。
平田は確信を込めた言葉で森口に話していく。
「ベネズエラの動きが怪しいのです。絶対、何か裏で動いている」
「なぜ、そう言い切れる」
「ベネズエラに着いた<八紘丸>に僕の部下が乗っています。彼からの報告電文によると、ベネズエラ側の責任者が妙なことを口走ったのです」
「その前に、外交暗号を使うな。外務省は未だに暗号書を更新しないから、とっくの昔にドイツが解読しているぞ」
「大丈夫です。海軍の輸送船団用暗号で発信させました」
「それは分かったが、どこが怪しいのだ」
「送油は政府の命令で止めたのだと」
「なんだと?」
◇◆◇◆◇
<雄鳳丸><八紘丸>の油槽船二隻だけで編成された船団は、駆逐艦の護衛を受けてベネズエラに向かっていた。そして、昨日の日没後にマラカイボ港に到着している。
日本側としては、到着後すぐに石油積み出し作業を始めて欲しかったが、ベネズエラ側の都合で翌朝に回されてしまう。作業員が帰宅した後の時間帯だったからだ。
仕事より自分自身と家族を大事にする、カリブ海地方の現地住人らしい行動である。日本人には、まったく理解できない価値観でもあるが。
そのため、<八紘丸>に同乗している海軍士官は憤慨してしまい、平田の部下へ「奴らを連れ戻して油を積み込ませろ」と詰め寄る始末であった。
不満をぶつけられた彼としても、何も対処できない事態である。だが、この時に平身低頭してしまえば外務省側の非を認めることになってしまう。
だから、彼が疲れて抗議を諦めるまで、丁寧に説明するくらいしか出来なかった。
今朝になると<雄鳳丸><八紘丸>へ現地の水先案内人が乗り込み、石油積み出し用の岸壁に接岸する。そして、準備を整えた<八紘丸>からの合図によって、ベネズエラの地上に建つ貯油タンクのバルブが開かれる。
こうして、艦艇用燃料として消費される重油が流し込まれていった。
平田の部下は、<八紘丸>の船員から荷役作業が完了するまでの時間を聞くと、思わず安堵の息をついた。夕方にはグアンタナモに向けて出航出来そうだったからだ。
しかし、その計算の前提条件が覆される事態が発生してしまう。
異変に気づいた人物は、<八紘丸>の甲板で重油の荷受け作業を指揮していた、一等航海士だった。
彼が何気なくグアンタナモの貯油タンクを眺めていると、一台の自動車がバルブ操作室の前に止まったことに気づく。そして、間もなくすると送油管に流れていた重油が途絶えてしまったのだ。
その報告が<八紘丸>の操舵室に届くと、平田の部下が動き始めた。
この時点で、彼はいつもの金銭に絡む話かと思っていた。頭金を払わなければ油を止めるとか、市場価格より割高の金額を吹っ掛けて来るとか、そんな話だ。
何しろ、ベネズエラにとって重油は戦略物資である。
これは、外交や経済の切り札なのだ。太平洋の彼方から来た列強諸国の一員だからといって、信頼関係が結ばれていない国家を相手に便宜を図る理由が無い。
平田の部下は、そんな事情を把握しているからこそ、即時行動を起こす。<八紘丸>に乗り込んでいる海軍士官と幾人かの乗組員たちを借りて、ベネズエラ側の責任者の元に向かったのだ。
彼は、軍人特有の威圧感を利用して送油を再開するさせようと、迫るつもりだったからである。
それは、外交官でもある彼が抱く職務上の論理感では、あり得ない行動だった。粘り強く折衝して相手側の理解を得るべきであり、軍人を利用した強圧的な手段は避けるべきだと考えていたからだ。
だが、彼が一人だけで折衝したら相手側が舐めた態度を取るだろうし、状況を打開するまでに時間が掛かってしまう。
カリヴ艦隊やレイキャビクから帰ってくる船団のために、一刻も早く重油を運ばなければならない状況では、強圧的な手段を取らざるを得なかった。
彼は、自覚しないうちに垢ぬけた外交官ではなく、泥臭くても目的を達成させる貿易商社の現地駐在員のように剛腕を振っていたのだ。
しかしながら、その後の展開は彼の予想と大きく異なっていく。
彼らの前に現れたベネズエラの貯油タンク基地責任者が、送油設備の故障だと説明したからである。そして、修理に一日ないし二日掛かるとも。
すぐに直せと催促しても、ベネズエラ側は曖昧な返事しかしない。こんな様子では、恫喝まがいの言葉を使っても状況が好転しそうにもなかった。
だから、平田の部下たちは真剣に対策を協議し始める。
貯油タンクからバケツリレーで船へ油を注ごうとか、他の中立国に行って燃料を調達しようとか、パナマにある燃料基地から重油を分けてもらおうか、そのような意見が次々に披露される。
そうした意見を出し尽くす前に、彼らはこのまま待機することを決めた。タイミング良く、カリブ艦隊司令部からの命令を受け取ったからだ。
平田や彼の部下たちは知らなかったが、カリブ艦隊司令部は今朝の段階で方針を転換していたからである。
実は、パナマ運河は昨日の午後から船舶の通行を再開していた。航路に流れ込んだ土砂堆積物の除去が完了したからだ。
この運河には、レイキャビクに向かう貨物船が続々と通過していた。それにはグアンタナモが待望していた油槽船も含まれている。
数隻ある油槽船は艦艇用や民間発電所用の重油、ジェット航空機用ケロシン、レシプロ航空機用ガソリン、自動車用ガソリンやディーゼル、それらの油種のどれかを積んでいた。
カリブ艦隊司令部はこの油槽船に注目した。そして、レイキャビクではなくグアンタナモで積み荷を下ろすことを、東京にある
グアンタナモ時間を基準とすると、東京は一四時間進んでいる。
だから、電文を夕方に発信すれば、幾つかの無線送信所を経由する時間を考慮しても、東京時間の午前中に着電するのだ。
その電文は赤レンガで勤務する担当官が受け取り、ただちに精査されていく。だが、補給物資の扱いは軍令部で判断出来ず統合軍令本部へ上げられた。
そして、統合軍令本部内の関係部署で協議した結果、幾つかの条件付きでカリブ艦隊司令部の要望が認めれたのだ。
その条件とは、ベネズエラにいる二隻の油槽船をレイキャビク行き輸送船団に組み込むことと、二隻の駆逐艦を一時的に
海上護衛総隊は、パナマ運河の大西洋側にあるコロン港に到着した貨物船のうち、油槽船と特務艦だけで小規模の船団を編成した。この護衛に二隻の駆逐艦を担当させようとしていたのだ。
この船団は、コロン港周辺の哨戒を中断した駆逐艦の護衛を受けて、夕方に出港している。パナマから護衛してきた駆逐艦はカリブ海の洋上で、ベネズエラから駆け付けた駆逐艦と交代する予定だ。
このように、燃料補給の目途は立っている。船団が一二浬で走れば明後日の早朝にグアンタナモに到着するので、燃料が枯渇する危機は回避出来そうだったのだ。
しかし、平田はある事実が気になっていた。
それは、平田の部下からの報告である。
平田の部下は、貯油タンク基地の責任者以外にも送油が止まった事情を尋ね回っていたのだ。その結果、意外な事実が発覚した。
この基地で仕事していた労働者たちは、口を揃えたかのように「政府が送油を止めろと言ってきた」と証言したのだ。それも、一人でなく複数人がである。
どちらの話が事実なのか不明だが、幹部ではなく一般労働者が嘘をつく理由が思いつかない。だから、平田の部下はベネズエラ政府が送油を止めたのだと報告した。
その報告を受けた平田も、部下の報告を真実だと判断して森口に打ち明けたのだ。
それに対して、森口は報告の真偽に判断がつかなかった。
「平田。今の話が本当ならば、ベネズエラは我々と決別するつもりなのか?」
「今の時点では軍事行動を起こさないと思います。ですが、それ以外の方法で我々に何かを仕掛けてきそうです」
「軍事行動を起こさない理由は?」
「カリブ海の覇者が確定していないからです。今の段階でどちらかの陣営に加われば、もう一方の陣営から攻撃を受けるでしょう。マラカイボの沖合に機雷を撒かれただけで、彼らにとって致命傷になります。だから、そのようなリスクを取りたくない筈です」
「それを承知したうえで、宣戦布告するのでは?」
「戦争中なのに自由貿易を続けながら中立政策を執るのは、薄氷が張った湖を歩き続けるようなものです。一歩でも足を踏み外せば命を落としてしまいますから、並大抵の感覚では続けられません。ですが、彼らはそれを実現してしまうくらい、バランス感覚に優れています。そんな彼らが愚かな判断をするでしょうか」
「今は戦争中だ。何が起きてもおかしくない」
「そうです。戦争中です。だからこそ、夢物語だとか希望的観測だとかで戯言を語るような愚か者は生き残れません。そして、彼らは愚か者ではない」
平田は一気に話すと口を閉ざす。
そんな彼の冷静な頭脳は、自らが矛盾した言葉を放ったことに気づいている。彼自身が希望的観測に基づいて語っていることに。
それは、曇った眼鏡を掛けて真実を見た時のような状態だ。その輪郭さえ識別できないまま憶測で真実を語れば、その時点で希望的観測と同じになる。
そして、平田はベネズエラを始めとするカリブ海諸国を、色眼鏡で見ている。当然ながら、彼の眼には彼の色に染められた真実しか見えていない。
そうなる理由は、彼がこの地方に親近感を抱いているからだ。
なにしろ、学生の頃にカリブ海の海賊になるのを夢見ていたくらい、カリブ海は憧れの地域だったからである。そして、外務省で働くことを選んだのは、自分の懐を傷めずに外国へ行けるからだ。それくらい、この地方に行くことを熱望していた。
彼が外務省に入省後、得意分野を駆使して仕事に専念していく。帝大を卒業していないため外務省のエリートコースに乗れなかったが、中米地方とカリブ海地方に強い手練れの外交官として、その名が知れ渡るようになる。幾度も外交交渉を成立させてきたからだ。
そのような実績を持つ平田が、ベネズエラの動きを懸念していた。クーデターによって国家を掌握した軍事政権は、国民の不満を外部に発散させるために外交政策を過激化させる傾向にあるからだ。
彼らは軍事行動は起こさないだろう。だが、欧州連合に接近して軍事行動を支援する可能性を否定できない。
そうなると、グアンタナモが孤立してしまう。連合軍が北米方向だけではなく、カリブ海の南方から攻撃してきたら対処しようが無い。平田はそのような展開を予想していたのだ。
しかしながら、森口にとってそのような展開予想は、雲を掴むようなものだった。
彼としては外交官特有の直感を侮るつもりは無かった。しかし、これだけで業務多忙な参謀長や司令長官に説明するには、あまりにも少な過ぎる情報だからだ。
そのため、彼は冷徹にも聞こえる言葉を突きつけざるを得なかった。
「ベネズエラが何かを企んでいるのは理解した。だが、その理由がお前の直感だけでは参謀長に説明できない。軍事行動を起こす兆候のような、具体的な情報を持ってきてくれ」
そう言うと森口は退室しようとする。その背中に向けて平田は言葉を放った。
「情報の真偽判定は、宙に舞うコインを素手で掴むようなものです。握り締めているままでは分かりません。そして、手を開いて真偽が明らかになった段階では、その対処さえ手遅れになることもあり得ます。思い出していただきたいのですが、開いた手を握り直すことは出来ません。それは黙殺や隠蔽と言います」
しかし、平田の期待も虚しく、森口は無言のまま部屋から出ていった。
彼は気を取り直すため、寝室に置かれている小さな机手を伸ばす。
そこには、額縁に収められた彼の家族の写真が置かれていた。中等学校の学生服を着た彼以外に、両親と姉、そして海軍士官服で身を装った兄が写っている。
彼は傍目には精神面に異常をきたしたかのような面持ちで、写真にしか姿を残していない兄へ話し掛けた。
「兄さん、僕は兄さんみたいに上手にできないよ。兄さんはどうやって、トライアングル・アロウに関わった奴らを纏めたんだい?」
彼は何気なく寝室の窓を眺めると、ガラス板に水滴が次々と増えていく。雨が降り出したのだ。