戦艦<武蔵>艦長 知名もえか(High School Fleet & Red Sun Black Cross) 作:キルロイさん
どうも、ご無沙汰しています。
作者のキルロイです。
多忙な本業から解放されて、ようやく執筆できると思ったら大晦日。
時間の流れって、本当に早いですね……。
さて、未だに資料収集や読み込み作業を続けていますが、その一環として一つの書籍を読みました。それが、「流星戦記」です。
<流星>艦攻を実戦運用した部隊の苦闘や、搭乗員たちのエピソードが書かれてる一冊です。
これを参考書籍として外伝の執筆に取りかかろうとしましたが、さらに必要な情報を拾い集めるために現地へ取材してきました。今回はこの基地をご紹介したいと思います。
この基地について、作者以外に他の方々がブログなどで詳しく紹介しています。戦跡や遺構の解説については、それらのブログをお読みになることをお勧めします。
それらに対して、作者は別の視点から基地を紹介していきます。また、画像を多数貼り付けていますので、スマホではなくパソコンで読まれることをお勧めします。
(1)基地の概要
正式名称は、海軍香取航空基地です。通称で香取飛行場、干潟飛行場とも呼ばれていたそうです。
敷地はあさひ鎌数工業団地として再開発されていますが、航空基地時代の痕跡は所々に残っています。
太平洋戦争終戦後の一九四八年(昭和二三年)三月二日に合衆国軍が撮影した空中写真(USA-R1069-107)
その情報を書き加えた地図
この基地には、南東・北西方向に延びる一四〇〇メートル滑走路と、南西・北東方向に延びる一五〇〇メートル滑走路の二本があります。それらは互いの中央部で十字形に交差していました。
「流星戦記」によると、滑走路以外に間口が三〇メートル、奥行が四〇メートルある格納庫が九棟あり、機体整備用や発動機整備用といった関連施設も多数あります。これは、当時の木更津航空基地よりはるかに広大であり、東関東の海軍航空基地の中核となりえる航空基地でした。
なお、滑走路の長さについて補足すると、当時の陸攻が離発着するためには滑走路の長さが一二〇〇メートル以上必要でした。この基地の滑走路は、それより長く造られています。
しかし、<連山>が離陸するためには一八〇〇メートル程度必要(戦後の米軍による記録)だったそうです。さらに、北海道の東千歳駐屯地に残る海軍千歳第三飛行場(連山滑走路)は二五〇〇メートルもあります。
もし、海軍が<連山><富嶽>といった大型機を運用し続けるのであれば、いずれ滑走路の延長工事が必要になったのでしょう。
(2)干潟駅
取材は二回行ないました。一回目は二〇二一年一二月一八日です。
香取航空基地の近くを通る総武本線は、千葉駅から銚子駅まで続く路線です。
この路線を走る列車は、千葉駅を発車すると房総半島の根元を横断するように進み、成東駅から九十九里浜の海岸線と並行するように進路を変えて、漁港と醤油の町として栄える銚子駅に到着します。
この路線には八日市場駅や旭駅といった特急停車駅がありますが、それらの駅に挟まれるように干潟駅があります。
年季が入った干潟駅舎
干潟駅前の看板
(3)基地の痕跡① -あさひ鎌数工業団地の案内図看板-
工業団地の案内看板は何カ所かありますが、これは西側にある看板です。
滑走路が工場の敷地として上手に活用されていました。
(4)基地の痕跡② -公園の慰霊碑とプロペラ機-
小説には関係ないので解説は省きます。
慰霊碑
源田実による慰霊文
幸せの黄色いプロペラ機
(5)基地の痕跡③ -匝瑳(そうさ)市椿海(ちんかい)地区に残る二基の掩体壕-
この時の気温は六度しかなく本当に寒い!
おまけに、毎秒一一メートルの風が吹き付けるので、まっすぐに伸びる雑草がなぎ倒されそうでした。
余談ですが、この日の早朝は鹿島神宮近辺にいました。その時に撮った画像がこれ。
北浦という波静かな湖が、強風にあおられて白波を立てているのですよ。凄いでしょ!
再び、二基の掩体壕に戻ります。
二基の掩体壕全景
掩体壕の正面が各々の方向へ向けているのは、どちらかの正面に爆弾が落ちたときの弾片によって、もう一方に隠した機体が傷つくのを防ぐためだとか。
二基のうち倉庫として再利用されている掩体壕
倉庫として再利用されている掩体壕の後方
もう一基の掩体壕後方
掩体壕の説明板
間口一九・五メートル、奥行一〇・六メートル、高さ六メートル。
この寸法では、<流星>を収めると機体の前後が約一メートルはみ出します。
(6)基地の痕跡④ -鎌数(かまかず)伊勢大神宮の石-
この地域は、大昔に椿海という湖だったそうです。それを干拓して、江戸時代の一六七二年(寛文一二年)に完成した耕作地(干潟八万石)が、現在の畑や香取航空基地の敷地となりました。
神社を創建するにあたり、遠方の伊勢神宮から分霊を受けた理由は、干拓工事責任者の一人が伊勢国出身だったからだとか。いつの時代でも、責任者の思惑で世の中は動いていくのですね。
なお、干拓前と干拓後の地図は鎌数伊勢大神宮のホームページに詳しく書かれていますので、そちらもどうぞ。
https://kamakazu.com/free/rekishi
この境内には、香取航空基地を建設した際に掘り出された石が安置されています。
石と説明板の全体画像
石の説明板
苔に覆われた石の正体は、塩の化石でした。
説明文の最後には「千葉地方刑務所干潟出張所職員が奉納した」と書かれていますが、これは基地の建設に刑務所の受刑者たちが動員されたことを物語っています。当然ながら、この職員の仕事は受刑者を監視することです。
順番が逆になりましたが、神社の鳥居と表参道がこちら
参道の奥には本殿が見えます。
創建されてから三五〇年ほど経っている神社にしては、妙に境内の木立が低いことに気づくかと思われます。これは香取航空基地から離発着する航空機にとって邪魔になるため、切り倒されたからです。
(7)基地の痕跡⑤ -旭(あさひ)市鎌数(かまかず)地区に残る大型機用掩体壕-
この掩体壕だけは、二回目となる二〇二一年一二月二九日に訪れました。
最初に、遠方から二枚。
どうやら、最近になって畑の周囲に松が植えられたようです。
掩体壕の正面
内壁とコンクリートが剥がれてむき出しになった鉄筋
側面から
掩体壕の説明板
この掩体壕の寸法は、間口二九メートル、奥行一四メートル、高さ七メートル。
数値だけでは大きさがイメージしづらいので、こんな形で撮ってみました。
後ろ姿になっているモデルの身長は一・八メートル、両手の指先間距離は一・九メートル。
このモデルと比較すれば、掩体壕の大きさが掴みやすくなるでしょう。
(8)RSBC世界における香取航空基地の今後
この基地は原作に一切登場しないので、すべて作者による考察です。
それを語る前に、ぜひ見ていただきたい画像があります。
これは総武本線の南側にある畑ですが、他の地域では見られない光景が写っています。
それは、海岸から飛んできた砂です。この砂が畑を覆っているのです。
画像の右側にはタイヤの跡がくっきり残っていますが、これは砂の層です。農作に適した土は、この層の下に隠れています。キャベツやレタスのような葉野菜では、種を蒔いても芽生えることすらできないでしょう。
別の畑で砂を握ってみましたが、海水浴場にいるかと思えるくらいに握れました。
砂はサラサラとしていますが、厳密にいえば石です。
鉄鋼の錆び落としや表面仕上げをするために「サンドブラスト」という加工方法がありますが、それに使えるくらいに硬いのです。
もし、香取航空基地を運用し続けた場合、どうなったでしょうか。
基地は海岸線から六キロ内陸にありますが、滑走路や駐機場は常に砂で覆われているでしょう。砂は小雨程度では流れず、湿った砂は離陸しようとする航空機のタイヤにこびりついて速力を削ぐかもしれません。
レシプロ機であれば、プロペラの後流によって砂を吹き飛ばせますが、同時に搭乗員や整備員の眼を痛めつけます。さらに機体の表面へ多数の引っかき傷を残していくでしょう。フィルターは目詰まりしやすいので、こまめに掃除しなければなりません。
ジェット機ならどうでしょうか。吸気するときに砂を一緒に吸い込むので、エンジン内部にある圧縮機の羽根まで傷つくでしょう。当時のジェットエンジンは信頼性が低くて頻繁に交換していたので、誰も気にしなかったかもしれませんが。
確実に言えることは、こんな状況が続くと機体の整備に余計な時間が奪われてしまい、次第に稼働率が落ちていくことです。
戦時中であれば整備員たちに無理強いさせても、機体の稼働率を維持させなければなりません。しかし、休戦になれば軍事予算の削減や整備兵の兵員数の減少によって、それが維持できずに低下していくでしょう。
こうなると、機体の整備に手間が掛かる基地を運用し続けるのは、国家予算の浪費になります。だから、いずれは閉鎖されて工業団地として再開発されるのです。
航空関連施設は充実しているのに、立地が悪いので短命に終わる航空基地。
そんな歴史になると考察しましたが、いかがでしょうか?
最後ですが、取材一回目の夜に撮った写真をどうぞ。
きれいな満月でした。
あいかわらず風が強いので、少々ぶれてしまいましたが……。
来年も執筆していきますので、どうぞ宜しくお願いします。