花束をカギとして物語は進行していく。
肌を焦がすような陽光が降り注ぎ、目を開くのも
教室に私はいた。職員室を除いて無人の校内はしんと静まり返っていて、廊下側の窓の外の街路樹で、限られた命を精一杯に生きる
夏休みも真っただ中、昼間に窓際一体をことさらに明るく照らされつつ新学期を待つだけの教室に、彼は一人、
風化したビニールで束ねられた枯れかけの花束と、一輪の菊が生けられた小さな花瓶が、彼の近くの机に置かれている。
花瓶の菊がくるりと向きを変え、花束がかさかさと鳴る。どこから風が、と思っていると、頬に空気の動きを感じ、窓際から吹いてきたものだと分かった。
「今、風が吹いたんですね」
揺らめくカーテンに目を向け、彼は一人、呟いた。伸びることを忘れた頭髪を無造作にかき上げ、日光の
「山本君が助けようとしてくれたんです」
彼は私を振り返ると、わずかに口元を緩めた。浮かべた微笑とは裏腹に、眼には憂いと思しき色が宿っている。
生気のない、ガラス玉のように澄んだ瞳が確かに私を捉えている。
外では運動部が一生懸命練習に励んでいた。焼けつくような日差しを浴び、時折、「ナイス!」「ファースト!」と声を張り上げる。
真っすぐで、濁りのない瞳に、ふと沸いた疑問を投げかけた。
「どうしてそう嬉しそうに話すのです?山本は、貴方を自殺に追い込んだ張本人ではないですか」
その日は、目の前に
時折、窓から吹き込む風も、この酷暑には何ら意味をなさないように感じられた。直す気力が無いのか、もしくは関心すら持たれていないのか、めくれ上がったカーテンがばたばたと無造作に揺れている。
彼は汗で満ちた風呂に浸かる心持ちで、こっくりこっくりと舟を
グラウンドで下級生が準備体操をする声が耳に届き、そちらの授業に一緒に参加しているような錯覚に陥る。黒板に
衝撃で、彼は我に返った。後頭部に物が投げつけられたのだ。机に消しゴムが落ちる。
くすくすと押し殺した何人かの笑い声が聞こえたが、それも次第に収まった。山本たちは授業に意識を戻したようだ。
知らず、天井を見上げた。廊下側の窓の外の街路樹で鳴く蝉の声がやけに近い。
痛い部分をさすることもせず、彼は静かに席を立つ。
彼が立ち上がったことに、誰も気づく様子はない。
風が吹く。空気に抱き寄せられるように、そばの窓に動いた。
青色とも水色ともつかない空に白い雲がのっぺりと薄く広がり、太陽は雲よりも白く、
じかに見た太陽は不思議と眩しくは感じなかった。両目から光が体の中に差し、冷たくなった心を温かく、溶かしてくれるような気がした。
空に両手を伸ばす。雲がつかめる。本当にそう思った。
雲がつかめたら、柔らかいだろうか。窓から身を乗り出す。
上半身から倒れるままに落ちていく。あのきれいな空の下、つまり結局のところ、地面だ。
分かってたんだ、それくらい。
そこで、椅子と机がぶつかる音が耳に入った。
痛みに悲鳴をあげる。窓から宙づりになる。何者かに足首をがっしりと
「おい!」
山本だった。「なんでだよ!」
運動場にいる生徒が
手を振りほどこうと暴れた。その手を放せ。
「俺が悪かったよ!だからそんなに暴れるな!」
その言葉にぴくりと反応してしまったのが、悔しかった。山本と目が合う。「俺が悪かったから……」
山本がぼやけた。
それから、音がした。獣が思わぬ方向から銃弾を受けたような
それが自分から発せられたものだと気づく頃には、自分でも信じられないような力で山本の手を振りほどいている。
目元を押さえて落ちていく。
死ぬ。
そんなことどうだっていい。
見ないでくれ。
僕を見ないでくれっ……!
―――いじめを苦に自ら命を絶ってから今日で一か月。未だ真下の地面に赤コーンが並ぶその窓際に、彼は立ち続けている。
「その花束、」彼は自分の机を指さして言った。「
彼の顔が明らかにほころんでいる。真夏の活気に色づく外界から
机上の花束と花瓶の菊を見比べる。花束はバラやカスミソウ、カーネーションのようなものなどで構成されていて、
「花束、ですか?」念のため聞き返しておく。
「花束です」
「花瓶の菊ではなく?」
「花束です」あくまで花束について言っているようだ。
彼は微笑を崩さない。作り笑いにも見えなかった。
「……しおれ始めていますが」正直な感想を口にした。
「すごく綺麗でしょう?」無垢に、彼は問うてくる。
それに答えないでいると、彼は「綺麗なんです」と独り言のように言った。
心底嬉しそうに花束を眺める様子はどこか奇妙で、ある可能性が脳裏を
「そうだ」
不意に彼はパチンと手を打ち、まじまじとこちらを見つめる。
「どうしました?」
「どうして気づかなかったんだろう」
彼は
「あなたは誰なんです? どうして僕が見えるんですか?」
部員が水分補給のために休憩を取っている間、運動場に人影はない。
陽だまりの中央で彼は破顔する。日差しに透ける学生服の足元、浮かんだ微笑、どちらにも影はない。「だと思いました」
「お迎え、と言えば分かりやすいでしょうか」
「天使で十分わかりますよ。要するに、僕はこれから別の場所に行くんでしょう? 天国とか地獄とか」
彼の笑顔が寂しげなものに変わったことに私は気づかない。
「ええ」私は深く
「なんですか」
「なぜここにずっととどまり続けているのですか? 貴方は自由に動けるでしょう。トラウマだらけの学校から離れようとは思わないのですか」
「そうですね……」
そう言って彼は窓の外に視線をやり、しばらく言葉を発しなかった。
運動場では練習が再開している。日が高くなるにつれて気温、湿度が上昇するのが如実に感じられるが、彼には関係がない。
窓の横にとまった蝉が嘆息めいた声を上げる。暖かな光が斜めに差し込み、ワックスの乾いた床を窓枠の形に黄色く切り取っている。時折巻き上がるカーテンがたてる音が教室内に反響するようだ。
「ここから見える景色、好きなんです」
かきーん、と心地良い金属音が響く。彼が微笑むのが分かった。窓際で
「もう少し待ってください」と彼は言った。
未練が残っているのだろう、私は神妙に頷いて、待つつもりだという意思を伝える。
名残惜しそうに壁や床に視線を巡らせている。「気持ちの整理をつけたいので」
花束がかさかさと鳴り、日差しの照り付ける窓際から香ばしい香りが漂ってくる。
一つ、聞いておく必要があった。
「……やはり恨んでいるのですか?」
一瞬、世界から音が消える。
ぴた、と彼は静止し、続いて潤んだ瞳がこちらを向き、すぐに伏せられてしまう。
いつの間にか太陽は雲に隠れ、運動部員は安堵のため息を漏らし、顧問は休憩時間を告げる笛を吹く。
トラウマと
幾度となく吐き出される空気の玉が震え、虚空に溶けていく。
外から再び聞こえ始めた威勢のいい掛け声に紛れる、彼の息遣いに耳を澄ましていた。
長い長い沈黙の後、ついに彼は口を開いた。
「僕、何もないんです」
彼は視線を机上の花束にやり、目を閉じる。
「……何もない、とは」
細く息を吐いて、意を決したように弱々しい微笑をこちらによこし、彼はとつとつと言葉を紡いでいく。
「生きている間は恨みばっかりで、それ以外の記憶がほとんどないんです。……両親も、妹も、親戚だって大勢いたんですよ? 友達も、好きな人だって、確かにいました。一緒に遊んだり、夏休みには遠出したり、旅行に行ったりもしたはずなんです。……それなのに今は何一つ思い出せない。おかしいですよね、こんなの」
私は答えられない。
「幸せなこと、たくさんあったはずなんです」花びらが一枚一枚落ちるように、辛うじて保っていた微笑が崩れていき、
光が幾筋も雲間を貫き、ベールのように、透明に、しかし無機質に彼を包んでいく。私は黙ってそれを眺めた。
しゃわしゃわと木の葉の触れあう音だけが聞こえている。
やがて運動場には人影がなくなり、日は傾きはじめる。
「……復讐したいですか?」それだけ尋ねた。
見開かれた瞳の奥に困惑が浮かぶ。彼の心に現れる闇を見逃さぬよう、私は目を光らせる。
またしばしの静寂。
「やめておきます」彼は実に爽やかにそう言い切った。
「なぜ?」
「人を許すのに理由がいります?」
「あるのでしょう?」
「………はい」
頬をじんわりと赤らめ、彼は
分かりましたよ言いますよ、と諦めのため息を吐き、彼はぼそりと呟いた。
「山本君が謝るなんて、夢にも思いませんでした」
しっとりとした声音は笑みを含んでいて、私は何が何だか分からなくなる。「なぜですか」
「なぜ許せるのですか。私ならとても」
「もういいんです」
私はその言葉に一筋の嘘偽りも読み取ることが出来なかった。
西の空には残照が
窓際は斜陽で赤く染まっていて、そこに立つ彼の体は血まみれ、穏やかな笑顔はどこか凄絶なものに感じられた。
「何が貴方をこの世に留めているのですか?」
去り際に私は尋ねている。
「……どうしてそんなことを聞くんですか?」
上手に笑顔を繕って彼は問い返す。言いたくないとその表情が語っていた。
無理に言う必要はないと伝えようとして、
「馬鹿馬鹿しいですよ?」と彼が言った。
教えてくれる気になったようで、私は開きかけた口を
「笑わないでくださいね?」
「笑うものですか」
私の思いのほか真剣な口調に彼は一瞬きょとんとして、それからふっと息を吐く。
「初めてなんです、花束もらったの」
僕から見ても不格好ですけど、と付け足して彼は花束を抱く。
その笑顔ははどうみても作り笑いではなかった。
「それでは、あなたが未練を断ち切った
ゆっくりと会釈をし、一歩後ずさった。
彼は窓の桟で腕を組み、外を見ているようだ。
赤と濃紺が混ざり合う空の下、目前に広がる運動場は塗り潰されるように暗さを増し、学校の敷地沿いの街灯に光がともり、自動販売機が目立つ。
蝉は最後の力を振り絞り、鈴虫がそれに加わる。窓際を除いた教室内は夕陽の影となり、だらりと垂れ下がったカーテンに動く気配はない。
夜が刻々と迫っている。
「……まだいますか」
「……ええ」
振り返った彼の顔は逆光で暗く、表情は
ひゅうと音がして、花瓶の菊がくるりと向きを変え、花束がかさかさと鳴る。
「その花束、山本君がくれたんです」
彼はきっと穏やかに笑っていたのだろう。
夜が明ける。東の空が白み、空が青く明るく塗り替えられていくにつれ、町に、皆の心にも希望があふれていくような、そんな感覚を覚える。
彼は今日もその窓際に佇んでいる。開け放たれた窓にくっつくようにして、階下に広がる運動場か、近くて遠い大空か、もしくは虚空だろうか、とにかく、見つめている。職員室を除いて無人の校内はしんと静まり返っていて、廊下側の窓の外の街路樹では蝉が鳴き始めている。
晴れやかな光景を眺めながら、彼は一体何を考えているのか。
風化したビニールで束ねられた枯れかけの花束と、一輪の菊が生けられた小さな花瓶が、彼の近くの机に置かれている。
太陽が昇れば昇るほど、その日差しは強さを増していく。
やがて彼の佇む窓際にも、肌を焦がすような陽光が降り注ぐ。
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