比企谷八幡のある一日。
「お兄ちゃん、これはないよ……」
がたがたと扇風機が音を立てて首を降っている。
日に焼け、色褪せた原稿用紙を見ながら、小町はその扇風機と同じ速度で首を振った。
小学生や中学生が、夏休みの宿題で必ずぶち当たるであろう、読書感想文。
我が妹の小町は、俺の読書感想文を参考にしてパパっと終わらせようと思ったらしい。だが、よくよく考えれば、今の捻くれた性格になった要因でもある中学生の時に書いた作文なんて、今見ればただただ黒歴史でしかない。なんだよこれ、ソースは夏目漱石って。本の内容を要約するのに中身のセリフ抜き取っちゃダメでしょ。
うんうん唸っている小町を眺めながら、俺はキンキンに冷えたMAXコーヒーを飲んだ。やはりこの甘みがなければやってられない。MAXコーヒー最高。
「なあ、普通の作文じゃダメなのか?」
「えー?」
テーブルの上に広げられている幾多のテキスト類。その中に埋もれていた「中学三年生夏休みの課題」と印字されたプリントを手にした。
「読書感想文か『税についての作文』って書いてあるし」
読書感想文が苦手な子は本を読むのが苦手だ。普段から本を読まないし、メール以外では文章を書くことはほとんどない。
そういう小町からしてみれば、普通の作文のほうがいくらかハードルは低いはずだ。
「いやー、税っていわれても小町わかんないし……」
「ちょい待ち。確か俺も書いた覚えが……」
と、そこで立ち止まる。同じ中学時代の作文だから結局似たような作風になっている気がする。多分『リア充累進課税制度を導入すべき』とか余りにもふざけた事書いていたんじゃなかろうか。
今あいつに見られたら「マジウケるー!」とか言われそう。いや絶対言われる。万が一の為に
、作文も読書感想文も奥深くに閉まっておこう。
小町はどちらの作文も当てにならないことが分かり、ため息をつく。
「はぁ……、受験勉強もあるのに……。これじゃ休み明けの模試に間に合わないよっ!」
「そういうのは普段からの積み重ねだからなぁ」
こんな小町だが、受験生なのである。
確認するまでもなく、俺の妹は馬鹿だ。とびきりエッセンシャルにスパークリング馬鹿だ。そんな小町が受けようとしている高校は、今俺たちが通っている総武高校だ。
「しかし、えらく高望みしたもんだな。成績だって百位前後うろちょろしてるんだろ?」
「だって、お兄ちゃんと同じ高校行きたいもん。腐ったお兄ちゃんと小町を比較して、相対的に小町の評価を高くする算段!」
「……あそう」
うるっと来ると思ったのに、志望動機が最低だった。
六月のイベントの時も思ったが、マジでこいつは悪女なんじゃなかろうか。それでも可愛いけど!小町は宇宙一の妹!
仕方ない、こんな妹のために「こころ」を持ってくるか。
俺は本棚へ向かうと、「こころ」を探す。確か新装版になった時、有名な漫画家が表紙を描くだけで売り上げが良くなったらしい。ホントにラノベは見た目が九割。
とりあえず「こころ」を手に取り、小町へ差し出した。
「ほれ、一応読んでから書け」
そう言って渡すと、小町はむーっと唸りながら読み始めた。それを確認して俺は外出の準備をする。
この前みたいに意味もなく外に行く訳では無い。小町の自由研究に使えそうな書籍を探しに行き、ついでに頑張ったご褒美としてスイーツくらいは買っていってやろうという、俺なりの優しさだ。
だから頑張れ、小町。
********
やはり真夏は暑い。アスファルトから陽炎が立ち上っているくらいは暑い。
それにしても、海浜幕張は人が多い。
家族で団欒と歩いているのは別にいい。そんなのは当たり前のことだし、いちいち突っかかるつもりもない。
だが恋人と連れ立って歩いてるのは許せん!リア充っぷりを見せつけるのも、足がやけに遅いのもイライラを加速させる!
貴様らに足りないもの、それは速さだ!
と、まあそんな益体もないことを心の中で考えながら、俺はアウトレットモール、多様な専門店があるお買い物特化エリアへと足を踏み入れた。
涼しい……。やっぱ室内は外の熱気が遮断されて心地の良い場所だ。これはもう外には出ずにずっと部屋に引きこもってろってことでしょ?そうなんでしょ?
ふらふらと歩いていると、緑がかった蛍光色のジャージが視界に入った。あのジャージは俺が普段、体育の授業で着ているのと同じものだ。
さらさらと流れる綺麗な髪、白い手足。ラケットケースを背負った天使!
「とつコポォ」
言いかけた言葉がぐっと喉に詰まる。めちゃくちゃ変な声がでて近くにいた家族連れに奇怪な目で見られ、足早に歩き去っていく。
戸塚の後ろから大きく手を振りながら駆け寄ってくる人影。恐らくその男子は同じテニス部なのだろう。
……そうだよな、戸塚は俺と違って友達いるもんな。夏休みだし、部活があって当たり前だよな。
俺だけが仲がいいわけではない。小学校では誰も話しかけようとしなかったし、中学校では折本が親友だのなんだのやたら捲し立ててたけれど、それとこれとは別なわけで。
なんとかエスカレーターまで辿り着いて、俺は手すりにもたれかかった。
上っている途中、下ってくるエスカレーターに見知った顔を見つけた。真夏にコートを着る馬鹿は俺の知人では一人しかいない。
どうやら材木座はゲーセン仲間といるらしく、親しげに会話していた。あんな楽しそうなところを邪魔するのは悪いし、俺は材木座に気づかないふりをする。だが、すれ違う瞬間、材木座が目ざとく俺を発見し、一瞬目が合ってしまった。
「ぬ?」
「……ふぁ」
秘技、欠伸!「今欠伸しててそっちに気づいていませんよー」と遠回しにアピール。欠伸はいいぞ?目を自然に瞑るし、耳も何故かジーンとなって少しの間周りの音が入りにくくなる。
華麗にスルーをし、後ろからはちまーんと聞こえてくるのをまたもや欠伸で聞こえないふりをして無事三階に到着する。そのまま人の流れに沿うように書店へ突入した。
自由研究用の本を買うついでに、赤本を買っておくのもいいかもしれない。学力を計るのでいえば割と理にかなっていると思うしな、赤本。
チラッと覗いてみると、そこには俺の見知った顔があった。
青みがかった黒髪を持つ特徴的な女子。あー……名前なんだっけ。えーと………、あ、そうだ、大志の姉貴の川崎か。川なんとかさんだ。
川なんとかさんは複数の種類の赤本をペラペラとめくっていたのだが、お気に召したのか、その中から一つ選び、既に持っていた他の本と共に持ってレジへと向かった。
ほーん、あの様子からして頑張っているみたいだな、勉強。さしずめ、スカラシップ狙いも兼ねているところか。ここの近くの予備校もそういった制度があるしな。
なんてことを思いながらふと動物系の本のコーナーへ視線を向けると、これまた見知った顔が。
その女の子は最上段にある本を手に取ろうと精一杯背伸びしているが、僅かに届かないらしい。
可愛いなぁ……。
どうにか頑張っている姿を見ているとホッコリするが、この状況で黙って見ているだけなのはよろしくない。主に俺の心臓が。
彼女の背後から、俺の身長ならひょいと取れるその本を手に取った。
「これでいいのか?」
「っ!は、八幡?いつから……」
「ついさっき。俺もここに用があってな」
彼女が取ろうとした本は可愛らしい猫の写真がたくさん載っている本。ホント、こういうのに目がないよな、雪乃って。
日焼け対策なのか肩にカーディガンを羽織り、スカートの中にはレギンス。そして腕時計やバッグなどの小物類が上品に纏め上げられているのが今日の雪乃の服装。
つい先日平塚先生との会話があっただけに、少々顔を合わせるのが恥ずかしい。
「……?顔赤いけど、大丈夫かしら?」
「え?あ、ああ、大丈夫だ。気にしないでくれ」
っぶねぇ。何考えてるかバレたらたまったもんじゃないぞ。
雪乃は俺から本を受け取った。キラキラという擬音がつくくらい輝いた目をしている。
「本、ありがとう。また今度遊びに行くわね」
「おう、いつでも来いよ」
これが雪乃との基本的な外でのやりとり。ちなみに遊びに行くと言われたら必ず一週間以内にはやってくる。律儀だなぁ。
俺に感謝をして雪乃はレジへ向かっていく。それを見送って、俺も理科系の本が置いてある場所へ移動した。
********
建物から出て、俺は再び太陽の光に晒される。日は傾き始めているものの、まだまだ暑い。早く帰って涼しい部屋で布団にくるまりたい。いやマジで布団は凄い。簡単に眠気を誘ってくるし。
「あれ、ヒッキー?」
そんな妄想にうつつを抜かしていると、背後から声がかけられた。俺をヒッキーなんて呼ぶ奴は知り合いに一人しかいない。簡単に俺の思考に入り込んでくるのだから、よく通る声だと思う。
由比ヶ浜結衣だ。彼女はいつものお団子ヘアに、黒のキャミソール、透かし編みの白カーディガンとホットパンツ、足もとはグラディエーターサンダルとしっかり夏仕様になっている。
「おう」
「うん、久しぶりー」
なんというか、今日は知り合いによく会うな……。
一緒に遊んでいたのだろうか、由比ヶ浜の後ろから顔を出してきた奴がいる。三浦優美子。俺が心の中で獄炎の女王と呼んでいる、総武高校のほぼ全ての男子が恐れを抱く存在。
「んだ、ヒキオじゃん」
んー、二文字しか合ってねぇ……。まだヒキタニくんの方が近いぞ。どっちも違うけど。
「ユイー。あーし、海老名に電話してるからー」
そう言うと、由比ヶ浜の返事を待たずに三浦はその場から数歩離れた日陰のほうへと入る。
三浦が壁にもたれかかって電話を始めると、それを確認したように由比ヶ浜は口を開いた。
「どしたの?買い物?」
「まあ、そんなところだ」
俺は何冊か本の入った手提げ袋をそっと上に持ち上げる。
「そーなんだ、誰かと遊びに行ったりしないの?ゆきのんとか」
「特にこれといって予定は無いな」
「え?なんで?ヒッキーならゆきのんとなら喜んで遊びに行きそうだけど」
俺をどんな奴だと思ってるんだこいつ…。俺は誘われない限り相手が誰であろうと外には出ないぞ。……自分で言ってて悲しくなる。
「夏休みは休むための休みだ。暑さから身を守るために夏休みはある。本質的な観点から考えて、外に出ない俺はある意味正しい」
「何言ってんの?」
心底侮蔑したような目で由比ヶ浜は見てきた。やめて!そんな目で俺を見ないで!
「ていうか、ヒッキー夏生まれなのに夏苦手なの?」
由比ヶ浜に問われ、俺はそっと口もとに手を当ててやや体勢を引き気味に答える。
「……なぜ私が夏生まれだと知っているのかしら。教えた記憶が無いのだけれど」
「なにそれ!?ゆきのんの真似!?すごい似てるし!」
由比ヶ浜は思いっきり爆笑しているが、今この場に雪乃がいたらさすがの俺も怒られる気がする。
けど、似てたか。昔から声真似頑張ってたからちょっと嬉しい。
「つーか、マジでなんで知ってんだ?」
「いや、こないだ教えてくれたじゃん」
こないだ?……ああ、あれか、由比ヶ浜の誕生日の時か。そういえば教えた記憶がある。すっかり忘れてた。
「そうだ、今度みんなで遊びに行こうよ。ゆきのんとか小町ちゃんとかさいちゃんとかとさ」
あちゃー、材木座さん仕分けられちゃったかー。あいつ、一応奉仕部に来てる数一番多いんだよな。何回もあのレベルの小説を持ってこないでほしい。
でもまあ、そういうわけで仕分けられるのは当然の結果だな。俺もいの一番にそこ切るし。
「別にいいけど。まあ、そのうち適当に連絡くれ」
「うん、分かった!」
そう言うと由比ヶ浜はきびすを返して、三浦のもとへと駆け寄っていった。退屈そのものという表情の三浦は不機嫌そうだったが、由比ヶ浜が両手を合わせて謝るといくらか持ち直したようだ。冗談めかして由比ヶ浜の頭を軽く突きながら二人して歩き始めた。
俺はそれを見届けてから家路へとつく。
小学生の頃の俺に、こうやって遊びに誘ってくれる女の子の友達ができたと言ったら、信じてもらえるだろうか。茜色に染まった入道雲を見て思う。
過去を変えることはできない。でも、未来は変えられる。誰かが、そんな言葉を発していたのを思い出す。
俺も過去ばかりに囚われず、未来を変える時期かもしれない。
涼しい風が吹き始めた。藍色と茜色と入り混じる黄昏時。その境目を見極めるには、もうしばらく時間がかかりそうだ。