彼の下には妹と名乗る美少女が数日おきにやってきてはお供えをしていく。そんなある日、地縛霊の噂を聞きつけた二人組が少年を除霊しようとやってきて……。
そんな彼をめぐる不可思議な物語。
『地縛霊』
自分が死んだことを受け入れられなかったり、自分が死んだことを理解できなかったりして、死亡した時にいた土地や建物などから離れずにいるとされる霊のこと。 あるいは、その土地に特別な理由を有して宿っているとされる死霊。
以上、某ネット百科事典からの引用である。
そして、ここにもまた地縛霊として佇む幽体が一匹。
「……平和だ」
車通りが多い幹線道路。その路肩に少年は一人で佇んでいた。何をするでもない、ただのほほんと呑気に長閑にのんびり漂っているだけ。そんな彼に通り過ぎる車のドライバーはもちろん、歩道を歩く通行人も誰一人として見向きもしない。いや、稀に驚いたように少年を視る存在もいるのだが、そういう人はすぐに視線を逸らして離れて行ってしまうので、少年自身が気づくことはなかった。
「しっかし、まあ、あれだな。なってみて分かったけど」
若干黄昏たように遠い目をした少年はぼやくように言葉をこぼす。
「……幽霊って案外暇だわ」
これは、ある日突然地縛霊となってしまった少年をめぐる不可思議な物語。
* * *
結構な速度で右から左へと通過していく自動車を何台も見送りながら、少年は呆けたような声を上げる。
「……は?」
気がついたら路肩に立ち尽くしている自分。なぜ、どうしてと疑問を抱き、そして愕然とする。自分が先ほどまで何処で何をしていたのか、そもそも自分が何者なのか、それすら思い出せなかったからだ。
「これが、記憶喪失ってやつなのか?」
混乱する頭を必死に働かせ、どうにか現状を把握しようとする少年。とりあえず、このまま路肩に突っ立っているのも危険だろうと判断し、すぐ脇の歩道側へ退避しようとして、彼はピシリと音を立てるようにして固まった。
「なんだよ、これ……」
茫然と呟く少年の視線の先。歩道へと移動するために一歩踏み出そうとした右足、正確にはその足先があるはずの位置を少年はジッと見つめたまま動けずにいた。
「俺の足が……ない?」
まるで周囲の風景へ溶け込むように脛の中ほどから消失している足先。それだけではない。よくよく見てみれば、足が、胴体が、両腕が、薄っすらと透けている。そして、トドメとばかりに自分の足元の路肩に供えられた献花を見て、彼はいまの自分がどういう存在であるかを悟った。
「気がついたら地縛霊だった件」
どこか他人事のような少年の感想は、気持ちの良いくらいに晴れ渡った四月の空へと吸い込まれるようにして消えていった。
* * *
そんなこんなで地縛霊歴一ヶ月の少年。
「スマホでもあれば、いくらでも時間を潰せたりできるんだろうけどなぁ……」
溜息まじりに空を見上げてみるが、当然空からスマートフォンが降ってくるなんて異常気象がある訳もなく、少年は今日も今日とてぼんやりと路肩に佇むばかり。
自分が地縛霊になってしまったと自覚してから最初の数日こそ戸惑い、悩み、落ち込んだりしたものの、幽体となってしまったからか、それとも生来の性格だったのか、今ではもう開き直ってしまっている。
あれから何度思い出そうとしても、自分が何者だったのかについては杳として知れない。自らが着ている如何にも学生然としたブレザータイプの制服から、自分が学生だったのだろうということは推測できたものの、そこから先は迷宮入りだった。せめて生徒手帳やスマホ、財布でも持っていればと思いポケットを弄ってみたものの、収穫は皆無。数学Ⅰ程度の知識はあったので、高校生ぐらいだったのではと少年は当たりを付けている。
そう、不思議なことに記憶はないが知識はあったのだ。一般常識や国語、数学、歴史といった大よそ学校で習うような知識はある。けれど、それをどうやって学んだのかは思い出せない。通っていた学校、勉強を教えてくれた先生、一緒に学んだはずのクラスメイト、そう言ったものが記憶からすっぱり抜け落ちていた。
唯一、少年が自分のことで知っていることと言えば──
「……お兄ちゃん。お花、持ってきたよ」
自分には妹(仮)がいるらしい、ということ。
「あとこれ。今日は家庭科の授業があってね。クッキー作ったんだ。本当はダメなんだけど、少し持ってきたから一緒にお供えするね」
そう言って、少女はスカートのポケットからハンカチに包んだクッキーを取り出して、新しい献花と共に添える。
「おー、美味しそう。あんがとなー」
「……」
少年が眼前でしゃがみ込み、静かに手を合わせている少女へと礼を言うが、当然ながらその声は届かない。しかし、そんなことは気にせず、少年は感謝の気持ちを目の前の少女へと伝える。
彼が初めてこの少女と出会ったのは、地縛霊となってようやく困惑から抜け出しかけた三日目のことだった。夕日に照らされて輝く長い黒髪を側頭部でアップにして垂らした髪型の少女は、学校帰りらしいセーラー服姿で、お供え用の花を持って現れたのだ。
日本全国に増殖するフォーティエイトなアイドルなんて目じゃない美少女の登場に、少年は地縛霊だと自覚したとき以上に狼狽えた。更には、その子の口から『お兄ちゃん』なんて創作物の中でしか聞いたことが無いような単語が飛び出してきたものだから少年の胸はドクンと高鳴り、挙句の果てには心臓が止まるんじゃないかと心配になるほど驚いた。それはもう驚いた。幽体になっても心臓が動いているのかどうかは知らないが。
数日おきにやってきては、お供えを交換して祈りを捧げていく謎の少女。
こんな美少女と兄妹だったとか俺絶対に勝ち組じゃん。と少年は有頂天となって舞い上がったものの、直後にその甘美なはずの記憶は一切なく、それどころか少女の名前も知らず、何なら本当に血縁関係なのかどうかも覚えていない自分に気がついて、少年は軽く絶望したりした。
しかし、それも健気にお供えを持ってきては少年の冥福を祈って手を合わせてくれる少女の姿にどうでもよくなったらしい。最近ではお兄ちゃん風を吹かせてシスコンを爆発させている少年である。
「じゃあ、そろそろ帰るね。また来るから、またね、お兄ちゃん」
「おう。気をつけて帰れよ。いつも、ありがとな。妹ちゃん」
そんな噛み合っているようで、まったく通じていない一方通行な会話を交わしながら、今日も二人は別れる。妹は自宅があると思われる方向へ、兄は一人寂しく地縛霊としてその場に留まったまま……。
この場所が、夜になると数日おきに若い男性のすすり泣く声が聞こえる心霊スポットとして話題になっていると少年が知るのは、もう少し先の話である。
* * *
自分の事についてはさっぱり分からない少年であったが、死因については見当がついていたりする。
交通量の多い車道の路肩、そこに供えられた献花、時折歩道を通り過ぎる少年と同じ制服を着た高校生たち。これだけの状況証拠が揃っていれば推測することは容易だった。おそらく、通学途中で交通事故にでも遭ったのだろう。これが千葉県をこよなく愛する捻くれぼっち野郎なら事故を切っ掛けに個性豊かな美少女たちとの青春ラブコメが幕を開けたのかもしれないが、残念ながら少年の場合は青春どころか人生の幕を閉じてしまったらしい。現実とは非情である。
だがしかし、神様的な存在は少年を見離してはいなかった。その日、相も変わらず、路肩に漂いながらぬぼーっとしていた少年の下に、家族らしい妹ちゃん以外では初となるお客さんがやってきたのだ。しかも女の子。それも二人。
少年は期待した。彼女たちと自分の関係が恋仲なのか、友人なのか、それとも単なる知人なのかは分からないけれど、わざわざ事故現場まで出向いてきたということは、最低でも知り合いである可能性が高いのではないだろうか。それなら、自分の名前ぐらいは判明するかもしれない。そんな期待と不安に胸を膨らませ、ドキドキとあるはずもない心臓の鼓動を感じたような気分になっている少年に冷や水を浴びせるように響き渡る大きな声。
「悪霊退散!!」
開口一番、そんなことを叫ぶのは高校生くらいの少女だった。茶髪に染めあげられた髪をうなじ辺りで両サイドからおさげにしたヘアスタイル、美人と言うよりは可愛らしいという印象の顔立ち、不敵な笑みを浮かべる唇は薄く、勝ち気そうにつり上がる眉とは対照的に若干垂れ目気味な目元、右目の下にある泣きぼくろがアクセントで実にチャーミング。だがしかし、注目すべきはそこではなかった。クラスにいたら三番目くらいに人気がありそうな顔立ち、それを全力をぶち壊しにして余り有る珍妙な格好。
首に下げられた銀の十字架と多種多様な神社仏閣のお守り、両の手首には数多の数珠をぶらさげて、左の手には玉串を、右の手には聖書を持った出で立ちの美少女。端的に言ってヤベェ奴である。
「……」
突然の事態に閉口し、茫然としてしまっている少年を尻目に、残念美少女はズビシと指を突き付けるようなポーズで何やら決め台詞のようなものを吐いてみせた。
「惚けたって無駄よ! そこにイるのは分かってるんだから!!」
少年がいる場所とは別の、誰もいない空間を指差しながら……。
「……」
「ふふん。ワタシの霊力を目の当たりにして怯えているようね? だけど、今更か弱い振りをしても無駄よ、この悪霊め!」
「あ、あのぉ……。部長、そのぉ……」
なんかヤバそうな奴がきた……。と戦慄している少年を置いてけぼりにして、一人で盛り上がる少女。そして、そんな少女におずおずと話しかけるもう一人の女の子。
こちらは至って普通……というより、地味な感じな少女だった。長い黒髪で目元を隠し、肩口で切り揃えたような髪型。体格も華奢で小柄であり、着ている制服がこの近辺の高校のものでなければ中学生、下手したら小学生と勘違いされてしまいそうな儚げな女の子だった。
「安心しなさい! このワタシが付いてるから、悪霊なんて怖くないわよ!!」
「いえ、そういうことじゃなくてぇ……。ううぅ……。違うんです……」
「え、違う? 違うってなにが?」
「……部長。幽霊はそっちじゃなくて、こっちです」
そう言って、地味な方の少女がおずおずと少年がいる方向を指差し、辺りを微妙な沈黙が包み込んだ。
部長と呼ばれた少女は気まずさから、少年の位置を指摘した少女は居た堪れなさから、しっかりと自分を見据えて指差された少年は驚愕から、三者三様の理由から口を閉ざしたのだ。
「……ふふふ」
「あ、あの、部長……?」
「ふははは! と、とーぜん、知ってたわよ! 知ってましたとも!! 今のは、新入部員たるアナタのことを試したのよ!!!」
額にびっしりと冷や汗をかいた残念少女が取り繕うような笑みをみせ、慌てたように地味少女が指差した方へと向き直る。
その様子に、少年の方は「あ、こいつ絶対に俺のこと視えてないわ」と確信した。しかし、それが油断だったのかもしれない。
「世間を騒がせる悪霊め! 今日こそ年貢の納め時! 除霊部部長の名にかけて、貴様を除霊する!!」
「っ……!」
「ハァッ!!」
突如として気勢を上げ、自称除霊部部長こと部長ちゃんがどこから取り出したのか仏教の経典のようなものを握りしめて少年がいるであろう辺りに拳を突き出したのだ。
「っ……」
「……どう? 除霊できた!?」
「い、いえ。まだそこにいますけど……」
「くっ! しぶとい!!」
一瞬ビクリと身構えた少年であったが、特にこれといった影響は無いようだった。
どうやら彼女は寺生まれでもイニシャルがTでも無かったらしい。なんとなく可哀相なものを見る目の少年に気付くこともなく、部長ちゃんは胸の前で両の掌を合わせて合掌し、今度はブツブツとお経を唱え出す。
「仏説・摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色──」
さすがにこれは効くかもと、慌てて耳を塞ごうとした少年だったが、これで成仏できるならそれはそれでいいかと思い直し、少女が唱える般若心経に耳を傾ける。
しかし、待てど暮らせど一向に昇天する気配がない。なんならダメージもゼロである。そして少年は気付く、さっきから聞こえてくるお経の声音が妙に野太く低いことに。それはまるで壮年の男性が読経しているような……。そこまで考えて、少年は声の発生源である残念少女の口元……からやや下に視線を向け、合掌した掌の間に挟むカタチで持たれたスマートフォンを見てすべてを察した。
「……どう? さすがの悪霊も成仏した!?」
「え? いえ、その、まったく効いてないみたいなんですけど……。そもそも、録音したやつじゃ効果とかないんじゃ……?」
「あんな長ったらしいもの覚えてらんないわよ! それに、そろそろオカルト業界にもIT化の波がきて然るべきだわ。というわけで、次は祝詞を試してみましょう」
そう言って部長ちゃんは戸惑う部員ちゃんに構うことなくスマートフォンを操作して神道の祝詞をスピーカーから響かせる。その後も宗派別のお経や教会で歌われるような讃美歌、果ては何語だか分からない祈りの言葉のようなものまで流してみるが、どれも少年にとってはただの雑音だった。
「ど、どうやらかなり強力な悪霊のようね」
「そういう問題なんでしょうか……?」
「でも安心して、ワタシにはまだ秘密兵器があるから!」
不安げというか、不審げな眼差しの部員ちゃんには取り合うことなく、彼女は自分のスクールバッグをガサゴソと漁り、目当てのモノを見つけると少年がいる方角へと向き直った。
少女は勢いよく手にもったモノの包装を破き、右手を突っ込んで中身を鷲掴みにして振りかぶる。
「は・○・た・の・塩っ!」
CMで流れるキャッチフレーズを口遊みながら、部長ちゃんは少年が佇む辺りへと盛大に塩をぶちまけた。
「……やったか!?」
「やってません。部長」
「この役に立たず! 普通のお塩より割高のクセして!!」
製造元が聞いたらブチ切れそうな風評被害を叫びながら、部長ちゃんは残りの塩を丸ごと地面へと投げ捨てた。
「……」
「まだよ! まだ終わらないわ!!」
「あ、あの……部長。もう帰りませんか? 幽霊さんも何だか迷惑そうですよぉ」
盛り塩とかならまだしも、自分のための献花の周りに塩をぶちまけられて不快そうな様子をみせる少年。さすがに申し訳なく思ったのか、部員ちゃんが部長ちゃんを諌めようとするが、彼女はむしろその言葉に勢いづく。
「つまり、ワタシの除霊が効いてるってわけね! なら畳み掛けるわよ!!」
そこからは怒涛の勢いだった。
九字切りから始まり、お祓い用のお札をばら撒き、ニンニクや銀製の食器を投げつけ、パワーストーンや水晶に怪しげな壺を設置し、終いには鹿の首(剥製)を恭しく頭上に掲げ「鎮まりたまへー」とかやりだした。
その間、少年は「それ除霊じゃなくね?」と首を傾げながらも、死んだような目で大人しくされるがままになっていた。少年が大人しくしている理由としては、どう対応していいか分からない戸惑いが三割、どう対応しても悪化するかもという諦めが七割である。
「今度こそどう!?」
「……残念ですけど」
「ガッデム!」
それからも、あれやこれやと除霊グッズを試す部長ちゃんの頑張り虚しく、その全てが少年に何ら影響を及ぼすことなく徒労に終わる。
地面に両手をつき、項垂れる部長ちゃん。そんな彼女の姿にオロオロする部員ちゃん。そして、さすがに鬱陶しいな。もう帰ってくんないかな。と黄昏る少年。
「……」
諦めたように溜息を吐く少年だったが、少年と残念少女を交互に見ながら狼狽える小柄な少女を見て、ふと気付く。
これまでの言動から部員の方の少女が少年を視えていることは確実だろう。ならば、姿が視えるだけでなく、声も聴こえるのでは……? そんな考えが少年の頭を過り、思わず部員ちゃんへ声を掛けようとして、しかし、すぐに口を噤むこととなった。
少年の言葉を遮るように、横合いから少女たちへと声が掛けられたからだ。
「……なに、やってるんですか。あなたたち」
それは、とても低く、重い、そして何より、凍えるように冷たい声音だった。
「──ッ!」
この日、少年は地縛霊となってから初めて、背筋が凍るという体験をした。
まるでギギギっと音が鳴るようにぎこちない仕草で恐る恐る首を横に向け、少年は声の主を確かめ、そして思わず息を呑む。
「……ねえ」
「ひぃっ!?」
「なにやってるのかって、きいてるんですよ」
「ふえぇぇぇぇぇ!?」
サイドでまとめた長い黒髪を風に靡かせて、
どこか幼いながらも美しい顔立ちから表情を消し、
お供え用と思われる献花や線香、缶ジュース等が入ったビニール袋を強く、強く強く強く握りしめた少女。
「どういう、ことですか?」
以前は優しげに輝いていた瞳からは一切の光が消え失せ、まるで地獄の底から引きずり出したような声音で少女は問い掛ける。
彼女の目に映るのは、数日前に自分が供えた献花の周りに散乱する塩やお札に壺などの除霊グッズの数々。状況から推察することは容易。だから問い掛けるまでもない、けれど問い掛けずにはいられない。
「なにを、してたんですか」
「あ、あの、そのこれは……ちょっと悪霊を」
「ぶ、ぶぶぶ部長!?」
「……あくりょう?」
「「 ひょわっ!? 」」
部長は思う、悪霊なんかよりこっちの方がよっぽど怖い、と。
部員は嘆く、どうしよう本気で漏らしそう、と。
そんな中、少年は達観したような眼差しで事の推移を見守っていた。
「……」
少年は悟る、ご近所さんが増えるかもしれない、と。
「つまり、うちの兄が悪霊になったからお祓いをしていた、と言いたいんですか」
「え? 兄って……」
「そ、そうそうそうそうですとも! あくまでワタシたちは善意で除霊を……」
「ぶち殺しますよ?」
「……ごめんなさい」
ハイライトの消えた瞳で睨まれ、必死に言い訳を述べようとしていた部長ちゃんが消え入りそうな声で謝罪した。
「そんな子どもの遊びみたいな理由で、兄の……大事なお兄ちゃんの献花場所を滅茶苦茶にされた私の気持ちが分かりますか? ねぇ、分かりますか?」
「で、でも…悪霊が……」
「は?」
「ひぃぃぃ!? ずびばぜんでじたぁぁぁぁ」
無駄な抵抗を試みた部長ちゃんが、妹ちゃんからの威圧で即座に白旗を上げる。
そんな様を横で見ていた少年は、どうしたもんかと頭を抱える。確かにこの残念少女たちの行いは人として褒められたものではない。だがしかし、自分がここに地縛霊として存在しているのもまた事実。であれば、自分が悪霊かどうかはさて置いて、除霊という名目自体は間違ってはいないのではないか。まあ、目の前で泣き叫んでいる少女にその力は無かったようだが。
そのとき、少年は先ほど妹の登場で有耶無耶になっていた事を思い出す。この場にいるもう一人の少女のことだ。それも残念な方とは違い、本当に霊感を有していると思われる少女である。彼女を仲介役として妹と接触できれば、どうにかこの事態を収束させられるかもしれない。そこまで思い至った少年が改めて地味な少女へと声を掛けようとして、しかしそれはまたもや遮られることとなる。
「……あ、あのぉ、ちょっと待ってもらえませんか?」
「ごめんなさぁぁ……って、どうしたの?」
「いえ、あのそちらの方に少し質問があるんですけど」
「……なんですか?」
ビクビクと怯えるように声を掛けられて、不愉快げに眉をひそめる妹ちゃん。
その仕草にビクリと震えるものの、部員ちゃんは意を決して口を開いた。
「あの、あなた……誰なんですか?」
その質問に、問い掛けられた少女だけでなく、隣にいた部長ちゃんも、そして側にいた少年も固まる。
「どういう、意味でしょう?」
「あの、そのままの意味です。その、ここで亡くなった方と、あなたはどのような関係なんですか?」
「ええっ? いや、何言ってるのよ。さっきその子が自分で言ってたじゃない。『兄』って言ってたってことは、この子は妹なんでしょう?」
「違います」
「……いや、どうしてそこで君が否定しちゃうのさ」
「だって……」
それは少年も疑問だった。どうしてこの霊感地味少女がそんなことを質問するのか。そして、質問された本人ではなく、質問した側が『違う』と断言してしまっているのか。しかし、それは部員ちゃんが次に発した言葉で氷解する。
「──ここで亡くなった方は、一人っ子のはずですから」
重たい沈黙が、三人と一匹の幽体を包む。
「え、ちょ……ええっ!?」
「だ、だから、お聞きしてるんです。ここで亡くなった……そこの幽霊さんに妹はいません。なら、その方を兄と呼ぶ、あなたは誰なんですか?」
「待って待って! そもそも、なんでそんなこと知ってるの?」
「……」
慌てたように、戸惑うように、部長ちゃんが部員ちゃんに詰め寄る。そして、その間も問い掛けられた少女は俯き、不気味に押し黙ったままだった。
「……は?」
そしてまた、少年も混乱していた。妹だと思っていた存在が、妹ではなかった。確かに自分には記憶が無いが、この少女は自分のことを兄と呼び、そして熱心に供養してくれた。もしかしたら、実の妹ではない可能性だってあるだろう。従妹とか親戚の子だったり、あるいは近所の幼馴染とか、そういう可能性が絶対にないってわけじゃない。
しかし、ならそれを説明すればいい。なのに、彼の目の前にいる少女は沈黙したまま、口を開く様子がない。では、この少女はいったい誰なのか──
「その、一ヶ月ぐらい前の話です。私はここで交通事故に遭遇しました」
「え、それって……」
「車道脇を自転車で走っていた男の子が突然バランスを崩してしまって、車道側に倒れてしまったんです。ちょうどそこに車が走ってきて、そのとき偶々歩道を歩いてた私が助けに入ったんですけど」
「間に合わなくて、その男の子が地縛霊になっちゃったってこと?」
「違います」
震えるような声音で、地味な顔立ちの少女が否定する。
まるで何かを恐れるように、そして、怯えるかのように、それでも少女は言葉を紡ぐ。
「慌てて男の子を抱き起して、間一髪で路肩の方へ飛び込みましたから、二人とも車には轢かれずに無事だったんです」
「なら、ここにいる幽霊っていうのは別人?」
「私が助けた男の子で合ってます。事故を回避して、その後に亡くなってしまったんです」
「ど、どうしてよ!? 交通事故には遭わなかったんでしょ!」
「はい。でも、その後すぐに、通り魔に襲われて殺されました」
「……はぁ?」
ドクンと、動くはずもない心臓が跳ねた。少年はそんな感覚に襲われる。
自分は交通事故で死んだのではない。殺されたのだと語る目の前の少女を愕然と見遣りながら、少年は考える。ならば、何故自分は殺されたのか、誰に殺されたのか。ふつふつと、ドロドロと、不可思議で形容しがたいナニかが体の内から浸食するように広がっていく。
「最初に襲われたのは私でした。突然後ろから襲われて、髪を切り捨てられて……」
「あ、なら元々はもっと長かったの?」
「はい。腰ぐらいまで伸ばしてたんですけど、肩口ぐらいからバッサリ斬られてしまって、驚いて振り向いたら、帽子を目深に被って、サングラスとマスクをした人が包丁を持って立っていたんです」
「また如何にもな容姿ね、その犯人」
「それで、さらに襲われそうになったところを男の子が割って入ってくれて、くれたんですけど……。そのまま包丁で胸を刺されて」
「うわぁ……」
「犯人は男の子を刺したら、狂ったように笑い出して、すぐに逃げてしまいました。その後は救急車を呼んだり、警察に事情を聞かれたりして」
少女の話を聞いて、少年はふと自分の胸を視た。そして気付く、自分の胸に穴が空き、そこから溢れるように血が流れ出していることを……。
「救急車で運び込まれた病院を教えてもらって、お見舞いに行ったんですけど面会謝絶で……。そこの幽霊さんが一人っ子だっていうのも、そのときにご家族の方と会って教えてもらったことです」
「え、なら……」
「何回かお見舞いに行きましたけど、結局、男の子には会えないままでした。……けど、ある日、ここに幽霊さんがポツンと立ち尽くしていることに気が付いて、『ああ、助からなかったんだ』『これが地縛霊ってやつなのかもしれない』って思ったんです」
助けたつもりが助けられて、その相手は大怪我をして、いつの間にか地縛霊になっていた。
自分を庇った所為で人が死んだという現実が、華奢な少女の両肩に重く圧し掛かり、押し潰そうとする。
「どうしたらいいか分からなくて、こんなこと誰にも相談できなくて、そんなときにウチの学校に除霊に詳しい部活があるっていう話を思い出して、縋るような気持ちで除霊部に入部しました。私にできるのは、せめて少しでも早く成仏させてあげることぐらいだって思ったから」
「……」
そこまで話し終えると、部員ちゃんはぐしぐしと目尻に溜まった涙を袖で拭い、改めて妹と名乗る少女へと向き直る。
そして恐る恐る、しかしはっきりと気弱そうな少女は再び口を開いた。
「私だってすべてを知っている訳じゃないから、あ、あなたとこの幽霊さんの関係は分かりません。でも、これだけはハッキリと言えます。あなたはここで亡くなった方の妹さんでは、絶対にありません」
それまでの怯えた態度とは裏腹に、少女は毅然と事実を突き付け、そして少年を兄と呼ぶ少女は────
「あは、あは、あはははっはははきひゃくひぃくひゃひはははははは」
──狂ったように、笑い出した。
「ちょ、どうしたの!? ねえ、しっかり……」
「近付いちゃダメですっ!!」
「ふぇ……?」
突然豹変してしまった少女に驚き、心配し、部長ちゃんが宥めようと近寄ろうとして、その動きを部員ちゃんの大きな声が警める。
「その笑い声……」
「……え、嘘まさか」
「くふっ、きひ、ひひゃあははははは」
焦燥に顔を引き攣らせる少女を見て、部長ちゃんもようやく事態を把握し、頬を強張らせる。
「そう、また邪魔するんだ。また私とお兄ちゃんの邪魔をするんだね」
「な、何が……」
「本当なら私が助けるはずだったのに。私とお兄ちゃんは前世で結ばれた兄妹で、今世でも運命に導かれて一緒になるはずだったの」
「いやいやいや! なにそのお兄ちゃん退いてソイツ殺せないみたいな設定!?」
「でも、私が助ける前にあなたが邪魔したおかげで、私とお兄ちゃんの運命は交差しなかった。だから、邪魔者を消そうとしたのに、お兄ちゃんが邪魔して……」
瞳から光を失った少女は自分のスクールバッグに手を入れると、赤黒く染まった包丁を取り出してニタニタと笑う。
その光景に、対峙する二人の少女が小さな悲鳴を上げて後ずさった。
「な、なんで……」
「はい?」
「なんで自分が殺したのに、お花を供えたりしてるわけ? 贖罪のつもり?」
込み上げてくる恐怖を抑え込み、自らの後ろで震える後輩を守るために少女は考える。
この状況で逃げられるか? 否、背中を向けた途端に刺されるに決まってる。なら、この気が狂ったメンヘラ女を取り押さえる? 無理だ。自分にそんな力はない。それならば、この状況に気がついた人が警察に通報してくれることを信じて、時間稼ぎをするしかない。
「……贖罪? なに言ってるんですか?」
「なら、なんだっていうのよ」
「妹が兄を供養するなんて、当たり前じゃないですか」
「は? だって自分で殺したんでしょ!?」
「そうですよ? でもお兄ちゃんはきっと許してくれます。なぜなら私たち兄妹は前世から愛し合っているのですから」
「んなわけないでしょ!? なら、なんでソイツは今もそこで地縛霊なんてやってるのよ!!」
「地縛霊? お兄ちゃんは来世でまた私と巡り会うために輪廻転生の輪へと旅立ったのです。地縛霊なんているわけないでしょう?」
「いる! いるのよ、そこに!!」
「……あなた、頭大丈夫?」
「アンタに言われたかないわよっ!? だいたい「ひぃっ」ねぇ……って、どうしたの?」
そんな漫才のような押し問答を続ける二人だったが、その流れは唐突に上げられた小さな悲鳴によって断ち切られた。
部長ちゃんの背後で怯えていた少女が、真っ青な顔で震える指を少年がいるであろう位置に向ける。
「……す」
「え?」
「あ…りょ……です」
「ごめん。ちょっと声が小さくてよく聞き取れないんだけど、あ……なにって?」
「だ、だから…幽霊さんが……その、悪霊に……なりかけて、ます」
「へー、そう。そうなん……ええっ!?」
慌てて少女が指差す方へ視線を凝らすが、部長ちゃんの目には何も映らない。
けれど、自らの後ろで顔面蒼白になっている後輩の存在を思えば、本当のことなのかもしれない。そして、それを肯定するかのように次々と少女の周りを怪異が襲う。
少女がばら撒いた真っ白な塩が、どす黒く変色した。
少女が首から下げたお守りの紐が切れて落下し、手首に巻いた数珠は突然弾け飛んだ。
献花の周りに落ちていたお祓い用のお札が、じわじわと黒く染まり、やがて朽ちたようにボロボロとなって風とともに消え去った。
「ギャーーー! なになになにこれ怖い怖い怖い怖い怖い」
「ぶ、部長! は、ははは早くお祓いしてください! このままじゃ……このままじゃ本当に拙いですよ!!」
「むーりー! ワタシに霊能力とかないから! ただのオカルトオタクなだけだから! ワタシは雰囲気霊媒師なのー!!」
狼狽え、慌てふためく二人の少女を尻目に、包丁を握りしめた少女はつまらなさそうに息を吐き、忌々しそうな表情を浮かべて包丁を振りかざそうとする。
「……ふん。そんな子ども騙しで私を脅そうとしても無駄ですよ。さあ、邪魔者はさっさと消えて──ッ」
しかし、そんな少女の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
悪鬼のような表情の少年が叫ぶのと同時、ぐらりと、包丁を振りかぶった少女がバランスを崩してたたらを踏んだのだ。
「な、なに? なんなのいまの!?」
少女が転ばないように二歩三歩と、態勢を整えようとして踏み出した足がようやく止まる。……勢いよく走ってきた車が通る車道の上で。
「何やってるの! 早く逃げなさい!!」
そう声を掛けられ、慌てて逃げようとする少女だったが、しかしまるで底なし沼にでもハマってしまったかのように、その両足は重く、動かすことは叶わなかった。
「なんで!? どうして、足が……っ」
自らへと迫りくる鉄の塊に、少女が息を呑む。
「い…や……たすっ…おにい……っっっ! だれ…ダレか、誰か助けて!!」
甲高いスキール音を響かせて急ブレーキをかける車を茫然と見遣りながら、少女が涙をこぼして懇願し──、
「ダメぇぇぇえええええ!」
悲痛そうな声を上げた地味な女の子が車道へと飛び出した。
* * *
とある少女が人を刺した容疑で逮捕され、とある部活が路上で騒ぎを起こしたとして廃部に陥り、そして、とある少女はまた路肩にぽつんと漂う少年の下を訪れた。
「こんばんは、幽霊さん」
「……うん。久しぶりだね」
穏やかそうに微笑む少年に、少女は静かに微笑んだ。
「もう、警察での話は終わったの?」
「はい。幽霊さんのことは信じてもらえないだろうから、部長と口裏合わせるのが大変でしたけど、あの女の子も罪を認めてくれたおかげで事情聴取はなんとかなりました」
「そっか……。ごめんね、迷惑かけちゃって」
「いえ、幽霊さんには二回も命を救ってもらいましたので」
「それはお互い様だけどね」
むず痒そうに苦笑した少年が何だか可笑しくて、長い前髪で目元を隠した少女はくすりと笑う。
それからいくつか他愛もない話でまた笑い合って、それもいつしか静かになって、少し離れた場所にある街灯の灯りが少女の姿だけを薄っすらと照らしだした。
「……」
「……」
なにやら悩ましげに眉尻を下げて押し黙る少女。
そんな少女の様子に、少年もまた困ったように口を噤む。
「……あの」
「うん」
やがて耐え兼ねたのか、少女は俯いた姿勢のまま少年へと語りかけた。
「これから私が言うことを、落ち着いて聞いてください」
「う、うん……」
少女の声音は、少し震えているようだった。
「今日、学校が終わってから、私はあなたが入院していた病院へ行ってきました」
「……」
少女の言葉を、その言葉の意味を、少年は訝しそうな顔で反芻する。
少年が地縛霊となって既に一ヶ月以上が経過しているのに、どうして今さら少女は病院を訪ねたのか。
「……幽霊さん」
少女は俯いていた顔を上げた。その拍子に目元を覆っていた前髪が左右に揺れて、隠れていた瞳に滲んだ涙が頬を伝う。
「──あなたは、まだ生きています」
ドクンと、少年は自分の胸が確かに鳴動したのを感じた。
「あの事件があった日からずっと、意識不明で眠ったままですけど、死んでなんかいなかったんです」
少女の上擦ったような声が耳に届くたび、少年の鼓動は大きく脈打ち、その力強さを増していく。
「……お願いです。帰って、きて…ください」
少年の胸の奥がドクドクと音を鳴らすのとリンクするように、少女の澄んだ瞳からポタポタと涙がこぼれて止まらない。
「わた…し…っ…は」
真実を伝えることが、すべて良い結果に繋がるとは限らない。
知らない方が幸せということは往々にしてあることだし、事実、事件の真相を知った少年は我を忘れて悪霊になりかけた。
「生きている…っ、あなたに会って、ちゃんとお礼を……言いたいですっ」
その様をすぐ近くで視ていた少女は、だからこそ不安でいっぱいだったのだろう。
生死の境を彷徨い、唯でさえ不安定な存在である少年。その少年が、自らの一言が決定打となってこの世から完全に消えてしまうかもしれない。そんな想像をしてしまって、少女は少年に真実を伝えることを躊躇して、苦悩し、それでも抑えきれなくて、すべては涙と一緒に言葉となって溢れ出した。
「だから、だから……っ、生きてください」
──目の前の少年と、直接会って、言葉を交わしてみたい。
──目の前の少年と、直接会って、手を取り合ってみたい。
そんなものは少女の我が儘で、単なるエゴなのかもしれない。もしくは、自分の所為で誰かが死んだという事実を認めたくないだけなのかもしれない。
「俺…は……」
けれど、たとえそれが少女の自分勝手な都合だったとしても、第三者からみたら単なる責任逃れなのだとしても────、
「俺も…」
もしも少年が、少女と同じような理由で生きることを望むのだとしたら────、
「──君と一緒に生きてみたい」
それはきっと、少年と少女にとっては些細なことであったに違いない。
「……約束、ですからね」
既に夜の帳が下りた時刻、誰もいない道端で、少女は
少年の幽霊が出るという噂を打ち消すように、一ヶ月以上も意識不明だったとある少年が目を覚ましたというニュースが世間を騒がせるのは、まだもう少しだけ先のおはなし。