やちいろは...いいぞ...
パンッ。
乾いた音が、張り詰めた空気を震わせた。
いろはの桜色の瞳にはやちよが映っていた。
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「おはようございます、やちよさん。起きてください。朝ですよ」
少し高めの声がまどろみの中のやちよを引きずりだした。窓から入ってくる日差しに目を細めながら、やちよはゆっくりと体を起こした。
「おはよう。いろは。」
そう短く挨拶してから桜色の頭を抱き寄せる。すんなりと腕の中に納まったその頭からはやちよがいつも使っているシャンプーと同じ匂いがした。
「シャワー浴びたの?」
「はいっ。だって今日は久しぶりのやちよさんとのデートの日ですから」
腕の中から聞こえてくるくぐもった声は、どうしようもなく嬉しい音でいっぱいだった。
「やちよさん。もうご飯の準備もできてますよ。早く食べましょう」
そういいながら体を引きはがして、今度はやちよの腕を引く。リビングへと自分を引っ張りながら、楽しそうにデートのプランを語る彼女の後姿を、やちよは見つめた。
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「やちよさん...!」
「ええ。この反応は魔女ね。」
買った服でいっぱいの紙袋の持ち手を握り締める。このような時でさえ、いやこのような時にこそ奴らは現れるのだ。悪態をつきたくなる気持ちを抑えつつ二人で魔力の痕跡をたどる。
「ここね」
そこはなんてことのない住宅街の一角だった。このまま放っておけば確実に何人かは犠牲になるだろう。いろはとのデートを邪魔されたが、やちよとてそれを看過する謂れはない。
「行きましょう、やちよさん」
二人同時に光をまとい、瞬時に変身すると、やちよは自らの槍で空間を切り裂いた。結界が現れ足を踏み入れる。
醜悪な結界だった。瘴気が濃く、いるだけでむかむかしてくる。いろはを振り返ると、いつもよりも幾分か青白い顔がやちよを見ていた。
「やちよさん...私、この結界、嫌です」
やちよよりも魔力の影響を受けやすい体質であるいろはは、よほど気持ち悪いのだろう。
「...私一人でも大丈夫だから。いろはは外で待っていて」
言ってもどうせ聞かないとは思いつつもいろはに指示を飛ばす。
「ついていきます」
...やっぱり。いろははいつも頑固なのだ。一度決めると梃子でも動かない。何を言っても聞かないのだ。
「危なくなったら絶対に逃げるのよ。分かった?」
「はいっ」
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気づいた時にはもう遅かった。トラックに撥ねられたような鈍く重い衝撃が、いろはの華奢な身体を背中から胸へと突き抜けた。完全な不意打ちだった。いろはの体は大きく吹き飛び魔女の一部で構成された壁にたたきつけられた。
「いろは!...くっ!」
吹き飛ばされたいろはを助けようと行動に移そうとするが、そこへ無慈悲に魔女の攻撃が飛んで来る。
「やち...っ、さ、ん、」
とぎれとぎれの声が聞こえてくる。
なんでこんな時に。鶴乃かフェリシアか二葉さんがいれば。別の魔法少女がいれば。
...今考えるべきことはそうじゃない。今はどうすればいろはを救えるか。それだけを考えろ。
絶望的な状況だった。狡猾な魔女は二人を最深部へと招き入れると、自身の巨大な体を使って完全な密室に二人を閉じ込めてしまった。この状況を脱するには魔女を殺すしか方法はなかった。
何とか魔女の攻撃をいなし、いろはのもとへたどり着く。
「やちよ、さん」
「大丈夫。大丈夫だから。」
いろはを安心させようと言った言葉が、自分にも返ってくる。
そう大丈夫。
「いろは、ごめんね。すぐに戻ってくるから」
そう言い残して、いろはの元を離れる。
自分を、やちよを映した眼が、やちよを信じたいろはの双眸が、脳に焼き付いていた。
いろは、ごめんね
魂を燃やした
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魔女へと向かっていくやちよの後姿を、自分を置いていこうとするやちよの姿を、いろはは、見た。
信じたくなかった。
絶望が彼女を襲った
でも諦めたくなかった
諦められなかった
眼をふさぐことも耳をふさぐこともなくて
黙っていることなんて到底できなくて
だからただ名前を呼んだ
それは現れた
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いろはの半身は魔女だったものを一瞥すると消えた。
いろはは冷えたコンクリートの上に倒れているやちよを見た。足をもつれさせながら、浅く呼吸しながらやちよのもとへ駆ける。
彼女の魂は無事だった。しかし最期の一撃に魔力を使ったせいで穢れて、濁っていた。
「やちよさん!」
返事はなかった。
「ねぇ。やちよさん。返事してよ。」
神浜なら、グリーフシードがなくても。だから。やちよさんも。大丈夫。
魔力を流し込んだ。濁流のようにやちよの体にいろはの力が駆け巡る。
「ねぇ。やちよさん。ねぇ。ねぇ...起きてよ。返事してよ。ごめんねじゃないよ。謝るくらいなら自分も生きてよ。ねぇやちよさん。ひどいよ」
魔力を流し込む。いろはのソウルジェムは濁っていくが、まるで気にしていなかった。もはややちよしか彼女の目には映っていなかった。
魔力を流し込む。ただ祈りを込めて。生きる願いを込めて。奇跡を信じて。
「死なないで」
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安心するような、懐かしいような不思議な感覚が確かにある。温かい流れを感じる。
声が聞こえた。良く知っている声。自分を呼ぶ声。奇麗なその声。
目を、開けた。
「やちよ、さ、ん...」
柔らかい街灯の光に照らされた愛しいその顔を見た。
「いろは」
「やちよ、さん。よかった...本当に...し、しんじゃう、かと、おもって」
肩を震わせて、絞り出した声は掠れていた。
「いろは...ごめんなさ
パンッ。
まずは頬に痛みが。遅れて脳が頬をぶたれたことを理解する。
いろはのうるんだ瞳には間抜けな顔をした自分が映っていた。
「謝罪なんて、謝罪なんていりません!自分がどれほどのことをしたか分かってるんですか!?どうして簡単に死のうとするんですか!?どうして一人で勝手に行こうとするんですか!?いつもいつもいつもいつも、いつも!!!!やちよさんは!!!!」
「......生きてよ。何が何でも生きてよ。最期まで生きることをあきらめないで。自分だけの命じゃないんですよ。あなたを大事に思ってる人がたくさんいるんですよ!?」
それはいろはにとって初めての想いの吐露だった。それは奔流だった。それは強い怒り、深い悲しみ、愛だった。それはいろはが初めて他人にぶつけたエゴだった。
「生きてよ」
いろはは薄れていた意識を手放して、眠りへと落ちていった。
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二人が歩いていた。一人は片方の背に背負われている。拙い、それでもまっすぐな足取りで歩いていく。影がただ静かに二人に付き従う。
みかづきの鈍い光が二人を薄く包んだ