身を切る寒さを纏って、戦いへと向かう。
私は、魔物を討つものだから……
けれど、その隣にいる彼は、なんなのだろう。
今日はきっと、最後の戦いの夜────
※ 舞シナリオのクライマックスを、舞視点から描いてみたもの。
※ 若干の独自解釈を含みますが、セリフ・展開等、ほぼ原作ママです。一種の習作。
二人の場所。
二人だけの場所。
雨の日も、
雪の日も、
秋も、冬も。
春が過ぎて、また夏が来ても。
あのときのままで、
この場所で。
いつまでも、変わらない季節を────
夢を、見ていた。
どんな夢だったろう。
思い出せない。
いつものことだ。
……いや……違う。
何か……いつもとは、違う。
遠い昔の思い出。
懐かしい顔。
大切な人。
それが、なにかと重なって。
夢が頭をかすめ過ぎた。
なんだろう。
わからない。
ベッドの上に起き上がり、軽く制服を叩く。
枕元の時計を見る。
六時半。
いつもどおりだ。
ほどいていた髪を後ろでまとめなおす。
玄関のドアを開けると、冷たい風が頬を刺した。
寒い。
今日は、いつにも増して寒い気がする。
みしり、と靴の下で鳴る雪さえ、私の耳に突き刺さる。
……寒い。
今日が最後だからだろうか。
今日ですべてが終わるからだろうか。
その、結末を。私の肌に刻むような風。
……そう。今日、全てが終わるから。
終わらせるから。
……。
そう。終わらせる。私のこの手で。
……私は、魔物を討つ者だから。
そして……。
◆
「悪い。もっと早くこようと思ってたんだけどな」
いつもの場所。いつもの時間。
いつもの顔。いつもの声。
祐一。
いつのまにか、彼がいるのが当たり前になった。
なぜだろう。
どうして私は、彼がいることを許しているのだろう。
『……囮になるから』
自分で言った言葉を思い出す。
そうだったろうか。
祐一がいて、そんなに有利だったろうか。
『……嫌いじゃないから』
そうも言った。
それが理由だろうか。祐一がここにいるのを許していることの。
たぶん、そうなのだろう。
「残るは何体だっけ」
「三体」
「三体……多いな」
……そうかもしれない。
「一晩で終わる数か……?」
「終わらせる」
もう、終わらせなければ。
魔物のせいで、誰も傷つかないように。
私には、その使命があるから。
いつから?
…………。
つきん、とどこかが痛んだ。
気配が届いた。
忌まわしい何かが満ちてくる。
この世ならぬにおい。心に届く足音。
もうすぐ、始まる。
そして、もうすぐ、終わる。
そして。
そして……私は。
すべてが終わったとき。私は、どこに在るのだろう。
心を、影がよぎった。
不安。得体の知れない、闇。
飲み込まれそうで。だから、私は。
「終わったら牛丼」
そう言って。
そう約束して。
そう、未来を刻んで。
闇の奥へと、走り出した。
◆
ざむっ!!
鈍い感触。
空間が裂け、そして。
気配が、霧散する。
激痛。
いつもの、衝撃。
それが魔物の断末魔なのか。あるいは呪いなのだろうか。
左足が、重い。
まるで、内側から腐っていくような。おぞましい感覚。
最初は、左腕。
つぎに、右足。
魔物を討つごとに、私の身体は奴等に食いちぎられていった。
そして、左足。
残り、二体。
「やったのか……?」
奴を追いこんできていた祐一が、声をかけてきた。
私は無言で肯く。声を出すのもきつい。
「どうした? どこか痛めたのか?」
心配ない。そう言おうとして。
ざわり。
後ろ髪が逆立つ。
「上……!」
破裂音がした。
蛍光灯を割りながら、奴が降ってくる。
祐一に、向かって。
「!」
どくん、と、頭の中が煮えるほどに、鼓動が響く。
血にまみれたぬいぐるみ。
動かない体。
佐祐理の姿が、祐一とだぶった。
「うぉっ!?」
祐一は、すんでのところで転がって避けた。
「……ぁあっ!」
私は、とっさに垂直に剣を振りおろす。
ざしっ!
やや間合いが遠かったが、浅くとらえた。
そしてまた。
右の二の腕に、鈍い痛みが生まれた。
「……」
声なき悲鳴を上げて、奴は廊下の奥へと走り去った。
……もしかしたら、私自身の悲鳴だったかもしれない。
……あと、二体……。
「祐一」
私は、祐一を見つめた。
終わらせる。
終わらせなければ。
「私を助けて」
結末が。
すべての、終わりが。近づいている。
奴らに。……そして、私にも。
それが、私には見えてきたから。
その最後の瞬間を、今は悟ったから。
そして。
祐一がここにいたから……。
だから。
「あと、一体」
私は、そう言った。
◆
凍りついた空のむこう、満月が見える。
雪に覆われた校舎の中庭。景色は、驚くほどに明るい。
向かい風なのか、追い風なのか。よくわからない風の中。
私は、祐一を待っていた。
ガシャァァン……
ガラスの割れる音。人と、そうでないものの雪音。
……来た。
祐一。そして、それを追うもの。
祐一の姿が見えた。剣を手にしていない。
投げ放ったのだろう、それは、「奴」の体に突き立っている。
奴は、それを障る気配もなく祐一を追い詰める。
……あの程度では、奴には通じない。
もっと、深い一撃が要る。
まだ、遠い。
ゴスッ……
『ぐはっ!』
打撃音。祐一のうめき。
「奴」が、祐一の背中を突き飛ばした。
何かに心臓を串刺しにされた気がした。
痛みではない。なにかよくわからない、けれど鋭いものが、心を駆け抜ける。
思わず、声が出そうになる。握った刀の柄に、爪が食い込む。
祐一は浅く宙を飛んで倒れた。
奴は、雪の上に落ちた祐一を狙い。
……動きが、止まる。
風が吹いた。
もしかしたら気のせいかもしれない。でも、何かが私の背中を押した。
計算。いや、もっとなにかごちゃごちゃした、それでいて純粋な。
それに乗るように、私は蹴った。
地上4階、校舎の壁の上。フェンスを越えた、屋上の縁を。
1.5秒のスローモーション。
風を切り、無機物のように落下する。
もしはずしたらどうなるだろうか。
足から落ちれば、死にはしないだろう。
……闘うことも、できないだろうけど。
最後の力で、奴をひきつけ……祐一を、逃がすことはできるだろう。
祐一が、逃げてくれれば、だけれど。
たぶん、逃げないのだろうな。
それが悲しくて。少し、嬉しくて。
でも、そんなことを考えながら、なぜか私は確信していた。
この夜。この場所。この瞬間。
二人で作ったこの一撃は、絶対にはずさないと。
そして……
時間と空間が、一点に詰まる。
「…………!!!!!!」
ガシュゥイィィィィィィィィィインッ……!
一閃。
そして、衝撃。
感覚とも感情ともつかない衝撃が、奴を……そして私を貫いて。
……「奴」の気配は霧散し。私は、白雪の上に降り立った。
眼が合った。
祐一。
雪の上に座り込んだ祐一。その前に立つ私。
瞳と瞳の間の空間が、透き通るようにゆがんでいく。
自分と、たった一人だけの存在する世界。
この瞬間、時がとまれば。
そんな馬鹿な想いがよぎるほどに。
「よぅ……舞」
「よぅ……祐一」
なんとなく。祐一の口調をまねてみる。
「……ちゃんと来てくれた」
「来るさ」
「うん……」
そうだ。祐一は、いつでも来てくれた……。
と。
祐一が傾いた。雪に覆われた地面ごと。
「舞っ……!」
傾いた祐一が叫ぶ。どさ、と音がした。
……違う。傾いたのは私だ。
雪に顔の半分を突っ込んで、ようやく気づいた。
身体に、力が入らない。
「おい、舞!」
立ち上がり、駆け寄った祐一が、私を抱き起こす。
ああ。
祐一。
祐一……。
「祐一……」
「ああ、なんだっ……」
「…………牛丼」
ごすっ。
かなり、いい音がした。
祐一が、私の額に頭突きをかました音だ。
「……痛い、祐一」
「ばかっ、そんな状況かっ! 思わずトドメを刺してしまうところだったじゃないかっ」
「……お腹空いたから」
「そりゃ腹も減るだろうけどさ……」
お腹は空かない。もう、自分自身のものではないような、この身体は。
でも。
「……祐一、買ってきて」
その言葉を、私は投げた。
……祐一に頼むことは。
あと、それだけだった。
◆
教室の片隅。
壁に背をもたれ、座り込んだ私に、自分の上着を羽織らせて。
「すぐ戻るからな。大人しく待ってろよ」
そう言って。
祐一は、教室を出ていった。
祐一……。
ありがとう。祐一。
そして……。
祐一の気配が、校舎から消えて。
私は、剣を杖代わりに、立ち上がった。
祐一の体温が染み込んだ上着を、手近の椅子の背にかける。
そして、祐一が出ていった教室の扉を、私も引き開ける。
決着を、つけるために。
◆
気配を感じる。
遠い。けれど、確かに。
最後の一体。この校舎の中に、奴はいる。
こちらを、うかがっている。
……追いかけるだけの余力はない。
迎えうつ……場所は?
奴の目指す場所は、なぜかわかっていた。
からり、と教室の扉が開く。
軽く。それでいて、怖いほどに夜の闇に音が響いた。
ここだ。
奴は、ここに来る。
教室の奥。窓から月光がかすかに差し込むだけの、冷たい闇。
その闇がわだかまる中、壁に背をもたせかけて息を吐く。
全身が痛い。
頭のてっぺんから足の先まで……いや。痛いのかどうかすらわからなくなってきた。
握った剣の柄は、刃となって手に食い込み。あるいは骨の髄まで貫いているようで。
どちらかといえば、まるでこの剣自体が私の骨のような。
そんな想像さえ、おぞましさを感じないほどに。
見ることは棄てた。もう、ろくに見えはしないのだし。
音も、要らない。風も読まない。
心すら凍りそうな闇の中。
目を閉じ、そのなにか別の感覚だけを研ぎ澄まして。
私は、奴を待った。
奴は、なかなか近づいてこなかった。
戸惑っているような。なにかを探しているような。
……早く。
祐一が、戻ってきてしまう。
戦いの終わり。全ての決着。
……私の、運命。
私は、魔物を討つ者だから……
その役目が終われば、存在の必要もない。……そういうことなのだろう。
考えるのはやめた。ただ。
……祐一。
祐一を、ここにいさせるわけにはいかなかった。
祐一がそれを知ったら、きっと私を止めるだろう。
知らなかったなら……きっと私を守って傷ついてしまうから。
あまつさえ、もし祐一が、奴にとどめを刺してしまったなら。
その結果を。自分の剣が導いたものを、ずっと悔やんでしまうだろうから。
……祐一は、優しい人だから。
だから、嘘をついた。
私の命の終わりが避けられないものなら。
相打ち。そして、全ての終わり。
祐一が見るものは、それだけでいい……。
気配が、動いた。
来る。
この世ならぬ気配。それでいて、どこか慣れ親しんだ匂い。
もう私自身、奴らと同じようなものなのかもしれない。
この世に存在してはならない化け物……。
なんだろう。
その言葉が。なにも感じない。……感じない?
『化け物』
誰かが、そう言った。
誰に?
気配が、止まる。扉の向こう。すぐそこの廊下に。
そして、扉が開き。
奴が、そこにいた。
身体は勝手に動いた。
痛みで出来た腕を振りあげ、痛みで出来た剣を握る。
既に力の入っていない足の鍵をはずし、身体ごと前へ倒す。
相手は、手負い一体。
体重を頼りに。倒れこむように。
これで終わる。すべて消える。
この一振りで、すべてが。
闇を、影が裂き、そして。
どさ。
胸がぶつかったのは、冷たい床ではなかった。
身体がなにかにひっかかった。大きくて、温かい。
それが、私と奴の間を遮った。いや。私を、抱きとめた。
髪が触れ合う。匂いが届く。
これは。
「舞っ!」
祐一……!
祐一が、ここにいる。
遅かった。祐一が、戻ってきてしまった。
そして、知っている。祐一は、知っている。
駄目だ。でも、駄目なのだ。
……私は、決着をつけなくてはいけない。
私は、魔物を討つ者だから。
「……祐一、邪魔」
私は、奴を。
奴を……。
……なぜ?
どうして。
奴は、動かない。
祐一の後ろ。奴は、そこにいる。けれど。
奴は、動かない。
奴……?
何?
これは、何?
違う。これは。いや、奴なのに。
知らない? 違う。知っている。私はこれを知っている。
これは何? これは何? これは何?
「舞……」
祐一の声が、耳元で響いた。
「魔物なんてどこにもいない。最初からどこにもいなかったんだ」
いない? いる。ここに。でも。でも、これは。
「おまえが生み出していたんだ。おまえの力なんだよ」
声が、突き抜けた。
耳から、脳天まで。
頭ごと、雷に吹き飛ばされたような。
全てが収束し、そして。
全てが、砕け散った。
◆
金色の海。
山の陰に揺れた夕日の落ちる、麦畑。
そこで、あたしは遊んでいた。
ずっと、ひとりで遊んでいた。
あたしには、不思議な力があった。
大切なひとを、助けるために。神様が、それをくれた。
病院の廊下。閉ざされた扉。悲しさで埋まる、小さなソファ。
おかあさん。
大切な人が、いなくなってしまう。ずっと遠くに行ってしまう。
怖くて。辛くて。悲しくて。
あたしは、ただ泣くことしかできなかった。
泣きながら、祈ることしかできなかった。
おかあさんが、あたしの前から消えてしまわないことを……。
ただ、強く、願った。
そして。
その日から、あたしは不思議な力が使えるようになった。
手を触れずに、ほしいものを取れた。
心から望んだことは、本当になった。
けれど。
「化け物」
……そう言ったのは、だれだっただろう。
たくさんのひとが、あたしにそう言った。
脅えたような目で、石を投げた。
あたしとおかあさんは、それまで住んでいた町を離れた。
たくさん、汽車を乗り継いだ。長い時間、バスに揺られた。
ずっと田舎の町。
でも、そこでもあまり変わらなかった。
一緒に遊んでいた子たちも、しばらくするとあたしから離れた。
気持ち悪い。そう言って。
「ごめんね」
おかあさんはそう言った。
おかあさんが謝ることはないのに。
これは、あたしの力だから。
おかあさんを、助けるための力。
神様からもらった、大切な力。
だから、悲しくはなかったけど。
ひとりで遊ぶのは、寂しかった。
◆
あたしは、どきどきしていた。
その夏は、いつもと違った。
その日は、朝から鼓動が鳴り止まなかった。
なにかがくる。
とても大切ななにかが、あたしに会いにくる。
そんな、予感。ちがう。それは、確信。
「力」がそれを伝えた。
そのひとの訪れを。
金色の海。
山の陰に揺れる夕日の落ちる、麦畑。
そこで、あたしたちは出会った。
「……ねえ、遊ぼうよ」
あたしが、そう言って。
その子は、うなずいた。
そうして、あたしたちは友達になった。
「あたしには、不思議な力があるの」
「力」を見せたとき、彼は、すごいや、と目を輝かせていた。
ほかの人たちのように、逃げたりしなかった。
あたしたちは、友達だった。
本当の友達だった。
大切な、友達だった。
「さよなら」
夕焼けの麦畑。
近くの、学校の校舎を背にして。
彼は、そう言って去っていった。
夏の終わり。
唐突に告げられた別れ。
彼の家族は、避暑に来ていただけの、遠い町のひとたち。
あたしは、なにも言えなくて。悲しむこともできなくて。
……さよならを言うことすら、できなくて。
日が沈むまで、そこに立ち尽くしていた。
あたしは、ひとり闇の中に取り残されていた。
無くしたくない、大切なひと。
初めてできた、本当の友達。
そのひとさえ、あたしから去っていく。
嫌われるのは、慣れていた。
でも、失うことは、いやだった。
そのひとと、二度と会えなくなるのはいやだった。
だから。
「ねぇ、助けてほしいのっ」
次の日の朝。
あたしは、彼に電話をかけていた。
番号は、知らない。
受話器をとれば、彼の泊まっている部屋につながった。
「どうしたのさ」
「……魔物がくるのっ」
とっさに思い付いた、幼い嘘。
「魔物?」
「いつもの遊び場所にっ……。だから守らなくちゃっ……ふたりで守ろうよっ」
「あたしたちの遊び場所で、もう遊べなくなるよっ」
他愛もない嘘。
そんなもの、いるはずがないのに。
でも、もしいたら。
そのひとが、一緒に戦ってくれたら。
「待ってるから……ひとりで戦ってるからっ……」
ずっと、一緒にいてくれたら。
彼は、現われなかった。
何日も、あたしは待っていた。
風が吹いても。雨が降っても。
もう、あのひとは遠い町に帰ってしまったのだと。
本当はわかっていても。あたしは、ずっと待っていた。
初めてできた、友達。
なくしたくない、大切なひと。
あたしには、このひとしかいないと。そう信じたのに。
そのひとすら、あたしから去っていってしまった。
あたしから、逃げていってしまった。
……あたしが、普通の子じゃないから?
こんな力があるから?
こんな……
コンナ、魔物ノヨウナチカラガ。
そして。
なにかが壊れた。
私は、魔物を討つ者になった。
大切な場所に、魔物が来るのだ。
私は、そこを守らなくてはいけないから。
ここは、大切な場所だから。
私と、もう一人の、大切な場所。
麦畑が刈り取られても。
そばの学校が増築され、コンクリートの校舎になっても。
私は、ここを守りつづけた。
そのひとが、帰ってくる日のために。
ただ、そのひとのために。
そのひとは。
その、男の子の名前は。
祐一。
◆
真っ暗だった。
夜の闇だからだろうか。ただ単に、私の目が潰れてしまっているだけだろうか。
……それとも、まだ思い出の中にいるのだろうか。
忘れていた記憶。
戦いの日々に、沈んだ真実。
自分自身で忘れた、本当のはじまり。
一瞬だったのか。数分なのか。
10年前の、夏の思い出。
私を抱きしめる祐一の温もりだけが。
私を、現実の教室に引き戻していた。
「終わりだ、舞」
……終わり?
「終わったんだよ、おまえの戦いは」
祐一が、繰り返した。
「……」
全てが、止まっていた。
音も。風も。光も。闇さえも。
私の心すら、乱れたまま凍り付いて。
ただ、祐一の鼓動だけが、胸に届いていた。
「今日からはあの頃の舞に戻るんだよ」
ポケットから、祐一がなにかを取り出す。
その形に、見覚えがあった。
ウサギさんの耳がついた、ピンクのカチューシャ。
『おいで』
その男の子の声が、耳元に蘇った。
とっくに忘れていた、あの日の出来事。
だけど、何より嬉しかった記憶。
彼が、私の頭につけてくれたもの。
『……ウサギさん』
記憶のなかのものとは違う。でも、確かにそれと同じ。
それを、祐一は私の頭につけた。
あの日と、同じように。
「……ほら、よく似合う」
「………」
「ウサギさんだぞ。舞の大好きなウサギさん」
「………」
「笑えよ、舞。すべては終わったんだから」
笑えなかった。
私は、笑えなかった。
……笑い顔を、私はどこかに無くしてしまった。
あの日、それは砕け散ってしまった。
どうすればいいのかわからなかった。
すべてが終わったあとなんか、考えたことがなかった。
私は、魔物を討つ者。
すべてが終わってしまったというなら。
私は、何をすればいいのだろう。
私は、何て言えばいいのだろう。
……私は、何処に在ればいいのだろう。
「戻ればいいんだ、あの頃の舞に」
戻る?
「もう剣なんて捨てるんだ。夜の校舎に訪れることもしない」
……。
「剣は捨てられない……私はずっとこれに頼って生きてきたから」
それは、私がすがりたかったもの。
魔物と戦う力。
自分の運命を断ち切る力。
「……剣を捨てた私は本当に弱いから」
人にあらざる「力」を、断ち切る刃。
……それが、自分自身の命だったとしても。
だれかに疎まれない力が欲しかった。
受け入れてもらえる力が欲しかった。
「いいんだよ、それで」
でも、祐一は。
祐一は、あっさりとそう言った。
「泣きたくなったら泣けばいい。そうしたら俺が慰めてやる」
私の弱さ。
なんの力もない、こんなちっぽけな人間。
誰にも必要とされない人間。
私が、ここにいてもいいと。
祐一は、そう言った。
「道ばたで泣いてしまうかもしれない……」
小さな風にすら、耐えることができない。
「ご飯食べてたら、不意に泣き出してしまうかもしれない」
ただ泣くことしかできない、小さな子供のような。
「それでも慰めてくれるの……」
そんな私が。祐一のそばにいていいというの。
「ああ。道ばただったら、泣き止むまで隣に立って待ってやる。
ご飯中だったら、俺も食べるのをやめて舞と話をしてやる」
いつでも、私といてくれるというの。
「舞は、ずっと俺のそばにいさせる」
ずっと、祐一のそばに。
大好きなひとと、一緒に。
「……」
「そうだ、舞。卒業したらさ、広めの部屋を借りてさ、
舞と佐祐理さんと俺の三人で暮らしてみないか?」
……佐祐理も、一緒に。
「今度は佐祐理さんだけじゃなく、俺たちも飯作ってさ、当番制で。
そうやって家族みたいにさ、飽きるまで暮らしてみないか?
舞のこともずっと見守ってやれるし、絶対楽しいと思うぜ」
ずっと、一緒に?
三人で、一緒に。
大好きな、大切な人たちと、私が。
ずっと一緒に……。
「……祐一」
「ん?」
「……ありがとう」
祐一は、優しい。
私の身にあまるほどに。
それが、嬉しくて。
だから。
「祐一のことは好きだから……いつまでもずっと好きだから……」
佐祐理も。私は、私が大好きな人のために。
「春の日も……夏の日も……秋の日も、冬の日も……」
どんなときも、ずっと。
「ずっと私の思い出が……」
その、思い出だけが……。
「佐祐理や……祐一と共にありますように」
「舞……?」
そして。
私は、剣を手にして。
結局、最後まで私と共にあった、その冷たいモノで。
自分自身の身体を、貫いた。
叫び声が聞こえた。
祐一の声。ひどく遠くから。
世界が、閉じてゆく。
何処かへ、堕ちてゆく。
闇の奥へ……
私は、情けない人間だ。
嘘をつくことでしか、想いを伝えられなかった。
傷つけることでしか、何かを為しえなかった。
打ち砕くことでしか、居場所を見出せなかった。
そして、佐祐理を、祐一を傷つけたあの恐ろしい力さえ、私の願望だったのだ。
なんて情けない人間なのだろう。なんて忌まわしい存在なのだろう。
そしてそれは、多分これからも。
祐一と佐祐理は、優しい。
こんな私とでも、一緒にいようとしてくれる。
私は、そんな二人が大好きで。
だけど。
きっと私は傷つける。
そばにいてくれる、祐一や佐祐理を傷つける。
大好きなのに。かけがえのない、大切な人なのに。
その人たちを、傷つけ続けるだろう。
そんな私が、祐一や佐祐理のそばにいる資格はないのだ。
祐一と佐祐理に会えなくなるのは、悲しいけれど。
でも、私が思い出だけの存在になれば。
祐一も。佐祐理も。
これでもう、誰も私のために傷つかなくてすむのだから。
……だから。
これでよかったのだ。
「よくないよ」
…………誰。
祐一じゃない。
幼い、女の子……。
「舞は、本当にそれでいいの?」
……。
……仕方がないから。
私は、いないほうがいい存在だから。
「祐一、泣いてるよ」
祐一。
……祐一が、泣いている。
冷たい教室の床で。動かない、私の身体をかかえて。
「佐祐理も、泣くよ。二人とも、舞が居なくなって悲しむよ」
……。
「そして、舞だって。二人といっしょに居たいんだよ」
……でも。
私がいると、二人を傷つけるから。
繰り返される痛みより、一時の悲しみのほうが。
……現実の苦しみより、思い出の日々のほうが。
「……変わればいいんだよ」
……変わる?
「祐一と、佐祐理と、三人でいられるように。誰かを傷つけたりしないように」
……変われない。
「変われるよ」
……変われない。
私は、10年間ここで立ち止まっていたのに。
そのあいだ、何も変われなかった人間なのに……。
今更、きっと変われない。
「変わるって信じれば、きっと変われるよ」
……信じる?
「そう。まいは、そのための力を神様にもらったんだから」
……力。
「まいが神様からもらった力はね。お母さんの病気を治す力じゃないんだよ」
……え?
「もちろん、手を触れずにものを動かしたり、魔物を生み出したりする力でもなくて」
「それは、奇跡を起こす力だよ」
……奇跡。
「そして、本当はきっと誰もが持っている力……」
……。
「舞は、一度はそれを否定してしまったけど……。
でも、きっとどこかであたしとつながっていたから、今まで立っていられたんだよ」
……思い出した。
金色の草原に立つ、一人の少女。
まい。
あのころの、私。私と共にあった力そのもの。
私が切り捨てようとしてしまったもの……。
「でも、もう帰らなきゃね」
帰る……。
「今なら帰れると思うから。そして、今しかないと思うから……」
そうだ。私は、ずっと待っていたんだ。
すべての力を否定しても。すべての未来を捨て去っても。
……心のどこかで、ずっと。
その時を、その人を、待っていた。
「舞は、ここから歩き出さなきゃいけないから」
……祐一と。佐祐理と、いっしょに。
「いっしょにね」
……歩いて、いきたい。
「歩いていけるよ。そして、変われる。あたしは、そのためにいるから」
……うん。
「さあ、舞。あたしの名前を呼んで」
名前?
「あたしという、最後の力のかけらを。
祐一が運んでくれたものを、舞が取り戻すものの名を」
……うん。おかえり……。
「その名を……」
その名は……
世界が、開いた。
力の、最後の輝き。そして、きっと始まりの。
その輝きが、闇を満たしていく。
光があって。
私がいて。
そして、だれかがいた。
『よぅ』
その呼びかけの声が、私の髪を揺らしてゆく。
もう、どこにも行かない?
行かないさ。
俺は、ここにいる。
私も。もう、立ち止まらない。
ずっと、ついていく。
俺たちは、ここに戻ってくる。
私たちは、ここから始める。
雨の日も、雪の日も。
秋も、冬も。春が過ぎて、また夏が来ても。
いっしょにいたい。ただ、その想いだけで。
俺と、あたしと、私は、ずっとここに在ることができるから────
目の前で、だれかが泣いていた。
「……舞……」
私の身体を抱きかかえて。
顔をくしゃくしゃにして。鼻をすすりあげて。でも、確かな笑顔で。
私の名前を、呼んでいた。
「……祐一」
その人の名を呼ぶ。
ずっと、待っていた人の名前を。
「舞……。舞……」
祐一が、私をゆっくりと、けれど力いっぱい抱きしめた。
首筋と頬に、祐一の涙が伝わる。
熱かった。
「……祐一、痛い」
でも、その痛みは不快ではなくて。
痺れるように、触れた腕が愛おしくて。
……全身を縛っていた痛みは、消えていた。
外れていたネジがはめ直されたように。
「舞……おかえり……」
「……うん」
私は、祐一にずっといてほしいから。
「……ただいま……」
無意識に、祐一の背中に腕を回していた。
早朝の校舎の空気は冷え切っていて。
けれど、私と祐一の間の空気は、熱を持っているようだった。
温かさに、涙が出た。
ずっと忘れていたものが、私の頬を伝って。
祐一の肩に、しみこんでいく。
あまりに小さな光だとしても。
先も見えない暗闇だとしても。
この輝きがあれば、きっと私はここに居られる。
いつか、笑顔も思い出せる。
長い間、立ち止まっていたけど。
遠い過去に、見失っていたけど。
今は、その力を思い出したから。
私は、ずっとこの人といっしょに、歩いていけるのだろう。
────「希望」という名の、小さな輝きを抱いて。