【ネタ】もしISの篠ノ之箒が〝文学少女〟を読んだら   作:Mr.OTK

4 / 4
さて、最後のお話でございます。今回はISと文学少女が7:3ぐらいでしょうか?

文学少女を読み切った箒さんが夏祭りのデートでどんな行動を起こすのか、ご覧下さいませ。


侍少女と告白する心《ハート》

 八月のある日の午後十時、IS学園の食堂の片隅。

 

 突然だが、俺――織斑一夏は困惑していた。

 

 俺のファースト幼馴染。名前は篠ノ之箒。実家の剣術を修練し、『寄らば斬る!』といったような侍のような雰囲気を持つ女の子。そんな箒が最近、妙に軟化したような気がするのだ。言うなれば、侍でありながら大和撫子でもある、といったような。

 

 ……そういえば最近、箒に手を出された覚えがない。一ヶ月に四回は必ずといっていいほど殴る、蹴る、叩くのいずれかがあったというのに。まあその代わりに、撃つ(セシリア)、虐める(鈴)、圧倒する(シャル)、ボコる(ラウラ)が新しく出てきたわけだが……泣いてないぞ。

 

 まあそういった風に、幼馴染が変わった気がするのだ。いや、別にそれ自体が悪いというわけではないし、むしろ俺にとってもプラスになっている面もある。前よりもっと距離が近づいた気がするし。

 

 ただ……そう、不躾な気はするが、どうして箒がそんな風に変わったのかを俺は知りたかった。何だか箒に置いていかれたような気がして、少し寂しいと感じているから。

 

「あら、織斑くん?」

 

 突然、後ろから声を掛けられた。振り返ってみると、そこには――

 

「鷹月さん。こんばんは」

 

 箒のルームメイトの、鷹月静寐さんがいた。

 

「こんばんは。一人だなんて珍しいわね」

 

「そりゃあ、俺だって一人になりたい時ぐらいあるさ」

 

「そうなの? てっきり周りに女の子を(はべ)らせていないと落ち着かないのかと思っていたわ」

 

「どんな好色野郎だよ、俺は……」

 

「ふふふ、ごめんなさいね」

 

 鷹月さんの言葉にがっくりと肩を落とす俺とは対照的に、鷹月さんは面白そうに笑った。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「ふーん。箒さんが変わった、ねぇ」

 

「ああ、何か知らないか?」

 

 鷹月さんは少し遅めの夕飯を食べに来たらしい。今日はちょっとやることが多かったんだとか。

 

 鷹月さんが食べてる隣で何も食べないというのもあれなので、俺は杏仁豆腐を頼み、ちょこちょこと食べていた。

 

 で、鷹月さんと相席している理由だが、さっき訊いた様に箒が変わった原因を調べるためだ。ルームメイトなら部屋での変わったこととかを知っているかもしれないと思って。

 

「うーん……原因というか、きっかけは私かしら? 私が箒さんを変えたわけじゃないけれど」

 

「え? そうなのか?」

 

 案外あっさりと答えが示された。まあある意味当然と言える結果ではあるが、少し拍子抜けだ。

 

「じゃ、じゃあ、教えてくれないか? なんで箒は変わったのか」

 

「……それを聞いて、織斑くんはどうするつもりなの?」

 

 少し鋭さと冷たさを備えた視線が、俺に突き刺さる。誤魔化したり、お茶を濁したりは……出来ないだろうな。

 

「どうするっていうか……箒のことが知りたいんだ。なんだか、置いていかれたような気がして、ちょっと燻っててさ。だから、頼む」

 

 精一杯誠実に答えて、鷹月さんの目を真っ直ぐに見つめる。すると、鷹月さんは表情を和らげて言った。

 

「そう。ならいいわ、教えてあげる。箒さんはね、恋と愛を勉強しているの。だから、変わったのよ」

 

「……え?」

 

 二の句が告げなかった。箒が、恋と愛を勉強している? ということは……。

 

「箒……好きな人が出来たのか……」

 

 確認するように呟いて、何故か胃が重たくなって、胸が苦しくなった。おかしいな、そんな脂っこいものも、胸焼けするような量も食べてないのに。

 

「箒さん、この頃可愛くなってきたと織斑くんも思わない?」

 

「……ああ」

 

「前よりも態度が柔らかくなったし、女の子らしくなったと思うでしょう?」

 

「……ああ」

 

「……織斑くん、大丈夫?」

 

「……ああ。ありがとな、鷹月さん。教えてくれて。それじゃ」

 

 残った杏仁豆腐を一気にかき込んで、食堂を後にする。途中で誰かに会うこともなく、俺は寮の自室に戻って、そのままベッドに倒れこむ。

 

「箒に……好きな人……」

 

 胸にもやもやとしたものが溜まっていくのを感じながら、俺はそのまま眠り込んだ。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 八月のお盆の週。その週末に、私は篠ノ之神社にいた。転校する前の家であり、生家でもある。今日は夏祭り(正確にはお盆祭り)であり、私は篠ノ之神社の巫女として、神楽を舞わなければならない。が、それよりも重要なことがある。

 

「今日は……一夏とデートだ……二人きりで」

 

 本当なら、神楽を舞った後はお守り販売を手伝わなければならないのだが、私たち一家が離れた後も篠ノ之神社を管理している親戚――雪子叔母さんに頼んで、その後は自由時間にしてもらったのだ。

 

――デート、頑張ってね。

 

 上手く理由を私の口から聞き出した雪子叔母さんは、私に微笑みかけながらそう言ってくえた。それが少し……いや、大分恥ずかしかったが、感謝している。

 

 さて、現時刻は午前十時。祭りの準備は昨日の間に粗方終わっているので、あとは個人個人で屋台を開く準備をするだけだ。つまり、私が特にすることは何もない。神楽も十分練習したし、祭りが始まる直前に最終確認をするだけで構わないだろう。

 

「というわけで、最終章だ」

 

そうして私がかつての自分の部屋で取り出したのは、『〝文学少女〟と神に望む作家(ロマンシェ)』の上下巻だ。

 

 これは静寐に借りたものではなく、私が今まで貯めてきた貯金を崩し、夏休みの間に色々な本屋を渡り歩いて手に入れたものである。

 

 ちなみに、挿話集や続編の見習い編、最終巻の『半熟作家と〝文学少女〟な編集者(ミューズ)』まで全て取り揃えた。この夏休み中か、二学期に入ってからでも読みきろうと思う。

 

 ……一昔前の作品であるが故に、全て揃えるのに二週間も掛かったのはいい思い出だ。

 

 無論、今の時代であれば電子書籍で購入できたし、販売してもいた。だが、私はどうしても製本されたものの方が良かったので、なんとか探し出したのだ。二週間という期間は、むしろ短かったかもしれない。

 

 まあそれはともかく、今日は一世一代の告白の日。本編最終巻を読んで、すっきりした気持ちで臨みたいと思う。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 で、読み始めたわけなのだが。

 

「ななせはやっぱりかわいいなぁ」

 

 ついつい頬が緩んでしまう。片思いの相手である心葉と付き合えているななせ。バレンタインデーに手作りチョコを作っても大丈夫か聞いたり、多分、変に気合が入っていると思われたくないが為に毎年お父さんに作ってるついでだと言ったり、でもやっぱり心葉のほうが特別だから、ついでだけどついでじゃないんだと弁解したり、とても微笑ましい。

 

 料理は……和食ならそこそこの自信がある。が、洋・中やお菓子などは門外漢だ。……叔母さんに頼んで教えてもらおうか? それで、一夏に食べてもらいたいな。そんな風に考えながら、ページを捲っていく。

 

 ななせが日曜日に心葉の家にお邪魔することになって、少し遠子先輩の弟分である櫻井流人のことで心葉が遠子先輩に尋ねようとしたら、何故か遠子先輩が土曜日に心葉の家にお邪魔することになった。……なんだか雲行きが怪しいような。

 

 遠子先輩が心葉の家に訪れ、心葉が遠子先輩の失敗したシュークリームを完食するという、二人の絆を窺わせる描写があって、少しほっこりとしたのだが……。

 

『「昨日の……お姉ちゃん?」』

 

『「うんっ、センパイだよっ。三つ編みで、アンに似てるの」』

 

 尋ねたのはななせ。答えたのは心葉の妹で、小学生の舞花だ。昨日遠子先輩が訪れた時も家にいた心葉の両親は、遠子先輩が心葉の彼女、あるいは片思いの相手だと思っていたのだが、現実は違う。少々予想していたこととは違ってうろたえていたのだが、そんな空気の機微には気づけない小学生の舞花は、とんでもない爆弾をぶちまけてしまった。

 

 少々ぎこちない雰囲気のまま、心葉の部屋で向かい合う二人。心葉の心境は如何様なものなのか。私が可能な限り想像する中で一番近いのは、浮気が妻に見つかった夫、といったところだろうか。

 

『「……遠子先輩、来たんだ」』というななせの言葉に必死に弁解する心葉。だが、続いておやつを持ってきた心葉のお母さんが『「お兄ちゃんたら、女の子だなんて一言も言わないから、男の子が来ると思っていたのよ」』なんて更に爆弾を投下する。お母さん、それは今言ってはいけないと私でも分かるぞ……。

 

 そんな中、心葉はななせが手土産にと持ってきたレモンパイを食べる。それは遠子先輩のように失敗したものではなくて、本当に美味しかったようだ。その様子にななせも機嫌を少しだけ直り、素直に自分がヤキモチを焼いていたと告げる。そんなななせに心葉は遠子先輩とはなんでもないという風に力強く……嘘を交えながら告げ、それでも今付き合っているのはななせなのだと再確認し、二人がいい雰囲気になった所で。

 

『「ちーす、邪魔します」』

 

 文字通りの言葉を言いながら、遠子先輩の弟分の櫻井流人が心葉の部屋に上がりこんだ。この櫻井という男、自分からマゾヒストであると称し、『自分を殺してくれる女性』を見つけるために誰彼構わず付き合っては頬に紅葉を作る軽薄な男だ。そんな奴がどうして突然……。

 

 その後、何かとななせに難癖をつけ、遠子先輩と心葉の距離の近さをひけらかすように昨日の失敗したシュークリームのことを話し、不安にさせ、帰らせてしまう。一体何をしに来たのだ! この男は!

 

『「もちろん、邪魔しに来たんですよ(・・・・・・・・・・)」』

 

『「忘れないで下さい。自分が遠子姉の作家だってこと」』

 

 そんな風に意味深なことを告げながら、部屋を去る櫻井。『遠子姉の作家』というのは一体どういうことだろうか? 

 

 日が過ぎて、心葉は櫻井が前からななせにちょっかいをかけていたことを、櫻井の彼女の一人でもある(・・・・・・・・・)竹田千愛から聞き出していた。そうしてななせが空元気を出していることに、心葉は自分がしっかりしなければと心を改める。

 

 そんな時だ。かつて心葉が『井上ミウ』であった頃の担当編集者の佐々木さんと再会する。そうしてもう一度一緒に仕事が出来ないだろうか、もう一度小説を書かないかと持ち掛けられるが、心葉はそれを拒絶した。

 

『もうなにも失ったりしない。』

 

『おだやかで平和な日常も、まっすぐで誠実な友達も、ぼくを思ってくれる不器用だけど優しい女の子も』

 

 今の自分に満足している。だから『井上ミウ』には戻らない。それが心葉の答えだった。

 

 ――その日の夜。

 

『「……どうして」』

 

『「井上ミウには戻らないなんて、どうして! 今なら、二作目が書けるんじゃないかって、佐々木さんが言ったでしょう? もう一度書いてみないかって――」』

 

『「どうしてっ、どうして、断るのっ? 捨ててしまうのっっ? 才能がないなんて、どうしてそんなことっ!」』

 

 冬のとても冷たい夜。心葉の家の玄関で、いつも、いつも、心葉が辛いとき、苦しいときに手を差し伸べてくれた遠子先輩が、泣きそうな顔で心葉を批難し、感情をぶつけ、責め立てていた。

 

「なっ――!?」

 

 それは読者である私にとっても驚きだった。どうして遠子先輩が佐々木さんと会ったことを――二作目を書かないかといわれたことを知っているのか。それも昨日の今日の出来事を!

 

 その答えは、深く考えずとも、誰にでも分かることだった。

 

『「……っ! 遠子先輩は、佐々木さんのこと知ってたんですか!」』

 

『「ぼくが井上ミウだって、最初から知ってたんですか!」』

 

 心葉の糾弾は止まることを知らない。だってそうだ、心葉にとって遠子先輩はちょっと迷惑だけど頼れる先輩で、誰よりも信頼していて、立ち止まっても、うずくまっていても、やわらかく導いてくれた恩人だ。そんな恩人が今、裏切りの言葉を述べているのだから。心葉を支えたのも、導いたのも、全ては『井上ミウの二作目のためだ』と。

 

 遠子先輩は知っている。心葉の過去に何があったのかを。どれだけ辛い、暗い場所にいたのかを。それが、小説を書いたことによって引き起こされたことを。なのに、『小説を書け』と言っているのだから。

 

『「井上ミウの初稿を知っていたのも、佐々木さんに見せてもらったからなんですね! どうして黙ってたんです! 警戒されるからですか! ぼくをだましてたんですか!」』

 

 そう、そう考えれば辻褄が合う。合ってしまう。否定して欲しい、それだけじゃないと言って欲しい願う心葉とは裏腹に、遠子先輩は何も言わない。心葉にはその様子が自分の考えを全て肯定しているとしか思えなくて、どうしようもなく傷つく。

 

『「ぼくは……絶対に、小説なんか書かないっ」』

 

 絶望を胸に、遠子先輩を拒絶するように、そう言い切った心葉。その言葉に遠子先輩も、深い悲しみと絶望に囚われた様子を見せる。

 

『「……それでも……っ、それでも……きみは、書かなきゃいけないわ」』

 

 最後にそう願うように、あるいは呪いを残すように呟いて、闇の中へ消えていく遠子先輩。

 

 これまでのどんな残酷な真実よりも惨い真実に、『書かなきゃいけない』という言葉に苦しむ心葉。そんな心葉に追い討ちを掛けるかのように、櫻井からの電話が鳴り響く。

 

『「夢を見せたのは心葉さんなのに。……あんな話を書いておいて、それを読ませて、希望を持たせて――なのに、もう書かないと言って、逃げ出すんですか?」』

 

『「そう、心葉さんは、なんにも知らない。そうやって大事にされて、守られていた。なのに裏切るんすか? 遠子姉を、この世に存在しない人間のまま放り出すんですか! そんなのは、許さないっ!」』

 

 まただ。『遠子先輩がこの世に存在しない』。巡礼者の最後で美羽もそう書いていた。一体これは何を意味するのだろうか? 

 

『「これまでオレは、天野遠子と井上心葉の物語の、読み手でした。けど、ここから先はオレが書き手になって物語を作ります。井上ミウは書かなきゃいけないんだ。でないと、天野遠子は、消えてしまう」』

 

 そんな不吉な言葉を残して、櫻井は電話を切った。

 

 そうして次の日から、櫻井の『執筆』は始まった。彼女である竹田に『狭き門』という本を届けさせ(現時点でこれが何を意味しているのかは不明だが)、いろんな所に顔が利くという利点を利用し、知り合いの女性を使って心葉をかつて賞をとった出版社のパーティーに強引に連れ出し、もう一度佐々木さんに会わせたり。櫻井は、本気だった。

 

 そのパーティーで、心葉は櫻井の母親――櫻井叶子(かなこ)と話す。

 

『「……小説を書くのは、やめたんです。今は普通の高校生です」』

 

『「そのほうがいいわ。あなたは作家にはなれないから」』

 

 冷徹に下される言葉に、心葉は激しい羞恥を覚える。格の違いを感じ取ったのだ。

 

 その後で佐々木さんから聞かされたのは、遠子先輩の両親が既に亡くなっていること。櫻井叶子が著した『背徳の門』のこと。

 

 『背徳の門』の主人公の名前は亜里砂といい、『狭き門』のヒロインの名前もアリサという人物だ。タイトルが似ていることもあって、心葉はどうしても気になった。

 

 翌日、学校の図書室では『背徳の門』を持った竹田がいた。どうやらこれも、櫻井の『執筆』のうちのようだ。

 

 竹田から差し入れを受け取り、図書室の地下の書庫で、心葉は『背徳の門』を読みふける。その内容は凄絶であるの一言であり、透明で圧倒されるもの。そしてこの小説は、実際に起こったことをモデルとして(・・・・・・・・・・・・・・・・)書いたものなのだそうだ。……一人の作家と一人の編集者、そしてその妻の愛憎の物語。モデルとは、櫻井叶子自身と遠子先輩の両親。

 

 遠子先輩の両親は交通事故――友人の結婚式に出席する道中、ガードレールから飛び出して転落死している。小説内の編集者の夫とその妻も同様の死を与えられていた……作家が嫉妬から毒を盛ったことによって。

 

 当然それはフィクションだ。櫻井叶子が毒を盛ったという事実も証拠も現実には存在しない。けれど、その小説はまるで櫻井叶子がやったかのように思わせる書き方をしていた。

 

 それと同時に心葉の心にこびりついたこと。それは、その小説内でトーコという編集者とその妻の子供が――つまりは遠子先輩をモデルにしたと思われる赤ん坊が登場しており、その赤ん坊が作家によって殺されている(・・・・・・・・・・・・)ということだ。

 

『もし、小説に書かれたことが本当なら――。』

 

『「……っ、しっかりしろ、振り回されるな」』

 

 何が虚構で、何が真実なのか混乱する心葉。そんな心葉に、狙い澄ましたかのようなタイミングで櫻井からの電話が入る。

 

『「何故、遠子姉が、心葉さんに小説を書かせようとしたのか。心葉さんでなきゃダメなのか。遠子姉の気持ちに、真実に。心葉さんはいい加減、気づかなきゃいけない」』

 

その言葉を受け、心葉は乗せられていると理解していながらも、どうして自分の傍に二年間遠子先輩がいたのか、それを知るために、櫻井叶子を、遠子先輩の両親――櫻井叶子の編集者だった天野文陽(ふみはる)と、中学の頃から親友だったという天野結衣(ゆい)について調べ始めた。

 

 ――と。

 

「箒ちゃ~ん! お昼ご飯出来たわよ~!」

 

「……え?」

 

 部屋に掛けられた時計を見てみると、短針と長針は十二時半の時刻を指し示していた。むぅ、やはり夢中になっていると時間があっという間に過ぎていくな。

 

「今行きます!」

 

 時計を見て時間を確認したら、途端にお腹がすいて来てしまった。まずはお昼ご飯を食べて、それからまた再開しよう。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「さて……」

 

 麦茶を用意して、小腹がすいたときのおやつとしてあられも用意した。季節でいえば羊羹が時期なのだが、あられの方が食べやすい。無論、本が汚れるような食べ方をするつもりはないが。

 

 私が次に読み始めるのは『五章・さよならの朝』と銘打たれた所からだった。

 

 その日はバレンタインデーの日。なにやら心葉とななせは約束がある様子だった。少しでも心葉が心休まるときであればいいのだが……。

 

 そして、私の願いは奇しくも作者に届いたようだ。どうやら心葉がななせの家にお邪魔するらしい。家デート、というやつだろうか。

 

 ななせの部屋に案内され、何か用意があるのか少しの間待っている様に言われた心葉。

 

 その間少しだけ部屋の周りを眺めた心葉は、かつて自分が通っていた中学の校章を見つけ、ななせと始めて出会ったときの事を思い出す。

 

『同時に、琴吹さんとの出会いを思い出した。

道路でスカートを破いて困っていた女の子に、校章をはずし、

『これで破れたをところを止めるといいよ』

と渡したこと』

 

 ほう、なかなか紳士的な対応をしていたのだな。……ま、まぁ、一夏でも同じように助けただろうが。

 

 やがて、運んできたチョコレートケーキ――おそらくバレンタインのもの――とコーヒーをテーブルに並べ、心葉はそれをいただく。

 

 ……と、その後の一文が私の目に飛び込んだ。

 

『フォンダンショコラだ。』

 

「……何?」

 

 フォンダンショコラ……いや、名前ぐらいは聞いたことがある。本文にも『中からあたたかなチョコレートが、甘い湯気と一緒にどろっとこぼれてくる』とあるから、おそらく私が想像しているもので間違いはないと思う。

 

 しかし……だ。問題はそこではなくて、これが『ななせの手作りである』という点。

 

「これは……私が完全に負けている……」

 

 いや、もともと勝っていたなどと言うつもりはないが、なんというのだろうか……完全に打ち負かされてしまって、とてつもない敗北感が私を襲っているのだ。というか、ななせはパティシエでも目指しているのか? それとも、フォンダンショコラというのは女子高生なら作れて当たり前のものなのだろうか? そういえば、一夏は千冬さんが家を空けるほうが多いこともあって、家事に通じていたな。まさかお菓子のほうにも……。

 

「これは……まずいぞ」

 

 本気で夏休みの間、雪子叔母さんにお菓子を含めた料理全般を習おうと決心した。うむ、絶対だ。

 

 私の個人的な決意はともかくとして、それからは音楽を聴きながらケーキを食べて、コーヒーを飲んで、話をする二人。とても仲が良さそうだ。

 

『「開けてみよう」』

 

 ななせがそう言ったのは、心葉とななせが今日の昼休みに竹田からもらった『世話チョコ』のことだった。竹田曰く『おそろい』らしい。

 

 が、何かと裏がある竹田をななせは警戒し、『「そんなの本当かどうか、わからないもん。あたしのほうは『ハズレ』って書いた消しゴムが入ってるかもしれない」』なんて言う始末。まあ、分からないでもないが……。

 

 結局、二人同時にせーので開けた中に入っていたのは、半分に欠けたハート型のチョコレート。「よかったね、消しゴムじゃなくて」と言う心葉に恥ずかしげにそっぽを向くななせ。

 

 すると、心葉が合わせてみようと提案し――

 

『半分のハートが、こつんと合わさって、一つのハートになる。』

 

『「ぴったりだ」』

 

『「うん」』

 

「……いいなぁ」

 

 自分でも無意識のうちに、わたしはそう呟いていた。心葉とななせの関係は、ある種私が理想とする関係でもある。通じ合っていて、羨ましい。

 

 その後、少し昔のことを思い出したななせと一緒に感傷に浸り、ある贈り物をもらってななせの家を後にした心葉。そのお返しとして以前渡せなかったある物を探し出すと、途端に遠子先輩のことが思い出された。

 

「なるほど、水妖(ウンディーネ)はこれの為の伏線……ということか」

 

 事実、心葉が思い出したことと言うのは、全て『〝文学少女〟と月花を孕く水妖』の内容と合致していた。

 

 翌日、ななせと待ち合わせをしているというのに遠子先輩のことが頭からこびりついて離れない心葉。以前にもこんなことがあったと思い返しながら、角を曲がると。

 

『「おはよう、心葉くん」』

 

 遠子先輩が、そこにいた。以前と変わらない、優しい笑顔で。

 

 マフラーを返しに来たのだと遠子先輩は言う。それは、心葉が美羽に翻弄されていたときに貸し始め、受験が終わるまでとずっと貸し続けていたものだった。ほんの少しの会話を交わし、義理チョコの代わりに義理羊羹――心葉が以前、チョコレートよりも羊羹の方が好きだと言ったらしい――を手渡し、そして。

 

『「じゃあ、わたしはこれで。マフラーありがとう。さよなら」』

 

 またあとでね、ではなく、さよなら、と言ったことに激しい焦りを覚える心葉。急いで呼び止めようとして……ななせが反対側の角から顔をのぞかせていることに気づいた。

 

 心配そうに、祈るように切ない眼差しを自分へと向けるななせに、何の言葉も出なくなってしまった心葉。そのまま、遠子先輩は曲がり角の向こうへ消えてしまった。

 

『「待ち合わせ場所へ、来る前に、会っちゃったね」』

 

『「……そうだね」』

 

 どこかぎこちない様子の二人の会話。それはやはり、心葉の内情をななせが察してしまったからか。

 

『「そのマフラー、あたしがもらっちゃ……ダメかな」』

 

 脳裏に過ぎる遠子先輩の面影を振り払うため、無造作にマフラーを首に巻こうとした心葉の手に自分の手を重ね、泣きそうな顔でそう言うななせ。

 

『「井上の、マフラーが、欲しいの」』

 

 必死に心葉を見上げながら、手を震わせながらそう言うななせは、一体どんな気持ちだったのだろう。

 

 やがて、苦い笑みを浮かべながら『「いいよ」』と言う心葉。ななせの『「井上が、首に……かけて」』という希望に応えて、心葉がななせの首に巻いてあげると、泣きそうな顔で大切にすると明るく笑うななせ。

 

 そんな不器用な彼女の様子に、遠子先輩との絆が切れてしまった痛みを感じながらも、心葉はこれでいいのだと思った。

 

 その後、二人で遅刻ぎりぎりの登校をして、授業を受ける。このまま何事もなく終わる……はずだった。

 

 昼休み前の授業、その終わりがけ、心葉の携帯に一通のメールが届いた――櫻井からだ。

 

『『遊びは終わりです。

その授業が終わったら、荷物を持って校門まで来てください』』

 

 昼食をななせと食べる、という約束を反故にして、メールに従う心葉。それは櫻井を恐れたからではなく、櫻井に対する怒りと、煮え切らない自分自身に対する怒りだった。

 

 そして、次に櫻井が『執筆』したことは。

 

『「コノハ」』

 

 朝倉美羽との、再会。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 美羽の付き添いとして一詩も同行しながら近くの喫茶店で話をする心葉と美羽。やはり、美羽をけしかけたのは櫻井だった。しかし、美羽は櫻井の思惑に乗るのはいやだと、もう櫻井の駒にはならないと、だから自分から会いに来たのだと言った。

 

『「……コノハは、どうしたいと思ってるの?」』

 

 そんな美羽の問いかけに、少し躊躇した様子で、震えながら弱弱しく答える心葉。

 

『「ぼくは……もう、小説は書きたくない」』

 

 そんな心葉の答えに、『「そのほうが……いい」』とかすかなぬくもりを込めて肯定する美羽。井上ミウに戻ってしまえば、心葉は傷つくからと。

 

『「あたしの気持ちは伝えたわ。コノハは、書きたければ書けばいい」』

 

『「……井上、どんなに焦っても、二つの道を同時に進むことはできない。どの道が、井上にとって最善の道なのか、今は立ち止まって、納得がいくまで考えるといい。オレは、いつでも力になる」』

 

 それぞれの言葉を投げかけて、心葉の前から去る二人。そんな二人と入れ替わるように、また櫻井が現れて。

 

『「心葉さんが傷つくから、書かないほうがいいなんて――美羽はずいぶん甘っちょろくなりましたね。がっかりだ」』

 

『「それじゃ、困るんすよ。…………心葉さんは、天野遠子の作家なのに」』

 

『「早く行ったほうがいいすよ。今頃、毒を飲まされて、死にかけてるかもしれませんから」』

 

 そんな不吉な言葉を打ち込んだ。

 

 背筋に走る悪寒に従って心葉が遠子先輩の許へ急いだものの、遠子先輩は毒を飲まされたのではなくただの風邪であり、結局また心葉が嵌められただけだった。

 

 しかし、そんな弱い姿を見せる遠子先輩に思うところがあったのか、一晩中看病をする心葉。

 

『「お母さんの、ごはんが食べたい……」』

 

 そんな小さく当たり前な、けれど、決して叶うはずのない我がままを虚ろな意識で強請る遠子先輩。そんな先輩に掛ける言葉を心葉は知らず、ただただ自分の書いた物語を読み聞かせ、食べさせることしか出来なかった。だけど、その物語を遠子先輩はお母さんの味みたいだったと評する。

 

『「……お母さんのごはんは、甘くて、あたたかで、哀しいことがあっても、お母さんのごはんを食べると、忘れてしまうの……。まるで、魔法にかかっているみたいだった……。お母さんは〝マナ〟みたいなお話を書きたいって……いつも、私に話していたわ……」』

 

 マナというのは、聖書のモーセのお話に出てくる食べ物、神様の愛、天の糧だと言う。それは霜のように薄くて、蜜のように甘いのだそうだ。

 

 空っぽのおなかを満たすような、マナの物語。そんなお話を書くのが、遠子先輩のお母さんの夢だったのだと、聞かせてくれた。

 

 その後のことだ。遠子先輩の家を去ろうとした心葉は、帰り際に櫻井叶子と玄関で鉢合わせした。どうやら仕事から帰ってきたようだ。

 

 そんな彼女にお帰りなさいと明るく出迎える遠子先輩。しかし、櫻井叶子はまるで遠子先輩をいないものとするかのように無視し、家の中へ入っていった。

 

 お大事に、としか言えなかった自分に無力感を感じながら、帰路につく心葉。しかし、ただ無力感に打ちひしがれるだけというのを――

 

『「叶子さんに、会いました?」』

 

 櫻井流人(この男)は許さない。

 

 いつも遠子先輩が笑いかけ、それを櫻井叶子が無視するのだと、苦しげに唇を噛む櫻井。遠子先輩は、小さい頃はあんなに積極的ではなかったのだと言う。何が遠子先輩を変えたのか?

 

『「遠子姉は、結衣おばさんになろうとしたんですよ」』

 

 中学の頃から櫻井叶子と同級生だった天野結衣は、今の遠子先輩のように明るく積極的で、二人が親友だったことを心葉は知っている。しかし、自分の性格を改善してまで何故? という疑問は残ったのだが。

 

『「だけど、どんなにおばさんに近づこうとしても、遠子姉には、ひとつだけできないことがある」』

 

『「結衣おばさんの話を書くことっすよ。それだけは、本人じゃないと不可能だった」』

 

「まさか……」

 

 ページを捲る手前、私は一つの推測にたどり着いた。それは、ついさっき遠子先輩が言っていたこと……櫻井が、遠子先輩が何故、心葉に小説を書くことを求めるのか。

 

『「不可能な――はずでした」』

 

『「けど、心葉さんを見つけた(・・・・・・・・・)。おばさんが書くことのできなかった物語を完成させることができる可能性を持つ、あなたを――」』

 

 天野結衣が書くはずだった小説を書くこと。それこそが遠子先輩の望みだと、願いだと察した心葉。

 

『「そんなの無理だっ! だってぼくは、遠子先輩のお母さんじゃないっ。別の人間だ。そんな風に期待されても、なにもできない!」』

 

『「書いてください、心葉さん。オレが遠子姉に、オーレ=ルゲイエのすみれ色の小壜を渡す前に。オレたちを救えるのは、あなただけなんだ」』

 

『「無理だ。ぼくは書けない」』

 

 気高く輝く天の糧のような、真っ白なマナのような物語。そんな小説を書くことを期待されていることを知ってしまった心葉は、その重圧に押しつぶされそうになる。

 

 期待をかける者、救いを求める者、作家にはなれないと、作家は裏切られるのだと現実を突きつける者、色んな人の言葉が心葉の頭の中で暴れ周り、苦しめる。

 

 走ることに疲れ、考えることに疲れ、何度も倒れてしまえたらと思うほどに暗闇に迷い込んだ心葉。そんな彼を救ったのは――

 

『「よかった……会えて」』

 

『「井上……どうして泣いてるの?」』

 

『「どうしたの、井上! なにかあったの?」』

 

 ――ななせだった。

 

 哀しみに暮れる心葉と同調するかのように、半泣きになって心葉の手を包み込むななせ。その手は酷く冷たくて、どれほど長い間心葉を待っていたのかを思い知らせる。そんなななせの在り方に、心葉はとても胸が打たれて、自分の哀しみを吐露する。

 

『「……っ。みんな、ぼくに小説を書けって言うんだ。遠子先輩も、流人くんも、ぼくは小説を書かなきゃダメだって……っ。ぼくの担当だった佐々木さんも、また小説を書かないかって……。井上ミウに、戻れって……! ぼくは、書きたくないのに……っ! なのに、みんな」』

 

 声を詰まらせ、泣きじゃくりながら、ともすれば弱音ととられても仕方のない苦悩を、痛みを、ななせはぎゅっと抱きしめた。

 

『「だ、だったら、書かなくていい……よ。もう井上は、書かなくていいんだよ……っ。井上が小説を書かなくても、あたしは井上が好き……っ。ずっと井上の側にいるっ」』

 

 目頭が熱くなって、のどの奥がきゅっと痛みを訴えた。

 

 それはなんて純粋で、純心な『好き』という想い。ただただ井上心葉だけを見つめた、等身大の気持ち。上巻が終わって、下巻に入っても、ななせのその気持ちは全く変わらなかった。

 

 ななせを邪魔だと断じた櫻井。そんな櫻井に乱暴をされそうになり、寸での所でそれを止めた心葉。そんな心葉に、櫻井は銀色の折りたたみナイフを放り投げながら言うのだ。

 

『「そいつでオレのこと、殺してください。でないと、何度でも同じことしますよ?」』

 

 親しさのかけらもない冷酷な眼差しと、弱い自分を受け入れてくれたななせを襲ったことに対する怒りで殺意に満たされそうになる心葉。そんな心葉を止めたのも、やはりななせだった。

 

『「ダメッ!」』

 

『「井上は、あんたの言うことなんかきかない! あ、あたしだって――あんたがなにしたって、絶対に井上と別れないからっ! こんなの全然大したことないっ。 あんたになんか、怯えたりしないっ! あたしは、この先もずっと井上と一緒にいるんだから!」』

 

 髪も制服もぐちゃぐちゃで、胸元のリボンも解けかかったまま、小さく震えながらも歯を食いしばり、大きな声を出して櫻井に叫ぶななせ。心葉の足元に放られたナイフを遠くへと投げ飛ばし、心葉の腕に顔を押し付けるようにしがみついて、誓うように言う。

 

『「……この前言ったこと、本当だよ。井上が好き……。あたしは、井上の側にいる」』

 

 視界が潤む。それはなんて素直で甘美な、誓いの言葉。小説なのに、紙上の文字を読んでいるだけなのに、どうしてこうも溢れ出る気持ちが伝わってくるのだろう。

 

「私も……こんな風に……」

 

 一夏に、素直になりたい。私がどれだけ一夏のことを好いているのか、伝えたい。

 

 そんな二人に当てられたのか、疲れたように言葉を吐く櫻井。

 

『「いいっすね……そんな風に愛してくれる相手がいて……」』

 

『「けど……オレも、引くわけにはいきませんから」』

 

 そんな櫻井の言葉に、心葉もきっぱりと言い返す。

 

『「ぼくも、引かない。琴吹さんを守るよ」』

 

 この事によって、より絆を深める心葉とななせ。

 

 だがこの後、物語は少しおかしな方向へと進んだ。

 

 櫻井に訪れた、しかし自業自得でもある衝撃の事実。その事実に打ちひしがれて心葉に泣きつく櫻井。

 

『「……心葉さん、冷たいっす」』

 

「何をしているのだ、この男は……」

 

 正直あきれしかない。櫻井のしでかした『あること』について、心葉の家で未成年でありながら自棄になって酒盛りしたり、竹田が慰めてくれないとぐずったり、これが本当に心葉たちを振り回した男なのか? というほどの情けなさだ。

 

 それはともかくとして。その『事実』のおかげで想定外の精神的ダメージを負った櫻井からの攻撃は止み、恋人として仲睦まじい様子を見せる心葉とななせ。デートの約束をして、このまま平穏に進んでいくと思ったのに――

 

『「遠子姉が――」』

 

『「助けてください、オレじゃダメなんです。今すぐうちに来てください。でないと、遠子姉が消えちまう! 心葉さんじゃなきゃダメなんです。だって遠子姉は、心葉さんのことが――。お願いします、遠子姉を助けてください」』

 

 デートの当日にかかってきた櫻井からの電話。けれど、それは今までのような脅すものではなく、涙に濡れながら必死の口調で助けを求めるものだった。そんな櫻井の様子にただならぬものを感じた心葉は、葛藤したものの――遠子先輩を選んだ。

 

 待ち合わせ場所には一詩に代わりに向かってもらうよう連絡をいれ、遠子先輩の家へと向かう心葉。しかし、そこに遠子先輩の姿はなく、恐れつつも櫻井叶子から遠子先輩が向かったと思われる場所を聞き出し、単身岩手へ向かった。

 

 その日は、天野夫妻の命日だった。遠子先輩はお墓参りにきたのであって、何か危険にさらされていたわけではなく、結局、心葉はまた櫻井に騙されたわけだ。それも……致命的な想いを気づかされる形で。

 

「やはり、心葉は……」

 

 新幹線で深夜十一時の東京に帰ってきた二人。心葉は遠子先輩を送ろうとするが、それを明確に拒絶する遠子先輩。そうして心葉は、遠子先輩が自分から離れていこうとしていることを確信する。けれど、それは心葉にとって耐え難い苦しみで。

 

『「遠子先輩っ! ぼくは、なにをしたらいいんですか……っ!」』

 

『「小説なんて、書きたくありませんっ! 作家になんて、なりたくありませんっ! 遠子先輩のお母さんが書くはずだった、マナの話も書けません! でもっ、でも――、ぼくが書いたら、遠子先輩は、ずっといてくれるんですかっ? どこへも行かないんですか?」』

 

 それはまるで、道しるべを見失ったさまよえる旅人のようで、あるいは、母親とはぐれてしまった小さな子供のようで。そんな心を遠子先輩は――

 

『「もう、いいの」』

 

 哀しそうに、突き放した。心葉なら、全部をいい方向に持っていけるかもしれない、そう思っていたと。けれど――

 

『「でも、それはわたしの勝手な願望だった……」』

 

『「だから、もういいの。今まで嘘をついていて、ごめんなさい」』

 

『「さようなら」』

 

 その華奢な後姿を、心葉は追いかけることができなかった。

 

 その後、ななせを任せた一詩に連絡を取ると、何故か応答したのは美羽だった。さらにそこからななせの声も聞こえるし、なにがなんだかよくわからない心葉に、一詩は電話ではゆっくり話せそうにないからと、一詩の家へ来るように言われた。

 

 それにしたがって一詩の家へ行くと、当然のことながらななせから責められた。美羽からはななせが気丈で決して泣かなかったことを聞かされ、秘密を持っていた遠子先輩を都合のいい幻影だったのだと断じた。心葉には幻ではなくて、現実としてななせがいるのだと。

 

 そして、ホワイトデーにななせと名前で呼んでくれたら、もう一度信じると言われ、一詩の自転車を借りてその場を後にする心葉。自分の家にたどり着いた心葉の目の前には、絶望に身を浸らせ、静かに涙を流す櫻井がいた。

 

『「……っ、心葉さん……。今日、遠子姉を追っかけてくれて……ありがとうございました。オレじゃもう、遠子姉を救えない……。幸せになってほしいんです……大事な……大事な人だから……。――」』

 

『「……心葉さん……遠子姉のために、書いてください。――心葉さんが書けば……っ……一生の、お願いです」』

 

 一体、櫻井は何を知ってしまったのだろうか。今までのギラギラした獣のような雰囲気とは打って変わった様子。

 

 傷つけてしまったななせや、沈んだ様子の櫻井を気に掛けながらも、遠子先輩の面影を求める心葉。小説を書いたら、遠子先輩は戻ってきてくれるかもしれない。そう思って何か書こうとしたのに。

 

『どうしたんだ。手が動かない……。』

 

『どうして! 今まであんなにすらすら書けていたのに!』

 

 読み進めていくうちに、机の上で顔を涙で崩しながら、必死に必死に物語を生み出そうとして、でもできなくて絶望する心葉が鮮明に浮かび上がり、私の胸を締め付ける。

 

 直後、発作を起こして倒れこむ心葉。そんな彼を介抱したのは遠子先輩――ではなく、竹田千愛だった。

 

『「少しはマシな人間になったもりだったのに」』

 

『「人って、やっぱり変われないのかな」』

 

『「心葉先輩がそれを言うのは、裏切りです」』

 

 心葉に平手打ちを放つ竹田。そう、彼女はかつて自分が自殺をしようとしたとき、心葉に生きなきゃダメだ、一緒に生きる理由を探すから、一緒に悩むからと、自殺を止められたのだ。人間の心を持たないお化けの自分に、生きる理由を探せと。

 

『「今度はあたしが心葉先輩に教えてあげます。人は変わるんです。このあと、つきあってください。心葉先輩に会わせたい人がいます」』

 

 そうして竹田が心葉に会わせたのは、ある一つの家族。それは、かつてまるで地獄だと嘆くいた男と、それが贖罪だと、共に生きてゆこうと愛した女の家族。

 

 人が変われると、絶望と不信と贖罪の、真っ暗な闇に落とされても、打ちのめされ、抉られ、倒れても、歯を食いしばり、覚悟を決めて、一歩踏み出せば、生きているかぎり変化は訪れるのだと教えられた心葉。

 

 翌日の放課後、心葉は美羽に会いに行っていた。

 

 美羽は言う。コノハの書いた物語は自分を傷つけだけど、救いもしたのだと。そんな美羽の言葉に、『青空に似ている』を書いてよかったとはじめて思えた心葉。

 

 その後、穏やかな会話が続いた中で、心葉が何かに気づいたようだ。しどろもどろの言い訳をして抜け出し、自分の記憶の整理をして。

 

『まさか――! 流人くんの言葉の意味は! 毒を盛ったのは(・・・・・・・)――!』

 

 櫻井に連絡を取った心葉だったが、相対した櫻井は静かに泣いていた夜よりもやつれ、精神的なバランスを崩しているようだった。

 

 話し合う間もなく、夢遊病者のような足取りで、猫の幻影を見ながら車の迫る車道へと飛び出そうとする櫻井。そんな櫻井を呼び止めたのは竹田で――

 

『「流くん」』

 

 その胸に――ナイフを突き刺していた。

 

 けれど、櫻井の浮かべた表情は、何物にも勝る至福を手に入れたような、安らかな満ち足りた表情で……。

 

『目の前で起こった惨劇のすべてを、愛情のすべてを、ぼくは呆然と見つめていた』

 

 その後、櫻井が重傷を負ったということを遠子先輩のところへ知らせに行くと、遠子先輩は櫻井叶子も連れて行かなければならないと言う。だけど、当の本人の態度は冷たく、今まで通りそこに遠子先輩がいないかのように振舞う始末。

 

『「流人は、誰よりも一番、お母さんのことが好きだったのよっ! お母さんに、愛されたがっていたのよ……っ!」』

 

 遠子先輩がそう叫んだ瞬間、心葉の中で全てが繋がった。

 

『「遠子先輩の話は本当です。流人くんは、あなたのことが誰よりも好きでした。――」』

 

 そこから紡がれる、心葉の〝想像〟。それは、櫻井叶子と天野文陽、そして天野結衣の本当の関係。『背徳の門』を書き綴った本当の意味。天野結衣がマナのような物語を書きたいと願った、その真意。それら全てが、私の想像をはるかに超えたものだった。

 

『「……流人の病院はどこ」』

 

 全てを知り、櫻井叶子は踏み出した。櫻井も一命を取りとめ、竹田とずいぶん絆が深まったようだ。そして、心葉は――

 

『書きたい。』

 

『書きたい。』

 

『書かなきゃ。』

 

『ぼくの心に、この震えが、衝動が、残っているうちに。』

 

『書き留めたい、表したい、伝えたい。』

 

 櫻井叶子と対峙し、事の真相の全てを語りきり、心葉は、醜い現実をありのままに語ることこそが小説を書くことであるとする櫻井叶子に言ったのだ。『美しい物語もあるのだ』と。

 

 それから卒業式の日まで、心葉は一心不乱に原稿用紙に小説をつづり始めた。家でも、教室でも。

 

 そして――

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

『「ありがとう……。井上に、名前で呼んでもらうのが……夢だったの。叶っちゃった。ありがとう。嬉しい……」』

 

 

 

『「ねぇ、泣かないで、

胸を張って、

 笑って、

 見つめて、考えて、

 立ち上がって、一人で歩いて」』

 

 

 

『もう、泣かない。

 ぼくはこれから、道化のように、哀しみを隠して笑おう。

 ときに幽霊のように渇望し、ときに愚者として決断し、堕ちた天使のように穢れにまみれても、月と花を胸に抱いて、聖地へ向かう巡礼者のように歩き続けよう。

 そうして、神に臨む作家になろう。

 真実を見つめ、そこに想像という名の光をあて、新しい世界を創造する、そんな作家に。』

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 エピローグまで全て読みきり、本を閉じたとき――いや、それより少し前から、私の頬を涙が伝い続けていた。

 

「あ、れ……?」

 

 涙は後から後から溢れ出てきて止まらない。ぬぐってもぬぐっても、乾くことがない。まるで、水源から湧き続ける川のように、止まることを知らない。

 

「っく……!」

 

 のどが痛い。胸が痛い。物語は悲しい結末じゃなかった。明るい未来が見える結末だった。ハッピーエンドだった。

 

 なんて、透明な物語。好きだという気持ちが、こんなに綺麗で、美しくて、時に歪で、心を動かすものだったなんて……私は、知らなかった。

 

 涙を流す。哀しくもない、苦しくもない、ただ――泣きたかった。

 

「いち……か……」

 

 大好きな人の名を呼ぶ。それだけなのに、たったそれだけのことなのに、胸が暖かくなる。一夏の姿を思い出すだけで、勇気が湧いて来る。そして――また涙が溢れる。

 

 心が洗われるようだった。ISだとか、世界がどうとか、色々なわだかまりが溶けるように消えて、今はただ、一夏を愛しいと思う気持ちしかなかった。

 

「一夏」

 

 そのまま、雪子叔母さんが神楽の時間だと呼びに来るまで、私は静かに涙を流し続けた。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「ひっさしぶりだなぁ……けど、案外変わってないもんだな」

 

 祭囃子と太鼓が鳴り響く、午後五時の篠ノ之神社。鳥居の前でそんな気楽な調子で呟いたのは、IS学園から外出許可を取り、篠ノ之神社に来た一夏だ。

 

 実は、箒から六時半に来るよう言われていた一夏だったのだが、篠ノ之神社の巫女――つまり、箒が神楽を舞うということを思い出して、指定された時間よりも随分と早く来たのだ。

 

「箒の舞は、五時半からだったよな」

 

 そして、八時から花火の打ち上げである。祭りのスケジュールを反芻した一夏は、ここに来るまでにずっと気になっていて、考え続けたことをまた考える。

 

 ――即ち、『箒が恋していることを、どうしてこんなにも気になっているのか』ということだ。

 

 一夏は、他人の恋愛にとやかく言うことはしない。そもそもの話、『恋愛』というものがどういうものか分かっていないからだ。

 

 けれど、例えばの話、箒が好きになった人物がろくでもないやつだったら、一夏はやめとけと止めに入るつもりだった。『恋愛』というものがどういうものかは分かっていないが、そのろくでもないやつのせいで箒が『不幸になる』ということは分かるからだ。

 

 問題はそこからだ。これが例えば箒じゃなくて、セシリアや鈴、シャルロットやラウラでも同じ事を考えただろうと一夏は思っている。そしてその理由は、簡潔に言ってしまえば『仲間だから』だ。

 

 しかし、箒に関しては何故かそれがしっくりこない。……いや、しっくりこないというか、何かが不足している気がするのだ。『仲間だから』という理由の他に、何か別の理由が在る、そんな気がしてならない。

 

 適当にぶらぶらと歩きながら考えるも、ここ最近ずっと考えてきたことが、そう簡単に解が出るはずもない。気づけば、もう五時半が目前に迫っていた。

 

「やべっ、急がないと」

 

 駆け足で神社の本殿へと向かうと、どうやらギリギリで間に合ったようだ。遠目から、舞を見に来ている観客に一礼しているのが見えた。

 

 もう少し近くで見たかった一夏は、迷惑を承知で人の間を掻き分けていく。舞台の上に立つ箒から、大体十メートル程離れた所に辿り着いた時――

 

 

――しゃらん――

 

 

 神楽が、始まった。

 

 笏拍子(しゃくびょうし)篳篥(ひちりき)神楽笛(かぐらぶえ)和琴(わごん)の四種の楽器から奏でられる伴奏に乗り、純白の衣と袴の舞装束に身を包み、金の飾りを装って薄い化粧と赤い口紅を引いて舞う箒は、この辺り一帯の空間で、誰よりも優美で、幽玄であった。ともすれば、永遠に神に仕えることを誓った、穢れなき処女(おとめ)の巫女のように。

 

「きれぇ……」

 

 隣で、おそらく父親であろう人物に抱えられた幼い少女が、目を輝かせながら感嘆したようにそう言葉を溢した。それは周りの人たちも同じ気持ちのようで、誰もが箒に注目し、その姿に見惚れていた。

 

「…………」

 

 だが、一夏だけは少し違った。確かに、神楽を舞っている箒は綺麗だ。それに関しては寸分の違いも無く同意する。だが何故だろう、一夏は無性に哀しくなり、切なくなって、喪失感に襲われたのだ。

 

 

 

 ――まるで、箒がどこか遠くへ……それこそ神様の所へ、消えて行ってしまうような気がして……。

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

「あー、わからん……」

 

 昔からの待ち合わせ場所である鳥居の柱を背もたれにして、俺は頭を抱えていた。

 

 箒の神楽を見てから、何だか変な気分になってる。しかもそれがどんな感情なのか、自分でも把握できていないから性質たちが悪い。俺は一体どうしたんだ? 風邪ってわけでもないし、夏バテしてるわけでもないし。

 

「一夏」

 

 名前を呼ばれて、地面に向けていた視線を上げる。そこには、白地に薄い青の水面模様、銀の珠と金色の曲線画流れ、所々に朱い金魚が泳いでいる浴衣を身に纏った、涼しげで落ち着いた雰囲気の箒がいた。手には小さなスミレがちりばめられた群青色の巾着を持っている。

 

「……よっ、箒」

 

 正直に言えば少し見惚れてしまい、挨拶が少しだけ遅れる。しかし、箒はそれを特に気にした様子もなく、挨拶を返してくれた。

 

「こんばんは、だな。一夏。待ち合わせ時間よりも早めに来るとは、殊勝な心がけだ」

 

「まあ、箒の舞見てたからな。早いのは当たり前だ」

 

 瞬間、箒が目を丸くした。むむ、なんとなく箒が言いたそうなことが分かるぞ。ずばり、『何を言ってるんだ、コイツは?』って感じのことだな。

 

「……え?」

 

「だから、箒の舞を見てたんだってば。五時半からの里神楽」

 

 もともと神楽っていうのは、皇居および皇室との関連が深い――例えば伊勢神宮とかで奏される歌舞のことを指す。篠ノ之神社みたいな民間の神社で奏される歌舞は、前者と区別する場合は里神楽っていうらしい。これ、豆知識な。

 

「み、見たのか?! 私の……神楽舞を――!?」

 

「まあな。なんか、いつもと雰囲気違って……なんていうか、綺麗だった。思わず見惚れちまうぐらい」

 

「っ――!!」

 

 ぼっ、という擬音が聞こえてきそうな位、一瞬で顔が真っ赤になった箒。視線を地面に落とし、指をもじもじと弄くりながら俺の方をちらちらと見てくるその仕種は、酷く庇護欲を掻き立てるものだった。

 

「み、見惚れたのか……?」

 

「あ、ああ……何か変か?」

 

 そんな箒の仕種に多少どぎまぎしながら答えると、箒は嬉しそうにはにかみながら、俺に微笑みかける。

 

「いや……一夏にそう言ってもらえて、私はとても嬉しい」

 

「…………」

 

 なんていうか、その……箒の笑顔があまりに自然で、しかも浴衣のせいかすっごく可愛く見えた。――思わず、馬鹿みたいに口を開けてポカンと呆然としてしまうほどに。

 

「一夏……?」

 

「い、いやっ、なんでもない! 早く屋台回ろうぜ!」

 

「きゃっ、い、一夏!?」

 

 そんな俺の恥ずかしい様子を誤魔化す為に、箒の手を引いて出店巡りに連れ出す。――すまん、箒。ちょっと強引だったかも。反省してる。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「(綺麗……見惚れた……か……)」

 

 一夏に手を引かれて、出店の間を歩いていく私。今の私の表情は、酷くだらしないものになっていることだろう。だから、一夏に手を引かれるままに歩みを任せ、下を向いているのだが。

 

 だけど、それも仕方ないとしてほしい。だって、一番好きな相手から『綺麗』だとか、『見惚れた』などと言われてしまえば、世の恋する女性は表情が緩むに決まっている。しかも何気に手を繋いでいるし……だからこれは不可抗力なのだ。

 

 しかし、あまり浮かれてばかりもいられない。一夏は『神楽を舞っている私に見惚れた』と言ったのだ。残念ながら、神楽を舞っていた時の私は、普段よりも三割り増しで容姿や雰囲気が良かったはず。何とか普段の私で見惚れてもらえるように自分を磨かなければ――!

 

 そう考えたら、自然と頬の緩みは引き締まった。うむ、今なら顔を上げても問題ないな。

 

「わたがしに焼きそばに焼きもろこしに、一通りあるな。さすがは篠ノ之神社」

 

「まあ、それなりに古くから続いている盆祭りだからな。町内会の方々も参加して下さっているし、屋台の種類が豊富でも不思議ではない」

 

 一夏が上げた出店の他に、お面や射的、くじ引きはもちろんの事、焼き鳥、ベビーカステラ、チョコバナナ、りんご飴や団栗飴、珍しいものではケバブなんてものを売り出している店もある。

 

 と、そこで私は昔のことを唐突に思い出した。

 

「そういえば、お前は昔『全部回り切れねー!』と嘆いていたな。今なら全て回り切れるのではないか?」

 

「あー、そういえばそんなこともあったような、なかったような……」

 

 くすりと笑いながらそう指摘すると、一夏は少し恥ずかしそうにしながらそっぽを向いた。少々子供っぽかった自分を思い出して赤面しているのは、想像に難くない。

 

 しかし、どうやらやられっぱなしで終わる一夏ではなかったようだ。悪戯を思いついた悪がきのように意地悪そうな笑みを浮かべて、私に言う。

 

「そういう箒だって、金魚掬い苦手だったよな。負けず嫌いを発揮して、柳韻さんからもらったお金をお互い四分の一も使った……いや、使わされたの、覚えてるよな?」

 

「む……」

 

 今度は私が恥ずかしさで赤面する番だった。ああ、覚えているとも。お前に負けるのが悔しくて、何度も付き合わせたことを。終いには屋台のおじさんが一回無料でさせてくれるぐらい付き合わせたさ。だがな――

 

「一夏、私をいつまでも過去のままだと思うなよ。今ならお前に勝ってみせる」

 

 ふふん、と私が挑戦的にそう言うと、一夏はにやりとして私に提案する。

 

「お、言ったな? じゃあ勝負しようぜ。負けた方が好きな食べ物一個奢りな」

 

「いいだろう、望むところだ」

 

 そういう訳で、金魚掬いの屋台を探す。すると、案外近くに目的の屋台はあった。挑戦料は一回百円。私と一夏はそれぞれの財布から百円玉を取り出し、気の良さそうなおじさんに差し出す。

 

「一回だね? 毎度あり」

 

 そう言ってモナカを私たちに手渡した。その時、一夏が浴衣で大丈夫なのかと気が付いたかのように私に尋ねたが、そんな心配は無用だ。というわけで……。

 

「「勝負!!」」

 

 

◆◇◆◇

 

 

「うむ、美味い。いや、済まんな一夏。こんなに高いものを奢らせてしまって」

 

「ち、ちくしょう……」

 

 結果からいうと、俺は負けた。いや、金魚掬いは三対三の引き分けだったんだ。なんか、箒の器から一匹跳ねて水槽へダイブしようとしてたんだけど、日頃鍛えている賜物なのか、驚くべき反射速度で器をさっと動かして、跳ねた金魚を箒はキャッチした。で、俺はそれに気を取られて、箒は器を動かすのに集中を割いたせいでモナカが破れて、引き分けになった。延長戦ということで、今度はヨーヨー釣りに挑戦したんだけども、そこで俺は惨敗した。ちなみに一対四。

 

 潔く負けを認めた俺は、箒のお望みのものを奢ることになった。まあお祭りとはいえ、そんなに高いものはないだろうと高を括っていたのだが……。

 

――前々から食べてみたいと思っていたのだが、値段のせいでなかなか手が出せなくてな。

 

 そう言って箒が俺に奢らせたのは、りんご飴屋に売っていたあんず飴という一品。お値段はなんと……八百円。普通に高かった。俺のファースト幼馴染は全く遠慮がなかった。

 

 店主によると、旬の果物で飴を作ってみたかったんだとか。だけど、納得いく果物で作ろうとしたら、ある地方特産品のあんずしか考えられず、一個八百円という異例の値段になったのだと言う。ちなみに、二、三個売れたらいいなぁ程度のものらしいので、十個限定販売。

 

 はむはむと美味しそうに飴を食べている箒をじーっと見ていると、箒は何かに気づいたかのようにコホンと一つ咳払いをして、躊躇いがちに俺に訊いてきた。

 

「ま、まあその、なんだ……勝負だったとはいえ、私も高いものを頼んでしまったからな。ひ、一口ぐらいなら、食べさせてやらんこともない……ぞ?」

 

「食べる!」

 

 即答です、はい。当然じゃないですか。八百円もしてなおかつ数量限定の代物。一口も食べれないなんて悲しいだろ?

 

 しかし、俺がそう答えた途端、妙にそわそわしだした箒。一体どうしたんだろうか?

 

 かと思えば、よし、なんて気合を入れるような声が聞こえて、俺は頭の上にハテナマークを浮かべる。え、俺、そんな気合を入れなきゃいけないようなこと言ったっけ? 一口食べさせて欲しいだけなんだけど。

 

「い、一夏っ!」

 

「おう」

 

「あ、あーん……」

 

頬を赤らめながらそう言い、あんず飴を俺の方に突き出してくる箒。そういえば、こんなやり取りが前にあったな。あの時は俺が食べさせる側だったけど。

 

「あー、んむ」

 

 柔らかいあんずの果肉と一緒に、少々硬さのある飴を齧って咀嚼する。やはりいい素材を使っているためか、じゅわっと広がるあんずの酸味と甘味のバランスが絶妙だ。後に残った飴も程よいまろやかな甘さを残していて、あんずの味を引き立てて余韻を感じさせてくれる。うむ、これは八百円という値段は損ではないかな。

 

「ど、どうだ?」

 

「ん、美味いな。……なあ箒、もう一口だけもらえないか? この通り!」

 

 少しだけ頭を下げ、両手を合わせて箒に拝み倒すかのような姿勢を取る。

 

 損ではない。損ではないけど――一口だけなら大損である。いや、これ本当に美味しいんだって。

 

 俺がそんな風にして頼み込むと、箒はそっぽを向きながら、何故か少し恥ずかしそうにして俺に言う。

 

「し、仕方のないやつだな……なら、その――んだ」

 

「え? 悪い、聞こえなかった」

 

 俺がそんな風に聞き返すと、箒はまるでさっき見たりんご飴のように顔を真っ赤にして言い直した。

 

「だ、だから、はん――半分こに……する、か?」

 

「おお、マジか!?」

 

 そりゃありがたい。あれが半分も食べさせてもらえるなら、実質俺が箒に奢ったのは四百円分ということになる。なんとなく得した気分だ。

 

 箒はまだ半分食べていない。けど、今俺ももう一口食べたい。というわけで、箒から飴のついた棒をもらおうとしたのだが、箒は俺に手渡そうとしなかった。

 

「なんだよ箒、半分くれるんじゃないのか?」

 

「な、なにもただでとは言っていない。――条件がある」

 

「条件?」

 

 一体何だ? まさか他の物を奢れとか言うんじゃ――!?

 

「お前の分は、その、全て私が食べさせる。その代わり、私の分は、お前が食べさせてくれ」

 

 …………つまりなんだ。常に食べさせあいっこって事か?

 

「……それ、面倒臭くないか?」

 

「べ、別にいいだろう! 私がそうしたいのだ! ……まぁ、どうしても嫌だというのなら、無理強いはしないが……」

 

 そう言って、少々しょんぼりとした雰囲気を出す箒。うーん、まあ面倒だけど、何かがなくなるわけでもないしなぁ。そして俺はあんず飴が食べられるし。…………なんか箒がしょんぼりしてるの、見てたくないし。

 

「まあいいか。じゃあさ、早速食べさせてくれよ。いいだろ?」

 

 俺がそう言うと、きょとんとした顔を見せた後に、珍しく照れ照れとした笑みを見せる箒。普段の厳しい感じとはギャップがあって、ちょっと可愛かった。

 

「し、仕方のないやつだな。では……あ――」

 

「――あれ? 一夏……さん?」

 

 箒が俺に食べさせようと飴を差し出しかけた瞬間、俺は背後から掛けられた声に反応し、振り返った。箒は不自然にならないようになのか、自分の口元へと飴を運んでいたが。で、その俺に声を掛けてきたのが――

 

「おー、蘭か」

 

 五反田蘭。俺の友人である五反田弾の一つ年下の妹。その周りにも四人ほどの女の子がいる。おそらくは同級生だろう。

 

 蘭とその他四人の女の子は、お祭りということもあってか全員が箒と同じく浴衣姿だった。髪も結い上げているが、簡単なものじゃなくて多少手の込んだ髪型をしていた。ううむ、俺も浴衣着てきたほうが良かったかもしれないな。

 

「き、奇遇、ですね……」

 

「そうだなー。案外、知り合いに会わないと思っていたらばったりだったな。弾は?」

 

「さ、さあ? 家で寝てるんじゃないですか?」

 

 寝てる? 寝る時間にはまだ早いと思うんだけどな。まあいいか。

 

「蘭の浴衣姿って初めて見たけど、和服も似合うんだな。洋服の印象しかなかったから、ちょっと新鮮だ」

 

「そ、そう、ですかっ。あ、ありがとうございます……」

 

 そう言って、さっきの箒と同じように顔を赤くして俯く蘭。それを皮切りに、周りの女の子たちと蘭の女子高っぽいやりとりが展開された。……うん、なんとなーく見慣れた光景だなぁとは思ったが、そういや俺ってIS学園という女子高に在籍してたんだったな。そりゃ似た光景を見たことがあって当然だ。そんな自分の奇異な状況に軽く現実逃避したくなるときもあるけど。

 

「学校の友達?」

 

「え、えっと、その、生徒会のメンバーで……」

 

 周りの四人の女子は、どうやらそういうことらしい。その子達の話によると、秋の学園祭のアイディアを探しに来たんだとか。アイディアって屋台とかか?

 

 その後、なんだかんだで蘭を置いて撤収してしまった四人の女の子たち。蘭の様子から元々撤収するつもりはなかったんだと推測出来たのだが、アイディアはきちんと集まったんだろうか? 行き当たりばったりもいいけど、きちんと順序立ててすることも大事だとお兄さんは思うぞ。

 

「え、えっと、そのっ、あの子たち、ふ、ふざけるのが好きで、ですねっ」

 

「あー、なんかわかるぞ」

 

 確かにわかる。俺の中でそういうことをしそうな筆頭といえば鈴だろうか。臨海学校の時も急に移動監視塔ごっことかやりだしたし、セシリアにサンオイルを塗るときも、手で温めずに塗りたくってたし。男でサンオイルなんて人生で塗る機会が一切なかった俺はともかく、女である鈴が日焼け防止の為のサンオイルの塗り方を知らないはずがないのだから、あれはやっぱり鈴の悪戯だったのだろう。

 

「け、けして、悪い子ではないんですっ。ないんですよ!?」

 

 何故かそう力説して俺の目前までやってくる蘭。うーん、何でそんなにもフォローをするのか。あれは一種のじゃれあいみたいなもんだろ。それぐらい蘭が生徒会の仲間大事にしてるって事かな。

 

 さすがに近づきすぎたと感じたのか、すみませんと詫びながらさっと俺から離れる蘭。まあ別に近くても俺は気にしなかったんだが。

 

「…………」

 

 あんず飴を舐めながら、無言で俺の手を引く箒。その視線が「この女は誰なんだ?」と俺に語りかけていた。しかもちょっと不機嫌そうだ。どうしたんだろう? そんなに蘭が怪しいやつに見えたのか?

 

「悪い、紹介がまだだったな。えーっと、こっちが五反田蘭。ほら、前に話してた弾ってやつがいただろ? あいつの妹」

 

「五反田蘭です」

 

「で、こっちが篠ノ之箒。俺のファースト幼馴染。前に言ったっけ?」

 

「いえ、お名前だけしか」

 

「そうだったか。まあ、とりあえずよろしくな。ほら、箒」

 

「……篠ノ之箒だ。いつも一夏が世話になっている」

 

「――っ!! こ、こちらこそ、一夏さんにはお世話になってます。よろしくお願いします」

 

 ん? なんだか蘭の頬が引きつっているような気がする。やっぱり初対面の相手だから緊張してるのか? 妙に箒の視線も鋭い気がしないでもないし。

 

 その後、何かを求めるように俺に視線を向ける二人。俺がなんだよと聞いても、そっけない返事を返すだけだった。うーん、じゃあ……。

 

「一緒に回るか? ほら、蘭の連れ、帰っちゃったし。あ、でも蘭も帰るのか?」

 

「いえ、帰りません! はいっ。ぜひご一緒しましょう!」

 

 喜色満面の笑顔で、かつ俺の手を握りながらそう言う蘭。そうだよな、皆で回ったほうが楽しいもんな。

 

「じゃ、色々見て回るか」

 

 俺がそう言って蘭と箒を促したのだが……。

 

 

 

「私は……もういい」

 

 

 

「え?」

 

 そう言ったのは箒だった。やや俯き加減で、その表情は憂いを帯びている。

 

「用事を思い出した。雪子叔母さんの手伝いもしなければいけない。だから、私はここでお暇させてもらおう」

 

 顔を上げ、申し訳なさそうに言う箒。なんだかその表情が、俺には無理な笑顔を――泣き笑いをしているように見えて――

 

「ではな、一夏。五反田さんも、祭りを楽しむといい」

 

 俺たちに背を向けてそう言う箒。和服の扱いに慣れていると言っていたが、その言葉に違いはなかったようで、俺が止める間もなく走り去って行ってしまった。

 

「馬鹿者……」

 

 ――去り際に聞こえたその言葉が、酷く耳朶(じだ)を打ち、そこに残って響いた。

 

「……どう、したんだろな。あいつ」

 

「さ、さぁ……私にはよく分かりませんが……そ、それよりも一夏さん! 早く屋台を見て回りましょうよ!」

 

「あ、ああ……」

 

 蘭に手を引かれるままになる俺。その後は、飲み物だったりイカ焼きを食べたりして色々回っていたのだが――

 

「そ、それにしても、人が多いですね」

 

「まあな。ここら辺じゃ一番大きな祭りだろうから、自然と人が集まるんだろうな」

 

 祭りに来場している人たちは、家族連れやカップルが多い。中にはさっきの蘭のように女子のグループも見かけたが、それも二回程度だった。

 

「わ、私たちって、どんな風に見えてるんでしょうね」

 

「どんな風って?」

 

「い、いえ、大した事じゃないんですけど、今、私と一夏さんが二人きりで回ってて……その、こ、恋人同士に、見えないかなぁ……なんて」

 

「二人……きり……?」

 

 もじもじといじらしそうにそう言う蘭だったが、俺は蘭の言葉のうち、一つの単語が響き、絶句した。

 

 

――その……一夏と、ふ、二人きりで、回りたいんだ……ダメか?

 

 

――――約束だぞ

 

 

「――っ!!」

 

 頭をハンマーでガツンと打ちつけられたような錯覚を起こす。箒の泣き笑いのような顔、去り際のあの言葉。全部が繋がった。

 

 ――俺は、本当に大馬鹿野郎だ。たった一ヶ月前の約束一つも守れないなんて!!

 

「悪い、蘭。俺、用事を思い出した」

 

「え?」

 

「本当にごめん。けど、どうしても行かなきゃならないんだ。悪い!」

 

「い、一夏さん?!」

 

 蘭が俺を呼ぶ声を無視して、俺はある場所に向かう。箒の雪子叔母さんを手伝うと言ったあの言葉は、多分嘘だ。……嘘だと、思う。確証はないけど。

 

 箒に本当に用事があったなら、それはそれでいい。けれど、抜け出した理由が方便なら、百パーセント俺が悪い。時刻は八時前だ。もしも箒に用事がないのなら、花火のよく見えるあそこにいるはず。

 

「急がないと――!!」

 

 

◆◇◆◇

 

 

「はぁ……」

 

 そよ風が草と肌を撫で、りぃん、りぃんと虫の声。満ち足りぬ月は遥か遠く、未だ天頂へと至らず。

 

 神社裏の高い針葉樹で出来た林の一本の木の下で、座り込んだ箒は曲げた膝を両腕で抱えながら短く溜め息をついた。

 

 箒は正直、早計だったかもしれない、とは考えた。しかし、箒はどうしても今日という日に他人が関わることが耐えられなかった――特に、一夏に恋心を抱いている者ならば尚更。

 

 あの五反田蘭という少女が一夏に好意を抱いていることを、箒は彼女と一夏の遣り取りですぐに理解した。一夏は懐いてくれないと嘆いていた覚えがあるが、それは結局一夏が鈍感だった、というある意味お約束だったわけだ。

 

 あのまま一緒に付いていくことも出来たが、絶対に楽しめないだろう、雰囲気を壊してしまうだろうという確信が箒にはあった。そして、そんな狭量な自分を見られたくないが為に一夏に嘘をついてここに逃げ込んで来たのだ。しかしそれは同時に、悪戯に五反田蘭という少女を一夏に近づけてしまうことを意味してもいたのだが。

 

 きっと、一夏は自分のことを頭の隅に追いやって、あの少女と楽しく屋台を回っているのだろう。そう考えたらふつふつと怒りが湧いてきた。

 

――次に会った時は、一発くらい殴ってやっても罰は当たらなかろう。

 

 そう考えを取りまとめた箒だが、二人が仲睦まじく祭りを楽しんでいる情景を想像してしまい、怒りが一気に冷めて切なさが代わりに込み上げて来て、涙が溢れそうになる。

 

「ふ、っく……」

 

 本来であれば、その情景には自分がいたはずなのに、と思う一方で、それを投げ打って逃げたしたのは自分なのだと、強く自戒する。目頭は熱いまま、のどの奥は痛むままだったが、涙は、どうにか収まってくれた。

 

 箒は腕に通された金と銀の鈴が付いた赤い紐――待機状態の紅椿に念じて、時刻を確認する。現在時刻は午後七時五十五分。あと五分で花火が始まろうとしていた。

 

 夏の風物詩である花火。それをこの誰もいない穴場で眺め、無聊(ぶりょう)と悲愴を慰めようと空を見上げた、その時だった。

 

「箒――!!」

 

 

 一夏(大好きな人)が、()の名前を呼んでいた。

 

 

 立ったまま手を膝にやり、肩を上下させ、息は絶え絶え。箒はすぐに、一夏がここまで走ってきたのだと理解した。

 

「い、一夏……?」

 

「や、やっぱり、ここ、だったか。箒も、ここ、覚えて、たんだな」

 

「ここだったかって……い、いや、そんなことよりも一夏、五反田さんは……どうしたのだ?」

 

 周りを見渡したり、耳を澄ませたりする限り、彼女の姿は見当たらないし、足音も聞こえない。ともすれば、もしかして一夏は――

 

「ら、蘭? えっと、蘭は……その、俺が用事あるからって言って、別れた」

 

「はぁ!?」

 

 一夏の返答は、ある意味予想通りで、ある意味予想外の言葉だった。

 

 予想通りというのは何てことの無い、一夏がこの場にいて蘭がいない理由が『一夏が蘭を置いてきたことに他ならない』と状況が証明しているからだ。

 

 予想外というのは『一夏が蘭を置いてきたこと』についてだ。箒の知る限り、織斑一夏という少年は基本的に誰にでも優しい。だからこそ、突然ばったり遭遇した蘭に祭りを一緒に回らないかと誘ったのだから。

 

 しかし、優しいからこそ一夏がこの場にいることがおかしい。何故なら、一夏が誰かを放り出して、別の誰かに会いに行くというのは、普段の彼からは考えられない行動だからだ。それも夜の時間で、女の子なら尚更である。

 

 一緒にいた本人に諭されたり、切羽詰った状況であるならともかく、今回に限ってその二つの線が原因だとは考えにくい。ではどうして……?

 

 そんな風に理解しているのに目を白黒させながら、頭の中をくるくると回して呆然としている箒に、一夏は息切れして崩れている姿勢を正し、九十度体を曲げた。

 

「ほんっ――とうに、ごめん!!」

 

 紡がれたのは謝罪の言葉。自分が思っていたこととは全く違うことが起こっていて、何が何やらと変わる状況に追いつけない箒は、ポカンとした表情を浮かべたままだ。

 

「俺、箒との約束をすっかり忘れてた。箒は二人きりで回りたいって言ってたのに、俺は蘭を誘って……だから、箒は俺が約束を反故にしたことを怒って、嘘をついて離れたんだろ?」

 

 ようやく現状の説明に理解が追い付いてきた箒は、目を見開きながら弁解する。

 

「べ、別に嘘をついたわけでは……」

 

「ここに来る前に雪子叔母さん、だったよな? その人に聞いたけど、箒は戻って来てないって言ってたぜ」

 

「う……」

 

 嘘をついていたという裏づけを取られていて、うろたえる箒。そんな箒を、顔を上げた一夏は真摯な眼差しで箒を見詰める。

 

「――――ぃ」

 

「え……?」

 

 俯きながら立ち上がり、何かを言った箒。それは小さな呟きで一夏には聞こえなかったが、涙を流すという目に見えた変化が、彼女にはあった。

 

「――るぃ…………お前は、ずるい! そんな……そんな風に謝られたら、私は……何も言えないではないか!」

 

 涙をぽろぽろと零しながら、言葉が止められない箒。今度は一夏がそんな箒の様子に呆然としながら、彼女の言葉を受け止める番だった。

 

「お前はいつもそうだ! 誰にでも分け隔てなく優しくて、なのに私のような女の気持ちには鈍感で、そうやって心をかき乱す! 千冬さんを異常なくらい好いていて、皆を守るなんて子供っぽい理想を抱いて、一緒に頑張ろうなんて手を引いて! 私はそんなお前が……嫌いだ……大っ嫌いだ!!」

 

 一夏の顔が驚愕と悲痛に彩られる。まさか幼馴染が自分のことを嫌っていただなんて、思いもしなかったのだろう。同時に、箒も驚いていたのだ。今の自分は感情に物を任せて言っている。つまり、今の発言こそが、箒も知らなかった自分の本心。

 

「だけどっ――!!」

 

 両手を胸元に持っていき、そこにある着物をぎゅっと握り締める箒。その姿はまるで、自分の胸から溢れ出そうとする何かを押さえ付けているように、一夏には見えた。そして、実際にその感覚は正しい。

 

 声が震え、唇が震えている。視界はぼやける程潤んでいて、のどが焼けるほど熱い。箒の心は、一夏に対する切なさや、嬉しさや、哀しさや、それら全てがない交ぜになっていて、自制が利かなくなっていた。

 

 ――溢れ出す想いが止まらない。どうしても伝えたい。他のどんな感情よりも強く、強く感じる、一夏に対するこの愛しさ()を。

 

 その時、花火が始まった。この花火の百連発はこの祭りの代表格の一つであり、一時間以上通して轟音が鳴り響き、空を鮮やかに彩る。

 

 このままでは、自分の伝えたいことが十分に伝えられない。そう本能で直感した箒は、前のめりに倒れこむように姿勢を崩しながら一夏の許に駆け寄り――首に腕を回して抱きついた。

 

 確実に、聞き逃すことの無いように、言い逃れ出来ないように、そのまま一夏の耳元へと顔を近づけ、そして涙声で――

 

 

 

「そんなお前が――好きだ」

 

 

 

 恋心を、響かせた。

 

 

 

「一夏が好きだ……大好きだ。世界中の誰よりも、お前を――」

 

 

 

 自分の耳元で響く、幼馴染からの告白。一夏はその出来事に、身じろぎ一つ取ることさえ叶わなかった。

 

 自分の体に抱きついていた箒の体が離れる。耳元には彼女の言葉と吐息の熱が残っていて、不思議と、花火の鮮やかな色彩も、豪快な音も目や耳に入らず、箒の表情や姿、言葉を一字一句逃すまいと、体の全神経が箒を注目することに注いでいた。それだけが、今の一夏の現実だった。

 

 箒は――笑っていた。涙を流しながら、触れれば壊れてしまいそうな、儚げな雰囲気を身に纏いながら。

 

「突然のことで、お前も戸惑っただろう。返事も後で構わない。ただ――」

 

 

 

 

「私は――篠ノ之箒は、織斑一夏を……愛している。それだけは、知っていてくれ」

 

 

 

 

 身を翻し、逃げ出すようにその場から走り去る箒。一夏はただ、その一連の出来事を呆然と受け止めることしか出来なかった……。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 ――さて、彼女らについて語るのはここまでだ。この先は、皆様方の〝想像〟に任せようではないか。

 

 人の心は千変万化。理性では理解できず、本能では成り立たず、言葉でも表しきれない、摩訶不思議なモノ。

 

 

 

 愛を告げた少女に――

 

 

 

 恋に彷徨(さまよ)う少年に――

 

 

 

 

 等しく、幸あらんことを……。

 




ここまで閲覧頂き、ありがとうございました。そしてお疲れ様でした。作者も嬉しい限りです。

また機会がありましたら何処かでお会いしましょう!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(必須:10文字~500文字)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。