インペルダウンはその日、夕方から霧が発生し始め夜になると1m先も見えない程の濃霧に包まれていた。
予報には無かったが、明日になれば霧も晴れるだろうと誰も気に留めなかった。
一方、通風孔をはじめとした様々なところからインペルダウン内部にも霧は侵入し、じわじわと広がりつつあった。
だが屋外とは違い、屋内の霧は視界を妨げる程のものではなく、業務に支障も無かった為、誰もが気にしなかった。
折しも1ヶ月前のロジャーの処刑により世は大海賊時代を迎えており、収監される海賊の増加について協議する為に署長や副署長をはじめとした主だった面々がマリンフォードへ出向いていた。
彼らがインペルダウンに戻ってくるのは3日後の予定だった。
それは不幸中の幸いであったかもしれない。
真っ先に違和感に気がついたのは見回りをしていた看守達であった。
うっすらと立ち込めている霧が何となくだが、肌に纏わりつくような気がしたのだ。
しかし、相手は霧であり、気のせいだろうと彼らは思って報告しなかった。
そして午前0時を過ぎた頃には霧はすっかりインペルダウン内部を制圧したような形となっており、各階層の牢獄から詰め所から果ては職員の居住区やトイレの中にまで広がっていた。
さすがに異常事態ではないか、と留守を任されていた副看守長はマリンフォードへ連絡するも、霧がインペルダウン全体に広がっているというだけのことに海軍側は対処のしようがなかった。
海賊の襲撃や囚人達の反乱といったことなら大事だが、そういうことではなく単なる自然現象だ。
もし注意深く霧の動きを観察していれば、海楼石でできたものの近くには行かない事が分かったかもしれない。
だが、もはや全ては遅かった。
そして、午前1時23分。
運命の瞬間は訪れた。
突如としてインペルダウン全階層に数多の笑い声が木霊する。
それは少女のものであったが、しかしどこにもその姿はない。
異常事態であることは確かで、再度海軍へ連絡するよう副看守長が職員達に命じた直後のこと――突如として彼は全身から血を吹き出して、みるみるうちに干からびて倒れ伏した。
目の前にいた職員達は事態の把握が全くできなかったが、その血液が浮き上がって霧の中に溶けていったのを目撃する。
彼らは慌ててその場から逃げ出したが――もはや逃げ場などインペルダウンにはどこにもなかった。
逃げる彼らはあっという間に副看守長と同じ末路を辿り、それはインペルダウン内外の至るところで起きていた。
インペルダウンの近くを哨戒していた数隻の軍艦でもそれは同じだった。
しかし、囚人達には一切の被害はなく、彼らはただ呆然と看守達が何かに血を抜かれて死んでいくのを見るだけであった。
僅か5分でインペルダウンの職員達及び周辺の軍艦に乗り組んでいる海兵達の血液を吸い尽くした存在は、各階層の牢屋の前に姿を現した。
それは金髪を長く伸ばし、紅い瞳が特徴的な10代後半程の少女だった。
彼女は自分に忠誠を誓うならば脱獄させ、さらにその後の生活などの保障をすると宣言した。
囚人達はその少女がどんな存在かを知っており、一も二もなく忠誠を誓うことを口々に叫んだ。
そして、レベル5までの各階層にて囚人達の一斉脱獄が幕を開ける。
しかし、彼女にとってレベル5までの囚人達は行きがけの駄賃程度のもので、目当ての存在はレベル6に捕まっている輩であった。
「……ジハハハ、お前か。ルナシア」
気配で察し、シキは牢屋の外に現れた人物に声を掛けた。
「ええ、そうよ」
ルナシアはそう言いながら、シキの牢屋の扉を開けて中へと入る。
「何の用だ? 昔みたいに剣術でも習いたいのか?」
「それはそれでいいけど、儲け話があってね。それにあなたが必要なのよ」
彼女はそう答えつつ、シキの手枷足枷を外し、彼の前に桜十と木枯しを置いた。
「俺に恩を売りに来たのか?」
「ま、そんなところね。あとついでに手下を増やしたかったから」
「お前の気配が至るところにあるのは……お前の能力か?」
「ええ。でもレベル6から逃がすのは今回はあなただけよ」
「ジハハハ! そいつはありがてぇな!」
そう言いつつ、彼は自らの得物を床から取って腰に差す。
そんな彼にルナシアは厭味ったらしく告げる。
「そういや髪型を変えたのよね。ロジャーにやってもらったんだって? 頭に舵輪をつけるなんて……私にはそのセンスが理解できないけど」
「相変わらずのクソガキで安心した。それで、お前の儲け話とやらは俺にも利益があるんだろうな?」
「ええ、財宝があるわ。再起の為にもカネは必要でしょ? もしかしたら計画の参加者は増えるかもしれないけど、それでも充分過ぎる程のカネは手に入ると思う」
ルナシアの言葉に頷きつつ、彼は問いかける。
「どこをやる?」
彼の問いかけに彼女は不敵な笑みを浮かべて告げる。
「マリージョアよ。天竜人達の屋敷なら財宝なんてそこら中に転がっているわ」
シキは目を丸くしたが、すぐに獰猛な笑みを浮かべる。
「良い獲物だ」
「ええ。あなたは船も浮かせられるでしょう?」
「ああ、問題ない。俺が船を浮かせてマリージョアに持っていくんだな?」
「そういうこと。襲撃は私、輸送役兼船の護衛はあなた……どう?」
「問題ねぇ。昔みたいに仲良くやろうじゃないか、副船長」
彼の言い方にルナシアは期待を込めて問いかける。
「ということは私の配下に?」
「ジハハハ! 馬鹿を言うな! 今回は手を組むだけだ!」
そう宣うシキをルナシアはジト目で見ながら告げる。
「それじゃさっさと逃げましょうか。他の囚人達はもう逃しているから」
「ああ、だがその前に……」
瞬間、シキは桜十を神速で抜き放ち、ルナシアを真っ二つに斬ろうとし――彼女の片腕に阻まれた。
それは腕を犠牲にして止めたのではなく、武装色の覇気を纏わせて受けたのだ。
シキは笑みを深くする。
「ジハハハ! このクソガキめ、よくも止めやがったな!」
シキにとっては全力どころか本気ですらない、ただ武装色の覇気を纏わせただけの一撃。
しかし、昔のルナシアであるならば防御も回避もできない速さと威力であった。
「能力無しでも悪くねぇ強さだ」
「当たり前よ。昔だって能力込みでいいなら覇権争いに参加できたわよ?」
「だが、お前はそうしなかった。その結果が今のお前だ……本当に、やべぇ化け物になりやがって」
シキは最大級の賛辞をルナシアへ送った。
彼とて彼女が何をやっていたか知っている。
一般的な海賊らしからぬことをずっと彼女は地道にやってきた。
その結果、もはやどの海賊すらも及ばない程の勢力圏を築き上げている。
「シキ、しつこく勧誘していい? 私は諦めが悪いから」
「ジハハハ……ムカつくガキだ。ま、聞くだけ聞いてやる」
「決まり。これから勧誘しまくるから覚悟しといて。それじゃ逃げましょうか」
「おう。一応聞くが……看守達はどうしたんだ?」
シキの問いにルナシアはわざとらしく口の牙を見せつけつつ、告げる。
「私の夜食になったわ。大変美味しく頂きました」
その言葉に彼は意味を察し、盛大に笑うのだった。
そして数時間後、夜明けと共にインペルダウンに多数の軍艦が到着した。
彼らはインペルダウン及び周辺を警備していた軍艦からの連絡が途絶した為、派遣された艦隊だ。
消えた軍艦の捜索が開始されると同時に調査隊がインペルダウン内部に入る。
そして、彼らが見たものは数多の干からびた死体であった。
同時に囚人達の脱獄――特に金獅子のシキが逃げていることが判明したが、世界政府は非公開を決定し、同時に関係者達に箝口令を敷いたのだった。
「オヤジ! 霧が近づいてくる!」
エドワード・ニューゲートはそんな報告を聞き、何となく嫌な予感がした。
「霧には良い思い出がねぇんだよな……」
思い出すのはルナシアだ。
あれ以来、会うことはあっても戦うことはなかったが、正直二度と戦いたくないというのが本音だ。
色々と彼は対策を考えてみたが、良いものが浮かばないというのがその理由だ。
本体が霧であり、しかも異常な再生能力によって生半可な攻撃では意味がない。
当時のニューゲートが全力で大気を揺らしても、すぐに元に戻ってしまう程の厄介さだ。
今の方が当時よりも力は増しているが、ルナシアの方はもっと増しているのは想像に容易い。
「あのクソガキめ、本当に強くなりやがった。こっちは老いて衰えていくだけだというのに……」
ルナシアの最大の脅威は若いままであること。
それこそロックス海賊団当時から彼女の姿は変わっていない。
ニューゲートをはじめとした強豪達が加齢によって衰えていく中で、一人だけ全盛期の力を保持しつつ、さらにそれを鍛えて伸ばすことができる。
その事実にニューゲートは軽く溜息を吐きながらも、見聞色で船の近くまで来ている霧を探ってみれば案の定、ルナシアの気配がする。
息子達にルナシアの厄介さを教えてやるか――
もうかなり前のことであり、当時あの場にいたとしても忘れている者が多いだろう。
また新しく息子になった者も多い為、教えておく必要があった。
ニューゲートは椅子から立ち上がり、おもむろに霧が近づいてくる左舷側へ歩いていく。
彼の動きに甲板にいた息子達が注目する。
「オヤジ!」
「マルコ、お前は見たことがあったか?」
「何がだよい?」
「ルナシアの厄介なところだ」
ニューゲートの問いにマルコは首を傾げる。
そういやコイツが入ってきたのはあの後だったか、とニューゲートは思い出しつつ、告げる。
「おい! 息子達よ! あの霧をよく見ておけ!」
ニューゲートは全力で霧に向かって大気を殴りつけた。
その行動にマルコ達はぎょっとしたが、霧を見て驚愕した。
霧はニューゲートの攻撃を受けて跡形もなく消し飛んだかのように思えたが……僅か数秒で元通りになった。
普通の霧ならばこんなことにはならない。
「アレがルナシアだ」
「ルナシア……?」
マルコをはじめ、ニューゲートの息子達は皆一様に首を傾げた。
彼らのオヤジに会いに来るとき、ルナシアは船でやってくるからだ。
「ああ。見ろ、俺が攻撃したから速くなったぞ」
ニューゲートの言葉にマルコ達が霧を見れば、先程よりも明らかに移動速度が上がっている。
霧というのは漂うものであって、意思があるかのように空を飛んでくるものでは断じてない。
その霧はあっという間にモビー・ディック号に到達し、甲板の一角に集まって人の形を作っていき――ルナシアとなった。
彼女はニューゲートをビシッと指差して告げる。
「ニューゲート! 喧嘩を売ってるなら買うぞこのクソ野郎!」
「アホンダラ。予約も無しに人の船に乗ってくるんじゃねぇ」
「海賊船に乗るのに予約が必要なんて初めて知ったわ。あ、マルコ。ココア頂戴」
「おいマルコ。ココアなんて勿体ない。コイツには水で充分だ」
「あ? ヒゲ抜いてロジャーの墓前に供えるぞ?」
「何だとこのクソガキが……!」
そんな会話を繰り広げる2人であったが、マルコ達は驚きのあまりただ呆然と見ていることしかできなかった。
およそ10分後、ルナシアとニューゲートの口喧嘩という名の挨拶も一段落し、2人は向かい合って座っていた。
ニューゲートには酒の入った盃が、ルナシアにはココアの入ったマグカップがそれぞれの手元にあった。
「色々と言いたいことはあるが……お前、霧の状態で移動なんてできたんだな」
「スゴイでしょ?」
「まあな。で、何の用だ?」
「そろそろ私の配下に……」
「お断りだ。お前、本当にしつこいな……」
ニューゲートはそう答えて、酒を飲む。
「こういうのはしつこくやらないとね。で、本題だけど1週間前にシキをインペルダウンから逃してきたから」
ニューゲートは思いっきり酒を吹いた。
ルナシアはすかさず回避したが、酒の勢いは強く、たまたま彼女の後ろに立っていたジョズにぶっかかってしまった。
「オヤジ……」
「す、すまん!」
ニューゲートはジョズに謝りつつ、ルナシアへ問いかける。
「お前、何を考えているんだ……?」
その問いに、待ってましたと言わんばかりにルナシアは不敵な笑みを浮かべる。
「ニューゲート、実は儲け話があるんだけど……」
そう切り出すルナシアに、ニューゲートはあの時のことを思い出してしまう。
故に彼は問いかける。
「世界の王にでもなるつもりか?」
「そうじゃないわ。もうちょっと即物的なもの」
「ほう、言ってみろ」
ニューゲートは今度は酒を飲まず、ルナシアに説明を求める。
「マリージョアを襲うんだけど来る? シキとは手を組んであるわ」
「……お前、ロックスみてぇだな」
儲け話のスケール自体はロックスより小さいかもしれないが、それでもそこらの海賊では思いもしないことだ。
「そうでもないわ。ところで大海賊時代と世間じゃ今は言うらしいわね」
「ああ、そうらしいな」
「たくさんのルーキー達に、我々のことをよく知ってもらう方が無用な衝突は減る。そう思わない?」
ルナシアの問いかけにニューゲートは笑って問いかける。
「シキに俺か。まるで昔のようだな……」
「昔みたいにやるのもいいかもね。世界政府と海軍に我々の脅威を思い出させてやるのもまた一興……で、どうする? 本気で昔みたいにやるならリンリンとカイドウも誘ってみるけど」
ニューゲートは盃に酒を入れて、一気に飲み干す。
つい先程、これから先は老いて衰えていくだけということを考えていたのが理由かもしれない。
彼はやる気になっていた。
「財宝とかそういうのには興味は無い……だが、俺が老いて動けなくなる前に大暴れしておきてぇな……!」
獰猛な笑みを浮かべるニューゲートにルナシアもまた同じ笑みを浮かべる。
「私から提案しておいて何だけど……息子達に迷惑が掛かるわよ?」
ルナシアの問いにニューゲートは豪快に笑い、そして告げる。
「白ひげ海賊団として参加するんじゃねぇ……俺が個人的に参加するだけだ」
彼はそう告げ、周囲にいるマルコ達に宣言する。
「お前ら、俺のワガママを許してくれ……今ならば俺は全力で戦える……! 後先考えずに突っ走ってみてぇんだ……!」
「ちなみにだけど、彼が死ぬようなことはないから。一方的にマリージョアを潰してくるだけだから安心して」
ルナシアの補足説明にニューゲートは素直に心の中で感謝しておく。
感謝を口に出すと面倒くさいことになるからだ。
マルコ達にはニューゲートのワガママを止める理由がない。
むしろ、オヤジと慕う彼が全力を出している光景を見られないことの方が悔しい。
間近でその戦いっぷりを見たいというのが共通した思いだ。
「実行日時はいつになりそうだ?」
「リンリンとカイドウがどっちも拒めばかなり早いけど、参加するってなったら調整に少し時間が掛かるかも」
「楽しみに待っているぜ……ああ、だが仲間殺しは無しだぞ」
「分かっているわ。ところであなたは少し酒を控えなさい。そうすると計画成功後に飲む酒がより美味しくなるわよ?」
ルナシアの言葉にニューゲートは豪快に笑いつつ、努力はしてみると答えるのだった。