憧憬に死せり   作:マキノvsメカマキノ

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プロローグ

冒険者、という職がある。

 

名の通り彼らは険しきを冒す者。

栄誉、金銭、名声、あるいは好奇心、はたまた己の心に課した責務。

それらを求め、満たし、果たすために困難に挑む者たちの総称である。

 

 

少なくともこの世界――円環大陸、カダスティアにおいてはそう定義されている。

 

 

果て無き外海ウル=ファナクに包まれ、静かなる内海ウル=ハザムを抱く環状の大地。

そこにひしめく十四の国々のどこであっても彼ら冒険者は、民にとってはさして珍しくもない身近な存在だ。

 

古の遺跡を探る者。

未踏の地を拓く者。

異形の獣を屠る者。

 

その種は土地で幾分変われども、生涯冒険者を見ずに終わる人間はそう居ない。

 

 

 

 

 

それは勿論、大陸北西部に根ざすユーティハイト王国、その一都市タルカナでもそうであった。

 

 

「クラナ=クラウの白き手に!」

 

 

霧の女神を讃える声と共に、カァン、と。

高らかに掲げられた木製のジョッキが四つ、宙でぶつかり合い小気味良い音を立てた。

並々と満たされていた麦酒がその勢いに飛び出して掲げた者たちの手や袖を濡らし、あまつさえ卓上に並んだ料理へと降りかかる。

 

だがそれを気にする人間はそこには居ない。

ジョッキを持つ四人、精悍な顔立ちの若い男達は満面に上機嫌を浮かべたまま。

むしろ酒を浴びてこそと言わんばかり。

 

それもそのはず、彼らは既にこれで今日五度目の乾杯である。

とうの昔に酔いは回り切っているのだ。

酒混じりで料理の味が濁っているなど最早感じ取れる訳も無い。

随分と色が変わり重くなった袖も、果たして認識できているかどうか。

 

そんな彼らはそれまでの四度と同じように、一斉に喉を鳴らして麦酒を腹へと流し込んだ。

 

 

「……っかぁ! あぁ、最高だ、最高の美酒だ!」

 

「へへ、全くだぜ。 たまんねぇなぁ、おい」

 

 

飲み下すのも同時ならば騒ぎ始めるのも同時。

口が空になった途端に口々に賛美の声を上げる。

 

美味い美味い。

最高だ。

ここは天の楽園だ。

 

馬鹿馬鹿しく大袈裟な称賛は、しかしこの場には余り似つかわしくはない。

 

彼らが今まさに飲み干したジョッキは汚らしく色がくすみ、よく見れば形も歪んでいる。

並ぶ料理も上等とは言い難くむしろ粗雑。

技巧を凝らす思考を放棄して強いだけの味付けで誤魔化したような品ばかり。

床やテーブル、椅子にも二度と落とせないだろう汚れが染み付いている。

どうやら店主は吝嗇であるようで灯される明りも頼りない。

 

そこは明らかに場末も場末。

ろくに稼ぎも無い者達がせめてもの慰めにと肩を寄せるような、所謂「しみったれた酒場」でしかなかった。

 

にも関わらずこれ程に彼らが上機嫌という事はつまり。

 

 

「いい加減うるっせぇぞお前ら。

 なんだ、そんなに良い事でもあったのか?」

 

 

そういう事なのだろう。

 

 

「お? なんだ、気になるのか?

 どうしてもってんなら、まぁ、教えてやってもいいけどよぉ」

 

「抜かせやバカども。

 そっちが教えたがってんだろうが」

 

 

追加の注文に応えて新しい皿を運んできたむくつけき店主の問いに、四人はニヤリと笑う。

まさしくそれを待っていたという顔。

対して厭らしい笑みを向けられた店主はうんざりとした表情を隠そうともしない。

 

酔客の自慢話ほど下らないものはない。

このような店の主をしていればそれは骨身に染みている事だろう。

 

だがいい加減、店主の側も鬱陶しかったのだ。

未だ客も少ない夕刻にこれだけ騒がれ、事ある毎にいかにも「聞いてくれ」という視線をチラチラと向けられるのは。

ならばいっそ語らせるだけ語らせて適当に聞き流す方がまだマシだとの判断は、まぁ妥当な所ではある。

店主としても面倒ではあるが慣れた事だ。

 

だが、悪い予想は四人が取り出した物によって、今日ばかりは覆された。

 

 

「っらぁ! 見ろよコレ! ほらほら!」

 

「…………はぁ? な、ぉ、あぁ?」

 

 

テーブルを揺らし皿を跳ね上げる勢いで置かれた背負い袋から現れた物に、店主は絶句する。

 

それは生き物の頭だった。

艶の無い闇色の毛に覆われた、狼に似た姿。

だが大の男の胴にも匹敵しかねない巨大さと、禍々しく澱んだ狂眼に、刃のごとき長大な牙、

そして額から突き出す、淡い光を帯びた大小三本の角が尋常の生物ではない事を明確に示していた。

 

 

「こりゃ、お前……ま、まさか魔獣か!?」

 

「おうよ。

 俺達が今朝方狩ってきたばっかだ」

 

「まだまだ新鮮だからな、なんなら味も見てみるか?」

 

 

自慢気な若者たちが得たりと頷き、頬の緩みを更に深める。

 

あからさまに調子に乗った声色だが店主は否定する気になれない。

それもそのはず。

彼らの言が真実ならば、それは万人に胸を張って誇って良い程の難事であるからだ。

 

 

 

 

 

魔獣とは、名の通り魔を帯びた獣である。

 

野に獣は多くあり、事あれば人間を害する種も少なくはない。

都市を守る壁の外は彼らの世界だ。

山野を行く中で獣の餌食となった者の話は枚挙に暇がない。

 

その中でも魔獣は他の獣とは比較にもならない、飛び抜けた脅威であるとされる。

 

総じて異様な巨躯を持ち、疲れを知らず、近縁と見られる種に比して遥かに狂暴で執念深い。

これだけでさえ怪物と呼ぶに十分であるというのにもう一つ。

魔獣は他の生物が持たない異質な力を使うのだ。

 

 

あるものは吐息を炎に変じさせる力を持ち、

あるものは土くれを自らの尖兵に変じさせ、

あるものは踏み出した足が風を踏み宙を駆ける。

 

神の定めたもうた天地の理を踏み躙る彼らを人は悪しき者と定め、魔獣と呼び忌み嫌う。

 

発生の原因は不明。

どこで生まれどう育つかを知る者は地上に無く、どこからともなく生ずる魔獣はあらゆる生物の天敵である。

 

 

ユーティハイト王国は魔獣の害が特に多い事で知られている。

異形の爪牙によって村が消える事も少なくなく、町が血に染められる事もままある。

数年に一度程度は都市の堅牢な外壁が破られた話が巷を駆け巡る。

 

故に必然として魔獣の討伐はユーティハイトの民にとって英雄の行いとされ、惜しみない称賛を浴びるのだ。

となれば名と誉を求める者達にとっては命を賭す甲斐がある。

 

魔獣殺し。

それがこの土地における冒険者の大半が目指す所である。

 

 

 

 

 

つまり、この若者達――四人の冒険者はタルカナの街において最新の英雄という事だ。

 

余りの衝撃から混乱に叩き込まれた店主の頭がようやくそう導き出した時、彼はわなわなと震える自身の体を抑える事が出来なかった。

見る見るうちに興奮に顔を紅潮させ、矢継ぎ早に口を開く。

 

 

「お、おい、どういうこった!

 こんなもん、どうやったら殺せるんだ!?

 いや、いやその前にこいつはどんな――」

 

「なんだなんだ、やっぱりそっちが聞きたいんじゃねぇかよ、えぇ?」

 

「抜かせやバカどもだったか?

 ひっでぇ扱いだよなぁ。

 真っ先に見せに来てやったってのになぁ?」

 

 

途端、最も近かった二人が席を立ち、店主の肩に腕を回しガッシリと押さえつける。

そのまま良く日に焼けた顔を近付けて責め所をつつくと、店主はたちまちに弱り切った。

 

 

「まさかこんなもん出てくるとは思わんだろ……!

 悪かった、悪かったって!」

 

「言葉だけかぁ?」

 

「っかぁ! それが目当てかよ畜生!

 分かったよ! 今日の払いはナシでいい!

 ツケも無かった事にしてやるから聞かせてくれよぉ!」

 

 

言質は取ったとばかりに、更にもう一人が歓声を上げて椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。

向かう先は酒場の奥、この場で最も上等な(とは言っても安酒の域を出はしないが)酒で満たされた樽だ。

タダ酒が飲めて自慢話も存分に出来る事が確定したのである。

彼らにとって最も価値あるお宝を狙わない理由は無い。

 

樽は決して小さなものではないが、恐らく明日まで残るまい。

脅威を斬り払う英雄譚は魔獣に怯える人々にとって最大の娯楽なのだ。

それが未知のものであれば尚の事。

店主を始めとして、この後に訪れる客も巻き込んで盛大な酒宴になるだろう。

 

前途も明るい四人の英雄の誕生を祝うために。

きっと店内のあらゆる酒と食料は、この一晩で消えて失せるに違いなかった。

 

 

「流石おっさん、気前がいいねぇ。

 そんじゃ聞かせてやろうじゃねぇの。

 題をつけるなら、そうだな……朝靄の奇襲ってとこかね!」

 

 

期待に顔を輝かせる店主へ向けて、満を持して英雄譚は紡がれ始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………それを。

最も薄暗い一角から見つめる者が一人いる。

 

 

「……っ」

 

 

小さな舌打ちが一つ。

次いで、ガリ、という音がテーブルから発せられた。

粗末なテーブルの天板を掻く音だ。

蹲るように座る者の爪が、指が白く染まる程の力を籠めてそこに突き立てられている。

 

 

 

酷くみすぼらしい小男だった。

その姿を見た者は、まず第一に「薄汚い」という印象を抱くだろう。

 

頭髪は乱雑に伸ばされ、ろくに水も浴びていないのか脂にまみれている。

頬も顎に整える気の見えない髭が覆い、こちらも頭髪同様の有り様だ。

見目がそうならば衣服も知れた物。

あちらこちらがほつれ穴の開いたそれには得体の知れない染みがこびりつき、わざわざ嗅ぐまでもなく異臭を連想せざるを得ない。

 

そして何よりも。

落ち窪んだ眼窩に灯る汚らわしい澱みがどうしようもなく他者を遠ざける。

 

その暗い双眸に宿る熱量は誰の目にも明らかだ。

射抜き殺さんばかりに四人の若者に向く視線には焼けるような感情が渦巻いている。

それがもし物質としてあるならば、とうに零れ落ちて一帯を火に包んでいたに違いない。

 

いや、そうでなくとも。

食いしばられた震える口元から言葉として転がり出るのは時間の問題に思われた。

 

 

「ディグ、場所を変えよう」

 

 

だが、それが実行される前に止める者があった。

小男の対面に座る、もう一人の男である。

 

みすぼらしい小男――呼ばれた名によればディグと比べ、こちらは真っ当な身なりである。

上等とまでは言えなくとも、表通りを歩いても目を引かない程度には整っている。

 

ディグは、男の声に僅かに身を震わせた。

テーブルに立てられた爪は無自覚だったのだろう。

持ち上げられた手は恥じ入るように数瞬宙を彷徨い、それからそっと隠される。

 

 

「いや、俺は、別に」

 

「だめだ、出るぞ」

 

 

否定の声はすぐさま打ち消した男は、抵抗の間も与えずにディグを立ち上がらせる。

そして、男は顎で若者達を指し示した。

 

追って目線を動かしたディグは理由を悟り、白くささくれ立った唇を噛み、俯く。

 

 

「…………すまん」

 

 

始まった語りに熱を上げる店主に冒険者たちは自身の活躍を誇っていたが、その中に一人冷静を保つ者が居たらしい。

焼け付くような視線を察知していたのだろう。

警戒と苛立ちが乗った眼光がディグを確かに捉えている。

水を差すようなら覚悟をしておけと、そういう警告であった。

 

 

「いいさ、気にするな。

 ――おぉい、あんたら!」

 

「あぁ?」

 

 

盛り上がっていた所に口を挟まれ、他の者達もじろりと睨む。

それを気にした風もなく男は続ける。

 

 

「なぁ、それ一回話して終わりってこたないよな?

 うちのカミさんにも聞かしてやりたいんだ!

 頼むよ、戻るまで帰らないでいてくれ!」

 

「はっは! 安心しろよ、カーナ(太陽)を見るまで出る気ねぇから!」

 

「あんたが戻るまで椅子が残ってるかは知らんけどな!」

 

「そんときゃ立って聞くさ!

 カミさんは自前の椅子がケツにくっついてるしな!」

 

 

下品な冗談に男達はゲラゲラと笑った。

睨みを利かせていた一人も、それでいいと言うように鼻を鳴らす。

 

野卑な笑声を背に、二人は酒場を後にする。

 

男に隠されるように歩を進めるディグの背は、みっともなく丸まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タルカナの街からは夕陽の赤みが消えゆき、徐々に闇に沈みつつあった。

 

誰もが家路を急ぐ頃合だ。

魔獣の害に備えての夜番が多く眠りの浅いタルカナといえど、人の気配は急速に消えていく。

例外はディグ達の歩む酒場通りくらいだろう。

一日の最後の楽しみを酔いに求める者達にはこれからが本番だ。

 

既にどこかで引っかけてきたらしい赤ら顔の三人組。

連れ込み宿も兼ねた酒場の前で値を交渉する娼婦と若い男。

あぶく銭でも手に入ったか、腰巾着に気前の良い言葉を垂れ流す大男。

 

ありふれた情景とすれ違いながら、ディグと男は歩を進めていく。

 

 

 

やがて表通りとの境に達した頃、男は立ち止まって口を開いた。

 

 

「なぁ、ディグ……お前、まだ……」

 

「いや、違う、ちげぇよ。

 ただの気の迷いだ……酒が合わなかったんだろう」

 

 

気遣わしげな男の問いをディグは否定する。

 

なんでもない、気にしないでくれと。

説得力は無い。

声はかすれるようで力に乏しく、目の光は常よりも一層失われている。

 

当然のように男も気付いたが……しかし、追及は取りやめたようだ。

 

 

「そうか……ならいいが。

 じゃあ、まぁ、さっきの続きだ。

 マールズの旦那の次男坊がそろそろ独り立ちってとこまでは話したか」

 

「船に乗るんだろう?」

 

「あぁ、まずは三隻ばかり任せるつもりらしい。

 それで人手を募ってるって話だ」

 

 

路地の壁に寄りかかり、努めて明るい顔を男は作る。

話題は男の知人であるマールズという男の、二人目の息子についてだ。

 

マールズとは、タルカナにおいてそれなりの規模を持つ商会の長である。

その息子二人は随分と出来が良いとの噂だった。

計算高く商機を逃さぬ目を持つ長男と、部下を気遣う度量を持ち人を惹き付ける次男。

どちらも得難い才を持った息子達を共に生かすべく、マールズは商いの手を広げる事を選んだという。

自身の地位は年の序列通りに長男に譲り、次男はタルカナに注ぐ河を用いた水運に新しく手を入れさせる形だ。

 

その前段階、既存の同業との調整もつつがなく終えて極めて良好な関係を築きつつある実績から、どうやら親の欲目だけではないとの評価もされている。

タルカナにおいて、これからまさに伸びていくと見られている有望株の代表格だ。

 

 

「これでも旦那とはそう浅くない付き合いだ。

 一人くらいはなんとかねじ込める。

 どうだ、やってみないか?」

 

「……」

 

「正直、こんな良い話は他に無いぞ。

 何度か話した事はあるが全く評判通りだった。

 ありゃ人の上に立つ人間ってやつだよ。

 お前にも無体はしないと、俺は思う」

 

 

男は言い募る。

話している内に熱が入ったか、いつしか壁から背を離し、ディグを覗き込むようにして。

 

 

「なぁ、お前も良い年だ。

 日雇いで暮らすのはもうやめにした方がいい。

 このままじゃ行き詰まるだけだって、本当は分かってるんじゃないのか」

 

「……そうだな、その通りだ」

 

「だろう?

 だったら、なぁ、俺が何とか頼み込むから……!」

 

 

ディグの同意に男は喜色を浮かべた。

節くれだった大きな手をディグの肩に乗せ、ぐいと体を寄せる。

善は急げということか、早速連れ出そうとして。

 

しかし、ディグは身じろぎでそれを振り払った。

 

 

「ディグ……?」

 

「いや、悪いが見送らせてくれ」

 

「ディグ!」

 

 

再び伸ばされる手をディグは数歩下がって避けた。

 

離れたままで顔を上げ、暗い瞳で男を見つめる。

そうして目に映った男の表情に、ディグは薄笑いを浮かべて言う。

 

 

「そんな良い話なら、他の奴に持っていってやれよ。

 俺じゃ足を引っ張るだけだ。

 ……流石に見合わねぇよ」

 

 

へらへらと。

見目のみすぼらしさにふさわしいだけの卑屈な笑みだった。

自身に何の価値も見出していない者に特有のそれ。

見る者に嫌悪と侮蔑を抱かせるに十分なだけの汚らしさだ。

 

 

「馬鹿野郎、そんな事あるか! お前はやれば出来る奴だ!

 なぁ、頼むよディグ。

 お前が落ち着いてくれなきゃ、俺も安心できねぇんだ……」

 

「……幼馴染だからって、そこまで入れ込む事もねぇだろ。

 俺は俺でなんとかするさ」

 

 

男が泣き落としに手を変えても、笑みは消えない。

 

更に距離は離れていく。

合わされていた視線も外れ、ディグの足は街のより暗い方向へと向いた。

話は終わりだという、明確な拒絶の表れだ。

 

それを覆す術が無い事を、ディグの言通り生まれた頃からの付き合いである男は良く知っていた。

だが、望みを捨てきれずに男は去り行く背に向けて声を張り上げる。

 

 

「一ヶ月だ!

 まだそのくらいは猶予があるはずだ!

 もう一回聞きに行く!

 だから、それまで考えてくれよ! ディグ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして、ディグは自身の住処に辿り着いた。

 

タルカナの外れ、街の最も暗い一角だ。

スラムと比してかろうじて幾分かマシといった程度。

 

初見の者は打ち捨てられた廃屋と果たして見分けがつくかどうか。

薄い壁板はひび割れ穴が開き、同様の屋根も雨を防ぐには余りに頼りない。

鼠や得体の知れない虫との共生も免れないそこは、口さがない者ならば率直にゴミ溜めと評するだろう。

 

 

「……は」

 

 

既に半ば朽ちまともに動かない扉を苦心して閉め、ディグは、再び笑った。

 

先と同じ笑み。

己の無様さを嘲笑う、自傷のための病んだ笑いだ。

 

 

「お前もか。

 お前も、なのか」

 

 

くつくつと漏れる中に、独語が混ざる。

 

まるで泥のようだ。

暗く、澱み、絡み付くような汚泥がディグから溢れ出る。

 

 

「お前も……っ、お前もぉ!!」

 

 

一度堰を切ってしまえば最早止まらない。

留められていた感情はディグを突き動かしていく。

 

 

「ふざけるな!

 ふざけんじゃねぇ!

 クソッ……!!」

 

 

ガァン、と。

暗い家の中、それが何かも判然としないままディグは蹴り上げた。

跳ねて転がる何かが止まるを待たず、衝動は更に続く。

 

 

「クソ!

 見下しやがって!

 哀れみやがって!!

 クソがぁ!

 

 俺を――俺をォ!!」

 

 

叩き付け、蹴り飛ばし、踏みつける。

まるで子供の癇癪そのままに。

果てしなく見苦しい暴力が振り撒かれ……そして、唐突に止む。

 

自身が荒らし、破った壁にもたれ、ディグは崩れ落ちた。

 

 

「俺…………を……」

 

 

見下すな、とも。

哀れむな、とも。

口に出す事はディグにはできなかった。

 

誰よりも良く知っているのだ。

自身に何の値打ちも無い事を。

 

 

ゆるりとディグの左腕が持ち上がる。

 

……その先端。

左の手は、不自然な形に固まっていた。

折り畳まれた指は拳を作らず、引き攣り縮こまるよう。

 

 

それをディグは、地面に叩きつけた。

 

一度。

二度。

三度。

重ねる毎に勢いを増し、皮膚が破け血が滲むまで。

 

 

「…………畜生」

 

 

しかし左腕の自傷はディグに何の痛痒ももたらさない。

 

ディグの左腕、肘から先。

それはとうの昔に、一切の機能を失っていた。

 

 

 

 

 

冒険者。

魔獣殺し。

いかにも華やかな称号だ。

 

名も誉も富も、望むままに得られる事は疑いない。

 

だがそれはつまり、それだけの難事である事を示す。

 

 

戦闘の末に魔獣を打ち倒し羨望と称賛とを浴びる者の陰には常に、遥か多数の脱落者が存在する。

 

当然の事だ。

魔獣は正真正銘の怪物である。

あらゆる生命の天敵との呼び名には一切の誇張が含まれない。

 

相対したならば、死ぬ。

 

それが道理。

覆そうという試みは正しく愚者の行いと言える。

 

 

強靭な武器。

確かな実力。

揺るがぬ意志。

この上ない幸運。

 

全てを束ねて挑んでようやく、勝負の土台に指先がかけられる。

魔獣殺しとはそういった次元にある偉業だ。

 

……果たしてディグには、その全てが足りなかった。

 

数打ちの刃を携え、

矮躯には力も乏しく、

少年の心は余りに弱く、

幸運など一つたりとて縁が無かった。

 

村を出てタルカナに至り剣を取った先に待っていたのは、魔獣ですらないただの獣に肘を噛み砕かれ不具となり落伍する、敗北者としての生。

 

 

 

 

 

それでも、そこで諦められていたならば良かった。

 

冒険者を志し、落伍した。

それだけならばユーティハイトの民は侮蔑を向けはしない。

むしろ魔獣に挑んだ心を称え、不具の傷も誉と呼んだだろう。

真っ当な職に就き、時折昔の無茶を酒の肴にしながら当たり前に生きる。

そういう者は多くある。

 

それがディグには出来なかった。

憧憬を捨てられず、足掻きを続けた。

動かない腕を振り回し、成長の止まった矮躯を鍛え、我武者羅に無茶を繰り返した。

 

 

しかし、それが報われる事は終ぞ無い。

身を削る鍛錬の末に成果を掴むには不具の枷は重く、運命を覆すに足る才も持たず、全ては無為に消えるのみ。

 

 

初めの一年は応援された。

挫折を乗り越えんとする姿を冒険者の鑑と呼ぶ声もあった。

 

二年を越えると哀れまれた。

現実に目を向けられぬ壊れた心を惜しまれた。

 

三年を数える頃には誰もが目を逸らした。

血を吐くような努力の果てにただ徒労だけを得る様は誰の目にも痛ましかった。

 

……そうして、五年、七年、十年と過ぎ。

親しかった者は多くが離れ、同情は嘲笑と入れ代わり、最も愚かな落伍者と後ろ指を指される今に至る。

 

 

「なんなんだよ、俺は……」

 

 

報われぬ努力に砕けた性根は幼馴染の救いの手に憎悪を生むほどに、救いようもなく歪み果て。

失意はいつしか、成功者への筋違いの嫉妬に変り果て。

夢抱いた少年は、確かに憧れたはずの冒険者からは最も遠い、タルカナに寄生する醜く惨めな毒虫と化した。

 

自身の問いに、ディグは心中で答える。

 

ただのクズだ。

肥溜めに湧く蛆にも劣る。

住処がゴミ溜めならば、住人もまたゴミであるのは道理でしかない。

 

その存在に意味はありえない。

今この瞬間にでも己の首を掻き切るべき、最低最悪の愚物。

 

 

 

 

 

どれ程時間が経ったか。

 

蹲っていたディグは部屋の隅を目指して移動する。

虫にふさわしく地を這いずり、床板を持ち上げる。

 

そこにあったのは一本の刃だ。

職人の技巧も魂も宿らない十把一絡げの数打ち。

魔獣に傷を生むどころか身を覆う体毛さえ切り裂けない。

そんな一本の短剣だ。

 

それでも、これまで捨てるという選択は浮かびさえしなかった唯一の武器。

 

 

 

 

 

「……あぁ、お前の言う通りだよ。

 もう潮時だ。

 ここらで終わりにするべきだな」

 

 

ディグは柄を握り、刀身を眼前に掲げた。

 

劣悪な質のくすんだ鉄は何も映さない。

いかにも自分に似合いだと、ディグは息を漏らす。

英雄達の携える輝かしい業物など釣り合わない。

この程度の屑鉄が己の器には精々だと。

 

 

「一ヶ月、か。

 はは、ちょうどいいじゃねぇか。

 答え合わせには十分だ。

 

 それだけありゃあ――」

 

 

――きっと魔獣の一匹にも出会えて、そこで何もかも終われるはずだ。

 

 

 

 

 

そうしてディグは再び自嘲に沈む。

 

荒れた一室にくつくつと響く壊れた笑みは、朝陽が昇るまで止む事は無かった。

 

 

 

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