「いらっしゃいませー。」
比企谷八幡は一瞥もくれず、声だけが店内に響く。
「…先輩?」
目の前から聞き覚えのある可愛らしい声が聞こえた。
俺のことを先輩と呼ぶ人間は今までで一人しかいなかったはず。
とりあえず顔をあげてみると、驚いた顔でこちらを見ている後輩がいた。
一色いろはである。
「…どちら様でしょうか。」
俺は当然のように他人を装った。
最後に会ったのはかれこれ一年以上前なので、顔を忘れてしまっても仕方がない。
いや、もちろんはっきり覚えている。
少なからず関わりのあった人間だ。
たかだか一年程度で忘れられるわけがない。
ただ、再会を嬉しく思ったことや大人びた彼女の姿に見惚れてしまったことが恥ずかしくなり、つい初対面のふりをしてしまったのだ。
「こんな所で何してるんですか?」
少し間があったせいか、本気で言ってないことはあっさりと見抜かれていた上に、俺の話を無かったことにして会話を続けてきた。
こちらを見つめる眼差しに根負けして、下手な演技はやめることにした。
「見たら分かるだろ。仕事だよ。仕事。」
「とてもそうは見えないんですけど…。」
そう言って、座っている俺の手元へ視線を下げる。
そこにはつい先程まで読んでいた小説が広げられていた。
「別にいいだろ。この時間は客が少ないんだよ。」
壁に掛けられている時計に目をやると、時刻は既に八時を過ぎていた。
「それに、書店の店員が本を読むのは当然だろ。むしろ読まないといけないまである。」
大学に入学して一年が過ぎ、さらに季節は夏に差し掛かっている。
将来の夢は専業主夫である俺だが、バイトくらいする。
入学したての頃は色々なバイトをやってみた。
しかし、家に籠り気味だった俺にとっては相当に辛く、どれも長続きせずに入ったり辞めたりを繰り返していた。
今のバイトはもう二ヶ月は経った。
個人経営の書店なので、そこまで厳しくもなく、今のように暇な時間があれば好きな本を読むことができる。
しかも、あまり客は多いとは言えない。
だから金をもらって本を読んでいると言っても過言ではない。
「ていうか、すごく久しぶりですね。」
一色は高校生時代を懐かしむように呟いた。
「ま、そうだな。」
当たり前だ。
俺は千葉を出て、逃げるように地方の大学に進学した。
全てを置き去りにして。
過去の記憶を呼び覚まそうとする俺を遮るように一色が言う。
「先輩、バイト何時までですか?待っててあげますよー。」
「いや、はやく帰れよ。」
俺が即答すると一色はムッとして、こちらを睨み付けていた。
そのまま十秒ほど沈黙が続いた。
教えるまで帰らないってことか…。
客観的に見たら、店員の態度が悪くて客を怒らせているように見えるだろう。
今の状況を店長に見られたら、温厚な性格の店長でも怒るかもしれない。
それはそれで面倒臭いので、観念するしかない。
俺はため息をついてから言った。
「九時。」
時間を聞いた一色は満足そうに笑みを浮かべた。
すると、ふいに耳元まで近づき
「仕事、頑張って下さいね。」
悪戯っぽく言い放つと、くるりと背を向け鼻歌を歌いながら店内を物色しだした。
なにこの後輩。めっちゃ可愛くなってない!?あざとさは変わってないのね!でも可愛いから許しちゃう!!
高校の頃は、会わなくなれば人間関係はリセットされる…などと思っていたが、存外にもそんな事は無かったようだ。