現実の分まで仮想世界を走り回りたいと思います。 作:五月時雨
この世すべての理不尽が無くなりますように。
その日は、暖かな春の日だった。
「おかーさん……きょうも、おしごと、なの?」
寂しげに瞳を潤ませた女の子が、私の足にしがみつく。その愛らしい行動に、何度抱きしめてあげたい衝動に駆られたか、もはや覚えてはいない。
「今日のお仕事はお昼までだから、お昼ご飯はお外に食べに行きましょうか」
「ほん、とっ?」
「えぇ。だから、いい子にして待ってるのよ?」
「うんっ」
「お義母さん、いつもすみません」
保育園は何処もいっぱいで、我が子を義母に任せて仕事に行く我が身が恨めしい。子どもの数が減ってるのに、待機児童が無くならないことに愚痴を溢したくなるが、むしろ我が子の愛らしい姿を存分に見ることができる私は勝ち組なのでは……?
「良いんですよ、
「はー、い!ばぁば、あとでこーえん、いこ?」
「はいはい。ばぁばは早く走れないから、ばぁばに合わせてくれると嬉しいねぇ」
「わか、った!おかーさん、はやく、かえってきて、ねっ?」
きゃっきゃっとはしゃぎ、ピョンピョン飛び跳ねる九曜は、絵を描いたりお人形遊びをしたりするよりも、外で走り回ることが好きだった。その次が本を読むこと。好奇心旺盛で、外で見つけたものを図鑑で調べたり、本で見たものを外で探したり。泥だらけになって戻ってきた時は慌てたけれど。
「えぇ。九曜の為にすぐに帰ってくるからね」
活発で、明るくて、何でも自分で調べようとする好奇心旺盛な九曜が可愛くて、義母もとても可愛がってくれている。けど、九曜の一番は私のはずだ。異論は認めない。認めたら母として危機である。絶対に認めない。認めないったら認めないっ!
「うぅ……九曜が可愛すぎて、仕事に行きたくありません……」
「馬鹿なこと言ってないで、早く行きなさい。遅刻しますよ」
「え……あぁっ!?じゃ、じゃあ九曜、お母さん行ってくるね!」
「いって、らっしゃ、いっ」
九曜が可愛すぎて辛いです。可愛すぎて抱きしめてたら、家を出る時間ギリギリになっていた。それもこれも九曜が可愛すぎるのが悪い。いや、九曜はとっても良い子。天使。九曜は悪くない。つまり悪いのは私ですはいごめんなさい……。
お見送りの『にぱーっ!』も可愛かったよ九曜愛してるぅーっ。
いつも通りの朝の一幕。
いつも通りの、変わらない風景。
それが変わったのも、こんな何気ない普通の日だったんだ……。
◆◇◆◇◆◇
「え?お義母さん、九曜と近くまで来てるんですか?」
『そうなのよ。
九曜ニウムでやる気全開になったので、速攻で半日の仕事を片付け帰り支度をしていると、義母から電話がかかってきた。
なんでも公園に遊びに行ったは良いものの、元気すぎる九曜に義母が付いていかれず、家に帰ってまた外食に出るのが大変らしい。それを九曜に相談すると、『ならおかーさん、おむかえいく、のー!』となったらしい。気遣いもできる我が子。偉い。確かに公園からなら家と私の仕事場で、仕事場の方が近いものね。流石九曜。合流したらナデナデしてあげよう。
「分かりました。これから出るので、九曜にも伝えてあげて下さい」
『分かったわ。『おかーさん!』あらあら、九曜ちゃん?』
「九曜?」
電話口から愛娘の声が響く。どんなに耳がキーンッてなっても、九曜の声ならば可愛いものだ。いくらでも聞くよ、お母さんだからっ!!
『くよーが、おむかえいく、ねーっ!』
「ふふっ……えぇ、お母さんもすぐに行くわね」
『う、んっ!』
きっと満面の笑みを浮かんべてるんだろうなぁ……と、自然と頬が緩んでしまうけど、九曜が可愛いからいけないのだ。
いや、九曜は良い(以下略)。
愛娘から元気を貰い、仕事場をあとにする。口元を緩ませていたら、後輩の女の子に気持ち悪がられた。ふんっ、九曜の可愛さを知らない可哀想な人なんて知ったこっちゃありませんとも。
あぁ、早く九曜に会いたい。
半日でこれなのだ。できれば我が子を一日中抱きしめてナデナデしてすりすりしてぐずぐずにふやけさせたいのだけど、それは次のお休みの日に取っておこう。ほっぺをふにゃふにゃに緩ませて眠る九曜と言ったらもう……もうっ!である。
「はっ!九曜がお迎えしてくれるなら、抱っこしてぎゅってして甘々にしなければっ!」
「先輩……」
休日も楽しみだが、今は目先の天使を逸早く堪能するために急ごう。九曜、お母さん今行くよ!なんか後輩の呆れの視線が痛いけど、そんなの気にせず全力で走るよ!
「それじゃあ、お先に上がるわねっ!」
「はーい。娘さんと精々いちゃいちゃしてくださいね」
「えぇ、是非ともそうさせてもらうわ!」
「皮肉が通じない……」
いざ行かん、我が
職場を出ると、頂点に達した陽光と軽やかな風が気持ち良い。これは帰ったら、縁側で九曜とお昼寝も良いかもしれない。程よく暖かくて、きっと寝心地も良いだろう。何より九曜と一緒なら、安眠が約束されたも同然。
お迎えに来てくれるなら、天にも昇る気持ちである。いや、まだだ。天に昇ったら九曜を抱きしめられない。なにそれ天国という名の地獄だ。九曜こそが私の天国っ!
『あ!おかーさん!』
おや?お母さん早く九曜に会いたいよー!と思ってたら、幻聴が聞こえた。我が子の可愛い声が離れた所から聞こえた気がする。
「おーい!おかーさーんっ!」
「………はっ!九曜?」
うんやっぱり幻聴じゃなかったらしい。横断歩道の反対側で、体を目一杯使って笑顔で手を振る天使が見えた。何あれかわいい。後ろには義母が見え、やっぱりあれは九曜だと分かった。
付近の人も九曜を微笑ましそうに見ている。どうだ。我が子は可愛いだろうそうだろう。自慢の子ですありがとう!
“にへら〜”と自分の頬が顔が緩むのを感じながら、胸の前で小さく手を振り返す。私の返事に気付き、ピョンピョンと嬉しそうに飛び跳ねる。やめて、可愛すぎて私のライフはもうゼロよ。
やがて車の信号が青から黄色、赤に変わり、少しして目の前の横断歩道の信号が、赤から青に切り替わった。
『すてててーっ!』という効果音が付きそうな軽やかな足取りで九曜が先頭に躍り出て、そのまま一直線に私の下に走ってくる。全く、右左をちゃんと確認しなさいと何度言ったら分かるのだろう。いや、普段はちゃんと確認してるや。つまり何よりも優先された私。どうも勝ち組です。けど、抱きついてきたらちゃんと注意しよう。
そう。母たる私が、ちゃんと手本を見せ――
「っ!―――九曜、だめ!!」
「―――えっ?」
その時あらゆるものが、やけにスローモーションに見えた。九曜に注意するために、きちんと左右を確認した時に視界に入った、猛スピードで突っ込んでくる大型トラック。うつらうつらと船を漕ぐ運転手。信号が青になったばかりで、ただ一人中央付近に飛び出している九曜。
気付いた時には何もかもが遅くて、九曜を守るために足を動かそうにも、スローモーションな世界では遅々として進まなくて。
―――間に合わない……っ!
そんな絶望が、脳裏を過った。
九曜は今になってようやく気付き、恐怖から蹲ってしまった。無理もない。けれど、それこそがいけない。心は『早く早く』と急かすのに、反比例して全く付いてこない足。これじゃあ九曜を助けられない。もう間近に迫った大型トラックに多くの人が気付き、誰もが動きを止めてしまった。
せめて、せめて誰か。九曜を助けて!
そうして必死に手を伸ばす私は、娘を失う恐怖に視界が歪み、涙でボヤける。それでも足を動かして、一歩でも前へ。少しでも、九曜に手を伸ばす。
すると。
「九曜ちゃん―――っ!!」
九曜の後ろから、足腰が悪いはずのお義母さんが物凄い速さで走っていた。スローモーションに流れる世界で、私なんかより断然早く、鬼気迫る表情で九曜を助けんと走っていた。
お義母さんは信じられない速度で走ると、ギリギリのタイミングで九曜と車体の間に割り込み、次の瞬間、九曜を突き飛ばした。
突っ込んでくる大型トラックの速度から、抱きかかえても守りきれないと判断したのだろう。自分の走る速度の全部を突き飛ばすエネルギーに変えて、入れ替わるように九曜が外、お義母さんが正面に残された。
自分がどうなるか、分かっていただろうに。不思議そうに目を丸くする九曜にお義母さんは微笑み、次いで私に顔を向けると。
―――良かった…
辛うじて読み取れた口の動きは、そう呟いていて。安心しきったように、笑っていた。
ドンッ!というお義母さんが弾き飛ばされる鈍い音と同時。
グシャ……
という、
「いやぁぁああああああっ!!」
全身から血を流して倒れる義母と、タイヤに足をグチャグチャに轢き潰された九曜を見て、私は目を覚ました。
◆◇◆◇◆◇
「はぁっ……はぁっ……はぁ……っ、夢……?」
九曜の母。望月曜は、冷や汗でシャツをぐっしょりと濡らして目を覚ました。かつての……十年前の事故の光景をこうして夢で見たのは、九曜の異変があったからだろうか。それとも今日が事故のあった日……義母の命日だからだろうか。
あの事故で義母は亡くなり、娘は一生歩けない身体になった。案の定、運転手は居眠り運転。春の暖かな陽気など言い訳にならない。ふざけるな、理不尽だ、不合理だと、この世の運命すら呪った。けれど時間が巻き戻ることはない。
「九曜……」
先日学校で倒れ緊急搬送された九曜を想い、涙が頬を伝う。告げられた症状は、壊死。
それを聞いた曜は、『ついに来てしまった』と涙した。なぜなら曜は、十年も前からいつかこの日が来ることを聞かされていたのだ。
膝関節下部より全神経損傷、筋繊維の断裂、複雑骨折。確か血管も複数箇所損傷しており、本当に膝から下が
大量の積載物も積んでいた車両総重量二十トンにもなった大型トラックの前輪と後輪に、
「九曜……っ!」
事故を起こしたのは運転手だ。しかし今回の壊死は、かつての曜が招いた
「どうして……どうしてなのよ……っ!」
壊死だけじゃない。九曜は、別の苦しみとずっと戦っていたのに。身を切る程の激痛に、ずっと耐え忍んでいたのに。どうして九曜は言ってくれなかったのか。そんなものは
「折角、昔のあの子に戻ってきたのに……っ」
明るくて、純真無垢だった天真爛漫な九曜。
あの事故の後、九曜を助けられなかった自らを嘆き、九曜が大好きだった義母すら喪ったことに何度も何度も、何日も謝り泣いていた時期があった。精神科病院に罹り、うつ症状だと診断された。
曜は今でも思い出せる。
そのすぐ後だ。九曜が変わったのは。
『―――
心配の表情と
それが九曜が大事なモノを奥底に秘めた瞬間で、曜の目が覚めた瞬間だった。何よりも、娘にこんな辛い思いをさせてしまっている自分に恥じ、悲しみに嘆くのをやめた。少しずつ現実と向き合い、九曜と向き合い、うつ症状を改善していった。
………けれど、完全に大丈夫だと言える頃には、九曜から天真爛漫さが失われていた。
「やっと。やっとなのに……」
NWOを始めてからだ。十年経ってやっと、九曜が変わり始めた。いや、正確には戻り始めた。
元の明るさと今の落ち着きが混ざり合い、
ゲームの世界で走り回れるようになった九曜は、少しずつ明るさを取り戻した。その様子を見て、曜はやっぱり変わっていないと悲しくなった。九曜は昔のまま、外で走るのが大好きで、本が大好きで、思ったままに動き回る好奇心旺盛な、幼い九曜のままだということに。
悲しいはずなのに、やっぱり嬉しかった。
九曜の中にまだかつての幼いあの頃が、ちゃんと残っていることが。自分のせいで無くしてしまった心が、ちゃんと戻ってきていたから。
「どうして、今なのよ……どうして、『あれ』が原因なのよ……っ!!」
折角、娘が走り回れる世界だったのに。
折角、心が戻ってきていたのに。
その世界が原因で今度は現実の九曜が苦しんでいる。その事が、自分の事のように痛かった。
今の九曜を見ていれば分かるのだ。九曜がVR世界を捨てないことが。宝物を眺めるように瞳をキラキラさせてあの世界に行く姿を見ているから。ゲームの事は詳しくなくても、九曜の表情が何よりも『大切』だと物語っているから。
「取り上げられるわけ、無いじゃない……っ」
主治医から義足の準備を勧められ、同時に告げられたのは、たとえ退院しても、九曜をVRゲームにログインさせない事。長時間のログインは血流を停滞させ、狭窄が悪化する。薬で痛みと狭窄を和らげることはできるが、完全ではないからだ。数日後に一時退院する予定の九曜がVRゲームに触れないよう、家でも気を付けてほしいと言われていた。今できるのは、
手術自体はそう難しくない。だから、事前に義足を用意し、術後なるべく早くリハビリに入れるよう、義足を準備するために、進行を遅らせなければならない。
けれど。
「あの子からこれ以上私が何かを奪うなんて、できないわよ……」
それが、九曜にとって宝物であればあるほどに、尚更のことだった。
曜は九曜が心を抑えていることを知っていながら、これまでそれに縋ってきた。だからこそ、もうしたくないのだ。娘の悲しむ姿も、諦めた瞳も見たくないのだ。
だから。
「………私にできることは、九曜にとっての幸せな選択を、信じてあげること」
かつてのエゴによる選択じゃない。
九曜にとっての幸せとなる選択を求めて。
お祖母ちゃん……(泣
九曜と公園に行く前には早く歩けないなんて言ってたのに、九曜がピンチになると
最初で最後の、火事場の馬鹿力でした。
しかしそれも報われず、突き飛ばされた九曜ちゃんは、運悪く足がタイヤの下敷きになりました。目の前で見ているしかできなかった曜さんは、どれほどの絶望だったのでしょうか。
ちなみに九曜のお父さんの名前は
一度もまともな登場シーンありませんが、ちゃんと九曜ちゃんのこと愛してますし、お家改築したり車椅子用意したりできるくらいには、バリバリ稼いでます。勿論十年前の運転手からもめちゃくちゃふんだくったけど。
てか九重さんの出番、全く無さそうなのよね……お母さんの愛情が海より深いし。
『九』重と『曜』の娘だから『九曜』
全員キラキラネームっぽい。
嗚呼あと補足ですが、地の文で義足を作ることに触れていましたが、これは医者の判断。
まとめると、
『切除しかありません。しかし、まだ猶予があります。その間に、娘さんが少しでも早く社会復帰できるよう義足の準備を考えてください』
って感じですね。板見さんとは関係ない所で進んだお話で、あくまでも医者から曜さんへの助言です。九曜ちゃんも関与してません。
今話は九曜と板見さん邂逅の裏でのお話。次回以降で九曜の方で起こった事と、曜さんの出来事が交差し全てが決まり、動き出します。
超長かった……っ!
明日はPS特化ですー