「昔はあったらしいよ」
遠くを見つめる彼女に、何がと問う。ほとんど人の寄り付かない明け方の植物園は静かで、やけに沈黙が重かった。
「春って奴。四季の一つだったんだとか」
聞いたことがある。大体三か月周期で巡る季節。春は暖かくて、夏は暑くて、秋は涼しくて、冬は寒い、そうだ。体感したことがない以上は何も言えないけど、衣替えだとか季節の移り変わりによる体調の不調だとか、不便なことが多かったらしい。それに比べれば現代は楽なものだ、何せ全天候型環境ドームによる完璧な温度、湿度管理。常に人に快適な状態に保たれた環境のおかげで、そんな不完全は一ミリも存在しない。大気汚染から人類を守るためにドームが設置されて、最初の頃は四季の移り変わりまで再現していたそうだけれど、いつの間にかそんな無駄はなくなった。限られたエネルギー資源の中で、そんなことをしている余裕がなくなった、という方が確かかもしれないが。
「どんな季節だったか知ってる?」
まあ多少は、と答える。授業で習った範囲でならある程度記憶している。冬と夏の間、大体三月末から五月末くらい、最初は寒くて最後は寒い、みたいな。
「うろ覚えだねえ」
ニヤリと意地悪く笑った彼女に、うるせえと悪態をつく。大して興味もない歴史上の出来事なんて、細かく覚えている方が少数派だろう。お前はどうなんだと聞き返す。
「勿論ちゃんと覚えているとも、興味のある歴史上の出来事だからね。春は桜が綺麗な季節でね、大昔の歌人は桜にちなんだ多くの歌を詠んだものさ。温暖な気候は生物にとって重要だったため、数多くの命が育まれる時期でもあった。あとこれは唯一今も変わらないことだけれど、別れと出会いの季節だったらしい」
朝焼けに、彼女の赤い瞳が煌めいて見えた。理知的なコイツにしては珍しく、ノスタルジィに浸っているらしい。からかってやろうか、と開きかけた唇は小さく震えやがったので、大人しく黙って、彼女の見つめる方を見た。ドームの外、荒廃した街並み。植物の生命力って奴は凄まじく、経年劣化で倒壊したビル群にまとわりつくように生い茂っている。コンクリートジャングル、なんて言葉が脳裏をよぎった。確か配点は三点だった。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
小さく欠伸しながら彼女が言う。確かに、そろそろ行かないと卒業式に遅れてしまう。今まで散々遅刻してきた僕たちだからこそ、ハレの日に遅れるわけにはいかないだろう。ふと思い出して、そういえば、と振り返った彼女を見つめる。
「こんな朝早くにこんな辺鄙なところに呼び出して、見せたかったものって何だ?」
きょとん、という間の抜けたオノマトペがぴったりの表情で、彼女は僕を見た。「なんだ、気づいてなかったのか」と笑って、僕の背後を指差した。
「ドームの外に近くて暖かい、ここにしか生えてないからさ」
息を呑む。僕らの背丈よりずっとでかい大木、そこから白い花弁が舞っていた。幾枚も幾枚も、僕たちを覆い隠すみたいに。なるほど、これは笑われても仕方がない。肩に乗っかっていた一枚を見て、思った。
「昔の卒業式には、桜って奴が付き物だったそうだからね」
大木を見上げる。きっと何年も、何十年も、ずっとここに鎮座していたであろう桜を。こんな風に卒業生を送るのも、きっと初めてではないだろう。雲一つない晴天の中、はらはらと散っていく桜に、大昔の歌人の気持ちも、昔の学生の気持ちも、少しだけわかった気がした。
「何て言うんだっけ、こういう気持ち」
「ん?」
「ほら、古語で」
「エモい?」
「いやいや、もっと古い奴」
「いとをかし、だ」
ボケが伝わらない男だなあ、と肩を叩かれた。とぼけたことしか言わないお前が悪い。
「ここで悪いお知らせがある、全力で走らないと卒業式には間に合わない」
「おい、何故もっと早く言わなかった」
「鈍感な君が悪い」
そう言いながら二人、身体をほぐし始める。急な全力疾走で怪我したら、格好悪すぎるので。
「遅かった方が後でジュース奢り、っていうのはどうだい?」
「いいね、乗った」
乗った瞬間彼女が走り出した。フライングと怒ったところで止まる女ではない。小さく笑って、後を追うように駆け出す。ふわりと春の匂いがした。