心斎橋から、中国語が消えた。
そのことが私の耳にはひどく新鮮に聞こえた。
ここ数年間、心斎橋を歩いていると、中国語かそれに似たようなものしか聞こえなかったからだ。
中国人がいなくなったのは、新型コロナウィルスの影響だった。
観光客のいない心斎橋はしんとしていた。
しんとした心斎橋には、それでも、やはり人込みはあった。
あまりしゃべらない日本人たちの群れ。
一昔前まではそれが普通だったのだが、今の私にはまるで別世界に迷い込んでしまったかのように感じられた。
行儀良く、訓練された兵隊のように連なって歩く日本人たち。
かといって、彼らは一つの団体ではない。
主婦、サラリーマン、学生、それから日中に街を闊歩できる、何を生業としているのかよくわからない人々。
実に様々な人々で形成されている。
そんなことを考えていた瞬間だ。
いまだに慣れないハイヒールでよたよたと歩く私を追い抜いた男性に見覚えがあった。
いや、本当に見覚えがあったのかどうかは定かではない。
男は一瞬で私を追い抜いた。
肩幅の広い、筋肉質な背中。
古臭いボックス型のシルエットの背広が、少し先に見えた。
ワックスで固めてオールバックにした髪は、白髪交じり。
そんな後ろ姿は、見覚えがあるのかどうかはっきりとしない。
だが確かに私はさっき。
「あの男」を見たような気がしたのだ。
* * *
「あの男」が私をレイプしたのは11年前、2009年の夏だった。
そのころ私はまだ14歳で、故郷の村で過ごしていた。
故郷の村は小さな村だった。
田舎のへき地と表現しても差し支えないような土地だった。
周辺で学校は、旭丘分校ただ一つ。
その学校では、小学生も中学生も同じ教室で授業を受けているような状況だった。
若い男と接する機会がなかった。
その頃の私が知っている男性といえば、年の近い兄ただ一人。
だから、男性というものに対する恐怖心がなかった。
というよりも、男性の持つ、奥深い性欲というものを、理解していなかったのだ。
「あの日」、私はたまたま一人で山の小道を歩いていた。
お気に入りの白のワンピースを着て、頭にはちょっと可愛いデザインの麦わら帽子。
空はカラッと晴れていて、小道には木漏れ日がきらめいている。
絶好調の気分だった。
鼻歌なんか歌いながら、拾った小枝を振り回して歩く。
「こんなにいいお天気なんだから。夏海も来ればよかったのに」
他の用事があると言って散歩についてこなかった妹をやれやれと憐れむ。
一人での散歩がさみしいというよりも、高揚感のほうが強かった。
一人でちゃんとお散歩ができるんだぞ、私は。
謎の全能感が胸の奥から湧き上がっていたのだった。
だから、後ろを歩いている男に気が付いた時も、別に怖いとは思わなかった。
たまたま同じ方向なのかな?と思った程度だ。
山間の小道は、踏み固められたあぜ道以外は獣道だ。
歩きやすいあぜ道を選ぶなら、同じ道になることはおかしいことではないはずだ。
男は、私のやや後ろを、一定の距離を保つようにして歩いていた。
一度だけ、少し気になって振り返ったのだが、優しげな表情をしたおじさんだった。
にこりと微笑まれて、私もなんだかうれしくなって、ちょっとだけ手を振って微笑み返した。
「とうちゃーく!」
山道を抜けると渓流に出た。
ごろごろとした岩場の一つに腰掛ける。
私はサンダルを脱ぐと、沢に足を浸けた。
「ひゃーっ、冷たい!」
しばらくパシャパシャと足をばたつかせたりして遊んでいると、視線を感じた。
先ほどのおじさんだった。
優しげな瞳をしたおじさんが、少し離れた位置の岩場に腰掛けて、私をじっと見ていた。
分厚い眼鏡の奥の瞳は、優しげだけど、瞬きもせず私を見ているようで、ちょっとだけ変だな、と思った。
それに、おじさんの目線は私の顔というよりも、足元とか、ワンピースのスカートの裾のあたりをうろちょろしているような気がした。
私が、ちょっとぎこちなく手を振るとおじさんも振り返した。
おじさんが立ち上がった。
ゆっくりと近づいてきて、私のすぐそばに腰掛けた。
「あ、えと」
私がどう反応すればいいか戸惑っていると、おじさんが目じりを細めて言った。
「やぁ。今日は暑いね。水遊びにちょうどいい」
目じりを細めると、皴ができて、もっと優しそうに見えた。
その皴のでき方が、うちのおじいちゃんに似ていて、私はなぜかほっとした。
おじさんは私のすぐそばに腰掛けたまま、「ふぅ、暑い暑い」とか言ってパタパタと手で顔を仰いでいた。
隣に座られると、大きな人だなと思った。
私は、14歳になっても、まだ身長は140センチにも達していなかった。
そのことがコンプレックスだったのだが、おじさんは逆に180センチはありそうな気がした。
会社員の人が履いているような焦げ茶色のスラックスに、白い半そでのワイシャツ。
半袖のワイシャツは汗でべっとりとしていて、いかにもおじさんっぽい下着のシャツが透けていた。
その透けたシャツを見て、私は自分自身のことがふと気になった。
私の白いワンピースも、もしかして……。
急に不安になって、股間の部分に目をやる。
白いふわっとしたお気に入りのワンピースは、夏の太陽を浴びて下着がうっすらと透けて見えてしまっていた。
「あっ」
私は真っ赤になって、両手を下着の位置に置いた。
たぶん、おじさんに見られてしまった。
男の人に見られて恥ずかしいという気持ちもあったが、それ以上に、いかいも子供っぽい下着を穿いていたことがすごく恥ずかしかった。
もう14歳なのに、おねえちゃんなのに。
小学生みたいな下着を穿いているのが知られちゃったかもしれない。
このときの私は、おじさんが私の下着に対して、性的な感情を抱くとは考えもしなかった。
私は、自分が子供だと思っていた。
背も低く、童顔。
それにまだ14歳だ。
子供に性的な感情を抱く男性はいないと思っていた。
だから、私は、エッチな意味合いではなく。
見知らぬおじさんに子供みたいな下着を見られて、笑われることが恥ずかしかったのだ。
私のそんな心配をよそに、おじさんはそしらぬ顔をして言った。
「この村は人が少ないんだね」
「え? あ、そ、そうですね」
唐突の質問に、私は肯首した。
内心、下着のことを指摘されなくてほっとしていた。
これがおじさんじゃなく夏海だったら「あー! 姉ちゃん、下着透けてるぞぉ!」ってからかいまくってきただろう。
妹のくせにいつも私をバカにするのだ。
「子供も少ないのかな?」
「え、えと。はい」
私はあいまいに頷く。
家族や友人以外とおしゃべりした経験がほとんどないから、見知らぬ男性相手にどのように話せばいいのかよくわからなかった。
「あ、あの、おじさんは旅行ですか?」
なにか会話をしなきゃと、変な義務感を感じて、そう問いかけた。
「あぁ。そうだね。この村は何度か来ているけどね」
おじさんがニコニコとして言った。
こんな村に何しに来たんだろう。
お仕事の人が来るわけないんだけど。
だって農地ばっかりだもん。
「えと。ど、どうですか? うちの村は? 何もなくてつまらないんじゃないですか?」
「とっても素敵だよ」
おじさんが笑顔で私を見た。
「こんなに可愛い女の子とも出会えたし」
「え、あ、か、可愛い……」
私はまた赤くなった。
可愛いなんて誰かに言われたことがなかった。
村には男性がそもそもほとんどいないのだから、当たり前だ。
だから、自分の客観的に見ることなんてできなかったし、相対的に見ることもできなかった。
あえて言うなら、背の高い妹の夏海や、年下なのにずっと大人びている友達の蛍と比べて、自分には女性的な魅力に欠けていると内心思っていた。
だから、男の言葉は、ひどく心地よかった。
私の小さな自尊心をくすぐってやまなかった。
おじさんが、私の髪に触れた。
「ひゃっ!?」
突然のことに驚いたのだが、おじさんは動じた様子もない。
髪に触れて、匂いをかいで、それがごく普通の行為だという表情で言った。
「お日様みたいな匂いがするね」
「あ、あの、えと……あ、ありがとう、ございます」
こ、こういうことをするの、もしかして都会では普通なんだろうか?
その時の私は、なぜかおじさんのことを、都会からやってきた人だと思い込んでいた。
農作業着以外の服装はすべて、都会風に見えたからだと思う。
「お洋服も可愛いね」
そう言って、徐々に距離を詰めてくる。
おじさんの吐息や体温がなんとなくわかるぐらいに近くなった。
おじさんの指が、私のワンピースの肩紐に触れた。
「ひんっ」
私は、思わず妙な声をあげてしまった。
おじさんの指が、細いワンピースの紐と一緒に、私の肩の素肌にも触れたからだった。
触られたことよりも、変な声を出してしまったことのほうが恥ずかしかった。
* * *
それから後の経緯は、おぼろげな記憶の中にたゆたっている。
おじさんは、私のワンピースをあっという間に脱がしてしまった。
すごく恥ずかしかったけど、この時点ではそこまで嫌だという気持ちはなかった。
それはおじさんが言葉巧みに、私のことを可愛いと言い続けたからだと思う。
下着だけになり、その下着にすら手をかけられようとしていても、まだ私はにやけていたのだ。
可愛い、可愛いと、普段誰からも言われたことのない言葉をささやかれ、引き締めようにも頬が緩み、口元がふにゃふにゃとふやけてしまう。
痛い、つらいと思ったのは。
男が本格的な行為に及んでからだった。
* * *
「少し変だけど優しいおじさん」が、「痛いことをする怖い人」に替わり、やがて「犯罪をして去っていった人」へと替わった。
私は、激しく体を弄ばれて、茫然としたまま河原に放置された。
男は去っていき、痕跡を残さなかった。
私のお気に入りだった白のワンピースは、土に汚れて乱雑に放置されていた。
麦わら帽子は、沢に落ちて流されてしまったのか、見当たらなかった。
夕方になっても帰ってこなかった私を心配した母が、呆けて河原に座り込んでいる私を発見してくれた。
私は、無表情だったらしい。
能面のような顔をしていたらしい。
母におぶられて家に帰ると、夏海が心配して家の前に立っていた。
「もうっ、姉ちゃん。一人で家出するなよ」
夏海が頬を膨らませた。
「家出するなら二人一緒だろ?」
一年ほど前に二人で家出をしたことがあった。
あの時と同じだと夏海は思い込んでいるのだ。
「こらっ」
母が、夏海のおでこをこついた。
「あいたっ」
「一人でも二人でも家出しちゃダメでしょ!」
「はーい」
夏海が能天気に舌を出した。
* * *
その日の夜、私が、ひょこひょこ歩きで廊下を歩いていると夏海が笑った。
「あはは! 姉ちゃん、沢でこけて怪我してやんの~」
そう思い込んでいるらしい。
後で知ったことだが、母がそのように説明したからだった。
「…………」
私は、夏海を無視して、ひょこひょこ歩きながら自室へ帰った。
布団にもぐると、枕に顔をうずめた。
頭の奥に、硬い鉄の板が入ってしまったみたいな気分だった。
何も考えが進まない。
鉄の板にすべてが遮られてしまうのだ。
しばらくそうしていたら、障子が開く音が聞こえた。
夏海だった。
妙に神妙な声で言った。
「いや~、姉ちゃん、ごめん」
何に謝っているのだろうと思ったら、夏海が言葉をつづけた。
「あ、あのさ。姉ちゃん、私に怒ってるんだよな? その。冷蔵庫のアイス食べちゃったこと。ほ、本当にごめん」
頭を下げる衣擦れの音が聞こえた。
私の態度を見て、自分に怒っていると勘違いしたらしい。
「…………」
私が黙って無視していると、あわてたように夏海が言った。
「あ、や、やばっ! 違った? も、もしかして、姉ちゃんの大事にしてたぬいぐるみを汚しちゃったことに怒ってる? そ、それとも、勝手に髪飾り持って行って失くしちゃったこと?」
あぁ、そうか、夏海には、この日常が続いているんだ。
ふいに、そんな考えが頭をよぎった。
夏海は、レイプされていない。
レイプされたのは私だけ。
私だけ、もう日常の出来事の尺度が変わってしまったんだ。
そう感じた瞬間、とめどのない涙が噴出した。
私は、枕を噛んで嗚咽を漏らした。
「ね、姉ちゃん……?」
戸惑うような、夏海の声が聞こえた。
そのあとも何か言っていたような気がしたが、自分の嗚咽の音で、何も聞こえなくなっていった。
* * *
私がレイプされたことは、夏海にも蛍にもれんげにも、決して知らされることはなかった。
母は事実を隠したがった。
幼い私は、それが母親に優しさなのかと思ったが、実際には狭い村の中での体裁を気にしているだけに過ぎなかった。
そのことを責めるつもりはない。
私が母親の立場でも、そうしたかもしれないからだ。
それぐらいに、閉鎖された村の中において「体裁」というものは大切だった。
「体裁」を守ることは、ひいては私のためでもあったのだ、と思う。
傷物にされた娘という存在が知れ渡ると、あの村の中では暮らしにくかっただろう。
事件のことは、隣村にある駐在所にだけは相談した。
母親は、私を連れてそこに行き、秘密裏に捜査してくれることを頼み込んだ。
年老いた駐在さんは、困ったような表情をしていた。
「普通は犯人の情報提供を呼びかけるものなんだけどねぇ」
「それはわかっています。でも、そんなことをしたら、私たち一家はあの村で生きてはいけません」
彼はため息をついた。
わかっていると、言う様子でうなづく。
「まぁ、小さな村だからねぇ」
それから、しゃがんで目線を合わせるようにして、私に問いかけた。
「訊きにくいことを訊くけどね、お嬢ちゃんは、犯人の顔を覚えているかい?」
年老いた駐在さんの声は優しかったが、すごく大事なことなんだ、という強い問いかけの意思が感じられた。
私は首を振った。
思い出そうとすると、もやがかかったように思い出せなかった。
不思議だった。
夏の水辺の涼やかな空気感や、強く照っていた日差し、お気に入りのワンピースや、麦藁帽子。
そういったものは鮮明に思い出せるのに。
あの男の顔だけが思い出せなかった。
男の、服や体つきは思い出すことができた。
サラリーマンのようなスラックスと、白いワイシャツと、大振りな眼鏡。
汗の匂い。
硬く怒張した男性部分。
しかし、顔だけが、黒塗りの公文書のように、記憶の影でべっとりと汚れていた。
どれだけ思い出そうとしても無理だった。
「……あっ、かっ」
気がつかないうちに、私は、音のない叫び声のようなものを喉から搾り出していた。
母親と年老いた駐在さんが、心配そうに私を覗き込んでいた。
「大丈夫? 無理に思い出そうとしなくてもいいのよ」
母が背中をやさしくさすった。
私は、涙を流していた。
「く、苦しいのかい?」
自分の問いかけが私を苦しめたのだと思った駐在さんが、申し訳なさそうな声を上げた。
私は、恐る恐る、彼の顔を見上げた。
彼の顔も、あの男と同じだった。
まっ黒に塗りつぶされて、顔が見えなかった。
* * *
その日以来、私の目には、男性の顔が映らない。
兄の顔ですらも、だ。
笑っているとか、悲しんでいるとか、怒っているとか、感情のニュアンスはなんとなくわかる。
だが、顔が見えないのだ。
いくら見ようとしても、真っ黒ののっぺらぼうしか、私の瞳には写らなくなってしまった。
母は、あの男の顔が思い出せないだけだと思い込んでいた。
つらい出来事を無意識に忘れたくて、ある種の記憶障害が起きたのだと彼女は思っていた。
しかしそうではないのだ。
私は、ありとあらゆる男の顔が見えなくなってしまった。
そのことは、母には言わなかった。
私の身に降りかかったことで、母は憔悴しきっている様子だった。
これ以上、母を苦しめたくなかった。
それに男の顔が見えないからといって、いったい何が困るというのだろう?
* * *
この出来事の後、もうひとつ私の身体に変化が起こった。
そちらは、誰の目から見ても明らかな変化だった。
身長が伸び始めたのだ。
事件から一月ほどたった頃、数センチは背が伸びたので、私はすごく不思議だった。
頭のてっぺんをさすさすと触りながら、柱につけている爪あとをじっと見つめた。
何年もほとんど伸びなかった背が突然伸びだしたのだ。
このタイミングで夢がかなうとは思わなかった。
背の低さは長い間私のコンプレックスだった。
背が伸びたくてたまらないといつも思っていたのだから。
「やっぱり、あの日から?」
誰にともなく、一人ぼっちの部屋でつぶやく。
身長の伸びは、一日ではわからない。
あの日から急速に伸び始めたのかどうか、確束はない。
しかし。
あの出来事の翌朝のことを私は思い出した。
目が覚めた時、自分の体が入れ替わってしまったような不思議な感覚にとらわれたのだ。
何か自分を押さえつけていたものがぼろりと剥がれ落ちたような感覚があった。
私は、自分の頭のつむじに触れた。
そこが上へ伸びていくような感覚があった。
体の細胞が活性化し、順次入れ替わっていくような変な感覚だった。
私は、すっかり別人へと変わってしまったのだろうか?
そう考えると、ぞくりとした。
私は私であり続けるはずなのに、この肉体は、すべて入れ替わってしまったような……。
* * *
それからも私の身長は伸び続けた。
140センチメートルに満たないという小学生並みだった私の身長は、ぐんぐんと伸びて、年の瀬には、150センチに達した。
まるで今まで忘れていた分を取り戻すかのようだった。
次の年の暮れには夏海の身長をわずかに追い抜いた。
顔だちも大人びてきて、童顔とは言えなくなった。
高校に進学するころには私は、ごく普通のありふれた女の子になっていた。
「あの日」の事件をきっかけに、私は、「越谷小鞠」であって「越谷小鞠」ではなくなってしまった。
背が低く、周囲の女の子よりも幼く見えて、いつも不幸に巻き込まれている「越谷小鞠」は腐って溶けてなくなって、全く別の「越谷小鞠」に変貌したかのようだった。
かつての私は、圧縮され、記憶のずっと奥へと追いやられ、かすんで消えてしまいそうだった。
私自身の死。
私は生きているのに、私は死んでしまった。
そう考えると、体の芯から恐怖が競りあがってきそうになる。
ある日の夜、私は、耐え難くなって家を出てがむしゃらに走った。
あの渓流までたどり着き、声の限りに叫んだ。
「あの男」に会いたかった。
もう一度会いたかった。
「レイプのことを咎めるのではありません。処女を返してくれとも言いません。男の顔だって、見えなくたってかまいません。ただ、あの日の私を、越谷小鞠を、返して」
夜の渓流の流れに声がかき消された。
私は、暗闇にたたずみ、じっと水音に耳を傾けた。
こうしていると、あの男がぬっと現れないかと思った。
むしろそう願っていた。
しかし、男は現れてはくれなかった。
* * *
とぼとぼと家へ帰る途中、農家の男とすれ違った。
男は私を一瞥し、ばつが悪そうに顔を背けた。
その男の顔は相変わらず見えなかったが、腫れ物に触れるような空気感ははっきりとわかった。
私がレイプされたことは、母が隠そうとしてはいても、どこかから情報が漏れているようだった。
子供は知らなくても、大人たちはたぶん知っていた。
そのことは、私はつらいと思わなかった。
むしろ逆だった。
あの日のことを失くしてしまいたくなかった。
あの日がなくなってしまうと、私は、過去の私との接続性を失ってしまうような気がした。
あの日を誰も共有せず、私の記憶だけの中に沈んでいくと、まるで私の妄想のような気がしてしまうのだ。
私は、越谷小鞠であり続けたかった。
あの日、あのおじさんに変えられてしまっただけで。
私は越谷小鞠なのだ。
記憶よ、残れ。
記憶よ、硬く残れ。
鉄のように硬く硬く残れ。
それがはっきりと存在していることだけが、14歳までの私と、14歳以後の私を繋ぎとめ、同一の存在であらしめているのだ。
* * *
高校の卒業を気に、村を離れて都会に出た。
なんとなく、そうすべきであるような気がしたからだ。
私が育った田舎からは近畿圏が近かった。
最初、京都の河原町近くにある小さなプリント機器のリース会社に就職したのだが、一年で辞めた。
条件があまりよくなかったのだ。
都会での生活は、予想以上にお金がかかった。
いろいろ新しい職を探して、大阪の心斎橋にある会社に事務員として再就職した。
ビルの一室にテナントを設ける、システム会社だった。
あっという間に時は過ぎていった。
* * *
「あ、あの」
唐突に後ろから声をかけられて驚いた。
振り向くと、見知らぬ中年女性が私を心配そうに見ていた。
ふくよかな、人の良さげな女性だった。
ふいに現実に引き戻されたような感覚がした。
心斎橋通りの人いきれが私の頬をはたいた。
「あ、えと」
言葉に詰まっていると、中年女性がつぶやいた。
「きゅ、急に立ち止まったのでどうされたのかと」
「あ、ご、ごめんなさい」
私は頭を下げた。
女性は少しいぶかしそうに私を一瞥して、人ごみに消えていった。
せわしない人々の群れが、邪魔そうに私をすりぬけていく。
中には舌打ちをしていく人もあった。
私は、あわてて目線を引き戻す。
あの日の男に似た男の背中は、もう人込みのずっと遠くにあった。
私は、引力で吸い寄せられるように、男の後を追った。
「す、すいません。通してください」
頭を下げながら、人込みをかき分ける。
不思議だった。
私はいったいどうしたいのだ?
あの男をいまさら追いかけて、それでどうなるというのだろう?
本当にあの男かどうかも、はっきりとしない。
そもそも、私には、男の顔が判別すらつかないというのに。
それでも、まるで惑星に支配される衛星のように、私は歩みを止めることができなかった。
いまだに慣れないハイヒールが、かかとを痛めた。
それでも私は必死になって男の背中を追う。
と、男が忽然と消えたかのように見えた。
違う。
階段を下りたのだ。
長堀橋駅につながる地下街への階段を下りたのだ。
私はあわてて後に続いた。
地上に比べると、地下街は人が少なかった。
コンクリートの細長い石棺のような地下街が東西に伸びていた。
田舎育ちの私には、地下街はいつ見ても慣れない。
どこか、この世ではない場所のように感じられる。
そこを歩く人々も、死者のように感じられる。
男の背中を再びとらえることは容易だった。
地下街の無機質な通路を、西の方向へと歩いていた。
まだ十分、追いつける。
私は、痛めたかかとをかばうようにゆっくりと階段を下りた。
男の歩く速度は、思ったよりも遅かった。
先ほどまでの人ごみの中ではわからなかったが、よたよたと酔っ払いのような歩き方だった。
もしかしたら、どちらかの足が悪いのかもしれない。
地下街には音楽が流れていた。
ストリングスオーケストラの奏でる、昔の映画音楽だ。
そのチープな優美さが、私からなおさら現実感を剥奪していくみたいだった。
この追跡が、まるで現実ではない夢のように感じられた。
だが、これは現実だ。
靴擦れの痛みが、私にそう告げていた。
私は、瞳をぐっと開いて、男の背中をにらみつけ、後を追った。
10分ほど歩いただろうか。
14aという出口から、男が地上に上がった。
微妙な距離をとって、私も地上に上がると、目の前に雑居ビルがあった。
男は雑居ビルに吸い込まれていく。
少しだけ怖くなった。
地下街や商店街という恐恐の開かれた道ではなく、見知らぬ雑居ビル。
これ以上追うべきだろうか?
私は、自分を鼓舞するように頬をはたいた。
足を踏み入れると、築年数の経ったビル独特の薄暗さが私の感情を撫ぜた。
かつん、かつん、と靴音が聞こえた。
コンクリートを踏む音。
男は階段を使って上に上がったらしい。
音をたてないように気を付けて二階へと上がる。
そこには喫茶店があった。
20年以上はずっと経営していそうな、古めかしい喫茶店だ。
だが、みすぼらしいというわけではなかった。
扉には、丁寧にレースで飾り付けがされていて、「紅茶専門店 茶夢」という木製のプレートが掲げられていた。
私は、突き動かされるようにドアノブに手をかけた。
まるで呼び寄せられるかのように、ドアノブを回す。
扉を開くと、紅茶の甘い香りが鼻をくすぐった。
店内は、落ち着いた雰囲気だった。
アンティーク調の調度品が随所に設置されていた。
曲名はわからないが、弦楽四重奏が流れていた。
気味の悪い雰囲気を想像していたので、私はほっと胸をなでおろす。
腰の曲がった老婆がやってきて告げた。
肺の奥の亀裂から空気が漏れるようなか細い声だった。
「一名様ですか? こちらの席へどうぞ」
しまった、と思った。
自分から席を指定すればよかったのに、案内されるがままに、窓際の二名掛けのテーブルへと誘導されてしまった。
男の座っているテーブルからはかなり遠かった。
その位置からでは相変わらず、男の背中しか見えなかった。
男は背広を脱ぎ、白いワイシャツ姿になっていた。
あの日と同じだった。
汗をかくと下着が透けそうな白いワイシャツの背中。
男の向かいに、奇妙なものが見えた。
それは、人形だった。
年代物のアンティークドール。
幼い女の子を模した、西洋人形。
強調された大きな青い目が、斜め上をにらんでいた。
首の部分が歪んでしまい、まっすぐ前を向かない様子だった。
「どうかなされましたか?」
店員の老婆が隣に立っていた。
私は息を呑んだ。
それから、ただ単純に注文を取りに来ただけだということに気が付いた。
慌てて、細長いメニュー表を開く。
10数種類の紅茶の銘柄が並んでいたが、ちっともわからなかった。
適当に、ニルギリを頼んだ。
紅茶が運ばれてくる間、私はずっと男の背中を見つめ続けた。
男は、紅茶のカップを片手に、ずっと人形を見つめているようだった。
言葉は発さなかった。
私と、男と、人形。
三者の沈黙の間を流れる海流のように、弦楽の四重奏だけが音として存在していた。
やがて老婆がポットとティーカップを持ってきた。
カップを机に置くときに、私に小声で話しかけた。
秘密をそっと教えるような、ささやき声だった。
「あちらのお客様が気になるのでしょうか?」
私は驚いて老婆を見上げた。
しわだらけの表情からは、老婆が何を考えているのかは読み取れなかった。
老婆が、言葉をつづけた。
「あの方は、時々いらっしゃるのですがね、いつも棚に置いてあるあの人形を、自分の向かいの席に座らせたがるのです」
その言葉のニュアンスから、老婆が何を考えているのかは読み取れなかった。
男を困った客だと思っているのかどうかはわからなかった。
「何か理由があるのでしょうか?」
私は問いかけた。
老婆は、表情を変えずに言った。
「さぁ? 私どもはお客様を受け入れるだけの存在です」
恭しい動作で、どこからか砂時計を取り出した。
赤い砂が満たされた、工芸品のように美しい砂時計だった。
「それを問いかけるのは私の役目ではありません」
そっと砂時計を私の前に差し出した。
ティーポットと砂時計を見比べて、ささやいた。
「この砂が落ちるまでです。それまでは、待たなければいけませんよ」
老婆の言葉は、緩やかで、よどみがなく、まるで子守唄のようだ。
* * *
私は、ゆっくりと、目を閉じた。
すると、瞼の裏に、子供のころの光景が点滅して浮かんだ。
仲の良かった友達たち、長閑な村の生活、涼しい渓流の水。
そんなものがちかちかと浮かんでは消えた。
弦楽四重奏の音も消えていった。
私の耳には、砂時計の砂がさらさらと落ちる音だけが聞こえるようだった。
自分が小さな砂粒になり、記憶という海を流されているような錯覚に陥った。
やがて記憶の海を流れた私は、あの日へとたどり着いた。
あの日の渓流のそばに、男がいた。
男の頭部はぐちゃぐちゃと形を成さない黒い肉の断片だった。
しかし、ぐちゃぐちゃの形のない肉の塊は、徐々に形を形成しつつあった。
砂が落ちる音と呼応するかのように、形を成しつつあった。
* * *
この砂が全て落ちきったら、男に声をかけよう。
そう、強く想った。
(完)
お読みいただき、本当にありがとうございます。数年前から書きたかった短編をようやく書くことができました。人生におけるイニシエーションのようなものを、越谷小鞠ちゃんで書きたくて、ずっと考えていた内容なのですが、読む人を選ぶ内容ですので、躊躇して悩み、数年かかってしまいました。性的なものを喚起するための作品ではありませんので、R15に留めておりますが、もし問題ございましたら、修正いたします。1人の方にでも、この拙い小説が届けば良いのですが……。