レッスンを終えて更衣室に戻ると、ロッカーに入れたままにしていたスマートフォンがメールの受信通知を画面に表示して私を待っていた。普段はあまり見かけない通知に少しだけ気を引かれたが、すぐにそのメールの内容に大まかな見当がついたため、私はスマートフォンの画面を消した。緊急性もないメールのチェックは汗で重くなったレッスン着から着替えた後でも良いだろうと、私は暗くなったスマートフォンに目もくれずハンガーにかけていたセーラー服へと手を伸ばす。
「そういえば、この前のオーディションはどうだったの?」
明るい蛍光灯に照らされた更衣室に突拍子もないこのみさんの声が響いて、私は一瞬セーラー服を握っていた手を止めた。隣のロッカーの前で私を見上げながら首を傾げているこのみさんの様子が、まるで早くメールを確認しなさいよ、と私を急かしているように映った。勿論、そんなつもりはないのだろうけど、何気ないこのみさんの視線が妙に居心地悪く感じられて、私はセーラー服を片手に再びスマートフォンに手を伸ばした。
画面のロックを解除してメールアプリを開く。未読のマークが付いたメールの差出人は私の予想通り、先日オーディションを受けた劇団の代表者だった。そしてメールの内容もまた、なんの捻りもないほどに私の予想通りだ。
「ダメでした。丁度今、落選のメールも届いたところです」
「え? あ、そっか、残念ね……」
このみさんの先ほどの問いはオーディションの合否ではなく私の手応えを訊いたつもりだったらしい。その意図を私が汲み取れず、手応えを通り越して結果から話してしまったせいなのか、このみさんは伏し目がちにそう言った。だけど、私もそんな些細なことであからさまに機嫌を悪くするほど子供でもない。別に気にしてませんから、と言葉を付け足して、スマートフォンをロッカーの中に戻した。
……いや、プロデューサーに車の中で同じようなことを訊かれた時はムッとしていたかもしれないけど。
「ま、次頑張れば良いじゃない! 志保ちゃんまだ若いんだから。いや〜、お姉さんは羨ましいわ」
このみさんが歯切れの悪い言葉を口にしたと同時に、更衣室のドアが控え目な鈍い音を立てて開かれた。更衣室に入ってきたのは茶髪のギブソンタックが特徴的な歌織さんだ。歌織さんはボイトレ組だったのか、レッスン着は乾いたままで、すぐに私たちに気が付くとニコッと笑って控え目な会釈をする。それに釣られて、私も無意識に頭を下げた。
このみさんの一つ下の二十三歳の歌織さんは、見た目はさることながら言動や立ち振る舞いも、全てに品があるエレガントな大人の女性だった。こうした何気ない仕草でも画になるのは、正直ズルイと思う。大人の品格漂う歌織さんを見た後だとロッカーのミラーに映った自分の顔がいつも以上に子供染みて見えて、気が滅入ってしまうのが手に取るように分かる。誰にでも平等に優しくて大人の余裕があって、スタイルも良いし元音楽講師だけに歌唱力も抜群に高い、歌織さんは私が持っていないモノを全て持ち合わせている大人だった。そんな私の理想を具現化したような歌織さんを前にすると、どうしても劣等感を感じてしまうのだ。
「……若いって、そんなに良いことなんでしょうか」
歌織さんに対する劣等感がまるで胸の内から押し出したかのように、留めておいたはずの言葉が口から飛び出した。ロッカーに備え付けられた小さなミラーの中の幼い私は、不安げな顔で私を見つめている。
「何言ってるのよ、若いに越したことはないでしょ。ね、歌織ちゃん?」
「え? ま、まぁ、確かに若い方ができることは多いですし」
このみさんも歌織さんも、まるで使い古された回答しか言ってくれなかった。「子供は大人に比べて自由だ」、今まで何億何千回も聴かされてきた話だ。でも何億何千回言われても理解できなかったし、おそらくこの先何兆回言われても私は理解できないのだろうと思う。そんな漠然とした意見が欲しいわけじゃない。もっと具体的な、今の制限だらけの狭い世界に価値を見出せるような話を私は求めていた。
私はそうは思えません、そう言って二人の意見を全否定すると、二人の大人は着替える動作を止めて、少し驚いたように私を見つめていた。
「子供の時って何もできないじゃないですか。私は早く二人のように大人になりたいです。自立して誰の手も借りずに生きていけるような、そんな立派な大人に」
語尾に熱がこもっているのが、自分でも分かった。こんなことを熱く語って恥ずかしいという感情が少しだけ胸の底から沸いてきているのを感じたが、私はそれを無理やり底へと押し返す。ここで尻込みしていたら私の気持ちを二人に分かってもらえない、この二人に私の切実な気持ちが伝わってほしい、そんな純粋な想いがあったのだ。二人は様子を伺うように私を眺めていた。
「志保ちゃんはどうしてそんなに早く大人になりたいの?」
まさに素朴な疑問、といった問いかけだ。
歌織さんにそう尋ねられて、真っ先に思い浮かんだのは家族の姿だった。狭い団地の部屋で忙しそうに家事に仕事に追われる母の姿、そんな母の様子を幼いながらも何かを察しているかのように心配そうに見つめるりっくん––––。何度もなんども、自分の無力さを痛感させられたシーンだ。
「誰の力を借りずとも、生きていけるようになりたいんです。せめて自分のことは自分でできるような、そんな大人に」
「……なるほどねぇ」
いつの間にか私服に着替え終えたこのみさんは、私の話を聴くと小柄な腕を組みながら目を閉じて、ロッカーに背中を預けていた。真剣に悩んでいるのか、難しい顔をして考え込むように唸っている。そんなこのみさんの様子を少し離れたところから微笑ましい笑顔で見守っていた歌織さんが、先に口を開いて沈黙を破った。
「これは私の考え方なんだけどね、子供の時間って大人になるために必要な寄り道だと思うの」
「寄り道、ですか?」
「そう。えっと……、どう例えれば良いのかしら」
少しだけ困ったように綺麗な眉をハの字にして思考を巡らせた後、例えばの話ね、と切り出して優しい声で説明を始めてくれた。
「東京から大阪へ旅行に行くことになったとして、移動手段はどんな方法があると思う?」
「大阪ですか? 一般的だと飛行機ですよね。あとは新幹線とか、バスもあるかもしれませんし」
「そうね、後は普通列車とかフェリーもあるし、ヒッチハイクや自転車、その気になれば歩いてでも行けるし、幾らでも方法はあるでしょ?」
「そうですね……」
だけど、それと大人になることがどう関係あるんですか。そう言おうとした私を遮るように、歌織さんが話を続ける。
「一番早いのは多分飛行機かしら。逆に車や徒歩、自転車なんかは当然その何倍の時間がかかるわよね」
「まぁ、そうなりますよね」
「でも飛行機じゃない方法の何倍の時間が掛かる中で大阪へ向かうとして、その道中で素敵な出会いや発見もあるかもしれないわ。美味しいお店が見つかったとか、運命の人と出会ったりとか、穴場のスポットが見つかったりとか」
「……確かに」
「それは飛行機のような便利な乗り物で向かうと絶対に出会えない経験だと思うの」
時間という名の下、子供が大人になるまでの時間は皆平等に与えられている。どんなに急いだって早く大人になれるわけでもないし、どれだけ望んだっていつまでも子供のままいられるわけじゃない。だからこそ、早まらない時計の針を急かすような無駄なことはやめて、今の時間を大切にするほうが得策だと、歌織さんが言いたいことはそういうことだろうか。
なんとなくではあるが歌織さんの言いたいことが見えてきた気がする。さすが元音楽講師だな、と思わず感心してしまうほどに的確な例えを用いた、分かり易い説明だった。
「沢山時間をかけて寄り道をした方が充実した旅行になるように、きっと沢山寄り道をして大人になった人の方が、経験も見聞も豊富になるんじゃないかしら」
「そうね、歌織ちゃんの言う通りだわ。学生の時の友達との付き合いも、退屈な授業も、どんなに何気ない時間でも大人になれば全部が貴重な経験になるんだから」
「そうね。あとは––––……、恋愛も、かな」
歌織さんらしくない発言を聴いて、私は呆気にとられた。このみさんの言葉にそう加えた歌織さんは、長い長い時間を遡るような瞳で私を見つめている。まるで過去の自分を重ねるように私を見つめる歌織さんの優しい瞳は、今までに見たことのない色を宿していた。
その瞳に導かれるように、ふと一つの記憶が蘇ってくる。確かあの話をしていたのは亜利沙さんだっただろうか、細かい記憶は定かではなかったがまだ39 Projectが始動して間もない頃、控え室で歌織さんの噂を小耳に挟んだことがあった。アイドルにスカウトされるまで、神奈川に近い田舎町で音楽講師として働いていた歌織さんには、高校生の頃から付き合っていた彼氏がいたそうだ。だけど歌織さんはアイドルになる道を選択したと同時に、長年連れ添った彼氏とはキッパリと別れて、単身上京してきた。アイドル活動をしていく上で足枷になると思ったのか、それとも何か別の理由があったのか、そもそも亜利沙さんが話していた情報も何処まで信憑性がある話なのかも分からない。だけど歌織さんはきっと歌織さんなりに多くのこと考え抜いて、葛藤をして、二十三歳からアイドルになる道を選んだのだと、亜利沙さんの話を聴いた時に私はそんなことをボンヤリと考えていたことは覚えていた。
「心配しなくても、嫌でもいつかは大人になる日が来るわよ。だけどそれまでに多くの寄り道をしておかないと、中身がなーんにもなくてつまらない、セクシーとは程遠い大人になっちゃうわよ」
歌織さんだけじゃなくて、そう言って笑うこのみさんも、きっと劇場の皆もそうなのかもしれない。各々の人生の中で人並みの経験を沢山してきて、その度に悩んで苦しんで、時には悲しい思いもしながらも多くの決断を迫られて自分で答えを見つけて、幾多の選択を繰り返してきた結果が今の自分を形作っているのだろう。
それは、誰かに助けられるばかりの何もできない無力な子供のままでいたくない、そのためには誰の手も借りずに、己の力だけで夢を叶える強さを手に入れるしかないのだと自分に言い聞かせて歩んできた私の生き方とはまるで真逆の生き様だった。私は夢を叶えるために必要のないことは全て切り捨てて生きてきた。誰かと共に過ごす時間を“馴れ合い”だと吐き捨て、人付き合いを避けて背伸びばかりをして、そんな私はもしかしたら皆に比べて人並みの経験が不足していたのではないかと思う。
恋愛だったり友人関係だったり、そんな何気ない日常は決して世界的に大きなトピックではないはずだ。失恋したからといって世界が終わるわけではないし、友達と喧嘩したからといって夜が明けなくなるわけではない。それらの経験は決して特異なことではなく、世界中にごまんとあるありふれた話だと思う。だけどそういった経験は時にターニングポイントにもなりえる可能性を秘めていて、本人にとっては人生を大きく変える宝石のような価値のあるものになるのかもしれない。
その宝石になり得る原石に目を背けて、自分の力で夢を勝ち取るため孤独を選んで沢山のものを切り捨てて、それで誰の力も借りず、一人で大切なモノを守れるほどの立派な大人になることはできるのだろうか––––。歌織さんの言う誰もが通るはずの寄り道を無視してきた私が、果たして人生という名の長い旅路を充実させることはできるのだろうか。自問自答し、自分の選んだ生き方に自信が持てない理由に私は薄々勘付いていた。時折ではあったが、年相応のことで悩み葛藤する同世代の子たちを無意識に羨む私が胸の奥底に潜んでいたことに気付いていたのだから。
「大人ってのはね、志保ちゃんが思っている以上に大人じゃないのよ。莉緒ちゃんはすぐ酔い潰れて誰かに介抱されるし、歌織ちゃんは寝ぼけて薄着のまま外に出ようとするし……」
「そ、それは言わないでくださいっ!」
少しだけ話が脱線して、大人の二人が子供みたいな無邪気な笑顔で戯れ合う矛盾した光景を見ていた時だった。ロッカーの中から全体を揺らすような鈍い音が聞こえてきた。慌てて扉を開くとロッカーの中ではスマートフォンが揺れ、ロッカー全体に震動を伝えている。鈍い音をたてて震えるスマートフォンの画面にはプロデューサーの文字。私はすぐに手に取ると、通話ボタンを押して耳に当てた。
『あーもしもし。志保、まだ劇場いるか?』
「お疲れ様ですプロデューサー。今、着替えてて帰ろうと思っていたところです」
『そっか、なら丁度良かった。この後少し時間あるか?』
「ありますけど……。どうしたんですか、急に」
今日はもう何も予定が入っていなかったはずなのにと、不審に思う私の疑問に、プロデューサーは電話越しで誇らしげに鼻を鳴らした。まるで私の問いを待っていたかのような、晴れ晴れとした調子の声で思いもよらぬ言葉を告げた。
『ならすぐ事務室に来てくれ。志保のソロ曲が上がってきたんだ』
「えっ!?」
ドクンと、大きな音を立てて心臓が脈を打つ。驚きのあまり息をつくことも忘れ、私はスマートフォンを耳に当てたまま呆然としていた。
『ライアー・ルージュ、志保にピッタリの曲だぞ。次の定期公演でお披露目するつもりだ』
歌織さんの過去は、何処かで掘り下げれたら。
見たければ見せてやるよ(震え声