水着まかべーとチア桃子によって4%の現実を突きつけられたので初投稿です。
私––––北沢志保という人間はわりと冷静沈着で、後先考えて行動できる人間だと思っていた。間違っても一時の感情に身を任せ、思い付いたことをそのまま口に出すような、そんな幼稚で無責任な言動をするような人間ではなかった。感情に支配された突発的な言動が、いかに建設的ではないかを理解していたからだ。
だからこそ、自分の口から漏れた言葉に耳を疑った。まさか自分が頭で考えるより先に口を動かすなんて今まで記憶になかったし、そんな感情に支配される自分が想像できなかったからだ。まるで自分が自分じゃないような、そんな不気味な違和感が胸の中をグルグルと渦巻いていた。
「……なんで、田中さんが出てくんだよ」
なんでだろう、理由があるなら私が教えて欲しいくらいだ。天ヶ瀬さんは困ったように目を細めながら、必死に私の胸の内を探ろうとしているようだった。私を見つめる彼の視線の背後の窓からは、灰色の雲たちが淀んだ空が見える。私たち二人だけの小さな世界にも曇天模様の空模様から雨の匂いが漂ってきて、息を吸うと鼻を通って胸の中にじんわりと広がっていくのが分かった。
「天ヶ瀬さんと琴葉さん、何だかお似合いな気がして」
まるで私ではない何者かが憑依しているかのように、また勝手に口が動く。
何者かに憑依された今の私はどんな顔をしているのだろう。天ヶ瀬さんの瞳に映る自分を確認するかのように、少しだけ無愛想で近寄りがたい雰囲気が漂う目をジッと覗いてみた。彼の瞳に映る私がどうか醜い女の子の姿ではありませんようにと、そう願いながら。
「何バカなこと言ってんだ、田中さんは関係ねぇよ」
私の発言の意図が分からずに困惑する天ヶ瀬さんの様子から、きっといつものような可愛気のない無表情なのだと容易に想像がついた。
琴葉さんの様子からも天ヶ瀬さんの今のリアクションからも、二人の間に自分が思うようなことがないことくらい理解はしている。それでも私の胸のずっと奥底、深淵でグツグツと音を立てる正体不明の炎は消える気配が一向にない。私の胸を締め付ける糸を這うように、深淵から伝ってくる炎が真っ黒な感情を運び続けている。真っ黒な感情の正体も、炎を鎮火する術も、何一つ解決策が分からなかった私は、為す術もなくひたすらに洗脳されることしできなかった。
「そうですか」
吐き捨てるとは、まさにこういう言い方のことを指すのだろう。何の解決にもならない、相手を困らせるだけのような言葉を口にした直後、私は無意識に椅子から腰を上げて、目の前で更に訳が分からず呆然とする天ヶ瀬さんを尻目に、椅子にかけておいたカバンを肩にかけていた。そして意識的に天ヶ瀬さんから視線を逸らし、席を離れた。私の足が向かったのは、曇天の空が待つドアの向こう側の世界だ。
「お、おいっ、北沢! ちょっと待てよ!」
「すみません、用事を思い出したので今日はもう帰ります」
「用事って……、絶対嘘だろ! どうしちまったんだよ、急に」
「だから用事だって言ってるじゃないですか。ご馳走様でした、お先に失礼します」
何度も背後から私の名を呼ぶ天ヶ瀬さんの声に、私は一度も振り返らずに店を出た。こういった拒絶の仕方が幼いやり方だというのは分かっている。でも今、どうしてこんなに胸の中に黒い感情が広がっていくのか、どうして私じゃない誰かが突然口を借りてあんなことを口走ったのか、それらを天ヶ瀬さんにちゃんと説明できる気がしなかったし、何よりその感情自体を説明する行為に激しい抵抗を感じていた。私が抱えている感情の正体を天ヶ瀬さんにだけは知られてはいけないのだと、深淵の底に居座る主が必死にそう私に告げていたのだ。深淵の主に逆らうことすらできず、ただただ思いのままに操られる私は逃げるようにして店を出た。
突き動かされるように店を出ると、手のひらに一滴の雫が落ちてきて弾けた。その拍子に喫茶店で天ヶ瀬さんと話をしたあの日、私が先に店を出た時の感触が手のひらに蘇ってくる。心の重りが取れたような開放感、私が見上げたまだ暑さの残る空は、今飛び立とうとする私を迎え入れるように青く澄み渡っていて、何処までも登っていけそうなほどに高く、私を見下ろしていた。今はあの時と正反対だ。青空をかき消すかのように曇天が広がっていて、灰色の雲たちはポツポツと涙を溢している。空が溢した涙を染み込ませたかのように、私の気持ちはとても重かった。
帰路の途中、いよいよ雨が酷くなってきて私はビニール傘を買おうとコンビニに立ち寄った際、トイレの鏡で自分の顔を確認してみた。どんな醜い顔をしているのかと思っていたが、トイレの少しだけ汚れた鏡に映し出しているのは、可愛げがなくて、愛想のない顔をした、いつもの北沢志保の顔だった。誰かに憑依されて操られているような感覚を確かに覚えていたはずなのに、鏡の中の私はいつもと何も変わらないの私。強いて言えば、唇が少し赤くなっていることくらいしか変化が見当たらない。
「……そういえば、口紅」
私らしくない、赤く染まった唇に指を添える。中学生の私が買える口紅なんてたかが知れているけれど、それでも口紅をすることで少しでも大人になれたらなと、そんな背伸びをする気持ちで、家を出る前に自分の唇を慣れない手つきで紅に染めていたことを思い出した。
だけど結局口紅を塗ったくらいで大人になんてなれるはずもなく、天ヶ瀬さんも気付いていないのか特に変わった反応も見せなかった。多分そこまで私のことを見ていなかったのだろうなと、そう思うと途端に紅色に染まった唇がひどく滑稽に見えて、私は洗面所の蛇口を捻った。勢いよく溢れてきた水を手のひらに貯め、紅色の唇に強引に浴びせる。
––––もしかしたら私は憑依されていたのではなく、あの黒い感情や深淵に潜んでいた主の正体は、誰でもない私自身だったのではないのだろうか。
そんなを不安を口紅と一緒に流し落とせればと、その一心で私は何度もなんども唇を拭った。
★☆★☆★☆★☆
天ヶ瀬さんに会えれば前のように心の霧が晴れてるのではないかと、そんな根拠のない期待を抱いていた私だったが結果は最悪だった。前に進むどころか、更に状況が悪化した気さえする。身勝手な話ではあるがこんな気持ちになるくらいなら会わなければ良かったと、そんな後悔を抱くほどに。
だがそんな私の心境とは裏腹に、翌日訪れた劇場ではなんとも摩訶不思議な現象が起こった。
「……ど、どうした。志保、今日は様子が変じゃないか」
「信じられない。金曜日までの北沢さんとはまるで別人だわ」
レコーディングスタジオで私のライアー・ルージュを聴いたプロデューサーとボーカルのトレーナーは、二人揃ってあんぐりと口を開け、私が唄ったライアー・ルージュを絶賛したのだ。
★☆★☆★☆★☆
「……冬馬さぁ、もう一度確認させてくれ」
「なっ、なんだよ」
「コレは冬馬が“知り合いから譲り受けたチケット”、だったんだよな?」
「そうだって、初めからそう言ってんじゃねぇか」
「ならどうしてチケット購入者の名前が天ヶ瀬冬馬になってるんだ?」
「そそそそ、それはチケットくれたやつが俺と同姓同名だったからで……」
「天ヶ瀬冬馬さんが取った765プロ劇場の定例ライブのチケットを、天ヶ瀬冬馬が譲り受けたってことだな」
「…………そうだよ、なんか文句あんのよ。文句あるならチケット返してもらうぞ」
「ホントに!? なら僕と北斗くんはライブ行かないでこのまま帰るね!」
「お、おいっ! ここまできて何言い出すんだよ! バカっ、マジで帰んなよっ!」
本気で帰ろうとする翔太の肩を慌てて捕まえて引き止める。捕まった翔太は面倒臭そうな顔をしつつも俺を見て口角を上げており、その光景を見守っていた北斗は溜息混じりに「どうしようもないな」なんてボヤきながら苦笑いをしていた。
北沢と最後に会ってからあっという間に数週間が経過し、東京の街は煌びやかなイルミネーションによって覆われるようになった。吐く息が白くなり、時折駆け抜ける風が肌を切り裂くように寒くなって、見上げた先の空では毎日のように多くの灰色の雲たちが渋滞を起こしている。冬模様の空が陽が指す時間をめっきり減らしてしまったが、曇り空の下を行き交う人たちは対照的に、日に日に街中に増えていく緑と赤のカラーに心を踊らせ、賑わい始めているようだった。
北沢とはあの日以来、妙に気まずくて一度も連絡を取っていない。毎日のようにあの日をことを思い出しては何が原因で北沢が不機嫌になったのかを考えてみるも、思い当たる節も、ここまで時間が空いてしまった今になって掛ける言葉も、未だに見つけれずにいた。
「……アイツ、どうしちまったんだよ」
あの日突然背中を向けて立ち去った彼女の背中を思い出して、ふと俺の口から溢れた言葉は、周囲の人混みの騒音に掻き消された。拡声器を通して響き渡るスタッフの声が重なったのもあって、幸い隣の北斗と翔太にも聞こえていないようだった。
思い返せばあの日の北沢はずっと様子が変だった。ふとした時に見せる彼女の横顔は何処か不安げで、夢に向かって真っ直ぐで綺麗な瞳は胸の中の迷いを表すように揺れてボヤけていて––––、なにより初めて貰ったソロ曲を初ステージで歌いこなせる気がしないと、そんな弱音を口にした北沢の表情が印象的で、気掛かりだった。
あれからどうなったのだろうか。北沢は自分なりの答えを見つけて、迷いを振り切ることができたのだろうか。直接連絡して確認するのが単純かつ効率的な方法だと頭では理解していたが、何度LINEを開いて北沢宛の文章を打っても、最後の送信ボタンを押すことを躊躇ってしまい、結局あの日から今日まで一度も北沢にLINEを送ることはなかった。憶測ではあったが、俺が何度も打っては消したようなメッセージを、北沢が求めているとは到底思えなかったのだ。俺に背中を向けて足早に立ち去ったあの日、色々なモノを背負ってしまった彼女の小さな背中は、優しい言葉や励ましいの言葉を拒絶しているような、そんな風に俺の瞳には映っていたのだから。
それでもどうしても北沢のことが気になった俺は、こうして彼女がデビューをすると話していた定例ライブのチケットを購入し、765プロの劇場まで足を運ぶことにした。勿論、一人でライブに参加するのはおろか、北沢が目当てだなんて口が裂けても言えるはずもなく、あくまで偶然を装って北斗と翔太も連れてきて、ではあるが。
「初めてきたけど、なんかこじんまりとした感じだね」
「お前なぁ、そういうことは言うなって。何処で誰に聞かれてるか分からねーんだから」
決して多いとは言えない人混みを抜け、辿り着いたのは劇場のキャパ数が千人にも満たないであろう小さなホールだった。翔太の言う通りまさに“こじんまり”としたホールは開演十分前なのに関わらず人の数もまばらで、チラホラと空席も多く目に付く。夏に観に行った天海たちのアリーナライブが記憶に新しいだけに、どうしてもイマイチ盛り上がりに欠けているといった印象が拭えなかった。
「39 Projectはまだ始まったばかりだから仕方ないさ。いくら765ASの妹区分といえども、知名度も人気もまだまだからな」
765 ALL STARSに続くアイドルグループとして世間の注目を浴びていた39 Projectだが、当然その中身はまだまだ知名度のない新人アイドルたちの集団で、実態は北斗の言うように厳しいようだ。恐らく今日のライブを見に来ている人たちの中で、熱心なファンや固定のアイドルの追っかけは極少数で、大半はアイドルが自ら声をかけて集めた友達や知り合いたちなのだと思う。若い中高生たち以外のお客さんたちは皆、これから始まるライブを楽しみに待つというより、今からステージに出てくる商品を品定めをする鑑定士のような眼差しで開演を待っているようだった。
「ま、お客さん集めるのは本当に大変だもんねー。ビラ配りなんかもうしたくないよ」
「へっ、そんな翔太に朗報だぜ。来月のライブ前にまた街頭でビラ配りすることになったから、気合い入れとけよ」
「えぇ、なんでぇ!? 僕そんなの聴いてないよ!」
「聴いてねぇって、お前がこの前俺ん家でミーティングしてる時に寝てたんじゃねぇか!」
「おいおい、二人ともあまり大きい声を出すなよ––––」
誰かにバレるかもしれないだろう。そう、北斗は警鐘を鳴らしたかったのだと思う。だけど悲しい哉、北斗がその言葉を口にする前に危惧していた事態が起こってしまった。通路を挟んだ向かい側の席に座っていたキャップ帽にサングラスを掛けた女性がまじまじと俺たちの方を向いていて、何か確信を得たかのように立ち上がるとコツコツとブーツのヒールが床を叩く音と共に向かってきたのだ。
サングラスの奥で俺たちを見つめてるであろう視線から逃げるように咄嗟に俯いた時、ヒールの音が止んだ。チラリと見えた女性のブーツは俺の隣の席の前で足を止めている。
「やっぱり北斗じゃん! 何してんの、こんなところで?」
「チャオ、恵美ちゃん。久しぶりだね」
砕けた口調で話す北斗の声につられ、顔を上げた。親しげに北斗に話しかけた女性のキャップ帽のツバの先、サングラスをズラした僅かな隙間から覗く大きな瞳と視線が交錯する。少しだけ驚いたように俺を見つめる恵美と呼ばれる女性の視線に気が付いた北斗が、簡単な紹介をしてくれた。
「紹介するよ、友人の所恵美ちゃんだ。何度かモデルの仕事で一緒になったことがあって、今は39 Projectのメンバーとしてアイドルをしているんだ」
「にゃはは、アイドルって言ってもまだまだ無名なんだけどね。二人のことはよく聴いているから知ってるよ。ま、よろしくねっ!」
どうやら北斗のモデル関係の友人だったらしい。本人はまだアイドルとしてデビューはしていないそうだが、今日はデビューする三人の応援で来ていたのだと話していた。
周囲に気遣ってか、俺と翔太の紹介を省いてくれた所は人懐っこい屈託のない笑顔で笑っている。だけどその笑顔が、俺にはどうにも何か企んでいるような笑みにしか見えなかった。
「それで、どうして北斗たちが劇場に来てんの?」
「冬馬から急に誘われたんだ。チケット買ったから三人で行こうって」
「お、おいっ!」
「ふぅ〜ん、なるほどなるほど……」
所は北斗の馬鹿正直な説明を聴いて、納得したような口ぶりで頷いていた。だけど所の微かに緩んだ口元と俺に向ける狐のような目は、明らかに何かを隠しているような雰囲気が漂っている。アレは本心を見抜いている顔だ。そのうえで、敢えて見て見ぬ振りをしているような気がした。
勘や察しが良い奴だったら面倒くせぇな、なんて心の中で毒を吐いて、なるべく面倒毎にならないようにと、俺は顔を横に逸らす。所は追及するつもりはないのか、北斗と暫く親しげに他愛もない会話を繰り広げているだけで、それ以上俺たちが劇場に来た理由に触れることはなかった。
この時の俺の直感は確かに当たっていた。だけどたった一つ、俺も所も重大な勘違いをしてしまった。そして面倒見がよくて世話好きな所の性格も災いし、その勘違いが後にとんでもない事態を引き起こすことになる。もちろん、この時の俺はそのことを知る由もない。
「それじゃ、今日は楽しんでってねー!」
少し癖のある女性の開演のアナウンスが入ったタイミングで、所は目深にキャップ帽をかぶり直して去って行ってしまった。
同時に会場全体を照らしていた灯りが緩やかに弱まり始め、あっという間に灯りが消え去り厚い漆黒に染まっていく。一面が真っ暗になると会場全体には緊張感が張り詰め、期待と不安が混じったような歓声があちこちから挙がった。
(いよいよ、か……)
どうか、北沢が大きな失敗なくアイドルとしての一歩を踏み出せますように。
祈るような気持ちで、俺は闇の中で輝くペンライトたちを見つめていた。