お互いの名前を呼び合ったのと同時に、背後で車がゆっくりと走り出す音が聞こえてきた。重そうな身体を動かす乾いたエンジンの音、足を止める私を追い越す車たちから溢れ出たそよ風が、排気ガスの匂いを鼻に運んでくる。生まれて十四年、東京で毎日のように嗅いできた匂いだけど、今でも何処か居心地を悪く感じてしまう、好きになれない匂いだ。
呆然と私を見つめる天ヶ瀬さんの上半身だけが綺麗に切り取られたように、ビルの隙間から射す夕陽に照らされている。ライアー・ルージュに私の本心を気付かされて以来、改めて会った天ヶ瀬さんは今までより何倍も眩しい光を纏っているように見えた。逆光を受けて立つ天ヶ瀬さんだったが、額に手を添えるわけでもなく、ただ目を細めて私を見つめている。久しぶりに見た天ヶ瀬さんの髪は伸びていて、黒いニット帽からはみ出した前髪は鼻の付け根に差し掛かろうとしていた。伸びた前髪の奥に潜む、私を見つめる天ヶ瀬さんの瞳に私の胸はぎゅうと縮む。好きだと認識してしまったせいだろうか、前みたいに自然に応対することができず、無意識に身体が硬直していくのが分かった。
「あれ、あまとうも志保も知り合いだったの?」
恵美さんは私たちの顔を交互に見て、互いに確認を取るかのようにそう尋ねた。天ヶ瀬さんがどう答えるのか、少しだけ期待して天ヶ瀬さんの顔を伺ってみたが、彼はバツの悪そうな顔で逃げるように目線を泳がせているだけで自ら口を開く気配はなかった。淡い期待を捻り潰されたように、私たちはつくづく曖昧な関係なんだなと痛感させられる。天ヶ瀬さんにとって私はただ友達なのか、同業者のライバルか、はたまた都合の良い暇潰しの相手なのか––––。恵美さんの問いに言葉を詰まらせる彼の様子から、天ヶ瀬さんの中での私の立ち位置は不透明なままのような気がした。
––––ただの友達です。
そんな無難な言葉が喉元まで出かかった時、天ヶ瀬さんの視線が一瞬だけ、チラリとプロデューサーへ向けられたのに気が付いた。あぁ、そうか、プロデューサーの存在を気にしていたのか。天ヶ瀬さんの意図を汲み取って、私は喉元で止まったままの言葉を慌てて飲み込んだ。
Twitterの一件は結局天ヶ瀬さんのソックリさんで解決されたままで、プロデューサーはあの写真の人物が天ヶ瀬さん本人だということに未だ気付いていない。ここで私たちが知り合いだと分かると、あの写真の真相にも気が付かれてしまうと思ったのだろう。別に知られたところで特別都合が悪くなるようなことはないのだろうけど、面倒事を避けたいのなら知られないに越したことはない。もし天ヶ瀬さんがそう思っているのなら、私もその考え方には賛成だった。
「いえ、別に知り合いってほどでは」
なるべくいつものようにと、当たり前のことを無駄に言い聞かせすぎたせいか、私の口から溢れた言葉はひどく素気ないように聞こえた。天ヶ瀬さんも同意を示すように、小さく首を縦に振る。私たち二人の様子を交互に見比べる恵美さんも、あまり興味がなさそうに「ふーん」と返して、この話題が終わろうとした時だった。
「冬馬くーん! 僕が持ってた分のビラ、配り終わったよ!」
遠くの人混みの中から聞こえてくる元気な男の子の声。まだ声変わりをする前のような高い声で天ヶ瀬さんを呼んだのは、四方から流れてくる人の波を掻き分けて向かってくる、私とそこまで背丈が変わらない華奢な体型のな男の子だった。長い髪をオールバックにするかのようにカチューシャでまとめた男の子と、ふと視線が交わる。男の子はほんの一瞬だけ足を止めて遠目に私を確認すると、すぐさま天ヶ瀬さんの元ではなく私と紬さんの方へと大きく舵を切って方向転換をし、軽い身のこなしで行き交う人々の間をひょいひょいと縫い潜って私の前で立ち止まった。私の隣に立つ紬さんにはまるで目もくれず、私の顔をジッと見つめている。男の子の後ろで、必死の形相で私たちの元へと向かってくる天ヶ瀬さんの姿が目に入った。
「ねぇ、もしかして北沢志保ちゃんでしょ?」
「え?」
「やっぱりそうだ!」
突然名前を呼ばれ、動揺する私の反応を見て、確信めいたように男の子はニッと口角を上げて笑う。あぁ、この笑い方、そうだ。確か天ヶ瀬さんと同じジュピターの––––……。
「おいっ、翔太! てめぇ、何してんだよっ!」
「いてっ! もー、冬馬くん何するの。まだ僕、何も言ってないよ!」
「まだって、やっぱり何か変なこと言うつもりだったんじゃねぇか!」
名前を思い出す前に、天ヶ瀬さんが男の子の名前を口に出した。
御手洗翔太くん、だったかな。私が天ヶ瀬さんたちに興味を抱くキッカケとなったYouTubeのインタビュー動画の記憶が断片的に思い浮かんできて、目の前でヘッドロックを掛けられて苦しそうにしている男の子と照らし合わせていく。間違いない、こんな風貌だった気がする。記憶が正しければ御手洗翔太くんは私と同じ歳か、一つ下だったはずだ。
そんな私の心の内を読んでいるのか、天ヶ瀬さんの腕に包まれて苦しそうにしながらも何処か楽しげな笑みをした御手洗翔太くんは、身を乗り出して更に口を開いた。
「志保ちゃん、中二でしょ? 僕もおんなじなんだ! よろしくねっ」
「え? あ、えぇっと……。よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
まるで当然のことのように、さらっと下の名前で呼ばれてドキッとする。なにがよろしくなのか、私でもよく分からない言葉が咄嗟に出てしまったが、御手洗翔太くんはそんな私を気にもせずに愛想の良いニコニコした顔で「僕のことは翔太って呼んでよ」と言った。
人懐っこいというか、妙に人との距離を詰めるのが上手い人だなと思った。くっきりとした二重まぶたが特徴的な顔はいつもニコニコしており、嫌味のない笑顔は翔太くんのフレンドリーな性格をそのまんま表しているようで、やけに馴れ馴れしい口調で話しかけられても不思議と嫌な気はしない。きっと年上年下誰にでも隔たりなく同じように接することができて、多くの人に気に入られることのできる人間なんだなと思う。同じ39Projectに所属する同級生の翼と同じ、俗に言う『コミュ力オバケ』という人種だろうか。少しだけ威圧感があって近寄り難い雰囲気の天ヶ瀬さんとは、まるで対照的な人種のような気がした。
「志保ちゃんのこと、冬馬くんから聴いてたんだ」
「え? 私のこと?」
「そう。この前のライブだってね––––……」
「ああああぁぁぁぁ、ちょっと待てっ!」
天ヶ瀬さんが私の話を?
翔太くんの言葉の続きが気になったが、天ヶ瀬さんは発狂に近い声を上げて、慌てて翔太くんが言いかけた言葉の蓋を閉じてしまった。まるで引き出しの奥にしまい込んだ自分だけの宝物を必死に隠す子供のように、取り乱れた様子で翔太くんの口を塞ぐ天ヶ瀬さんの様子が、更に私の好奇心を掻き立てる。天ヶ瀬さんは翔太くんにどんな私の話をしていたのだろうか。マフラーに包まれた顔が火照って、胸の鼓動が早くなっていくのが分かった。
暫く二人はギャーギャーと子供のように奇声をあげながら戯れ合った後、側を通り過ぎて行く名前も知らない人々のこの上ないほど迷惑そうな視線が飛んでいたのに気が付いて、二人は離れて大人くしなった。先ほど言いかけたの言葉の続きが知りたくて密かに翔太くんを応援していたのだが、解放された彼は閉ざされた言葉の続きを言うつもりはないらしい。いたずらっ子のような顔で私の隣の紬さんに小さく会釈すると、天ヶ瀬さんが手に握りしめていたチラシの束をそのまま奪い取って、やってきた道を辿るように踵を返して人混みの中へ飛び込んで行ってしまった。
「なんか、悪かったな。翔太が迷惑かけて」
「いえ、別に迷惑なんか……」
人混みの中へ消えて行った翔太くんの背中を見送った天ヶ瀬さんは、独り言のように呟いた。私の隣で、天ヶ瀬さんをきょとんとした様子で眺める紬さんの様子が視野に入り込む。紬さんが慌てて私の視線に気が付いた時、私は逃げるように天ヶ瀬さんに目を向けて口を開いた。
「でも」
そう付け足して、少しだけ遠くを見つめる。背後で色褪せた信号機が聞き慣れたメロディを口ずさみ始めた。天ヶ瀬さんが神様に印を付けられた特別な存在だということにまだ気付いていない周囲の人たちが、止めていた足を動かす。遠くからゆっくりと、私たちを飲み込もうとする大勢の人たちの足音が聞こえてきた。
「多分、気付かれちゃいましたね」
「……あぁ、本当にすまねぇ」
私の視線が捉えた人物を天ヶ瀬さんも見つめ、再び謝罪の言葉を口にした。私の考えていたことが瞬時に伝わって、やっぱり天ヶ瀬さんも同じことを危惧していたようだ。
少し離れたところで恵美さんと並んで立つプロデューサーは、ボンヤリとした目で私たちを眺めていた。後で詮索されるのだろうなと煩わしく思う反面、不思議と私と天ヶ瀬さんが言葉を交えなくても示し合わせたように同じことを考えていたことを嬉しく思う気持ちの方が強かった。
★☆★☆★☆★☆
三度ほど単調な呼び出し音が鳴った後、音は途切れた。ガサガサとマイク元で何かが触れる音が聞こえてきた後に、相変わらず抑揚のない声がスマートフォンのスピーカーを伝って俺の耳へ届く。久しぶりの電話のせいか妙に緊張して、俺は唾を飲み込んだ。
『もしもし?』
「……あーもしもし。今、大丈夫だったか」
ぶっきらぼうな北沢の声を確認した後、呼吸を整えるように少しだけ間を置いて訊くと、「大丈夫ですよ」とだけ返事がきた。チラリと枕元に置いたデジタル時計を確認する。夜の二十二時ピッタリ、わざわざ余裕がありそうな時間を狙って電話をかけたが、俺の予想は的中だったらしい。
「今日は翔太がなんか色々迷惑かけてすまなかったな。あの後、大丈夫だった?」
『全然大丈夫です。プロデューサーも変に誤解せず理解してくれてましたから』
「え、そうなのか?」
『はい。前任の先輩プロデューサーから、天ヶ瀬さんたちの話を少し聴いていたそうです。ちょっと突っ掛かってくるところはあるけれど、根は良い人たちだって」
「そうだったのか……」
765プロでプロデューサーとして勤めている人間は、今日の男を除いて俺の知る限り二人しかいない。そして俺と面識があるということだから恐らく秋月ではない、赤羽根の方だろう。赤羽根は765ALL STARS全般を管理していたメガネをした若い男のプロデューサーだ。三十代前後の風貌で少し危なっかしい雰囲気はあったが、それでも仕事ができる人間だったようで、天海たちのアリーナライブの仕事を持ってきたのは彼だと聴いていた。
だけど前任って言うことは、あの赤羽根は765を辞めたということだろうか。北沢の言う“前任”の意味が少し引っかかったが、北沢に電話をかけた当初の目的を思い出し、一旦赤羽根の消息は頭の片隅に片付けておくことにした。
「……北沢。俺、北沢に謝らないといけねぇことがあって」
『謝らないといけないこと、ですか?』
本題を切り出すと、北沢は驚いたように復唱しながら語尾を上げた。スマートフォンを耳に添えながら、俺はベッドから腰を上げて窓際へ向かう。カーテンを捲った窓の先では、僅かに欠けた月が薄い雲に覆われながらも眩いまでの光を放っていた。
「俺さ、実はこの前の定例ライブ行ってたんだ。北沢がステージに立ったあの日のライブに」
『……あぁ、そのことですか』
黙ってにライブを見に来たことを怒るだろうか、もしかしたら招待もされていないのにチケットをわざわざ買ってまで観に来たことにドン引きするかもしれない。
そんな心配を抱えて口に出した告白だったが、北沢の反応は俺の予想していたパターンのどれにも当てはまらなかった。まるでどうでも良いことのように、ドライな反応を伺わせる北沢の声。驚いているわけでも、怒っているわけでもなく、その声色には少しだけ苛立ちが含まれているように聞こえた。もしかして俺が来ていたことに気が付いていたのだろうか。「知ってたのか?」と訊くと、歯切れの悪い口調で北沢は「まぁ」とだけ曖昧な返事を返した。
ここから先、この話題を掘り下げる言葉が見つからず暫しの沈黙が流れた。夜空を照らしていた月はゆっくりと流れてきた分厚い雲に覆われ、行方不明になっている。消えた月の在りかを探していると、痺れを切らしたように北沢が口を開いた。
『……琴葉さんを観に来てたんですよね?』
「は!?」
思いも寄らない名前が飛び出してきて、俺は思わずスマートフォンを落っことしてしまうそうになった。
「なんで俺が田中さんを観に行く必要があんだよ」
『え、違うんですか?』
「ちげーよ、んなわけねぇだろ」
だって俺が本当に観たかったのは––––。
そう言いかけて、俺は黙り込んだ。分厚い月がようやく過ぎ去って、再び綺麗な月が顔を出した。耳に当てたスマートフォンの奥で、ガラガラと引き戸がガラスを揺らしながら動く音が聞こえる。ピシャリと何か壁にぶつかるような音が聞こえた後、スピーカーからは風が走る音が寒さとともに伝わってきた。
「今、外にいんの?」
『はい。ちょうど今風呂を上がったばかりで身体が火照っていたので』
僅かに聞こえていた生活音が消え、急に静かになった電話越しの世界に北沢の綺麗な声が響く。北沢も同じようにこの月を眺めてるのかな、なんて性に合わないことを考えながら俺はボンヤリと月を眺めていた。
「そっか」
もう北沢の声には先ほど俺が感じたような苛立ちは含まれていなかった。どうやら俺のただの勘違いだったらしい。
「ライブ、すげー良かった。全然歌いこなせないって言ってたのに、ビックリしたぜ」
『そ、そうですか? ありがとうございます』
「悪かったな、勝手に観に来たりして」
『いえ、むしろ嬉しかったです。あと先日はすみません、急に帰ったりして』
「気にすんなよ、用事があったんだろ?」
『……本当に失礼な態度とってしまって、すみませんでした』
北沢は用事があったのだと肯定はせず、ただひたすらに謝っていた。何かが胸の奥で突っ掛かっていた気がしたが、俺はそれをしつこく追求するような無粋な真似はしなかった。あの日から妙に空いてしまっていた俺たちの距離感が再び正しい位置に戻されたような気がして、今はそれだけで満足していたのだ。
同じ夢を追うライバルとして、これからも刺激を貰える関係でありたい。俺の中の特別なポジションに北沢が戻ってきてくれて、今はその距離感が妙に心地よかった。
「今度、俺たちもライブするんだ。すげー小さな箱だけど」
『知ってます。今日はそのビラを配ってたんですよね』
「そうそう。良かったら次のライブ、見に来いよ。この前楽しませてもらったお礼、させてくれ」
『え? 良いんですか?』
「あぁ、招待枠でチケット確保しとくからさ」
『ふふふっ、ありがとうございます。楽しみにしておきますね』
それから俺たちは暫く他愛もない会話を続けて、電話を切った。電話を切った後、妙にやる気に満ち溢れた指でペンを握り、手帳に「招待券(北沢)」と記して、俺は布団に入った。北沢がライブに来てくれる、そう考えるとソワソワしてなかなか眠りにつけなかった。北沢は俺たちのライブを見てどう思ってくれるのだろうか。
(やっぱり天ヶ瀬さんは凄いって思わせてぇよな)
そのためにも絶対に成功させないと。北沢が自身の殻を破って前に進んでいるんだから、俺も負けてられない。そんなことばかりを考えながら、その日は浅い眠りについた。
後から振り返れば、もう既にこの時点で何かがズレてきている予兆はあった。田中さんを目当てに俺がライブに来ていたのだと北沢が勘違いしていた辺りから、俺も何かがかけ違えてあるような感覚を覚えていたはずだった。だけど俺はその感覚を偶然だと片付けて、俺たちの間に生じていた僅かなズレを突き詰めようとはしなかった。それが後に引き起こす事態をこの時は思いもよらず、ただただ楽観視して適当に流してしまっていた。
洋服のボタンを掛け合わせていくのと同じように、物事は最初にたった一つでもボタンを掛け間違えてしまうと、そこから先は全部がズレていってしまう。そして大体気がつくのは最後のボタンと穴の数が合わなくなった時だ。取り返しのつかないところまで行ってしまって、初めて最初に生じていたズレに気がつくことになる。そのことを、後に俺は痛いほど思い知らされることとなった。
次の日。
俺が電話をした時間帯とほぼ同時刻に、北沢から電話が掛かってきた。
『すみません、昨日のチケットの件なんですけど、キャンセルしてもらえませんか』