プロデューサーに連れられて回った作曲家への挨拶回りの帰り、偶然駅まで天ヶ瀬さんと鉢合わせをした。急な出来事で驚いたけど、きっと私は今までと同じように平然を装って彼と話ができたと思う。私たちの反応からプロデューサーにはTwitterの一件の真実も知られてしまったけれども、最後に会った日に私が見せた醜い嫉妬のせいで離れてしまっていた私たちの距離が元の距離感に戻った気がして、そのことが私は嬉しくて仕方がなかった。
その日の夜、天ヶ瀬さんから電話が掛かってきて、僅かな時間でも二人きりで話もできて。天ヶ瀬さんの声を聴きながら月を眺めていた時間は、本当に心安らぐ時間だった。琴葉さんのこともどうやら恵美さんの早とちりだったようで、昨日の一日は私たちの間に漂っていた妙な気まずさは勿論、色んなモヤモヤが一度に解消された一日となって、天ヶ瀬さんのライブを観に行く約束をして電話を切った後は久しぶりにぐっすりと眠りにつけた気がする。
ここまでが昨日までの話だ。そして今日、放課後に心なしかステップを踏むような軽い足取りで劇場に向かうと、39Projectの中で唯一私の胸の内を知る莉緒さんに会った。莉緒さんの手にはマグカップが握られており、その隣では真っ黒な液体が入ったポッドを持つ美也さんが、いつもの如く愛らしい猫のようにニコニコと笑みを浮かべている。
「あー、この豆堪らない! 昨日のより苦味があって美味しいわ」
「それは良かったです〜」
珈琲の飲み比べでもしていたらしい。その様子から二人が近々、喫茶店を舞台にした映画のオーディションを受けると話していたことを思い出した。なんでも喫茶店を営む三姉妹の物語で、莉緒さんはお店に通う男役に挑戦するとか聞いた気がする。大人の余裕があって端正な顔立ちをした莉緒さんが演じる男役はどんな風になるのかと、密かに私は興味を抱いていた。
先に私の存在に気が付いた美也さんに、「志保ちゃんも良かったら一杯どうですか?」と訊かれた。マグカップが綺麗な唇に触れるたびに極上の霜降り肉を頬張るかのように頬を緩める莉緒さんの顔がチラリと視界に入って、頷きながら「お願いします」と返事をする。部屋の隅にある簡易キッチンの水切り籠に逆さに置かれていたマグカップを持ってきて、私も二人の前に腰を下ろした。
「志保ちゃん、最近調子はどう?」
「調子……、ですか?」
私が座るとすぐさま目の前の莉緒さんから質問が飛んできた。あまりにも漠然としすぎた質問に、思わず首が傾く。莉緒さんは宝箱を前にした子供のような眼差しで両肘をテーブルにつきながら私の口が開くのを今か今かと待ち望んでいる。
その視線から目を逸らした私は美也さんから珈琲が入ったマグカップを受け取って、軽く唇に含んでみた。真っ黒な珈琲が舌に触れた途端、じわりと熱が広がると、間髪置かずに独特の苦味が舌から口全体に広がっていく。莉緒さんはこれの何処が美味しいと思っているのだろうか、私には到底理解できそうにない味だ。
「もうっ、勿体ぶらないでよ」
マグカップが私の口元から離れたタイミングを見計らったように、莉緒さんが我慢できずに先に口を開いた。
「隠し事はなしよ。私、聞いちゃったんだから」
その口調と笑みに、嫌な予感を感じて背筋が凍る。
大抵、莉緒さんがこういう風な少し芝居かかった口調で話す時は、決まって面倒極まりない事態が起こる。私と同じ予感を察したのか、美也さんもどさくさ紛れにポッドを持って席を立とうとしていた。莉緒さんの目が一瞬だけ隣で腰を上げた美也さんに向けられたタイミングで私も席を立とうとしたが、すぐに金縛りに合うような眼光に晒され、私の逃亡は叶わなかった。
「……聞いたって、なんの話ですか」
これは言い逃れできそうにないな。
無事逃亡に成功した美也さんが、新たな止まり木を見つけたのを恨めしそうに眺めながら、私はぼやいた。美也さんが見つけた新たな止まり木では、琴葉さんとエレナさんが興味深そうに珈琲の入ったポッドの中を覗いている。
「昨日、会ったんでしょ。例の彼と」
「その話、誰から聴きました?」
「プロデューサーくん。親しげに話してたって、驚いてたわ」
プロデューサーが?
恵美さんや紬さんではない、予想外の人物の名前が出てきて私の心内では小さな波が立つ。莉緒さんは慌てて「大丈夫。プロデューサーは多分気付いていないから」と言葉を付け足したが、その“気付いていない”が何を指していることなのか、またしても漠然とした言葉で掴めなかった。
どうか私が天ヶ瀬さんに抱いている想いは気付かれていませんようにと、密かに祈る私に莉緒さんは話を続ける。
「会うのはライブ前以来だったんでしょ? 少しは話せた?」
「はい一応は。前の件も謝れました」
「そう、ならよかったじゃない。それで、デートの約束とかは?」
「そんなのないですよ。でもこの前のライブに来ててくれたみたいで、凄く良かったと言われました」
「えー!? やるじゃない! 大きな前進よ!」
莉緒さんの声が控え室に一段と浮いて聞こえる。遠くの席で琴葉さんとエレナさんがチラリを私たちに視線を向けているのが分かった。興奮すると莉緒さんは声が大きくなりがちなのだ。
「もういいじゃないですか。それより莉緒さんは三姉妹カフェの準備の方は進んでいるんですか?」
「あ、それは大丈夫。バッチリだから。それより話の続きなんだけど……」
話の矛先を変えようと試みるも、あっさりと切り返されてしまった。
それからは暫く、根こそぎ天ヶ瀬さんとの話を掘り返され、その度に莉緒さんはまるで中学校の同級生たちが昼休みにお弁当を広げて他クラスの誰がカッコいいとか、運動部の誰々が好きとか、そんな恋愛話に華を咲かせるように、過度なリアクションを取っては目を輝かせて楽しげに私の話を聴いていた。普段は恋バナで一喜一憂する同級生たちを冷めた眼差しで見つめていたのに、目の前で無邪気に笑う莉緒さんを見ても不思議と嫌な気はしなかった。
莉緒さんと暫く話をして、私はふと気が付いた。もしかしたら私が今まで同級生たちに向けていた眼差しは嫉妬だったのではないのだろうかと。大人になることばかりに捉われて背伸びばかりして、人並みの経験が乏しかった私は、本当は周囲の同級生たちと同じように日常の些細なことで一喜一憂したかったのかもしれない。
天ヶ瀬さんと出会って、ライアー・ルージュの私の本当の気持ちを気付かされて、少しずつではあるが確実に、私の気持ちに変化が生じ始めている。それはまるで険しい冬が残した岩と化した氷が春先の暖かい陽に照らされてジワジワと溶けていくような、胸の内に深く染み込んでいく心地よい温もりを含んでいるようだった。
––––独りじゃ絶対に夢は叶えられないんだ。助けてくれるスタッフたちがいて、支えてくれるファンがいて、切磋琢磨できる仲間がいて……。そのことを理解した上で、独りでも夢を叶えたい、誰にも負けたくないって気持ちで頑張ればいいだけじゃねぇの。
あの時の、天ヶ瀬さんが私にくれた言葉を私は一文一句忘れずに覚えていた。言葉だけじゃない、あの時の喫茶店のゆったりとした時間が流れる雰囲気や、窓から薄暗い店内に射さる夏の日差しも、店を出て仰いだ空の蒼さも、全ての情景が一ミリも風化せずに私の記憶に刻み込まれている。笑うことをやめ、独り善がりで強がり続け、でもそれが間違いだったと気付かされて、長い旅の途中でもうこれ以上は先に進めないと迷子になっていた私を大きく変えたあの日の出来事は、日を追うごとに砂埃を落とすかのように磨かれていって、綺麗な側面が顔を覗かせるキラキラと光る宝石のように輝きを増し続けていくのだ。
きっとこのキラキラとした記憶はずっと私の胸の中に残り続けるのだと思う。五年後も十年後も、アイドルとしてどうなっているのかすらも見えない遠い未来でも、あの時の出来事だけは色褪せることのない宝石として輝き続けて、胸の奥のポケットから私に勇気を与え続けてくれるのだろう。
遠い先の未来のことなんて何も分からない。だけど、そのことだけは私は確信を持つことができた。
恵美さんが控え室にやってきたのは、街灯の灯りが一層輝きを放つほど空が真っ暗になった頃だった。今日一日のレッスン全てを消化し、皆が帰り仕度を済ませていた時に駆け込むように控え室にやってきた恵美さんは普段はあまり見かけない制服姿だった。学校帰りにそのまま直接やって来たようで、首元には外の寒さを凌ぐために巻かれたマフラーがそのままになっている。
「こんな時間にどうしたの、メグミ? 今日はレッスン入ってなかったでしょ?」
暖房が効いて暖かい控え室でコートを着るか、外に出てから着るかでずっとブツブツと独り言をぼやきながら悩んでいたエレナさんが、コートを片手に尋ねた。恵美さんらしくオシャレに着崩したブレザーの合間に見える素肌に、うっすらと汗が滲んでいるのが見える。
「ちょっと緊急で皆に伝えたいことがあってねぇ、学校帰りにそのまま来ちゃった」
「キンキュウ?」
「そそそ」
手で首元を仰ぎながら、いつものように「にゃはは」と得意げに笑うと、恵美さんは数え切れないほどのストラップが付いたスマートフォンを取り出した。器用に手袋を外して、爪先に自己主張の強いネイルが飾られた細い指でスマートフォンの画面をタッチしていく。そしてすぐに目当ての画面を見つけたのか、画面に触れていた人差指を離すと、少しだけスマートフォンを細める目に近付けて恵美さんが画面を読み上げるような口調で控え室にいる私たちに言った。
「えー、今月二週目の日曜日! の、十六時から。暇な人誰かいないかな」
「その日、何かあるの?」
「琴葉、そんなに焦らないで。あ、言っとくけど琴葉は強制参加だから」
「えぇ!? ちょっと、どうして……」
「あー、ワタシはこの日無理だヨ。学校の友達と用事あって」
予定が合わないと分かり、途端に興味がなくなったのかエレナさんは片手に持っていたコートに袖を通し始めた。そんなエレナさんを少しだけ残念そうに見つつ、恵美さんは「そっかぁ、他は誰かいない? あと一人なんだけど」と他のメンバーの反応を確認するかのようにキョロキョロと視線を動かす。周囲を彷徨っていた恵美さんの目が私の前で止まった時に、ふと思い出した。確か二週目の日曜日は天ヶ瀬さんのライブに行く約束をした日だ。
「ちょっと恵美さん。予定が何なのかちゃんと言わないと誰も何も言えないでしょ」
私も予定があるので無理です、と言い掛けた矢先、桃子が先に口を開いた。全くもって正論な桃子の意見に、恵美さんは嫌な顔一つせず口元を緩める。
「そこまで言うならしょうがないなぁ」
ここまで出し惜しみをするくらいだから、決して悪い話ではないのだろう。どちらにせよ、エレナさん同様参加できない私には無縁の話ではあるが。
「なんとぉ〜! なんとぉ〜!!」
「……それ、美咲ちゃんの真似?」
「そういうのいいから、早く言って」
「恵美さん、早くはやく〜」
ゴールデンタイムに放送されるドキュメンタリー番組よろしく、恵美さんが青羽さんの口真似をして余計な引っ張りを入れる。
面倒臭そうに莉緒さんに指摘された挙句、ストレートな物言いの桃子と普段のんびり屋な美也さんにまで急かされたのが余程ショックだったのか、恵美さんはしょんぼりと肩を落とすと声のトーンまでガクッと落として言った。
「その日開催されるジュピターのライブのチケットを三枚もらったんだけど、誰かあと一人一緒に行きませんか〜」
え、ジュピターのライブ?
不貞腐れたようなカタコト口調でさらっととんでもない言葉を口にした恵美さん。他人事だと思って適当に聞き流しそうになっていた私は、慌てて顔を上げる。隣で私を見つめる莉緒さんと目が逢った。私は慌てて首を横に振る。知らない、どうして恵美さんがジュピターのライブをチケットを手に入れてるのかなんて、私は何も聞いてもいない。その意思表示で、何度もなんども首を横に動かした。
それと同時に、恵美さんが先ほど、「言っとくけど琴葉は強制参加だから」と口にしていたことも思い出した。この前のライブ後も、天ヶ瀬さんが琴葉さんを目当てにライブに来ていたと恵美さんは話していたが、その話を当の本人は否定していた。
一連の出来事が走馬灯のように駆け巡って行って、私は確信した。間違いない、恵美さんは何か大きな勘違いをしている。そしてその勘違いに気が付かないまま、琴葉さんと天ヶ瀬さんをくっ付けようとしていることにも。
嫌な汗が吹き出てくるのを感じる。これは嫉妬なんかじゃなくて、何かとてつもなく大きな大切なモノを失ってしまうのではないかという恐怖心だ。
「はいはーい!!」
突然、隣の莉緒さんが右手を大きく天井に伸ばして、声を張り上げた。部屋中の視線が一斉に莉緒さんに集まる。その視線を一身に浴びる莉緒さんは、唐突にその視線たちを私へ全てぶん投げるとんでもない荒技を魅せた。
「恵美ちゃん、志保ちゃんがジュピターのライブに行きたいってよ!」